後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「カトリック小金井教会で主任司祭をしていた山本量太郎神父の思い出」

2024年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム

山本量太郎神父と成城教会を懐かしく思い出します。山本量太郎神父さまは2000年から2010年迄の10年間、私共のカトリック小金井教会の主任司祭をして下さった方です。イエスさまが傍にいるような感じになるような説教をなさいます。起承転結の明快な感動深い説教です。小金井教会の後、本部の関口教会の主任司祭を6年なさってから成城教会に着任されました。
山本神父様は私共がカトリック立川教会で塚本金明神父様に洗礼を受けた時、代父をして下さった山本大二郎先生のご子息です。
そして随分前に関口教会で山本神父の叙階式に参列したことを鮮明に憶えています。
今日は恩人の塚本金明神父様や、代父をして下さった山本大二郎先生の為に神に祈りました。人生における人間の絆の不可思議さを想います。
写真は2016年にカトリック成城教会で撮りました。山本神父が主宰したミサです。

山本量太郎神父は1946年生れ。1977年司祭になり、西千葉教会、柏教会、喜多見教会、中央協議会、小金井教会、関口教会(兼本郷教会)を経て、2016年5月末、成城教会に着任しました。懐かしいので写真を掲載致します。


「少し珍しい夏の花々」

2024年07月12日 | 写真
夏に咲く花は、バリエーションが豊かで、さまざまな特徴をもつ種類が多いです。熱帯地域が原産の品種を選ぶことで、夏の強い日差しにも負けない花を育てられます。
詳しくは、https://magazine.cainz.com/article/43295 をご覧下さい。
少し珍しい夏の花々の写真をお送り致します。
出典は、https://magazine.cainz.com/article/43295 です。。

1,ガザニア

2,ポーチュラカ

3,トレニア

4、ペンタス


「カトリック四日市教会とムニ神父の写真」

2024年07月12日 | 写真

ムニ神父さまは1951年に司祭叙階の後すぐに日本の四日市カトリック教会に主任司祭として着任し、それから1972年までの21年間を四日市で活躍していたのです。

四日市市の夜景とカトリック四日市教会とムニ神父の写真をお送り致します。


「カトリック小金井教会の初代司祭ムニ神父様の思い出」

2024年07月12日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリック小金井教会は1975年に発足しました。現在は加藤神父様が主任司祭をなさっています。
私共は1975年の小金井教区の正式認可以前に着任したヨゼフ・ムニ神父のもとで古い木造の会堂でのミサに出席していましたので、もう50年もこの教会に通ったことになります。
この小金井教会にはいろいろな思い出があります。
 
今日はその中から初代主任司祭ムニ神父様の思い出を書いてみたいと思います。
ヨゼフ・ムニ神父さまはボストン生まれのいかにもアメリカ人らしく気さくな、そして情熱的な方でした。私共の家にも何度か来てくださり、ある時は大相撲のテレビを一緒に見たこともあります。
めったに故郷に帰らないので弟さんが様子を見にいらしてました。その弟さんと一緒に食事をしたことも楽しい思い出です。
そして1988年の夏に突然のように帰天したのです。
聖堂に置かれたお棺の中のやすらかなお顔を見たのが最後になりました。
1番目の写真は府中市にあるカトリック墓地にあるムニ神父さまのお墓です。右側の質素な木造の十字架が墓です。
その他の写真は府中市のカトリック墓地の風景です。
さてムニ神父さまのことは何度かこのブログに書きました。そこでその一部を再録いたします。
「2008年4月24日掲載記事の一部」
・・・ヨゼフ・ムニさまの粗末な木の十字架の墓はお世話になった日本人が作ったに違いない。毎日誰かが花を供えに来るようだ。彼の故郷はアメリカのボストンと聞く。家族は来ない。一生、日本人のために働いて、日本人が墓を作り花を供える。
外国でその国の人々のために働き、その地の墓に眠る。そんな人生もあって良いと思う。・・・以下省略。
 
実はムニ神父さまは1951年に司祭叙階の後すぐに日本の四日市カトリック教会に着任して、それから1972年までの21年間を四日市で活躍していたのです。その当時の信者さん中根さんから私のブログへ以下のような投書がありました。
 
「2012-04-11掲載記事のへの中根さんからのコメントの一部」
・・・ムニ神父さんが、四日市の教会で司祭をされていた時に、私(中根さん)は朝のミサでの侍者をする為、自転車でよく教会に通いました。まだ小学生の時ですが、ミサが終わった後にはアメリカの切手をいただき、私は今でも大切に保管をしています。
もう私も60を過ぎ、遠い昔の思い出ですが、神父さんたちと琵琶湖へ行ったり教会でのたくさんのイベントと、あの笑顔がいまだに忘れられません、ムニ神父さんの近くに行くと甘いパイプ煙草の匂いがして、その影響か今では私もパイプ煙草を愛用しています。今は横浜に住んでいますので、近々お墓に行きたいと思います。
懐かしい、ムニ神父さんへの色々なコメントを涙を流しながら拝見させていただきました、本当に有難うございました。・・・
 
そして以下のようなコメントも、四日市でムニ神父の侍者をしていた中根さんから頂きました。
「ムニ神父様を偲んで」、http://www4.cty-net.ne.jp/~johnmary/ribero217.htm
・・・四日市におられる間、ムニ神父様のご活躍はすばらしいものでありましたが、いろんな試練もありました。そのひとつは、昭和34年9月27日に当地を襲った伊勢湾台風でありました。
わたし(中根さん)は翌日、オートバイに乗って、教会を訪ねようと思いましたが、十七軒町の地区は浸水がひどかったので、一号線にオートバイをおいて、教会まで歩いて来ました。
司祭館並びに御聖堂は滅茶苦茶にやられて、ムニ神父様は後片付けを一生懸命にやっておられました。その日、神父様は昼、海星学園に来て、わたしどもと一緒に食事をし、しばらく休みました。
鉄筋コンクリートの海星学校の校舎があって、その中にわたしどもの臨時の住まいがありましたので、よろしければ夜もここで泊まられたら如何ですか、と誘いましたが、神父様は教会から離れないで、何とかすれば間に合うだろうと言われ、帰りました。
その後、ムニ神父様は、乗っていたグレーのワゴン車で被害者に、京都から送っていただいた布団、毛布、食物などを一生懸命に配ったことがありました。
それから4年後、即ち昭和38年に、数年前に立て直した立派な木造の教会が全焼いたしました。神父様はまた、ゼロから遣り直さなければならなかった時、神さまのみ摂理に対して、揺ぎない信仰をもって、見事にいまの御聖堂を完成させたのであります(勿論、信者の方の尽力はいうまでもありませんが)。
四日市において、すばらしいキリストの共同体を建てるために尽力されました。・・・以下省略・・・
 
ヨゼフ・ムニ神父の追悼集の本は平成元年8月14日に発行されています。この446ページの本を見ると情熱的に活躍し、ご自分を日本の信者の為に捧げたムニ神父の業績が詳しく書いてあります。私共の知っていることはその万分の一に過ぎないことがしみじみと判ります。
日本を占領したアメリカ人軍人達とは全く違った考えで日本人を助け、日本の地になったアメリ人もいたのです。わすれられません。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)