夏になると妻が思い出すのは群馬県の下仁田小学校のことです。それは小さい、小さい昭和の歴史の一駒です。
昭和20年7月頃、当時海軍の文官だった家内の父は、鎌倉の海水浴場にアメリカの上陸用舟艇が砂浜につき海兵隊が襲って来ると予想したそうです。
当時、家内の一家は鎌倉に住んでいました。まだ少女だった妻は鎌倉の御成小学校に行っていました。
そして1945年の夏に妻の一家は、群馬県の山の中のネギで有名な下仁田町に疎開しました。終戦後も進駐軍の横暴を恐れて昭和22年夏まで山国にひそんでいました。
下仁田国民学校に転校した家内は海浜の生活から山里の生活に変わり、毎日が新鮮で楽しかったそうです。
しかしそこは米が一切採れず、麦と芋と野菜しか採れない山里でした。
ある地主の家に疎開したのですが、その家の毎日の主食はオキリコミでした。小麦粉を練って薄く伸ばし、それを味噌汁に入れて食べるのです。苦しい生活でしたが子供だった妻は頓着せず、学校の同級生とともに野山を駆けて遊び回っていたそうです。
特に学校の傍を流れれる鏑川(カブラ川)は格好の川遊びの場所で、家内は流され溺れかかったことがあったそうです。
その下仁田小学校の同級会が数年前にありました。家内を関越道路と信濃道路を経由して車で送って行ったのです。そんな様子を写真に従ってご説明いたします。
1番目の写真は昭和22年(1947年)に撮った下仁田小学校4年2組の家内の同級生達の集合写真です。小さくてよく見えませんが、当時の小学生は貧し気な身なりながら希望に溢れた活き活きした表情をしていたことに驚きます。この集合写真に写っている幾人かがの数年前の同級会に集まったのです。茫々、79年後の同級会です。
2番目の写真は現在も同じ場所にある下仁田小学校の校門と校舎の写真です。裏の方へ回ってみると清潔そうな給食センターが建っています。毎日栄養士が考え、美味しい給食を子供達が食べているのです。終戦前後は小麦粉か芋が主食でした。
3番目の写真は家内が溺れかかった鏑川の深みです。この上流の浅瀬で遊んでいましたお転婆の家内が遊びに夢中になり過ぎて流されたようです。3歳上の姉がこの岩の上から跳びこんで助けてくれました。ここは現在、青岩公園になっています。
4番目の写真は家内の一家が疎開していた家の隣の清泉寺です。このお寺の境内は家内の遊び場でした。当時は神社やお寺の境内は子供達が走り回る遊び場でした。
5番目の写真は下仁田町にある妙義山の写真です。
同級会をしている間、私自身は暇です。そこで下仁田町ジオパークを見物して時を過ごしました。古代の地層が露出し興味深い地形になっています。風穴などもありました。
下仁田町は山に囲まれた静かな町です。特産品は美味しい下仁田ネギとコンニャクです。それから奥の神津牧場のジャージー種の牛の乳製品です。
このように79年経過しても家内を暖かく迎えてくれる下仁田の人々に感謝しています。下仁田を私の故郷のように想うこともあります。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)