後藤和弘のブログ

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米原万里著、「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」の書評

2018年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
すごく面白い本でした。テレビも見ないで3日かけて丁寧に読みました。2002年に刊行された感動的な文学作品です。
今日は何故感動したか、その理由を3つに整理して説明したいと思います。
まずこの作品のストーリーを簡略に書きます。
米原万里さんが1960年から1964年迄、小学3年生から中学2年にかけてチェコのプラハにあった「ソビエト学校」で学んでいた時の思い出なのです。その学校は各国の共産党幹部の子供を集め、ソ連から派遣された先生がロシア語で教える国際エリート学校だったのです。
そこで万里(マリ)に3人の親友が出来ました。ギリシャ人のリッツア、ルーマニア人のアーニャ、ユーゴスラビア人のヤスミンカの3人です。この3人は帰国後のマリ(万里)にとっても生涯かけがえの無い存在になってしまったのです。
しかし1991年のソ連崩壊で混乱の起きたチェコやルーマニアやユーゴスラビアに住んでいたリッツアとアーニャとヤスミンカは消息不明になってしまったのです。
1964年に帰国したマリが30年後にこの3人を探しに行くのです。根気よく探し、そして執念深く探したあげくついに3人に会えたのです。つもる話をしたマリは少女の頃は知り得なかった人生の深い淵を見てしまうのです。それが題目の・・・真っ赤な真実」なのです。その深い淵の描写がこの作品を重厚にします。人間とは一体何だろうと考えさせるのです。人間の幸福や不幸とは何だろう? 共産主義は人間にとって何だったのだろうか?こんな余韻を残して私はこの本を閉じました。

それはさておき私が感動した3つの理由を書きます。
(1)リッツアとアーニャとヤスミンカの魅力的な個性が見事に描き別けてあるのです。
まず少女たちの清純な美しい心に感心します。3人とも良い家庭の育ちなので素直で優しいのです。世の穢れを知らないのです。大人の女性と違うそれぞれの挙動に感動します。
そして少女同志のこまやかで緻密な友情に驚きます。
それは男の小年同志の素朴な友情とは異質な友情です。
私は宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の少年ジョバンニの友情を思いました。水死したカンパネルラを探すために銀河鉄道に乗り一緒にしばし楽しい旅をするのです。
同じようにマリもリッツアとアーニャとヤスミンカも再会し、一緒に話をして別れるのです。はるか遠方の日本に帰り2度と会うことはなかったのです。

(2)マリが30年前の親友の消息を探す執念と情熱に圧倒されたのです。
リッツアはドイツに住んでいました。アーニャはロンドンに住んでいました。ヤスミンカはユーゴスラビア崩壊後のセルビアの首都のベオグラードに住んでいますた。
胸の熱くなる場面は沢山でてきますが、特にマリとアーニャが一緒にプラハにあった「ソビエト学校」の昔の校舎を訪問する場面に感動しました。
昔の校舎はそのまま看護学校になっていました。許可を得て教室に入ってマリとアーニャは涙を流します。机も椅子も黒板も30年前と寸分変わっていなかったのです。2人は昔の自分の席に座ります。30年前の少女の姿と心が蘇ってきたのです。私は思わず息を飲みました。このような場面がつぎつぎ現れるのです。
さてマリは3人の友達の親にも会います。そして親たちの第二次大戦中の生き方と共産主義になった後の生き方がこの本に書いてあるのです。
この部分があることで作品の奥行を深くしているのです。人間は何故苦難の道を選ぶのか考えさせます。

(3)1945年の第二次大戦後から1991年のソ連崩壊までのソ連圏衛星国の内情は厚いベールに隠され全く分かりませんでした。僅かにチュコソロバキアで1968年に「プラハの春」が起き、ソ連軍主導のワルシャワ条約機構軍が侵攻しソ連に敵対する勢力を処分したことだけは報道されていました。
しかしこの事件でルーマニアやユーゴスラビアなど他の衛星国でも、ソ連に対する反対運動が燃え上がったのです。その内情がこの本に書いてあるのです。
更に1991年のソ連崩壊後におけるルーマニア革命と独裁者チャウシェスク夫妻の処刑の経緯が書いてあるのです。
そしてユーゴスラビアが存在していたバルカン半島のボスニア内戦の複雑な民族対立の内情など日本人には知らなかったことが沢山書いてあるのです。
この理由で「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」は大宅ノンフィクション賞を受賞しました。

結論です。この米原万里の作品は芥川賞に値する文学作品と思います。特に上記の(1)と(2)だけでも芥川賞に値すると信じます。しかし何故、芥川賞にならなかったのでしょうか?
国際的な舞台を使った作品は芥川賞にふさわしくないのでしょうか?あるいは米原万里が共産党員だったからでしょうか?
米原万里は一生独身のまま2006年病死しました。享年56歳でした。

今日の挿し絵代わりの写真はこの物語に出て来る「ソビエト学校」のあったチェコのプラハの風景写真です。
出典は、https://blog.goo.ne.jp/junsanta/e/a4f832f2b76137a02ebb17b8c70a7089 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)









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