人間はだれでも高齢になると病気がちになります。退職して年金生活をしているのでお金の心配もあります。体力が無くなるのでスポ-ツなどの趣味は出来なくなります。
ですから一生の間で一番不幸な時期と考える人がいても不思議ではありません。
しかし老境ほど一番はなやかで幸せなときは無いという人もいます。私自身もそのように思います。私だけでなくこのような記事にコメントを下さる方々は皆元気溌剌で幸せそうです。その上毎週一回通っているリハリビ施設で会う15人位の80歳、90歳の高齢者も意識の上では若々しいのです。
これらの高齢者を毎週一年以上仔細に観察しました。そうしたら男女にかかわらず達観の境地にあるようです。勿論、達観していると言っても人間なので迷いもあり愚痴もこぼします。
しかし全体的に観察していると高齢者ほど達観の境地に近いように見受けられます。
そこで今日は達観の境地とはどのようなものか個条書きにしてみます。
(1)偉くなろう、お金を儲けようと一切思わない。
(2)病気の心配をしない、病気を苦に思わない。
(3)子供や孫の将来を心配しない。
(4)国内政治に不満を感じない、政治は若者に任せる。
(5)敵対する外国を許し、国の安全と外交も若者に任せる。
(6)生きているだけで幸せと感じるような訓練を続ける。
それでは上に書いた(1)から(6)まで、もう少し詳しくご説明いたします。
(1)偉くなろう、お金を儲けようと一切思わない。
これを高齢者が実行するのはそんなに難しくはありません。職場を離れて10年、20年と経過しますと職場での昇進などすっかり忘れています。どだい高齢者が社会的に偉い立場になれる筈もありませんから俗世間的な欲は消えています。
お金儲けも考えただけで面倒くさく思います。しんどいことです。年金が少ないので時々、お金がもっと欲しいなあと思うこともありますが、その思いは長く続きません。ですから高齢者にとってはこの(1)は比較的やさしく合格します。
(2)病気の心配をしない、病気を苦に思わない。
高齢者にとって病気はよく起きることです。避けられない不幸です。
それで意気消沈して毎日暗い気持ちで過ごす人も少なくありません。
しかしこれも考え方で楽しみになります。まず病院通いを趣味のようにして楽しむのです。病院で話す医師や看護師は若く、その上非常に優しいのです。
特に手術した直後に病床に来てくれる看護師さんは天使のようです。こんな経験をすると人間を信頼します。すべての病気の心配事は雲散霧消します。そして達観の境地になります。
その上、後期高齢者になると数十万円、数百万円もする手術料が割引 きで良いのです。若い働いている人々が残りを支払ってくれるようです。感謝せざるを得ません。感謝すると達観の境地に近づくのです。
(3)子供や孫の将来を心配しない。
子供や孫はなるようになるものです。祖父や祖母があれこれ心配する必要など一切ないのです。このことは高齢になると、例えば80歳になると案外簡単に実行できます。しかし老婆心という言葉があるように時々は心配になるものです。その折には「達観、達観!」と呪文を唱えます。
(4)国内政治に不満を感じない、政治は若者に任せる。
高齢者は時間に余裕があります。新聞を丁寧に読みます。新聞は政権に対して批判的な記事を書きます。政治家はみな悪い人間のようなニュアンスの記事も書きます。それを丁寧に読んでいる高齢者は現在の日本の政治に不満を持ちます。そして総理はこういう点が悪いと批判します。それから若者の政治に無関心ぶりを非難します。
これが達観の境地に至る一番の障害になるのです。
国内政治のことは現役の政治家と現役として働いている人々に任せるのが良いのです。私は今年80歳になりました、80歳以上は選挙権は無くても良いのではないでしょうか?
(5)敵対する外国を許し、国の安全と外交も若者に任せる。
日本の防衛は現役の若者と政治家を信頼して、まかせるべきです。高齢者は長く生きて来たので軍部独裁の時代や敗戦後の社会を知っています。日本の復興期もバブル経済の崩壊も知っています。ソ連の崩壊も中国の文化大革命も知っています。ですからつい若者に忠告しがちです。しかし時代が違い過ぎますから忠告は役に立たないことが多いのです。
右翼の傾向がある高齢者が中国や韓国のことを全て批判し、非難するのは醜いものです。許せば良いのです。許せば達観の境地に近づくのです。
(6)生きているだけで幸せと感じるような訓練を続ける。
毎日、朝に目を覚ますと、ああ今日も生きていると感動するように心がけます。幸い老夫婦そろって朝食のテーブルに座ることが出来たら、その幸運に感謝するのです。
このように生きているだけで幸せと感じるようになるには訓練が必要です。それは朝起きたら「生きていて幸せだ!」と声を出して言う事です。それを毎日続けるのです。人間は弱い存在ですから、「声を出して唱える」ことが訓練となり、その結果として達観の境地になれるのです。
以上でお終いにします。最後に自省を込めて自分の状態を告白します。
上の(1)(2)(3)はまあまあ合格する瞬間もあります。最後の(6)も実行しています。
一番いけないのが(4)と(5)です。この欄に(4)と(5)に関する役にも立たない記事を何度も書いています。困ったものです。
その上、家内がこの記事を見たら笑うでしょう。私の毎日は達観の境地とはあまりにも違うと笑うでしょう。
それでも私は達観の境地に憧れています。皆様はいかがでしょうか?
きょうの挿し絵代わりの写真は7月16日(土)からの「なかふらのラベンダーまつり&花火大会、中富良野町」に関連した写真です。
詳しくは、「第41回なかふらのラベンダーまつり&花火大会」の開催について | 北海道中富良野町 (nakafurano.lg.jp)
をご覧ください。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)