後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「遥かなオハイオ、友人たちの思い出」

2025年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
個人的な思い出を書くのは恐縮ですが、今日は懐かしい遥かなオハイオの思い出を書きます。そしてオハイオの友人たちのことも懐かしく思い出しています。
1960年にオハイオの大学へ留学しました。24歳の時でした。茫々あれから63年です。
遥かなオハイオは時々思い出します。私のアメリカはオハイオ州コロンバスの思い出です。
感動したことは先生方と同級生がとても親切だったことです。
老人になった私は今更ながらアメリカ留学の影響の深さを感じています。私は無意識のうちに留学の体験が自分の判断を左右しているのです。
もう少し正確に書くと、フルブライト留学生として1960年から1962年までオハイオ州立大学の金属工学科に留学しました。

1番目の写真はオハイイオ州立大学です。

2番目の写真もオハイオ州立大学の写真です。
キャンパスには広大な芝生の広場があり、それを囲むようにいろいろな学部の建物が並んでいます。

3番目の写真はオハイオ州立大学のフットボール競技場です。
オハイオ州立大学は屈指のアメリカン・フットボールの強豪校だったので立派なフットボール専用の競技場を持っていました。
私は 妻を日本から呼び寄せ、オハイオ州のコロンバスで結婚式を挙げたのです。1961年のことでした。
結婚式は大学付属の質素な教会でして披露宴はコロンバスの中心街のディッシュラー・ヒルトンホテルでしました。

4番目の写真は披露宴のレセプションラインです。
アメリカ人は敗戦国の日本人を尊敬していました。理由は簡単です。日本は勇敢に戦い手強い相手だったからです。
ですからオハイオ州立大学のアメリカ人はいつも私を励ましてくれ、好意溢れる支援を惜しみなく与えてくれたのです。
指導教授のセント・ピエール先生や学科主任のフォンタナ教授が「頑張っているね」「良い成果をあげた!」などと励ましてくれたのです。

老境に到ると悪いことは忘れます。良いことだけが記憶に残ります。これを一般には「老人ボケ」と言います。

私も正真正銘の「老人ボケ」です。今日の文章がその確たる証拠です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

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