昭和11年に生まれ昭和17年、かぞえで7歳の時小学校に入学し昭和23年に卒業しました。真珠湾攻撃が昭和16年12月8日でした。私の小学校の頃は戦前、戦後をまたいでいました。戦前の仙台の様子も終戦直後の仙台を覚えています。
今日は戦前、戦後の小学生の頃のいろいろを書いてみたいと思います。当時新聞やラジオで知ったことと後に知ったことです。
一番驚いたことは新聞やラジオで大々的に報道された日本航空隊の真珠湾攻撃のニュースでした。大勝利で日本中が大騒ぎしていました。
今日は写真にしたがって真珠湾攻撃とそれに続く戦前、戦後のいろいろを書いてみたいと思います。
1番目の写真は昭和16年12月8日の真珠湾攻撃の写真です。
アメリカの大平洋艦隊が大打撃を受け日本中が大騒ぎになりました。真珠湾攻撃の写真はその後何度も新聞や雑誌に掲載されましたので真珠湾攻撃の写真は私の心に焼き付いています。
2番目の写真は真珠湾攻撃に向かう日本の攻撃機です。
数隻の航空母艦から飛び立ちました。真珠湾攻撃の司令官は山本五十六大将でした。その後、アメリカは山本五十六大将の乗機を打ち落とし真珠湾攻撃の仇を取ったのです。
3番目の写真は南太平洋のインドネシアのスマトラ島南部 のパレンバンに降り立った日本の落下傘部隊です。空の神兵です。
これも何度も新聞や雑誌に掲載されましたので私の心に焼き付いています。
4番目の写真はB29の焼夷弾で焼野原になった仙台の光景です。
小学校の3年生だった私は焼野原になった仙台の街を歩き回り見ました。
5番目の写真は8月15日の日本の敗戦後の9月に厚木基地に降りるマッカーサー総司令官です。コーンパイプを咥えて日本占領に来たのです。
6番目の写真は昭和天皇がマッカーサー総司令官を表敬訪問した時の写真です。昭和天皇は正装していますがマッカーサーは正装していません。日本の屈辱です。戦争に負けるとこういうことになるのです。
7番目の写真は戦後日本を占領したアメリカ兵と日本の女性達です。
さて戦前、戦後に小学生だった私はどんな経験をしたでしょうか。
何と言って一番悲しかった記憶は食糧難の記憶です。毎日飢えていました。終いには庭に生えていた「はこべ」を茹でて食べました。アクが強くて苦いのです。そしてイワシの配給に大喜びしました。イワシの美味しさを忘れられません。
今日は「年老いて振り返る我が人生 」の(2)として「戦前、戦後の小学生の頃」を書きました。一番悲しかった記憶は食糧難の記憶でした。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)