後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「老境の幸せと達観の境地の具体的な説明」

2024年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

人間はだれでも高齢になると病気がちになります。退職して年金生活をしているのでお金の心配もあります。体力が無くなるのでスポ-ツなどの趣味は出来なくなります。
ですから一生の間で一番不幸な時期と考える人がいても不思議ではありません。
しかし老境ほど一番はなやかで幸せなときは無いという人もいます。私自身もそのように思います。私だけでなくこのような記事にコメントを下さる方々は皆元気溌剌で幸せそうです。その上毎週一回通っているリハリビ施設で会う15人位の80歳、90歳の高齢者も意識の上では若々しいのです。
これらの高齢者を毎週一年以上仔細に観察しました。そうしたら男女にかかわらず達観の境地にあるようです。勿論、達観していると言っても人間なので迷いもあり愚痴もこぼします。
しかし全体的に観察していると高齢者ほど達観の境地に近いように見受けられます。
そこで今日は達観の境地とはどのようなものか個条書きにしてみます。
(1)偉くなろう、お金を儲けようと一切思わない。
(2)病気の心配をしない、病気を苦に思わない。
(3)子供や孫の将来を心配しない。
(4)国内政治に不満を感じない、政治は若者に任せる。
(5)敵対する外国を許し、国の安全と外交も若者に任せる。
(6)生きているだけで幸せと感じるような訓練を続ける。
それでは上に書いた(1)から(6)まで、もう少し詳しくご説明いたします。
(1)偉くなろう、お金を儲けようと一切思わない。
これを高齢者が実行するのはそんなに難しくはありません。職場を離れて10年、20年と経過しますと職場での昇進などすっかり忘れています。どだい高齢者が社会的に偉い立場になれる筈もありませんから俗世間的な欲は消えています。
お金儲けも考えただけで面倒くさく思います。しんどいことです。年金が少ないので時々、お金がもっと欲しいなあと思うこともありますが、その思いは長く続きません。ですから高齢者にとってはこの(1)は比較的やさしく合格します。
(2)病気の心配をしない、病気を苦に思わない。
高齢者にとって病気はよく起きることです。避けられない不幸です。
それで意気消沈して毎日暗い気持ちで過ごす人も少なくありません。
しかしこれも考え方で楽しみになります。まず病院通いを趣味のようにして楽しむのです。病院で話す医師や看護師は若く、その上非常に優しいのです。
特に手術した直後に病床に来てくれる看護師さんは天使のようです。こんな経験をすると人間を信頼します。すべての病気の心配事は雲散霧消します。そして達観の境地になります。
その上、後期高齢者になると数十万円、数百万円もする手術料が割引 きで良いのです。若い働いている人々が残りを支払ってくれるようです。感謝せざるを得ません。感謝すると達観の境地に近づくのです。
(3)子供や孫の将来を心配しない。
子供や孫はなるようになるものです。祖父や祖母があれこれ心配する必要など一切ないのです。このことは高齢になると、例えば80歳になると案外簡単に実行できます。しかし老婆心という言葉があるように時々は心配になるものです。その折には「達観、達観!」と呪文を唱えます。
(4)国内政治に不満を感じない、政治は若者に任せる。
高齢者は時間に余裕があります。新聞を丁寧に読みます。新聞は政権に対して批判的な記事を書きます。政治家はみな悪い人間のようなニュアンスの記事も書きます。それを丁寧に読んでいる高齢者は現在の日本の政治に不満を持ちます。そして総理はこういう点が悪いと批判します。それから若者の政治に無関心ぶりを非難します。
これが達観の境地に至る一番の障害になるのです。
国内政治のことは現役の政治家と現役として働いている人々に任せるのが良いのです。私は今年80歳になりました、80歳以上は選挙権は無くても良いのではないでしょうか?
(5)敵対する外国を許し、国の安全と外交も若者に任せる。
日本の防衛は現役の若者と政治家を信頼して、まかせるべきです。高齢者は長く生きて来たので軍部独裁の時代や敗戦後の社会を知っています。日本の復興期もバブル経済の崩壊も知っています。ソ連の崩壊も中国の文化大革命も知っています。ですからつい若者に忠告しがちです。しかし時代が違い過ぎますから忠告は役に立たないことが多いのです。
右翼の傾向がある高齢者が中国や韓国のことを全て批判し、非難するのは醜いものです。許せば良いのです。許せば達観の境地に近づくのです。
(6)生きているだけで幸せと感じるような訓練を続ける。
毎日、朝に目を覚ますと、ああ今日も生きていると感動するように心がけます。幸い老夫婦そろって朝食のテーブルに座ることが出来たら、その幸運に感謝するのです。
このように生きているだけで幸せと感じるようになるには訓練が必要です。それは朝起きたら「生きていて幸せだ!」と声を出して言う事です。それを毎日続けるのです。人間は弱い存在ですから、「声を出して唱える」ことが訓練となり、その結果として達観の境地になれるのです。
以上でお終いにします。最後に自省を込めて自分の状態を告白します。
上の(1)(2)(3)はまあまあ合格する瞬間もあります。最後の(6)も実行しています。
一番いけないのが(4)と(5)です。この欄に(4)と(5)に関する役にも立たない記事を何度も書いています。困ったものです。
その上、家内がこの記事を見たら笑うでしょう。私の毎日は達観の境地とはあまりにも違うと笑うでしょう。
それでも私は達観の境地に憧れています。皆様はいかがでしょうか?

きょうの挿し絵代わりの写真は7月16日(土)からの「なかふらのラベンダーまつり&花火大会、中富良野町」に関連した写真です。

 

詳しくは、「第41回なかふらのラベンダーまつり&花火大会」の開催について | 北海道中富良野町 (nakafurano.lg.jp)
 をご覧ください。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「人が死に絶えて門だけが残った」

2024年07月13日 | 写真

武蔵野公園への散歩道に人が死に絶えて門だけが残った屋敷跡があります。建物は朽ちて消えてしまい鬱蒼とした森になっています。立派な門だけがムジナ坂の下にあります。
その門の前を通るたびに人の世のはかなさを感じます。
そんな風景の写真を撮って来たのでお送り致します。


「皆消えてしまった我が故郷にあった東洋館、鹿落温泉旅館など」

2024年07月13日 | 日記・エッセイ・コラム

私は昭和11年年生まれで24歳まで仙台の向山の長町越路という所に住んでいました。

向山という地域は非常に複雑な地形の小山が重なり合っています。伊達藩の時代は、伊達家代々の墓がある大年寺以外は人家のまばらな淋しい所だったようです。

向山という地域は市街地の南端を蛇行しながら流れる広瀬側の南側にあり、広瀬川の岸からいきなり高さ40、50メートルの断崖がそびえたっています。向山はその断崖の上にあります。

市街地から見ると向こうの山地なので向山と言ったのでしょう。明治維新後は人家も少しずつ増えて来たようです。

この小高い向山の断崖の上に立つと、広瀬川の向こうに仙台の白い街が一望できます

風光の良い高台だったので、料亭や割烹旅館がポツリポツリと散在していました。伊達正宗の墓の瑞鳳殿のある経ケ峰から数百メートルずつ離れて、東洋館、鹿落温泉旅館、いかり亭、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯、などがありました。大正時代から昭和初期にかけて下の市街地にあった会社の経営者達やお金持ちが使う宴会場でした。夜になると街の明りが美しく見下ろせる場所だったのです。芸者さんが出入りし、三味線の音が絶えなかった場所だったそうです。

向山の奥の方の八木山には、昭和11年にベーブルースが来て、オールニッポンと試合をして、ホームランを打った八木山球場がありました。

八木山は遊山の地だったらしく、その山へ続く入口には「八木山観光自動車」という看板だけが残っている車庫があったのを覚えています。

日清戦争、日露戦争から昭和4年の世界大恐慌までの約30、40年間ほどの間が景気の良い時代だったのです。日本の軍備拡大の波に乗った成金さん達が大らかに遊んでいた時代でした。

昭和4年の大恐慌の後はすっかりさびれ、多くの料亭は廃業した様子です。それは一瞬の栄華でした。

特に、荒れ果てた「いかり亭」の、昔は豪華だった庭や建物は子供の遊び場になっていました。昭和4年の世界恐慌で倒産したのです。

この料亭の庭には滝がながれ、深い池にはアカハラというイモリが住んでいたのです。誰も居ない池でそのアカハラをよく取って遊んだものです。

数年前の仙台、愛宕中学校の同窓会で、「黒門下の湯」の当主の息子さんと偶然会いました。追憶の向山についていろいろ話を聞きました。長徳寺と大満寺、そして愛宕神社は江戸時代から存在していました。しかしその他はすっかり変わってしまったという話でした。

私は1960年に仙台を去りましたが、1960年までは東洋館、鹿落温泉旅館、蛇の目寿司、広瀬寮、観月亭、黒門下の湯の建物は残っていました。

東洋館、鹿落温泉旅館、広瀬寮、黒門下の湯は営業もしていました。蛇の目寿司は古い看板がありましたが子供相手の駄菓子屋になっていました。観月亭は廃業し、朽ちかけた楼だけが広瀬川を見下ろす高台に悠然と建っていました。

しかしその後の高度成長時代にはすっかり新しい住宅街になり、このような料亭や割烹旅館は跡かたも無くなってしまったのです。

2011年に仙台に住んで居る弟から電話があり、鹿落旅館は3月11日の大震災で崩れ、廃業したそうです。その旅館の前の鹿落坂も崩れ長い間通行止めになっていたそうです。建物だけが残ったのは東洋館だけになりました。

風光の良い向山には、金持ちの個人的な別荘も数軒ありました。恐慌で倒産した経営者の別荘だったらしく、全て荒れ果てた廃屋になっていました。小山の上にあった廃屋をお化け屋敷と言って、よく探検に行ったものです。廃屋に入ると立派な玄関があり、奥には白いタイル貼りの温泉のような浴室があったのを覚えています。それらの別荘も消えてしまいました。

現在、向山へ行って見ると何も無いのです。見事に何も無いのです。当時の面影が全然無いのです。私の家族が住んでいた家も消えてしまって更地になっています。そして新しい住宅だけがびっしりと並んでいます。広瀬川の崖の上にはマンションがいくつも聳えているのです。

私の故郷は完全に消えてしまった。人生ははかない。そんな実感です。

インターンットで検索し昔の風景を探しました。以下の写真はインターネットからお借りしました。

1番目の写真は現在でも営業している東洋間です。

2番目の写真は東洋館の客室から見下ろした仙台の中心街です。

3番目の写真は東洋館の下にある鹿落坂です。左手に鹿落温泉の旅館が写っています。

4番目の写真は昔の黒門下の湯です。

この荒れ果てた黒門下の湯の建物は見覚えがあります。満州へお嫁に行く叔母の別れの宴を開いた2階建ての料亭の昔の姿なのです。

このような写真を見ると実に懐かしいものです。あらためてインターネット技術の普及へ感謝します。

今日は1960年まで仙台に存在していた東洋館、鹿落温泉旅館、黒門下の湯などをご紹介致しました。