こういう事実は学校教育では教えません。私は信玄が地方の小さな領主達237人に無理やり書かせた忠誠を誓う文書(起請文)の中の83通の実物を見た時の驚きが忘れられません。数年前に上田から別所温泉へ向かう途中にある生島足島神社で展示、公開しているものを見ました。起請文の文章が稚拙です。[信玄の悪口を言いません。][命令通り戦に参加します。]などなど余りにも具体的なことが細々と下手な字で書いてあります。
書いた人は群馬県、長野県、山梨県の小さな在地領主達です。国人とか国衆と呼ばれる支配階級で平安末期から鎌倉時代にかけて全国に雨後の竹の子のように増え、農民を支配した武将です。小規模ながら武力集団を持っていて、大きな戦国大名へ適当に服従し合戦で手柄を上げ、褒美の領地を少し貰うのです。負けそうな戦国大名に従うと悲劇に見舞われます。ですから信玄へ賭けるのも必死です。起請文のせつせつとした文章が痛々しく感じました。
こうして集めた国衆領主とその部下達を引き連れて信玄は川中島で数度にわたって上杉謙信と戦ったのです。雌雄が決まらないのも国衆の逃げ腰の戦いぶりによるようです。起請文を無理に書かせた武田信玄の弱味が伺えて興味深いものでした。
下に関連の写真と参考資料を示します。
生島足島神社:http://www.ikushimatarushima.jp/
今から400年以前の古文書が、風化されることなく当神社に保存されてきたことは、不思議でなりません。川中島での決戦を前に武田信玄が必勝を祈った「願文」や家臣団に忠誠を誓わせた「起請文」、また、真田昌幸、信幸父子の「朱印状」など数多くの文書が残っています。
天文22年(1553年)、東信濃を攻略した武田信玄はまず当神社に社領安堵状を捧げ、さらに永禄2年(1559年)再び当神社に願文を捧げ、越後の雄・上杉謙信との戦いに勝利するよう祈願しました。この2年後に川中島の大合戦が行なわれています。
信玄は信濃の大半を勢力下に置いた永禄9年・10年(1566年~1567年)に信濃はもちろん、甲斐や上野の武将達を当神社に集め、神前で忠誠を誓わせました。そのときの誓いの文書(起請文)が当神社に83通残されており、国の重要文化財に指定されています。境内の歌舞伎舞台(県宝)で展示公開しています。
武田信豊起請文 :
武田信玄が支配下の諸将を当神社に集め、改めて忠誠を誓わせた起請文を差し出させた背景には、長子義信との不和が生じたことにより統制の強化を計る必要があったためと思われます。文書は熊野神社の牛王宝印(ごおうほういん、からすの図柄)の護符に書かれ、文書はいずれも忠誠を誓っている前書きと誓いを破った場合には神仏の罰を被るべき神文とからなっており、各署名下に花押と血判を押したものが多くみられます。起請文差し出しの武将は東・中・南信濃、甲斐上野(現在の群馬県)の237名にもおよんでいます。
国人、国衆:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E4%BA%BA
国人は、平安時代中期に成立した後期王朝国家体制の下で荘園と公領の管理者となった荘官・郡司・郷司・保司の階層や、そこに出自することの多かった鎌倉時代以降の地頭の系譜を引く在国の領主の一般的呼称で、同時代的に使われた資料用語である。幕府や守護、荘園領主など外部の支配層に対抗する在地勢力の意味で使われ、独自の領域支配をめざした。
「国人」という呼称は、「在地に居住した惣領を中心に独自の勢力を持つ武士」を指す言葉として、鎌倉時代から散見される。彼らの直接の源流は鎌倉時代の地頭職の武士にあり、そうした武士たちが土着し、在地領主となったものである。鎌倉時代には、支配層に反抗する者の意味を含む「悪党」という名で呼ばれることもあった。
・ (オバマ大統領と奥さんや家族のの写真の出典は、http://www.jiji.com/jc/d2p=pus00301&d=004socです。) 最近のアメリカのテレビ報道や映画を見ていると、アメリカ社会は黒人差別を克服したと思います。 それは1960年にアメリカへ留学した時に見たすさまじい黒人差別の様子を思いだすと感慨無量です。 1960年からオハイオ州の州都コロンバス市に住んでいました。 当時はバスに乗ると、白人は前半分の席、黒人は仕切りの後ろと決まっていました。私は遠慮して黒人の席に座ると、白人男性が寄って来て、君は前半分に座れと言うのです。それ以来、白人席の末席に座るようにしたものです。 コロンバス市の南半分は黒人街、北半分は白人が住む場所と厳格に分かれていました。白人街にある映画館やレストランは白人専用で、黒人はよほどのことがない限り立ち入り禁止です。 オハイオ州立大学には黒人学生が少しいましたが、その数は圧倒的に少ないのです。教授は皆白人でです。実験室の掃除人はメキシコ人で、黒人は出来なかったのです。 初めのころは差別に心が痛み暗い気持ちになりました。しかし、少し経つと慣れてしまい、当然と思うようになります。 日本の芝居ではよく黒子が出入りしますが、だれも気にしません。黒人をこの黒子と思えば黒人が見えなくなるのです。 この秩序は慣れてしまうと実に快適なものです。 ある時、アパート代の安い黒人街へ引っ越そうとしました。 その時、大学の白人学生に相談したら、ものすごい勢いで反対されました。 黒人は親切だが、貧しい親戚がしょっちゅう君のアパートに来て食べ物をねだる。勉強なんかできないと言うのです。反対の理由はそれだけでないようです。黒人差別の秩序が壊れるのが強い反対の理由なのです。 アメリカは自由と平等の国と言いますが、50年前には凄い黒人差別が厳然としてあったのです。 その後、キング牧師などによる黒人差別撤廃の長い努力がありました。 1990年前後にもコロンバス市に二年間住みました。バスの白人席と黒人席はなくなり、皆一緒に座っています。オハイオ州立大学も黒人学生が半分くらいになっています。周辺のレストランの客席には区別はなく、混じって坐っています。 色々聞くと、どの会社も黒人を一定割合以上採用しなければならない法律があるそうです。 テレビ・マスコミも黒人差別撤廃のキャンペーンを繰り返します。 白人だけの高級住宅地区へ黒人も混じって住んでいます。黒人市長があちこちで現れていました。 そして黒人女性のライス国務長官の活躍の後、オバマ氏が大統領になったのです。 間もなく4年間の任期も無事終えて、また4年間大統領になるための選挙運動をしています。 私は個人的にアメリカ社会の厳しい黒人差別の実態を知っているだけに次期大統領はまたオバマ氏が当選するように願っています。祈っています。 それがアメリカ白人の罪滅ぼしになるからです。白人も肩の重荷を降ろせるのですから。 ================================ それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人) 信玄の生まれた積翠寺は甲府盆地を見下ろす険しい山懐にあります。車で登って行くと雨雲が山にかかり陰鬱な雰囲気です。信玄の父の信虎が戦いに行っている間、暗殺を恐れた正室の大井の方が隠れて、長男の信玄を産み落としたのが積翠寺です。なにもこんな侘びい山の寺に隠れて子供を産む必要が無いと思います。しかしそれが殺伐とした戦国時代の生き方でした。山の寺の暗欝さに心が寒くなります。 晴信(後の信玄)は1521年に積翠寺で生まれ、1573年に上洛の途中の三河で病気になり死にます。満52歳の短い人生でした。 母、大井の方は甲府盆地の西の方の国衆領主であった大井信達の娘でした。夫であった信虎が1541年に長男の晴信によって駿河へ追放されたとき、正室の大井の方は同行しないで甲府の館に留まりました。夫より息子のそばに居たかったようです。現在でもよくある場面です。信虎と信玄の不和は性格の相違と、信玄の領地拡大戦争へ信虎が反対したためと想像されます。 武田家の初代、信義は周辺の領主を倒し、甲斐の国を統一しました。それから19代目の信玄は野心家で甲州だけであきたらず、信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領有したのです。織田信長や徳川家康と張り合う大型の戦国大名でした。 したがって現在でも甲府盆地の中では郷土の英雄としてとても大切にされています。甲府盆地に入ったら信玄を褒めないと人間関係がおかしくなります。その反対に甲府盆地の西側の高遠、諏訪、や東の大月へ行くと信玄に占領された歴史があり評判が良くありません。その事は次回に少し詳しく書きます。 下に積翠寺の写真を示します。2010年9月28日に家内が撮影しました。 ・ ・ ・ 古い話しですが、1969年、ドイツで聞いたことです。「生活が苦しくても、時々は高級なホテルへ泊まりなさい。美味しい食物の味は忘れるが、良いホテルの一泊は一生忘れない」と。 しかし出張の度に高級ホテルには泊まれません。大抵便利なビジネス・ホテルです。 それでも家人と一緒の時は生活を切りつめても良いホテルに泊るようにしていましす。その一泊が一生の思い出になるのです。 良いホテルとは設備が良くて食事が美味いだけではありません。サービスが良いのです。過不足なく的確なサービスなのです。温かい人間味のこもったサービスなのです。 上の写真は数年前に、偶然泊った宮城県の鬼首ホテルです。 一度行ったら一生忘れられないホテルでした。従業員のサービスが良いのです。欧羅巴的な、サッパリしたサービスに、昔の日本の旅館のような人間味ある接客が所々に加味されているのです。 これも昔の事ですが、1979年にフランスのヴェルサイユで会議がありました。フランス人の知人へ、「内装がフランス的に美しく、しかも経済的なところを予約しておいて」と頼んでおきました。 はるばる北極回りで飛んで行って、部屋に入ると壁一面に縞馬のような文様があるのです。 これで眠られるのだろうかと一瞬驚きました。 ところが10分もすると、少し暗い色のゼブラ模様が何故か心を休ませるのです。そして夜は良く眠れるのです。 それ以来、フランスへ行く度に、内装の美しいホテルに泊まるようにしました。 フランス人へ一々頼むので申し訳ないのですが、現地の人は内装の美しいホテルを知っているのです。 フランスのホテルの内装は一見派手な模様に見えますが、しばらくすると心地良くなるのです。そしてその抽象画的な美しさが楽しいものです。 話はいきなり飛ぶが、クルーザーヨットのフランス艇はキャビンの壁や調度が、色彩豊かで楽しいのです。それもフランスのホテルの内装の延長なのでしょう。 そして下に、もう一つ忘れられないホテルの写真を示します。上高地にある帝国ホテルです。 ・ ・ 大正池でバスをおり、梓川の瀬音を聞きながら白樺林の遊歩道を40分ほど歩くと上の写真の上高地帝国ホテルがあります。 もっとも河童橋から歩いたほうが近いようです。 ここは従業員のサービスの感じが良いのです。泊ると一生まれ忘れられなくなります。猛暑の夏も過ぎ、旅行には丁度良い秋になりました。旅に出たら良いホテルに泊りたいものですね。 =========================== 撮影日時:2008年9月18日午前11時頃。撮影場所、長野県上高地、梓川、田代橋近くの上高地帝国ホテルにて =========================== それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人) 武田一族で偉大だったのは初代の信義と19代目の信玄の2人です。一族の滅亡は信玄の次の勝頼の時です。織田信長・徳川家康連合軍の追撃で、甲府盆地を出て東の大月の岩殿城へ向かって逃げます。しかし岩殿城の謀反により途中の天目山で打ち取られます。1582年でした。その墓は天目山の麓の景徳院にあります。 2年前の小さな旅では、武田家初代の信義が元服式をした武田八幡宮から始まって、信虎、信玄、勝頼の3代の屋敷、「躑躅ケ崎館」跡地(武田神社)、信玄が長野から移転させた甲州善光寺、そして天目山の麓の景徳院をめぐる旅をしました。 下の写真は平安時代末から鎌倉時代にかけて源頼朝、源義仲、と並んで覇を競い合った武田信義が館を構えていた韮崎市の武田の里に現存する武田八幡神社と武田の里の風景です。尚、写真の下のは、Wikipedeaの「武田信義」の項目からの抜粋文を参考資料として付け加えます。 武田 信義(たけだ のぶよし)は、平安時代末期から鎌倉時代初期の武将。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%BE%A9 源清光の次男。逸見光長は双子の兄になる(一説に逸見光長とは異母兄弟)。甲斐源氏四代目当主であり、武田信玄で名高い甲斐武田氏の初代当主である。大治3年(1128年)8月15日、新羅三郎義光の孫である源清光の次男として生まれる。逸見太郎光長と一卵性双生児として生まれた。逸見光長は巳刻に生まれ、武田信義は午刻に生まれる(『尊卑分脈』に記述有り)。幼名を龍光丸・勝千代といった。保延6年(1140年)、13歳で武田八幡宮にて元服し、武田太郎信義と名を改める。これ以来、武田八幡神社は甲斐武田氏の氏神となる。武田の名字は河内源氏の一族の源義光(新羅三郎義光)の子・源義清が常陸国武田郷(現:茨城県ひたちなか市)から甲斐国に配流されて武田氏を名乗ったのに始まる。 治承4年(1180年)4月、以仁王の令旨により、甲斐源氏を石和に集結させて挙兵し甲斐国の実権を握る(『山槐記』)。このとき信義は53歳であった。ついで信濃に侵攻し諏訪に進出する。その後、駿河国に進出して駿河目代橘遠茂や長田入道を討ち取り、平家本軍到着以前に駿河を占拠する(『吾妻鏡』)。平家本軍が近づくと弟の安田義定や子の一条忠頼らを引き連れて富士川の戦いにも参戦した。吾妻鏡によると駿河守護となったとされているが、実際には信義は実力で駿河を手中にしていた。その後しばらくの間、東国では源頼朝、武田信義、源義仲の三者が武家の棟梁として並立する時期が続く。 以下の文章の出典は、http://www.excite.co.jp/News/chn_soc/20090404/Recordchina_20090404016.html です。 ==「親日でなくても理解できる、日本の好感度が世界1位の理由―中国ブログより」== 2009年4月3日、中国のポータルサイト「新浪」のブログページに、「日本の好感度が世界1位なのはなぜか」という題の文章が掲載された。ブログ記事は、米タイム誌が先ごろ発表した調査結果を踏まえながら考察している。 (1)戦後、日本は米国に次ぐODA(政府開発援助)拠出大国になった。 ================================== 日本人は尖閣諸島のことであまり興奮しないで、もっと大きな視野で国際関係を考えるように祈っています。(終り) 岡本太郎は1911年に生まれ、1996年に85歳で亡くなった。19歳でパリーに行き、10年間フランス生活。第二次世界大戦勃発で帰国。召集され4年間中国戦線へ。1年の捕虜生活のあと帰国。縄文土器に感銘し、そのルーツを求めて日本各地や沖縄、韓国を訪問した。ユーラシア大陸、シベリヤ、韓国、沖縄、日本と脈々と続く民族文化の根底を検証している。筆者は内心、彼のことを「縄文芸術家」と思っている。 1996年の死後、太郎の養女の敏子さんが川崎市と熱心に相談して1999年に市立美術館として岡本太郎美術館を多摩区の生田緑地公園に開設した。 館内には岡本太郎の抽象画の大作や造形が数十点展示されている。すでに10回以上訪ねているが、見る度に新しい感動を受ける。 企画展も並行して開催されている。ある時訪問したときは、「岡本太郎が見た韓国」展があった。 1964年と1977年の2度の韓国旅行で日本の民族文化の根源が韓国、シベリア少数民族、そしてさらにペルシャまで続いていることに興味の中心を置いた韓国の写真展である。 この写真展を見ながら、彼がフランス滞在中、パリ大学の民族文化関係の学科に在籍していたことを思い出した。 美術館には上の写真にあるように瀟洒なレストランもある。ゆっくり昼食を楽しめる。それと館内には売店があり絵葉書や太郎ゆかりの品を売っている。 この売店で、特にお勧めしたいのが、彼が書き下ろした数多くの本である。日本各地への旅の紀行や芸術論関連の本を売っている。「沖縄文化論」もあるし、「青春ピカソ」もある。母、岡本かの子の文才が彼にもあるようだ。読みやすく、読者に熱く語りかけているようで、つい引き込まれる。敏子さんの「太郎名言集 芸術は爆発だ」もある。 ====岡本太郎著、「青春ピカソ」の書評========== この本は昭和28年12月に新潮社から出版され、最近、平成12年に新潮文庫として再版された。内容は鬼神のような芸術の天才、太郎が書いたものなので理解出来ない所が多い。 しかし、その骨子は、19歳で渡仏した太郎が2年半の苦悩、苦節の後、偶然、ピカソの百号の大作に会った事から始まる。 彼は胸が熱くなり、涙がにじんだと書く。ーーー「これだ!全身が叫んだ。・・・撃って来るもの、それは画面の色や線の魅力ばかりではない。その奥からたくましい芸術家の精神がビリビリとこちらの全身に伝わって来る。グンと一本の棒を呑み込まされたように絵の前で私は身動き出来なかった。」---そして太郎はピカソの崇拝者になった。 しかし、この崇拝者は崇拝する対象を否定し、権威の座から引きずりおろし、それを超越するという鬼神のような独創の化神なのだ。 太郎を不遜な人と非難するのは容易だ。しかし、その前にこの本を読んで貰いたい。 太郎は崇拝する対象を超越するために、ピカソの芸術が何故偉大であるかを徹底的に研究し、その結果を整理し、素人にも分かりやすく書こうとしたのが、この本の内容である。 分かりやすく書こうとする努力は分かるが、凡庸の身には理解を超える所が多い。 本の終わりにある詩人の宗 左近 氏の書評が良い。 そこで、自分が感動した2ケ所だけを紹介する。 偉大な芸術家を褒めたたえるだけで、その欠点を分析し、その芸術を否定しない日本人が多すぎる。その態度の目的は、芸術の権威者を褒め称え、ついでに自分もその権威を借りて、権威者になろうとしているのだ。これは俗物であり芸術家では無い。---まあ、そのような意味のことを書いている。 ピカソの絵は嫌いだが、太郎の絵は好きだ、と言うのも自由だ。他人に馬鹿にされるより自分の頭で何を感じ、考えたかが重要なのだ。恥ずかしいことは何もない。 もう一つの所は絵画鑑賞は絵を描くと同じように独創的な仕事であるという所である。彼の文章を引用すると長くなるので、本書の27ページと28ページにある「観賞と創造」の節をご覧頂きたい。 ============================== 岡本太郎美術館へ行くと精神の高揚もあるが、一方で何故か酷く疲れる理由が分かったような気がする。好きな画家の美術館へ行くと疲れるのは何故かが分かる。この本の紹介ほど難しいものは無いので、皆様へ是非ご一読をお勧めしたい。 撮影日時:2008年9月21日午前12時頃、撮影場所:川崎市多摩区枡形7-1-5、川崎市立岡本太郎美術館の外部にて、 川崎市立岡本太郎美術館の詳細は、URL;http://www.taromuseum.jp に御座います。 ================================== それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。 後藤和弘(藤山杜人) 多くの日本人は宗教にあまり関心がありません。結婚式を神社でしたり、お葬式をお寺や佛式でする時以外は宗教とはほとんどお付き合いがありません。 それはそれで良いのです。宗教とは関係がなくても日本人には品格があり外国の人々に尊敬されているようです。国々の好感度の世論調査をいろいろな国で実施すると日本はいつもトップクラスになっています。 しかし外国には宗教を大事にしている国々も多いのは事実です。そこで日本人がそれらの国々の人と仲良くするためにはもう少し宗教のことを理解していた方が良いと思います。 今日は日曜日です。キリスト教の日曜日の礼拝やミサにはどんな意味があるのでしょうか? そして何故するのでしょうか?そんな事について少し書いてみたいと思います。(プロテスタン宗派では礼拝と言い、カトリックではミサと言いますが、所詮同じものなのです。) 「礼拝やミサの意味?」や「何故、必要か?」の答えは簡単です。 忘れっぽい人間が毎週一回くらいは神様やキリストのことを思い出すようにするのが礼拝やミサの目的なのです。 人間は誘惑に弱いのが普通です。一週間、現実の生活をしていると、つい、つい、神様やキリストのことを忘れてしまいます。自分本位は勝手な生活をしてしまいます。まあ、それが普通です。 そこで日曜日には教会へ行って、神様やキリストのことを思い出すようにしているのです。 これを仏教の場合に例えて言えば、毎週一回ぐらいはお寺へ行って、住職さんと一緒にお経を唱えて、和尚さんから、お釈迦様の話を聞いて来るようなものです。 仕事が忙しい。週末は家族と遊びに行く。雑用がいっぱいあって日曜日にお寺などに行く暇が無い。こういうのが日本の実情です。 日本のサラリーマンは仕事に忙しく宗教活動なんかする時間が無いのも現実です。 ですから以下の記事くらいを読んで頂きたいのです。今日のカトリック小金井教会のミサの風景です。詳細は省略して、概略だけをご説明します。 まず聖歌の合唱があり、その後で、下の写真のように全員で悔い改めと、神への祈りを唱えます。 次に旧約聖書、使徒業伝と新約聖書のそれぞれの一部の朗読があります。下の写真は神学生の助祭が新約聖書を朗読している場面です。 次に神父さんの説教があります。下の写真は今日の説教の様子です。今日は神学校の神父様が小金井教会の主任司祭のディン神父さまの代わりに説教をしてくれました。 説教はイエス様の教えを判り易く説明し、イエス様が祭壇の上に見えるようにします。そうすると皆は続く一週間、イエス様や神様のことを忘れなくなるのです。でも、そううまく行かないので、また来週の日曜日に教会へ来ます。 説教が終わると幾つかの讃美歌や聖歌を歌い、幾つかの祈りをします。 そしてその後でミサのクライマックスがやってきます。小さなパン切れをイエスの体と言って、神父さんが一人ひとりへ手渡すのです。カトリックではこの場面を一番重要に考えています。 下の写真はカトリック小金井教会の主任司祭のディン神父様が小さなパンを一人ひとりへ手渡している場面です。パンは手に持った金色の器に入っています。 この後は聖歌を歌って、ミサは終りとなります。全部できっちり1時間で終わります。 このようなカトリックのミサは世界中みな共通です。私も言葉の分からいいろいろな外国でミサに出ました。内容は日本と同じなので気楽に聞いて、声を出さずに日本語で祈って来ました。 欧米諸国では日曜日には礼拝式やミサが行われている事を知っているだけで随分と助かります。 それではイスラム圏の諸国ではどうなるのでしょうか? 金曜日毎の礼拝があります。断食もあります。毎日、決まった時間にメッカの方角へ向かって礼拝します。その事を知った上で、尊重すれば良いと思います。 国際間の友好のためには宗教のことを少し知っていた方が良いと思います。 如何でしょうか?ご意見を頂ければ嬉しく思います。(終わり) 星野君は昔の大学時代の友人でヨットが趣味でした。一緒に猪苗代湖や霞ヶ浦を泊りがけでヨットを楽しんだのです。その彼とは昨年の秋、一緒に霞ヶ浦でセイリングしようと約束していましたが、その3週間ほど前の9月に急病で亡くなりました。 今回の「懐かしい霞ヶ浦への小さな旅」では星野君と何度も行った「うなぎの山中」という店に行き、彼を偲ぶことにしていました。 彼と共に行って、天然仕立ての鰻の蒲焼や湖でとれる生シラウオを食べた店です。下にその写真を示します。 ここは彼が毎年10月に霞ヶ浦にセイリングに来る度に必ず行ったお店でした。 一昨年の10月27日に彼と一緒にセイリングしたのが最後になってしまいました。それを思い出しながら昔と変わらない「うなぎの山中」で蒲焼を食べてきました。 最後になってしまった彼と一昨年のセイリングの写真を下に示します。始めは風が穏やかでしたが、沖では物凄くなり、船が身を躍らせて走りまわりました。帰港のころは又静かになり夕日を楽しみながら帰ってきました。ホテルに一泊し次の日も星野君とセイリングへ出ようとしたとき突然雨が降ってきました。船は出さないでセールにカバーをかけて帰って来ました。 ・ ・ 仙台の大学で彼と机を並べたのが専門課程の1957 年と1958年。卒業と同時に彼は父が経営する精密鋳物会社の仕事をするために福島へ行ってしまいます。それから15年間くらいはお互いに多忙で会うこともありませんでした。ところがある時の同級会の折、彼がヨットの話をしていました。猪苗代湖で大きなキャビンのクルーザーでセイリングしているのです。 そして花春カップというクルーザーレースへ3回ほど招待してくれたのです。それは猪苗代湖のそばの大きな酒造会社、花春が主宰するレースなのです。 彼のヨットはヤマハ29という楽しい構造のクルーザーです。船体の真ん中の甲板に操縦席があります。その後ろのキャビンへ降りてゆくと大きなパーティ向きの部屋があり、簡単な炊事用具がついています。船尾が大きく湾曲して張り出していて、そこに大きなガラス窓が横並びについているのです。シャンパンやビールを飲みながら、美しい猪苗代湖が風波を立てている様子が眺められのです。 レースでは、彼のヨットは遅い船なので、いつも終りの方を走ります。前の方を列を作って競い合いながらセイリングしている他のヨットの夢幻的な光景を見ながら悠々と走ります。 遅れてゴールしても、船体ごとにハンディキャップがついているのでレース結果は何時も2位か3位でした。 残雪の磐梯山を眺めながらの花春カップは終生忘れられない思い出になりました。 花春カップの後は福島の彼の家に寄り、奥様や息子さん達と一緒に夕食をご馳走になったこともあります。 それから又何年かが過ぎ去りました。今度は私が霞ヶ浦にクルーザーを係留していました。以前、猪苗代湖でお世話になったことを思い出して彼を招待しました。一緒に仙台の大学時代の同級生も招待しました。7人が集まりました。 彼は福島から大きな荷物を背負ってやって来ました。 かなり激しいセイリングの後のパーティの時、彼がその大荷物を解き始めました。ぶ厚い断熱布の中から出てきたのはギンギンに冷えた高級なシャンパン3本でした。その上よく冷えたシャンパングラスも、人数分の7個も出て来たのです。男ばかり7人のキャビンの中が途端に華やかになったものです。 こんなセイリングの会を4回ほどしました。何時も熱心な彼は福島からシャンパンを担いでやって来るのです。 毎回、パーティの次の日は蓮田のなかの「うなぎの山中」へ昼食を食べに行きます。うなぎが美味しいと言ってましたが、霞ヶ浦でとれた生白魚にはかなり感動していました。 毎年秋になると私のヨットに来るので、彼は自分専用のデッキ・シューズを私の船に預けていました。 昨年もそろそろヨットに来てくれると思い、9月にその白いデッキ・シューズを取り出して、すぐに履けるように並べて置きました。 そのデッキ・シューズを揃えて置いた次の週に、彼の急な病死の連絡があったのです。 彼は友情に篤く、素直な性格で実に気持ちの良い男でした。 他の急用と重なり福島でのお葬式には行けませんでした。 友人が死ぬと淋しくなります。涼しい秋風が身にしみます。私のヨットを手放した後は我が家に白いシューズを持ち帰り箱に大切に蔵ってあります。 そんな事を想いながら湖岸に出ると、下のような風景が広がっていました。 陽はあくまでも明るく射していますが、風景が暗くかすんで見えます。星野君のことを思い出し、淋しく沈んでいる私の心が映っているようでした。(続く) それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。 後藤和弘(藤山杜人) 先日の私の記事、へコメントを下さった「みずのおもて」さんの『カイロス・みずのおもて』というブログを拝見致しました。 19年前に中学3年生の娘を白血球ガンで突然亡くした母の悲しみがつづられたブログです。 URLはhttp://84815811.at.webry.info/です。思わず姿勢を正して読んでしまいました。 「みずのおもて」さんへメールを送り、その美しい文章の一部を5回の連載記事としてこちらのブログに掲載することをお許し頂きました。
私は50歳で小型ヨットスクールへ通い、53歳の時、琵琶湖へ行ってヤマハ19という中古のクルーザーを初めて購入しました。 そしてそのヨットを水郷汽船(株)経営の霞ヶ浦マリーナへ陸送しました。 ヨットをクレーンで吊って水に入れてくれたのがマリーナの佐藤敏郎さんです。それ以来、23年間、昨年秋にヨットを止めるまで佐藤さんにお世話になったのです。 優しい性格でいつも笑顔を絶やさずヨットの修理の仕方や扱い方を根気よく教えてくれました。 今回の霞ヶ浦への小さな旅の目的の一つは久しぶりに佐藤さんに会うことでした。 霞ヶ浦マリーナはその後、経営者が変わり、京成マリーナになり現在はラクス・マリーナと言います。経営者が変わっても佐藤さんはマリーナにとって絶対に必要な人なので変わらず働いていて、現在はハーバーマスターです。 今回は彼に会い、昔話を少し楽しんできました。 佐藤さんがクレーンで湖へおろしてくれたヨットはあけび号と命名し、家内とよくセイリングしたものです。左の写真がその時の様子です。 今回のマリーナ訪問で、その24年前に私が購入した「あけび号」が元気に活躍していると聞きました。 群馬県に在住しているカヤシマさんという方が相変わらず乗っているそうです。 その方とは10年ほど前に沖でセイリング中にお会いし、後でマリーナでお話をしたことがありました。 現在は「あけび号」の名前も変わり、使っていない時は陸上に保管してあります。 そこでその旧あけび号の写真を撮って来ました。下の写真です。 ・ 初めて、上の小さなクルーザーを係留した隣に、下の写真のような2本マストの大きな木造艇が係留してありました。 佐藤さんが持ち主の越後さんを紹介してくれます。 越後さんは歓迎のつもりかその夜のビールパーティに招待してくれました。 越後さんの船は本当に大きくて前部に寝室とトイレ、後ろの部屋はパーティ用のテーブルがあり、隅に流し、料理台、食器棚、冷蔵庫がついています。デッキが木なのでとても柔らかな感じがします。 桟橋から100ボルトの電源と水道を船の中に取り込んでありました。 マホガニーで内装した室内で明るい電灯の下、数人が冷蔵庫で冷えたビールを飲みながら、談笑を楽しむことが出来ます。隅の料理台の上では越後さんが簡単な料理を作ってくれます。 パーティが終われば隣の自分のヨットに帰り、寝てしまえば良いのです。 越後さんは佐藤さんを尊敬し、その後もパーティの時は必ず佐藤さんと一緒に招待してくれました。 それだけでなく、越後さんは私の艇へ乗ってくれて、丁寧にセイリング技術も教えてくれたのです。 そんなお付き合いが2年ほど続きましたが、ある時、その越後さんと、その大きな木造艇が忽然と消えてしまったのです。 佐藤さんに聞くと、返事に困ったような顔をします。何か深い訳がありそうです。 それ以来、私は佐藤さんと越後さんの話は一切しません。人生にはそんな事もあると思い、楽しかった光景だけを胸にしまいこんでいます。 今回も越後さんのことを懐かしく思い出し、彼の大きな木造艇の係留してあった場所へ行ってみました。下の写真の所に係留してあったのです。 昔は世の中の景気が良くてこの係留場所には立派なクルーザーがびっしりと並んでいたのです。現在はご覧のようにがら空の状態です。向こう側にポツンと一艘のヨットが淋しく係留されているだけです。 懐かしい越後さんも消えてしまいました。あれから茫々20年余になります。 陽はあくまでも明るく射していますが私の心は紫色です。 これも霞ヶ浦への小さな旅の一こまでした。(続く) ========================== それはそれとして、今日も皆さまのご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人) ・ ・ ・ どのような風景を美しいと感じるかは人それぞれです。深山幽谷や明るく広がる海原の風景は多くの人が美しいと感じると思います。 それも良いですが、自然の風景に人間の作ったものが加わると一層美しい風景になることもあります。青い海にはるかに浮かぶ白い帆船などがその例です。 そしてヨットを趣味にしている人々にとっては海岸や湖岸に舫っているヨットの姿が美しいと思います。風をセイルに受けて快走する姿を思い浮かべているのかも知れません。 その船の形は実に自然な形をしていてバランス良く出来ているのです。 見えませんが船底から水中へ突き出している大きな鉄製のキールが船の安定を保障しています。その重さを感じさせる船形になっているのです。 霞ヶ浦では係留場所がいくらでもあり、ヨットとが散らばって悠々と舫っています。 江戸時代の和舟も美しい形をしています。和舟が日本文化の象徴ならヨットはヨーロッパ文化の象徴です。 そんなことを考えながら昨日、霞ヶ浦にあるヨットの写真を撮って来ました。お楽しみ頂ければ嬉しく思います。 |