後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

2100万人殺されたと思っている中国の反日デモは200年続く?

2012年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム

中国では尖閣諸島の問題で大規模な反日デモがありました。

中国共産党独裁政権はインターネットを用いて反日デモを動員したり鎮静化したりしました。

その一方で尖閣諸島の海域に中国の巡視艇を数隻はりつけて日本へ圧力をかけています。

中国政府が中国人大衆の日本への怨念をうまく利用しているのです。

1985年に中国共産党は日中戦争の犠牲者を2100万人と正式に発表しました。(この2100万人については末尾の資料をご参照ください)

中国国内ではこの誇大な数字しか報道されません。中国人が日本に対して深い怨念を抱くのは当然です。それは人間の心情として当然な現象です。

中国の独裁政権は広い中国を統治し、国内の団結を確かにする方法としてこの怨念を何度も、何度も利用します。その方法は共産党独裁政権の存続のためには一番良い方法なのです。統治のコストパフォーマンスが一番良い方法なのです。

中国の共産党独裁が200年続くとしたら反日でもは200年続くと思うのが自然ではありませんか?

たとえ尖閣諸島の問題が鎮静化しても、かならず次の問題が起きます。

中国国内には何千、何万という日本の企業が経済活動をしています。その恩恵にあずからない中国人にとっては中国人が搾取されていると感じるのが自然です。

また北京の政権がインターネットで反日デモを動員すれば彼等はすぐに立ちあがります。「日本人は中国人を搾取している!」の叫んで日本の商店や工場を打ち壊し、略奪します。

日中関係は深まれば深まるほど感情的な問題が起きると考えるのが自然であると思います。

中国の共産党独裁制度が無くなり、本当に自由で民主的な国にならない限り反日デモがえんえんと続くと考えるべきです。

企業活動の実際を理解していない石原知事の言動に乗った野田総理大臣は、「尖閣諸島問題で得たものと失った損失」 とを冷静に考えているのでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

=====中国の日中戦争による犠牲者数について=========

我が家のホームページ(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM)の「アジア太平洋戦争におけるアジア諸地域の戦争被害」の表によると中国の死者は1000万人以上となっています。

しかし1985年に中国共産党政権が正式に発表した戦没者は軍民合わせて2100万人となっています。その事情を示す資料は以下のようなものです。

日中戦争による戦没者数:出典は、

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%AD%E6%88%A6%E4%BA%89 です。

日中戦争(にっちゅうせんそう)は、1937年(昭和12)から1945年までの間に、日本(大日本帝国)と中華民国(蒋介石政権)との間で行われた戦争である。

日本軍の犠牲者数は455700人(1937-1945)でした。

それに対して、中国勢力の犠牲者数は発表年によって変わっています。現在は1985年発表の2100万人説が正式の数として中国人は信じているようです。

発表年

死傷人数

調査・出典

補足

1946

軍人作戰死亡1328501

中華民國國防部・発表

国民革命軍のみ

1947

平民死亡4397504

中華民國行政院賠償委員會

國民黨統治區

1947

軍民死傷12784974

中華民國行政院賠償委員會

國民黨統治區?軍人死傷3650405?平民死傷9134569

1985

軍民死亡2100

共産党政権発表(抗日勝利40周年)

1995

軍民死傷約3500

江沢民発表

江沢民、?念抗日??利五十周年大会上的??

上記の表で中国側の犠牲者が132万とあるが、この数字は中国国民革命軍のみの数であり、必ずしもその人数が正しいとはいえないことに注意が必要。当時の中国大陸では、日本軍南京中華民国政府軍蒋介石国民革命軍共産党軍(現:中国人民解放軍の前身)・その他馬賊や抗日武装勢力など複数の勢力が、割拠する地域で、日中戦争中には主に2つの勢力に分かれて戦争を行っていた。


水辺の風景(3)遥かによこたわる屈斜路湖

2012年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の北海道旅行は屈斜路湖の近くの川湯温泉に3連泊しましたのでこの湖には毎日車で行っていました。

地図で見ると川湯から近いようですが、車で原生林の中の道を延々と行かなければ湖岸に出られません。

湖水の周りは原生林が取り囲んでいるので、観光客の入れる場所は和琴半島と、コタンアイヌ民俗資料館のある場所と、砂湯という場所しかありません。その湖岸に出るのに根気よく原生林の中の道を行かねねばなりません。

湖岸に出ると屈斜路湖が静かに青い水を湛え、はるか沖に中島が横たわっています。

そして網走方面へ抜ける道の美幌峠に上ると頂上に「パノラマ展望台」があり、眼下に碧く輝く屈斜路湖の全景を楽しむことが出来ます。

下にそのような写真をお送り致します。お楽しみ下さい。

272

上が美幌峠頂上の「パノラマ展望台」から見た風景です。

下は屈斜路コタンアイヌ民俗資料館の近くにある湖岸に湧きだしている露天風呂です。

429

上の露天風呂の対岸を見た景色が下の写真です。

433

下は美幌峠の白樺の林です。何故か美しいと思いつい撮ってしまいました。

452

このような静かな屈斜路湖も初冬になると数千羽の白鳥がシベリアより飛来して急に賑やかになります。白鳥の鳴き声は意外に大きいのです。下の写真は自分が撮ったものでなくお借りした写真です。

Hokkaido661

白鳥の写真の出典:http://murauchi.info/hokkaido66.jpg

======屈斜路湖に関する参考資料です==============

藻琴山、サマッカリヌプリなどを外輪山とする屈斜路カルデラ内にできた、日本最大のカルデラ湖(屈斜路カルデラも長径約26km、短径約20kmの日本最大のカルデラである)。日本の湖沼では6番目の面積規模を有する。周囲から小河川が流入し、南端から釧路川として流れ出す。

湖中央部には、日本最大の湖中島である中島(火砕丘、面積5.7km?、周囲12km)が浮かぶ。中島はそれ自体二重式火山であり、中央の溶岩円頂丘に最高点(355m)がある。

南岸には和琴半島が突出する。中島と同様、火山の山頂が湖中島になったものであったが、尾札部川の扇状地から成長した砂州により陸繋島となった。

江戸時代の探検書・古地図には「クスリ・トー」(アイヌ語で温泉、薬の湖の意)と書かれていたが、その後、釧路川源流付近にあったコタン名「クッチャロ」(喉・口、湖からの流出部の意)から現在の「屈斜路湖」となった。

詳細は、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E6%B8%A9%E6%B3%89 をご覧ください。

屈斜路コタンアイヌ民俗資料館については:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%9F%E5%AD%90%E5%B1%88%E7%94%BA%E5%B1%88%E6%96%9C%E8%B7%AF%E3%82%B3%E3%82%BF%E3%83%B3%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E6%B0%91%E4%BF%97%E8%B3%87%E6%96%99%E9%A4%A8 をご覧下さい。


武田一族興亡の地をめぐる旅(完結編)武田勝頼の敗北、武田家の断絶

2012年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

武田信玄は徳川家康や織田信長と覇を競う大型戦国大名でした。しかし、1573年上洛の途中で病没し、勝頼が家督を継ぎ、武田家20代目になりました。

しかし、徳川・織田連合軍は、信玄の死で勢いつき、甲州攻撃を本格的に始めたのです。それに加えて勝頼は人望がなく戦いの戦略も稚拙でした。その結果信玄時代の有力な武将がつぎつぎと敵方へ寝返って行ったのです。天正10年、1582年には徳川・織田連合軍が甲州に攻め込み、勝頼は敗走します。甲府盆地から逃げ出し天目山を越えて大月の岩殿城の小山田信茂を頼って落ち延びようとしますが、小山田氏の謀反によって天目山を越えられずその麓で追手に追いつかれ惨殺されたのです。次から次へと部下の武将の謀反にあい失意のうちに悲しい最後を遂げたのです。武田家450年の歴史の終焉でした。享年37歳でした。そのお墓は天目山の麓の景徳院という山寺にあります。侘びしい粗末な墓石です。しかし悲しい最期を遂げた勝頼を哀れんで近所の人々が花を絶やさないそうです。2010年9月28日に撮った写真を示します。写真の下にはWikipedeaの「武田勝頼」の項目の一部を参考資料として付け加えておきます。勝頼の悲しい運命が書いてあります。(この記事をもって、「武田一族興亡の地をめぐる旅」シリーズを終了致します。有難う御座いました。)

205

207_2

200 202 211

====武田家滅亡のいきさつ・・・Wikipedeaの武田勝頼から抜粋=====

天正9年(1581年)、徳川軍の攻撃によって高天神城は窮地に陥るが(高天神城の戦い)、もはや勝頼には後詰することが出来なかった。高天神城落城は武田家の威信を大きく下げることとなり、国人衆は大きく動揺した。これを境に織田・徳川からの調略が激しくなり、日頃から不仲な一門衆や日和見の国人の造反も始まることになる。

勝頼は、近い将来攻め込んでくるであろう織田・徳川連合軍への備えのため、躑躅ヶ崎館より強固な韮崎の地に新府城を築城して防備を固めるとともに、武田軍団の再編成を目指した。しかし、そのために膨大な軍資金を支配下の国人衆に課すことになり、皮肉にも却って国人衆の造反を招く結果となった。なお国人衆の反発は勝頼の中央集権化を目指した政策に原因があるとする意見もある。

天正10年(1582年)2月には、信玄の娘婿で外戚の木曾義昌が新府城築城のための負担増大への不満から織田信長に寝返る。勝頼は外戚の義昌の反逆に激怒し、即座に木曾討伐の軍勢を送り出した。しかし雪に阻まれ進軍は困難を極め、地理に詳しい木曽軍に翻弄された。その間に織田信忠が伊奈方面から、金森長近が飛騨国から、徳川家康が駿河国から、北条氏直が関東及び伊豆国から武田領に侵攻してくる(武田征伐)。

これに対して武田軍では組織的な抵抗ができなかった。勝頼の叔父・信廉は在城する対織田・徳川防戦の要であった大島城を捨て甲斐に敗走し、信濃伊那城においては織田軍が迫ってくると城主・下条信氏が家老によって追放され、織田軍を自ら迎え入れてしまった。信濃松尾城主の小笠原信嶺、駿河田中城の依田信蕃らも織田・徳川連合軍の侵攻を前に戦わずして降伏する。さらに武田一族の重鎮である穴山信君までも勝頼を見限り、徳川家康を介して織田信長に服属を誓った。これにより武田氏に属する国人衆は大きく動揺する。

この情報に接した武田軍の将兵は人間不信を起こし、疑心暗鬼に苛まれた将兵は勝頼を見捨て、隙を見ては次々と逃げ出したのである。唯一、抵抗らしい抵抗を見せたのは勝頼の弟である仁科盛信が籠城する高遠城だけであった。また母の実家である諏訪家の一門諏訪頼豊は「勝頼から冷遇されていた」と言われているにも関わらず、武田征伐に乗じて諏訪家再興をしようとする家臣の意見を聞かずに鳥居峠の戦いで戦死している。

同年3月、勝頼は未完成の新府城に放火して逃亡した。甲斐国の有力国人で一門衆の小山田信茂と、信濃国人である真田昌幸が、勝頼を受け入れることを表明した。勝頼が選んだのは武田家の本領である甲斐国人・小山田信茂の居城である岩殿城であった(注:小山田氏の居城は谷村城で、岩殿城は小山田領内の武田家直轄の城であるという説もある)。しかし、信茂は織田信長に投降することに方針を変換し、勝頼は進路をふさがれた。後方からは滝川一益の追手に追われ、逃げ場所が無いことを悟った勝頼一行は武田氏ゆかりの地である天目山棲雲寺を目指した。

しかし、その途上の田野でついに追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した(天目山の戦い)。享年37。これによって、450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡。勝頼父子の首級は京都に送られ一条大路の辻で梟首された。

後に徳川家康により菩提寺として景徳院が建てられ、信勝や北条夫人と共に菩提が祭られている。

江戸以降に再興する武田家は勝頼の兄で盲目のため出家していた次兄・海野信親(竜宝)の系譜である。(完結)


武田一族興亡の地をめぐる旅(5)信玄が長野から持ってきた善光寺

2012年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム

武田信玄は長野を占領するとすぐにその善光寺を甲府へ持ち帰ったのです。

お寺を武力で持ちかえるのは感心しませんが、戦国時代はそんな時代だったのです。

それにしても善光寺には面白い歴史があるので、簡略に書いてみます。

今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいました。 ある時、善光さんが都へ帰る国司について難波へ行ったそうです。ところが難波の堀の中から一光三尊の像を見つけました。それを拾い上げ、飯田へ持ち帰ったのです。 自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝きます。それで座光寺(善光寺)を作ったという伝説が残っています。推古天皇10年(603年)の事です。 

それから41年ほどして皇極天皇元年(644年)に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野、善光寺が出来ました。 

移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると現在でも信じられています。 

さて現在、甲府市にも立派な本堂を誇る3つ目の善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約900年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返しました。 

ご本尊は返しましたが、甲府の善光寺も現在に至るまで立派に存続しています。

三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しく思ったのはどれにも夫人の像が同じ大きさで並べられていることです。 善光寺は仏教のどの宗派にも属せず、人々の信仰だけで存続してきたのです。そのような経緯で出来た甲府の善光寺の写真を示します。2010年9月28日に撮影しました。(続く)

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)

198

193

191

189


中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(完結編)追悼集、橋本郁子著、「遠く広き国へ」より

2012年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

3

先日の私の記事、へコメントを下さった「みずのおもて」さんの『カイロス・みずのおもて』というブログを拝見致しました。

19年前に中学3年生の娘を白血球ガンで突然亡くした母の悲しみがつづられたブログです。

URLはhttp://84815811.at.webry.info/です。思わず姿勢を正して読んでしまいました。

「みずのおもて」さんへメールを送り、その美しい文章の一部を5回の連載記事としてこちらのブログに掲載することをお許し頂きました。今迄の4回の記事の題目は以下の通りです。クリックすると記事が開きます。

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(1)詩、「衣替え」

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(2)「告知」

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(3)お兄ちゃんへの手紙

中学三年生の娘を亡くした母の悲しく、美しい文章(4)頼子さん、家族と一緒に最後のキャンプへ行く

お母さんから、亡くなった頼子さんのお写真を掲載するように送って下さいました。上の写真です。尚、写真掲載に関する私の気持は先日の、人の存在の証明 という題の記事に書いておきました。

さて今回の完結編では頼子さんの母親の書いた追悼集をご紹介し、その中から一文を引用し以下に掲載したいと思います。

追悼集は新教出版社から1995年6月5日に初版が出ました。「遠く広き国へ」ーわが子を天に送ってー橋本郁子編著 です。

この追悼集は下のような4部で構成されています。

I、闘病の記録

II、頼子について書いていただいたこと

III、残された作品と回想

IV、頼子を天に送って

中学校3年生の娘を失った母の悲しみが切々と綴られた文集です。頼子さんがどんなに良い子だったかということが判ります。

一番驚く事は、苦しい闘病生活にもかかわらず頼子さんが常に明るく生きていたことです。彼女はキリスト教の信者でした。

最後まで希望を持っていました。病床で英検三級の試験も合格しました。

その平安な、静かな精神は何処から来るのでしょうか?

悲しむ父母へ何時も変わらない明るい態度で接していたのです。

その様子は同級生の追悼文からも伺えます。そこで今回はその同級生の追悼文を転載し、この5回にわたる連載記事の完結と致したいと存じます。

====同級の3年2組の生徒からの追悼文===========

「私たちは、先月十日、級友である橋本頼子さんを病気のために失いました。橋本さんは今年の一月から入、退院を繰り返し、ほとんど学校に来ることができませんでした。三年生になっても、二組の教室に一度しか顔を出すことができませんでした。もちろん授業は受けられませんでした。しかし登校できなくなってからは、通信教育を受けて勉強して、受験に備えていたそうです。

橋本さんは自分の病気のすべてを知っていました。それでも勉強する意慾を失わず、生きる希望を絶対に捨てないで、病気と必死に闘っていました。そして病魔に犯され、立っているのがやっとという状態のとき、家族にささえながら英検三級を受けました。そして二次試験まで合格しました。この試験は中学三年終了程度のレベルですから、いかに彼女が病床でもがんばったかが分かると思います。

そのことを聞いたとき、私たちはそこまで勉強しようとした彼女にただただ胸をうたれました。私たちはそんな橋本さんの意志を引き継ぎ、橋本さんの分まで何事も最後までがんばることを心に誓います。

私たち三年二組は、この劇を橋本さんへ贈りたいと思います」

==学校祭での劇、「ぼくらの十五分間戦争」の上演終了後に読み上げた追悼文です==

頼子さんは短い人生の後、天に昇って、必ずやイエス様のそばで安らかに眠っていると私は信じています。この5回にわたる連載記事をお読み頂いた方々へ深い感謝をお送りします。

そして是非、頼子さんのご冥福を祈ってあげて下さいますようにお願い申し上げます。(完結)

======みずのおもてさんから以下のコメントを頂きました==========

後藤和弘様

5回にわたりまして、私の拙いブログを皆様にご紹介いただきまして、誠にありがとうございました。
当事者といたしましては、特にその渦中にありましては、主観的な観点から事態を見つめることしかできず、他の方々には不可解と思われることもあるかと存じますがそのようなところを超えてのご厚意に、深く感謝いたします。
また拙著をもご紹介下さいましてありがとうございました。

ネットの力と申しますか、本日とても思いがけないことがありました。
後藤様に4回目の記事でお取り上げ頂きましたが、新舞子浜のキャンプでお世話になった、福島県いわき市の志賀留蔵さんのお孫さんにあたる方から、本日メールを頂いたのです。
偶然ブログを読んで下さったとのことでした。ブログを読んで下さる方は限られた人数ですのに、とてもおどろいております。
志賀さんは98歳で、今もご健在で、警察官の菊地さんもお元気でご活躍とのことでした。本当に嬉しく感激致しました。

いろいろな弱さや至らなさから、いっとき途切れてしまったかと思うような人とのつながりを、もう一度紡ぎなおしてくださるのは何の力によるものなのか、ふと手を止めて考えてしまいました。

どうもありがとうございました。
またブログにお邪魔させて頂きます。

=====投稿 みずのおもて | 2012/09/23 20:21 ===========


今日の読売新聞、書評欄から・・・「舟越保武全随筆集」巨岩と花びら ほか

2012年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

毎週、日曜日の読売新聞の書評欄は必ず見るようにしています。

書評を書いている人が学者の場合は自分の博識ぶりを自慢するような書評が多く、本そのものの内容や批評が書いていない傾向があります。それに反して作家やタレントの書いた書評は判り易く、本の内容を適切に紹介し、その上自分の感想も簡潔に書いてあります。

今日は作家で、写真家でもある星野博美さんの「舟越保武全随筆集 巨岩と花びら ほか」の書評が明快で良かったです。この本は求龍堂が出版し、2600円で販売されています。

舟越氏は1912年に生まれ2002年に亡くなった有名な彫刻家です。石に直接彫り込むという手法で、数多くの重厚な藝術作品を残しました。

この随筆集のメイン・テーマが石に形を彫り込む職人の強靭な精神の重要性であります。

そして、その精神は日本の墓石を彫る石工(いしく)達と共通の職人魂が基盤になっているのです。石の彫刻家としての精神を描いた部分が重要な部分です。

しかし、随筆集ですから父との確執や薄幸だった継母への思いや家族との関係も書いてあります。気楽に読める随筆も沢山混じっている様子です。

是非、買って読みたくなるような本です。

今日の星野博美さんの「舟越保武全随筆集」の書評の紹介はここで終りとし、以下に舟越氏の作品を2つご紹介致します。

=======舟越氏の作品を2つ===============

ところで舟越保武はキリスト教関係の彫刻も沢山制作しました。有名なものは長崎の公園にある「26聖人像」です。

下にその関連の写真や資料をご紹介いたします。

その前に東京の郊外にあるイエズス会修道院の聖堂の入り口に立っている和服姿のマリア像をご紹介いたします。手に抱いているのが幼い頃のイエス様です。舟越氏の作品の一つです。2010年に小生が撮影した写真です。

0112

この写真については、「イエズス会石神井修道院の写真だけを、とりあえずお送りいたします」をクリックすると説明があります。

さて長崎の観光名所の一つに日本26聖人像の写真と素晴らしい文章のついたブログをご紹介いたします。江島達也さんのブログ: http://hayabusa-3.dreamlog.jp/ です。

このブログの中から観光名所になっている、26聖人像の写真をお借りして以下に示します。(出典」はhttp://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51207384.html です)。

有名な彫刻家の船越保武氏が4年余の歳月をかけて昭和37年に完成した芸術作品です。余談ながら私はカトリックなのでこの像の前に立ったり、写真をみるのが好きです。祈っているのです。

Efcc12891

9efda5eb1

この26人は1597年2月5日、長崎の西坂で十字架にはりつけにされて殉教しました。

ローマ教皇ウルバノ八世は、1627年9月14日に、フランシスコ会関係殉教者23の列福を認めたのです。続いて同じ年の9月15日にイエズス会殉教者3名の列福も認めました。

それから235年後の1862年6月8日にローマ教皇ピオ九世により聖人と認められたのです。1862年といえばまだ江戸時代です。日米、日露なとの修好条約が出来、領事館が出来たころです。

====================================================


水辺の風景(3)夢幻の色を湛える摩周湖

2012年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム

このブログの記事は理屈が多くて読みにくいと感じている方々も多いのではないかと想像しています。

そこで今回は単純に摩周湖の神秘的な水の色を楽しんで頂きたいと思います。

北海道に行っている間の4日は雨続きて、4日目にやっと晴れました。天気の変わらぬうちにと、朝早くから摩周湖の展望台へ登りました。

カルデラの崖の上にある第三展望台から9月20日に撮った写真です。上から順番に右方向、真中方向、左方向を撮影した3枚の写真をしめします。

そして4枚目は第三展望台の足元の水面の色を撮った写真です。

最後の5番目の写真は対岸の裏摩周展望台から見た摩周湖で、小島のカムイシュ島がはっきり写ってます。

摩周湖の夢幻の色をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。

242_2 

229

231

416

下の写真の出典は下の引用文の出典と同じです。

Uramash1

===http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%91%A9%E5%91%A8%E6%B9%96 より引用========

摩周湖(ましゅうこ)は、北海道弟子屈町にある湖。日本で最も、世界ではバイカル湖についで2番目に透明度の高い湖である。

急激に深くなっていることとその透明度から青以外の光の反射が少なく、よく晴れた日の湖面の色は「摩周ブルー」と呼ばれている。

北海道東部、阿寒国立公園内に位置する。日本の湖沼では20番目の面積規模を有する。

約7000年前の巨大噴火によって生成された窪地に水がたまったカルデラ湖であり、アイヌ語では「キンタン・カムイ・トー(山の神の湖)」という。摩周という名の由来は「カムイシュ」(神老婆)や「マシ・ウン・トー」(カモメの湖)など諸説あるが不明(なお摩周湖にカモメは生息していない)。

湖の中央に断崖の小島カムイシュ島がある。周囲は海抜600m前後の切り立ったカルデラ壁となっており、南東端に「カムイヌプリ(神の山)」(摩周岳・標高857m)がそびえている。

湖内は阿寒国立公園の特別保護地区に指定されており、開発行為や車馬・船の乗り入れは厳しく規制されている。

流入・流出河川がない閉鎖湖であり、周辺の降雨が土壌に浸透した後十分にろ過されて流入するため有機物の混入が非常に少なく生活排水の影響もないためリン酸塩の流入もない。夏季の気温・水温が低いこともこの一帯の有機物の分解が進まない原因となっている。

摩周湖一帯の火山活動は約3万年前から始まった。

山頂を失う以前の姿は富士山のような成層火山で、標高は2000m程度と考えられている。当時の安山岩質溶岩流が外輪山を形成している。

摩周湖に相当するカルデラは約7000年前の大噴火で形成された。巨大カルデラ噴火としては九州南沖の鬼界カルデラとほぼ同じ時期で、日本国内では最も新しい。

その後約4000年前からカルデラ東部で噴火が始まりカムイヌプリ火山が成長した。同じ頃カルデラ中央(湖底)でも溶岩ドームが形成されカムイシュ島ができ、現在の地形となった。

=======以下省略=====================

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


水辺の風景(2)とにかく、なにも無い風蓮湖の寂寥

2012年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム

風蓮湖は白鳥の飛来地として有名です。下にあるような写真をよく見かけます。そのせいで何故か素晴らしい湖という印象が心に焼き付いていました。そこで今回の北海道への旅の目的の一つにこのロマンチックな名前の湖を見に行くことがありました。

11742672761

野付半島のトドワラとナラワラを見たあとで国道を根気良く南下してて、ついに下のような看板を見つけました。ところが湖岸へ出る道がありません。向こうに見える森の先に風蓮湖がある筈です。車で行きつ戻りつしてやっと未舗装の細い道を発見しました。

222

その悪路を心細く思いながら辿って行き、やっと湖岸に出ました。小さな漁船が着く桟橋があります。

兎に角、何も無い寂寥とした風景が広がっているだけです。東からの海風が強く湖面を波立せているだけです。

空は暗く曇り、時々冷い雨が落ちて来ます。下の写真が小雨の風蓮湖です。

242 

白鳥の写真から勝手にロマンチックで華やかな風景を想像していた私の愚かさを独りで笑いながら印象深い写真を撮ろうと努力して見ました。

北の国の湖の寂寥感を写真で表現したいと思ったのです。

下の2枚がその作品のつもりです。ズームを使わないで撮った写真と使って撮った写真です。同じ対象ですが写真の印象が違うようなので2枚掲載しました。

132

233

一般的に北国の秋はこのように暗く曇った日々が多いのです。昔、ドイツに住んでいた秋にも同じような天気が毎日続いたのを思い出しました。

暗いから人々は家の中だけでも明るい雰囲気にしようとします。家族が寄り添って、支え合って暮らしています。重厚なドイツ文化の基礎には、長い冬の暗さと厳しさが横たわっているようです。そんな事を思い出すと、北海道の人々の粘り強い心の底が少し見えたような気分になります。

暗い日の風蓮湖の寂寥が北国の人々の心を教えてくれているようです。

華やかな夏の日々は一瞬に過ぎ去ってしまったのです。(続く)


この美しい雲の下に麗しい瑞穂の国がある・・・そして航空機の素晴らしさ

2012年09月22日 | 日記・エッセイ・コラム

今回の旅は北海道の東部の中標津空港へ降りて、帰りは女満別空港から羽田に帰るという飛行機に乗りました。往復とも窓際の席でしたので美しい雲のたたずまいを写真に撮れました。

雲の合間には緑の大地や青く光る海原が時々見えます。

そんな写真をお送りいたしますのでお楽しみ下さい。

006

014

017

上の3枚は中標津へ向かいつつある機上から撮ったもので、下の2枚は女満別空港から羽田へ向かう時撮ったものです。

346

357

このような旅客機から見た風景は多くの人々にとって見慣れたものでしょう。しかし私は何度見ても2つの事で興奮し、考え込んでしまいます。

その一つは1910年ごろのライト兄弟の飛行成功以前の人類はこの景色を見たことが無かったという事実です。勿論、ヨーロッパでは熱気球で空から見降ろした人も居ましたが、時速900km以上で高度10000mで移動する旅客機から流れゆく雲や地上の景色を見た人類はいなかったのです。

1960年にオハイオへ留学するとき初めて乗った旅客機は米国のノースウエスト社の4発プロペラ機でした。それから2年後の1962年には旅客機のエンジンはジェットエンジンに変ったのです。

そして私が興奮する2つめの原因はこの旅客機用のジェットエンジンの事なのです。

日本の技術力がどんなに世界一だと主張しても、この旅客機用のジェットエンジンだけは作れないのです。作れるのはアメリカのGE社とイギリスのロールスロイス社だけなのです。

その理由こそ現代の工業技術というものの本質を示しています。

ジェットエンジンは下の構造図のようにそれほど複雑な工業製品ではありません。日本でも試作品ならいくらでも作れます。

しかしそれを買ってくれる人が皆無なのです。

民間会社の旅客機に用いるジェットエンジンは絶対に故障を起こしてはいけない製品なのです。

エンジンの故障を何千回、何万回と経験し、その故障の原因の分析結果を記録し、改良に改良を重ねる実績を保有している会社が米国のGE社とイギリスのロールスロイス社だけなのです。

ですからこそ、この2社の旅客機用のジェットエンジンが売れるのです。

このように工業技術というものには経験というものが沢山詰まっているのです。

一方、軍用機のエンジンは軽くて出力が大であれば良いのです。故障率は重要ではないのです。ですから軍用機はいろいろな国で作っています。

下の構造図は、左が飛行機の前で、右が後です。あとはジット見つめていると多くの人がジェットエンジンの作動原理が理解できる筈です。

一つだけ理解すべきことは空気を吸気したらそれを高速で回転している羽根車で圧縮してから燃焼室へ送るという事です。このようにしないと高度10000m以上の空気の薄い空を飛べないのです。

そんな事をいろいろ考えて窓の外のGE社製の大きなジェットエンジンを飽きずに見ていました。

1

(出典:http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/45/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%81%AE%E5%8B%95%E4%BD%9C%E5%8E%9F%E7%90%86%28%E8%A9%B3%E7%B4%B0%E5%9B%B3%29.PNG

話は飛びますが原子力発電所もアメリカのウェウスチングハウス社が完成した技術です。

今回の福島原発の爆破事故の原因の経過を一番、詳細に蒐集し、分析しているのはアメリカのウェウスチングハウス社の筈です。そして原発の安全性を向上させているのです。原発の小さな事故や大きな爆発事故の経験が次世代の原発の安全性につながっているのです。

日本は原発の新設は当分しませんが、アメリカのウェウスチングハウス社は中国やベトイナムやミャンマーでの原発の建設をするに違いありません。

それにしても原発の爆発事故は自動車や航空機の事故と比較の出来ない性質を持っています。

放射能の被害が広範で甚大なのです。関係のない多数の第三者が被害者になるのです。

ですからこそ私は原発はこの津波や地震の多い日本ではゼロにした方が良いと信じています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


原発再稼働へ反対する人々の論理はこういうものなのです

2012年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

原発を再稼働して日本の経済を成長させるべきという一派と、原発をゼロにすべきという一派が国論を別けて争っています。

どちらの論理も正しいようです。しかし論点は完全に離れていて議論で決着がつく性質のものではありません。論点の違いが厳然として存在していることへの虚しさが心に広がります。

今回は、原発ゼロを主張するmi-koさんからのコメントを以下にご紹介致します。

=====mi-koさんからのコメント=================

日本国憲法は、世界に誇れるものだと思っています。特に戦争の放棄。
先の大戦の加害者として、また、世界で唯一の被爆国として、深い反省と平和への希求が込められたものです。
これまでの歴史に、攻撃のためにと始められた戦争があったでしょうか。
みな、自衛のためです。それを防ぐために、9条が定められたはずです。

ところがその9条の解釈をめぐる論争は、制定間もなくからずっと続いています。警察予備隊から保安隊を経て自衛隊ができたものの、9条の縛りによって、海外に出ることはできないというのが、これまでの解釈でした。
それがアフガニスタンに派遣し、国連が承認しないイラク戦争で、アメリカ軍に海上補給をするまでになりました。既成事実が積み重ねられ、「できたことはしょうがない」と認める国民性が、それを受け入れています。

その片方で、核の平和利用の名のもとに、原子力発電所が次々に建設されました。気付いてみれば。この地震列島に54基もの原発が林立しました。核燃料サイクルの中心だった高速増殖炉もんじゅは動かず、使用済み燃料の中間貯蔵所もほぼ満杯、最終処分場も決まっていないのに。

そのふたつが密接に結びついていることを、私たちは3.11によって知りました。寿命100年もない人間が、半減期10万年の放射能を制御できるというのは夢、まぼろしです。40年前には工学部の花形だった原子力工学科を持つ大学は、ゼロと言っていい状態です。
それでも原発の利権をめぐってできた、原子力ムラという強固な運命共同体。権力を握り、金を握っています。

3.11を受けて、全原発の即時停止、廃炉へという大半の国民の希望を無視して、またもや原発が次々に再稼働し、建設中の原発さえ出来上がることになる気配です。
福島第一事故の収束(避難民の生活保障、被曝した子どもたちの健康確保)さえできていないのに、また、この地震列島に50基の原発が動き始める。悪夢です。

=======投稿 mi-ko | 2012/09/17 08:43 ============


水辺の風景(1)荒涼たる風景の野付湾と、トドワラやナラワラの無気味さ

2012年09月21日 | 写真

12453730691

(この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpgです。)

北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。

そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。

その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。

しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、夏にはその味を楽しむことが出来ます。

今回の旅の目的の一つは荒涼たる野付湾と、トドワラやナラワラを見てその写真を撮り、茹でた縞エビを食べることでした。茹でた縞エビは濃厚な味で、確かに有名なエビだけに申し分の無い美味でした。

下に雨もよいの野付湾の風景写真を2枚示します。

209

小雨が降ったり止んだりで、時々薄日が射していました。

217

上の写真のような野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。下にその光景を示します。

211

よく見ると下の写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっている場所もあります。

161

ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。

その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。

078

上は立ち枯れた木が倒れた場面ですが、立ったままの林もあります。それを下の写真に示しました。木道は高く狭いので、強い海風や雨が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。

077

この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。今回は天気が悪く見えませんでいでしたが、野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。

訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。

日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。

墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら雨のそぼ降る道を帰って来ました。

暗い淋しい小さな旅でした。(続く)

====樺太、千島の占領完了=======================

(出典は、http://www2s.biglobe.ne.jp/%257Enippon/jogbd_h13/jog203.htmlです。)
   
     24日早朝、アリモフ少将が戦車隊を従えて、豊原に到着し、
    日本軍の施設をすべて接収し、樺太庁の行政も停止させた。こ
    れにて樺太の占領は完了した。
   
     千島列島に関しては、24日以降、順次、日本軍将校を同船
    させて小型艦艇数隻からなる偵察部隊が南下し、各島で日本軍
    の降伏を受け入れながら占領を続けていった。

     択捉、国後については、当初は「アメリカ軍がやってくるは
    ずだから我々は手をつけずにかえるのだ」と言って、上陸しな
    かった。この二島はかつてロシア領になった事はなく、日本固
    有の領土であった。したがって、ヤルタ協定でソ連に「手渡さ
    れる」ことになっていた千島列島にこの2島が入っておらず、
    日本本土の一部として、アメリカ軍の占領地域に入っていたと
    解釈されても不思議はなかった。
   
     しかし、アメリカ軍が来ていないと知ると、ソ連軍は8月2
    8日に択捉島に、9月1日に国後島に上陸した。さらに千島列
    島に含まれず北海道根室半島の延長である歯舞諸島、色丹島に
    も、ソ連軍はそれぞれ9月1日、4日に占領した。歯舞諸島占
    領が行われた9月4日は、降伏文書正式調印の二日後である。


北海道は本州と違う文化圏・・・雄大な大地に生きる厳しさ

2012年09月21日 | 日記・エッセイ・コラム

北海道の東部の湖を巡る旅をして来ました。川湯に3泊し、野付湾、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、網走湖、能取湖、などを見て来ました。それらの湖の間には広大な大地が広がり、牧場がえんえんと続いています。

この風景を見ているとヨーロッパの田舎の風景と同じです。遥かに見える牧舎や家々も何故か本州と違い欧州風です。明治時代以後、欧米に追い付くために洋風の牧畜や農業を必死に導入して来たのです。

ここには奈良時代の律令国家も鎌倉、室町時代もありませんでした。道南の松前藩以外は江戸文化も存在していませんでした。アイヌ民族のが散在していただけでした。そこへ欧米風の開拓農業が広がったのです。

風景だけを見ながら車で通り過ぎる本州からの観光客は、湖や大地の雄大さに見とれ、ロマンチックな気分になって帰って行きます。

大地に広がる牧場の写真をご覧下さい。

247

晴天の夏に観光に来た人々はこの大地に生きる人々の厳しい冬を知らないで帰ります。今回はその厳しい生活を暗示させるような雲が一瞬にして広がりました。下の写真です。

327

今回の旅は天気が悪かった故に、この大地に生きることの苦しみと喜びを深く考えることになりました。大地をよく観察すると北海道の東部の中標津、別海、虹別、標津、釧路、根室、女満別などの地方の大地は牧畜業以外は出来ないような土地です。水はけが良すぎて、寒冷な土地なので牧草以外が育たないようです。

そしてその牧畜業も本州では想像もつかないくらい広大な土地で大規模に牛や馬を飼わないと一家の生計を支えられないのです。下にその牛や馬の写真を示します。

004

東北海道では、サラブレットでなく気性の優しい道産子です。

038_4   

幸いに畑作の出来る土地でも、広い畑でないと生活が成り立ちません。

稲作は南部の一部を除いては困難なのです。ですから本州に根付いている稲作文化は歴史的にも存在していなかったのです。

北海道観光と言えば札幌や小樽や函館、そして旭川動物園に行く人が多いようです。しかし牧場以外、何も無い大地を4日間走り回っていると何故か本州が遠い、遠い国のように思われます。

原発問題や尖閣諸島の問題が小さく、小さく感じるのです。

そんな感じがする野付湾、オダイ沼、風蓮湖、シラルトロ湖、塘路湖、達古武湖、摩周湖、屈斜路湖、阿寒湖、網走湖、能取湖などを巡る旅でした。

これから下の写真のような風景写真をいろいろお送りする予定です。

206

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。

後藤和弘(藤山杜人)


追憶を誘うコスモスの花

2012年09月20日 | 写真

コスモスの花を見ると何故か昔の事があれやこれやと思い出させてくれます。私はコスモスの花を「追憶の花」と心の中で呼んでいます。

3年前の9月19日に、車で40分程の立川基地跡に出来た昭和記念公園へ行きました。家内と自転車を借りて3時間ほどサイクリングしました。コスモス祭りで、丁度満開でした。家内が撮った写真なので上手ではありませんが、お楽しみ頂ければ嬉しく思います。

017

002

020_3

015_2


武田一族興亡の地をめぐる旅(4)信虎、信玄、勝頼、3代が住んだ躑躅ケ崎館跡

2012年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

信玄の父、信虎は周囲の国衆・領主と同盟を結び平和的に勢力拡大策をとっていました。信玄はこれに反対し、周囲の諸領主と戦い、実力で領土を拡大する戦いを始めるべきと激しく主張したのです。父子の論争のはてに、信玄は父を駿河へ追放しました。1542年のことでした。

自分が武田家の統領になり、突然周囲の領主を次々と抹殺していったのです。良く言えば勇猛果敢とも言えますが、血に飢えた戦国武将そのものでした。その闘争心は抜群であり、諏訪氏も高遠氏も信濃の緒領主も皆なぎ倒されてしまったのです。

戦いは信玄が1573年に死ぬまで31年間続きました。

最終的に敵対出来たのは上杉謙信、織田信長、徳川家康だけになったのです。その詳しい合戦の経緯は下に付けた参考資料にあります。

武田信虎、晴信(信玄)、勝頼の三代が住んだ躑躅ケ崎館の跡地は、現在、武田神社になっています。当時を偲ぶものは館を囲んでいた掘だけです。下にその掘の写真を示します。

躑躅ケ崎館からまっすぐ甲府駅へ向かって、少し坂になった大通りが下っています。その左右が碁盤の目のようになっていて家臣たちが住んだ屋敷町でした。山梨大学もこの大通りを挟んで左右にキャンパスが広がっています。商人町はもっと坂を下ったところにあったようです。坂道の東側には信玄の墓所のある大泉寺や円光寺があります。信玄は甲府の英雄です。甲府駅の南口には巨大な銅像もあります。

当時の甲府の町々の賑わいを偲びながら館跡の掘りのほとりを散策して来ました。館の建物は一切消えて無くなっています。文字通り、つわものどもの夢の跡です。

160

187

武田信玄:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E7%94%B0%E4%BF%A1%E7%8E%84

諏訪領、高遠領への侵入と信濃国の緒領主の平定(Wikipedea より)

E688a6e59bbde794b2e4bfa1e8b68a1

信虎期の武田氏は敵対している勢力は相模後北条氏のみで、駿河国今川氏、上野国山内上杉氏扇谷上杉氏、信濃諏訪氏と同盟関係を持ち信虎末期には信濃佐久郡・小県郡への出兵を行っていたが、晴信は家督を相続すると信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を行う

天文11年(15426月に晴信は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、頼重を甲府へ連行して自害に追い込み諏訪領を制圧している。諏訪領においては同年9月には高遠頼継が武田方に対して挙兵しているが、武田方はこれを撃破して諏訪領を掌握する。

武田方はさらに天文12年(1543)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(15454月、上伊奈郡高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主である藤沢頼親も滅ぼした。天文13年(1544年)には後北条氏と和睦し、今川氏と後北条氏の対立(河東一乱)を仲裁し、甲駿相三国同盟の締結に至る。

三国同盟を背景とした武田方は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護小笠原氏、小県領主村上氏らと敵対する。天文16年(1547)には関東管領勢に支援された志賀城笠原清繁を攻め、同年8月6小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても同年には分国法である甲州法度之次第(信玄家法)を定めている。

天文17年(15482月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主・村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方・甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、晴信自身も傷を負い甲府の湯村温泉30日間の湯治をしたという。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、晴信は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。

天文19年(15507月、晴信は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は武田の支配下に落ちた。

勢いに乗った晴信は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に砥石崩れと伝えられる大敗を喫した。

しかし天文20年(15514月、真田幸隆(幸綱)の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(15534月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、晴信は北信を除き信濃をほぼ平定した。


アメリカ社会はベトナム戦争で大きく変貌した・・・そしていろいろな事

2012年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム

@べトナム戦争以前は、アメリカ人の礼儀正しさに圧倒されたのです。

年老いて考えることは少年の頃のこと。昭和20年7月、住んでいた仙台が一夜にして焼け野原になったこと。終戦、米軍の占領、戦後の荒廃した社会のことなど。そしてアメリカ留学をしました。1960年になってからです。

1960年当時のオハイオ州では、路上でアメリカ人に会うと、彼等は必ず微笑みかけて、「ハーイ!」と声を掛けてくれたものす。

老若男女関係なく皆あいさつしてくれ、歩みを少しゆっくりさせ、道を空けてくれたのです。

荷物を持っていると重そうだから家まで車で送って行くと声をかけてくれます。戦後の荒廃した日本から行くと、突然、別世界へ飛び込んだような印象を受けました。それですっかりアメリカが大好きになってしまいました。

@ベトナム戦争後、アメリカの自信と陽気さが完全に消える。

第二次大戦で勝利を収めたアメリカは、朝鮮戦争、中南米出兵、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン戦争、イラク戦争と大型戦争をおこなってきました。

この中で完全に敗北し、悲劇的退却をしたのはベトナム戦争だけです。

この戦争は1966年からほぼ10年続き、アメリカ軍人の死者55000人とその数倍の戦傷者を出したのです。

この戦争は、アメリカ社会の大きな分裂と自信喪失をもたらしたのです。

ベトナムで負けたあとのアメリカは意気消沈します。かつての闊達な態度や自信がすっかり無くなりました。

1976年以後のアメリカでは、路上の人々は皆暗い顔で下を向いて歩いています。あいさつもしてくれません。

中年の男はすれ違いざま疑い深い顔で冷ややかに見るのです。

社会全体がとげとげしくなったのです。

あの陽気で誰に対しても親切なアメリカ人は一体どこに消えてしまったのでしょう。これがベトナム戦争の大きな後遺症です。

@アメリカ人の日本人への不満。

1976年頃に、親しいラップ教授の自宅でビールを飲みながらこの感想を話しました。

「その通りだ。ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」

「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」

「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った」

「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」

「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」

「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」

「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」

アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしいのです。礼儀上そう露骨には言いませんでしたが。

@アメリカ人は韓国兵を絶賛する

ロサンゼレスで乗ったタクシーの運転手は黒人でベトナム帰りでした。よく喋る男で前線の戦いぶりを振り向いて熱心に話すのです。

「おれの小隊はいつも韓国兵の小隊と一緒に最前線でベトコンとやりあったよ。ところが韓国兵が素晴らしいのだ。勇気があるだけじゃなく、攻撃してくるベトコンの弱い一角を必ず突く。それでおれの小隊が何回も助けられたよ。戦争慣れしているのだ。夜襲してくるベトコンを必ず追い返す。こちらの小隊長は腰抜けの少尉で、韓国の小隊長の言うことを聞いて動いていたよ。指揮権はアメリカにあるはずだが、前線に出たらそんなこと関係なくなるのさ。負傷兵を背負ってかえってきた韓国兵を見れば、だれでも韓国兵の言うことに従うよ。前線とはそういうものだ」

タクシーを降りる時、「あなたは韓国人ですね。今日のタクシー代金はいりません」と運転手が言うのです。残念ながら日本人だったので代金を払いました。韓国人を褒めてくれたのでチップを多めにして。

我々日本人はベトナム戦争当時、ベトナムに平和を!とだけ叫んでいました。「ベ平連」という大きな組織が新聞を賑わしていました。

平和を!と叫べば許されるような気がしていたのです。

しかし日本の新聞には報道されなかった色々はことがあったのです。

一歩外国へ出てみると随分と違った戦争への見方があるのに気がつきます。

どれが正しいか?という議論ほど空しいものはありません。

悲しさだけが心にのこります。平和な日本に住んでいるとその幸せをしみじみと感じます。有難い事です。

===========================

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。

後藤和弘(藤山杜人)