後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

日本民族と温泉文化・・・北海道北湯沢温泉のことなど

2016年10月21日 | 日記・エッセイ・コラム
私の悪い癖はクドクドとヘ理屈を書くことです。黙って写真だけを掲載すれば良いのですが、それにこじつけて針小棒大なことを書くという悪い癖を持っているのです。
今日も愚にもつかない話を展開したいと思います。お急ぎでない方はお付き合いの程をお願いいたします。
でもお急ぎの方の為に、まず北海道の北湯沢温泉の第二名水亭とその付近の紅葉の写真を示します。場所は洞爺湖の東の伊達市の山深いところに隠れるようにあります。決して有名な温泉ではありません。

この北湯沢温泉については、http://travel.rakuten.co.jp/HOTEL/18832/rtmap.html をご覧下さい。







さて写真はさておき、北海道には立派なリゾートホテルや名旅館があちこちにあります。
しかし泉質の良い温泉は登別温泉、定山渓温泉、層雲峡温泉など数が限られています。
ところが今度、泊まった伊達市の山の中にある北湯沢温泉の泉質が実に良かったのです。
豊富に湧き出る湯は炭酸泉系アルカリ性で、肌にやさしく、湯上りの後で「嗚呼、これぞ本物の温泉だ」と感動したのです。その上、夜寝ると明け方までポカポカと体が暖かいのです。
こんな温泉は実にまれです。地底深くボーリングすれば何処でも温水は出ます。
しかし温泉として人を感動させる泉質はまれにしか出てきません。単に熱い湯だけの「温泉」がやたら多くなりました。
私は東北地方に生まれ、戦中戦後に育ちました。東北の人は温泉が大好きです。農閑期には何日も旅館の自炊部屋に逗留するのです。
私も仙台のそばの作並温泉や秋保温泉に足繁く行きました。鳴子温泉では自炊部屋に逗留したこともあります。大学生になると蔵王山の登山の折に青根温泉や峩々温泉に泊まったものです。山形の高湯にも行きました。そんな幼少から若い頃の温泉経験をとうして私は「良い温泉」と「悪い温泉」の見分けがつくようになったのです。
東北人の温泉好きは熱烈です。東北の奥には、乳頭温泉や ふけ湯や鳴子のように泉質の良い温泉があります。本物の温泉は東北地方にしか存在しないと言うのです。
愚かにも私は長い間それを信じていました。
しかし停年になり暇が出来ました。
温泉が好きだった私は全国の温泉に行きました。そうしたら全国のいたる所に良い温泉があることを知りました。
しかし有名な温泉地でも泉質がいま一つという所が多いのも知りました。
文句なしに感動したのは道後温泉でした。それと乳頭温泉は本物です。岩手の山奥にあるふけ湯も素晴らしい泉質です。別府温泉は様々な泉質が楽しめます。
もっとも温泉の魅力は泉質だけではありません。広い湯船から見える風景の良し悪しも重要なのです。
湯船が非常に広くて風景の良い所の一例は群馬県の水上温泉に近い宝川温泉です。泉質は平凡ですが川を隔てて露天風呂が幾つもあり、それぞれが驚く程大きいのです。周囲の風景が抜群に良いのです。

さて表題の日本民族と温泉文化について簡単に書きたいと思います。
日本は火山列島というくらいですから温泉があちこちに自然に湧き出していました。
旧石器時代や縄文時代から人々がこの自然の湯に浸かっていたことは想像に難くありません。諏訪地方の縄文遺跡から温泉成分が検出されています。
そして漢字の普及が進むと古文書に温泉に関する記述が急に増えるのです。詳しくは末尾の参考資料をご覧ください。
そして江戸時代になると人々は一段と温泉が好きになるのです。
この時代は一般庶民が入浴する雑湯と幕吏、代官、藩主が入浴する殿様湯が区別され、それぞれ「町人湯」「さむらい湯」などと呼ばれていたそうです。
各藩では湯役所を作り、湯奉行、湯別当などを置き、湯税を司ったのです。
一般庶民の風習としては正月の湯、寒湯治、花湯治、秋湯治など季節湯治が流行します。
決まった温泉地に毎年逗留し温泉を楽しんだのです。
現代も残る「湯治」の風習が生まれたのも江戸時代です。その他に、砂湯、打たせ湯、蒸し湯、合せ湯など、温泉文化が発達したのも江戸時代と考えられます。
この温泉文化は間違いなく日本民族の特徴ではないでしょうか?

さて翻って温泉文化の将来を想像してみましょう。
現在の若者にはいろいろな娯楽が沢山あります。スマホもアニメもテーマパークなどの心を魅了するものが沢山あります。
しかし温泉に行ってみると子供や若者が嬉々として温泉を楽しんでいます。若者にも温泉マニアが沢山います。秘湯を守る会もあります。
あちこちに大規模な日帰り温泉の施設が多くなりました。
この様子をみると日本民族の温泉文化は廃れないと確信出来るのです。安心です。
こんなことを書いていると、また温泉に行きたくなります。皆様は温泉がお好きでしょうか?


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=================
日本の温泉の歴史;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A9%E6%B3%89

日本は火山が多いために火山性の温泉が多く、温泉地にまつわる神話や開湯伝説の類も非常に多い。神話の多くは、温泉の神とされる大国主命と少彦名命にまつわるもので、例えば日本三古湯の一つ道後温泉について『伊予国風土記』逸文には、大国主命が大分の鶴見岳の山麓から湧く「速見の湯」(現在の別府温泉)を海底に管を通して道後温泉へと導き、少彦名命の病を癒したという神話が記載されている。
また、発見の古い温泉ではその利用の歴史もかなり古くから文献に残されている。文献としては『日本書紀』、『続日本紀』、『万葉集』、『拾遺集』などに禊の神事や天皇の温泉行幸などで使用されたとして玉造温泉、有馬温泉、道後温泉、白浜温泉、秋保温泉などの名が残されている。平安時代の『延喜式神名帳』には、温泉の神を祀る温泉神社等の社名が数社記載されている。・・・

鎌倉時代以降になると、それまで漠然として信仰の存在となっていた温泉に対し、医学的な活用がウェートを占め、実用的、実益的なものになり、一遍らの僧侶の行う施浴などによって入浴が一般化した。鎌倉中期の別府温泉には大友頼康によって温泉奉行が置かれ、元寇の役の戦傷者が保養に来た記録が残っている。さらに戦国時代の武田信玄や上杉謙信は特に温泉の効能に目を付けていたといわれる。
江戸時代頃になると、農閑期に湯治客が訪れるようになり、それらの湯治客を泊める宿泊施設が温泉宿となった。湯治の形態も長期滞在型から一泊二日の短期型へ変化し、現在の入浴形態に近い形が出来上がった。
貝原益軒、後藤艮山、宇田川榕庵らにより温泉療法に関する著書や温泉図鑑といった案内図が刊行されるなどして、温泉は一般庶民にも親しまれるようになった。この時代は一般庶民が入浴する雑湯と幕吏、代官、藩主が入浴する殿様湯、かぎ湯が区別され、それぞれ「町人湯」「さむらい湯」などと呼ばれていた。各藩では湯役所を作り、湯奉行、湯別当などを置き、湯税を司った。
一般庶民の風習としては正月の湯、寒湯治、花湯治、秋湯治など季節湯治を主とし、比較的決まった温泉地に毎年赴き、疲労回復と健康促進を図った。また、現代も残る「湯治風俗」が生まれたのも江戸時代で、砂湯、打たせ湯、蒸し湯、合せ湯など、いずれもそれぞれの温泉の特性を生かした湯治風俗が生まれた。
そして上総掘りというボーリング技術が19世紀末にかけて爆発的に普及した事で、明治以降には温泉資源を潤沢に利用出来るようになった。日本の温泉源泉総数のうちおよそ1/10を抱える大分県別府市では、1879年(明治12年)頃にこの技術が導入されて温泉掘削が盛んとなり発展した。・・・以下省略。

「北海道の支笏湖、羊蹄山、樹々の紅葉の写真」

2016年10月20日 | 写真
先週、旅に行った北海道では千歳空港の西の支笏湖の近くの北湯沢温泉に泊まり、羊蹄山の麓から日本海の岩内町に出て、海岸沿いに積丹半島まで行きました。
余市のニッカウイスキー工場に寄り、2晩目は羊蹄山の麓のルスツリゾートに泊まりました。そして千歳から羽田に帰りました。
この旅で撮った風景写真をお送りいたします。

1番目の写真は羊蹄山です。

2番目の写真は支笏湖です。

3番目の写真は支笏湖の岸辺の紅葉です。

4番目の写真は支笏湖の岸辺のナナカマドの樹です。

5番目の写真は北湯沢温泉に近い京極町の湧水池公園の紅葉です。

6番目の写真は留寿都村のスキー場の稜線の白樺林です。

7番目の写真は2泊目に泊まったルスツレゾートのホテルの窓からの夕方の風景です。

北海道の風景写真をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

スコッチウイスキーの好きな方々へ贈る写真

2016年10月18日 | 日記・エッセイ・コラム
世の中にはビールや日本酒やワインやウイスキーなどが好きな人が沢山います。
そしてスコッチウイスキーが大好きという人もいます。
今日はこのスコッチウイスキーが大好きという人がご覧になったら興奮するような写真をお送り致します。
竹鶴政孝が1918年にスコットランドに留学して、本物のウイスキー工場を作ったのが北海道の余市という場所でした。
先日、その工場の写真を撮って来ました。
写真を示す前に二つのことだけを説明させて下さい。
ウイスキーは大麦を発芽させ、その発芽を止める為に一旦乾燥し、以後適度の水分を加え大麦のデンプン成分を発酵させアルコールに変えます。この発芽大麦を乾燥させるときスコットランド特有の泥炭(ピート)で燻します。この煙の香りがスコッチの味のもとになっています。
発酵した大麦を蒸留してアルコール分が60%以上の無色透明な蒸留液(ニュースピリッツ)を製造します。
これだけでは味も素っ気も無いものです。
ところがこの無色透明な蒸留液を木の樽に詰めて3年以上、10年前後熟成します。
木の樽は四季折々の寒暖の差で呼吸をします。呼吸しながら無色透明な蒸留液は木材の成分を染み出し、化合して次第に琥珀色に変わって行きます。硫黄分の嫌な臭いが抜け、まろやかな味に熟成されていくのです。
スコットランドでは3年以上の熟成期間が法定されているそうですが、実際は10年ないし12年にわたって品質と味が良くなっていくのです。
ですからスコッチウイスキーとはその現地の泥炭を使い、スコットランドの気候の下で数年間熟成したものに限ります。
それはスコットランドの民族文化なのです。
日本へこのスコットランドの製法を忠実に導入したのが前述の竹鶴政孝だったのです。

さて前置きはこのくらいにしてスコッチウイスキイーの好きな方々が喜ぶような写真を2枚お送り致します。

1番目と2番目の写真は蒸留後の無色透明の蒸留液を樽詰めにし、貯蔵庫で熟成している場面です。貯蔵庫は暗いので写真がよく撮れませんでした。
貯蔵中に年月の経過とともに、熟成し味がどんどん良くなっている場面です。

特に2番目の写真は木の樽が年月とともに風化して古い感じになっている様子の写真です。中のウイスキーが美味しく出来上がっていることを暗示しています。このようにウイスキーの大好きな人は木の樽の古さをしげしげと眺めるのです。そして木の樽が四季の変化に従って呼吸をしている様子を想像して楽しむのです。

3番目の写真はニッカウイスキー余市工場の風景です。工場には蒸留施設も公開していますが、特に珍しいものではありませんでした。

4番目の写真は余市工場の試飲レストランでピュアーモルトを2杯ほど楽しんだあと見た夕焼けの光景です。

5番目の写真もバスの窓から見えて夕焼けの風景です。羊蹄山の麓にある留寿都村のホテルへ向かう道の風景でした。

なおスコッチウイスキーの味を決める製造工程の重要な部分は末尾の参考資料に説明してあります。今回の記事は味だけに拘りすぎたようなので反省しています。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料========
ウイスキーの樽貯蔵による熟成;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%83%E3%83%81%E3%83%BB%E3%82%A6%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC
・・・大麦の芽の長さが種子の5/8ほどの長さになったら麦芽を乾燥させて発芽を止める。乾燥は水分が5%ほどになるまで続けられる。
この時、温度が高すぎると麦芽に含まれる酵素の活性が失われてしまうため、温度を上げ過ぎずに、しかも素早く乾燥させる必要があり、そのためには送風速度をコントロールすることが重要とされる。乾燥のための燃料はガスや重油、炭が主で、ピート(泥炭)も用いられる。ピートを麦芽を乾燥させるための燃料として使用することで「スモーキーフレーバー」と呼ばれる煙臭が麦芽に染み込む。この煙臭は以降の製造工程でも失われることはなく、スコッチ・ウイスキーを特徴づける香りの一つとなる。スモーキーフレーバーの内容はピートが掘り出された場所や深さ、炭化の進み具合、ピートを焚く時間の長さなどによって異なる。
・・・・・
蒸留によって得られた無色透明の蒸留液(ニュースピリッツ)は、フィリングステーションと呼ばれる施設で樽詰めされた上で、保税貯蔵庫に貯蔵される。
貯蔵中には時間の経過とともに、熟成と呼ばれる性質の変化が起こる。
スコットランドでは3年以上の熟成期間が法定されている。ただし実際は10年ないし12年にわたって品質の向上は続き、法定期間よりも長く熟成されるのが一般的である。
モルトウイスキーの場合、18年間ないし20年間の熟成させたものが最も味わい深いとされる。
まず、蒸留の工程で得た蒸留液に加水し、エタノール濃度を63.5%程に下げる。
約60%のエタノール濃度は、ウイスキーにとって重要な意味をもつ。なぜならば蒸留後に行われる熟成の過程においてエタノールは樽の木材に含まれる、ウイスキーの品質を基礎づける高分子成分を分解するが、エタノール濃度が約60%であるときにもっとも盛んになるからである。
ウイスキーの貯蔵に適しているのは、「あまり気温が高くなく、湿度の高い、清澄な環境」で、「めりはりの利いた四季の変化、適度な温度変化や湿度変化があることが望ましい」とされる。
樽の中のウイスキーは湿度や温度の影響を受ける。例えば気温が上昇すると樽の中のウイスキーの容量が増加し樽内の気圧が上昇、その影響で揮発成分が樽の外へ蒸散する。逆に気温が低下すると樽の中のウイスキーの容量は減少し樽内の気圧が下降、樽の中へ外の空気が入り込む。 前者の現象は初夏から秋口にかけて、後者の現象は晩秋から初春にかけて起こる。このような気体の出入りは「ウイスキー樽は呼吸をしている」と表現される。樽に隙間が生じていたり木材の乾燥が足りないと、呼吸に過不足が生じることになる。・・・・
ウイスキー樽の「呼吸」により樽の外へ蒸散する揮発成分の量は、1年目は年2%ないし4%、2年目以降は年1%ないし3%にのぼる。この蒸散量を「天使の分けまえ」という。蒸散する気体の中にはエタノールだけでなく、硫黄化合物などウイスキーの味を損なう成分も含まれており、古賀邦正によると「天使に『分けまえ』を差し上げる代わりに、暴れ馬のニューポットを品格あるウイスキーに育ててもらっている」・・・・

遥かなる女人禁制の積丹半島、神威岬への道

2016年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
「襟裳の春は何も無い春です~」という森進一さんの歌があります。その何も無い所は北海道には沢山あります。大自然だけが広がっているのです。
今回のミステリーツアーで訪れた積丹半島も文字通り本当に何も無い処です。
碧い日本海に突き出た半島の裾は峩々たる岩になっています。白波が砕け、冷たい秋風が吹き抜けています。
その日は羊蹄山の麓から出発し、岩内町で日本海の岸辺の道路に出ました。隣の泊原子力発電所のある村を過ぎると人家が絶えます。えんえんと50Kmほどの日本海沿いの道路をバスがゆっくり走ります。
この道は遥かな女人禁制の積丹半島、神威岬へと続くのです。見えるのは空高く晴れ上がった喨々たる秋空と日本海の白波だけです。
何もありません。
ミステリーツアーの企画者はこのバスの窓から見える大自然を楽しんで下さいと言っているようです。
そして積丹半島の神威岬への険しい断崖の上の道を自分の足で歩いて下さいと言っているのです。
嗚呼、自然は良いものです。自然は純粋で美しいのです。自然の風景を見ていると自分の邪念が消えて全身が浄化されます。
そんな想いが胸いっぱいに広がります。
高齢になってもまだ生きている喜びが湧いてきます。
美味しい海鮮料理の店も派手な土産物屋もありません。あるのは海と空だけです。
大自然に溶け込んで風景を楽しんで生き返るのです。こんな観光旅行もあるのです。
それでは岩内町から積丹半島にいたる日本海の風景と神威岬の風景の写真をお送り致します。













この7枚の写真の5、6、7番目の写真は健脚の家内が撮った写真です。
脚の弱い私は神威岬の入り口にある一面熊笹に覆われた大きな丘を独りで登っていました。手摺のついた階段が丘の斜面を登っています。
その階段の遥か向こうの丘の上には秋の白い雲が流れていたのです。見上げる私は青春の頃に見上げた同じような丘の光景を突然思い出しました。あれから茫々60年。いろいろなことがありました。
物思いに耽っていると、いつの間にか気楽な家内が走って帰ってきました。そんな観光の旅でした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料=============
1、羊蹄山;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8A%E8%B9%84%E5%B1%B1
羊蹄山(ようていざん)は、北海道後志地方南部(胆振国北西部)にある、標高1,898mの成層火山である。アイヌの人々はマッカリヌプリもしくはマチネシリ(雌山)と呼び、南東にある尻別岳 (1,107m) をピンネシリ(雄山)と呼んだ。
羊蹄山は円錐形の成層火山で、2003年(平成15年)に気象庁により活火山に指定された。山頂には直径700m、深さ200mの火口(父釜)があり、西北西斜面にも側火口(母釜、子釜)を持つ。支笏洞爺国立公園に属し、山頂は倶知安町・喜茂別町・京極町・真狩村・ニセコ町の境をなしている。
約10万年前から5万年前にかけて古羊蹄火山が活動し、現在の羊蹄山の活動は約5-6万年前から始まり火砕流や山体崩壊も起きた。約1万年前以降は側火山の活動が中心となり、約6千年前以降は活動していない。
山腹にはキタキツネ、エゾクロテン、エゾリス、エゾシマリス、エゾモモンガ、エゾユキウサギなどの哺乳類が生息しており、130種類以上の野鳥がいることも確認されている。

2、積丹半島;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%8D%E4%B8%B9%E5%8D%8A%E5%B3%B6
積丹半島(しゃこたんはんとう)は北海道西部、後志総合振興局にある半島である。地名の由来はアイヌ語のシャクコタン(夏の村)である。
山がちな地形のため、交通には恵まれていない。現在では国道229号が半島を海岸沿いに巡っているが、1996年までは神恵内村・積丹町の間で未開通区間があったほどである。狭隘な海岸を縫うように走るため、岩盤をくりぬいたトンネルが無数にある。古平町ではトンネル崩落により路線バスが飲み込まれ、20人の犠牲者を出す惨事となった(豊浜トンネル岩盤崩落事故)。道内の交通において、主要幹線の地位を占める国道5号が、半島腹部である共和町国富~余市町中心部を通るため、国道229号は近隣住民の生活上の支線となっており、交通量が少ない。
日本海に向かって突き出ており、地質学上では那須火山帯に属する後志火山群の延長上に位置する。半島部の全長は約30km、地形は平野部が少なく急峻で、中心では積丹岳や余別岳が脊梁をなし、沿岸は複雑な海岸線が連続する。そのため、風光明媚な景観に富み、海岸線一帯はニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されている。
積丹岬や神威岬など岬が多く、それを取り囲む小湾に幾つもの漁村集落が誕生した。とりわけ、江戸時代から大正末にかけて続いたニシン漁を始め、長らく漁業が周辺町村の経済を支えていたが、近年[いつ?]は沿岸漁業不振により、人口流出による過疎化が著しい。近年[いつ?]は観光業に注力しているが、札幌大都市圏に比較的近いながらも、交通の不便さがネックとなっている。そのため、温泉資源が豊富であるにもかかわらず、雷電温泉、盃温泉郷以外は、さほど開発も進んでいない。

3、積丹半島神威岬灯台;http://www.geocities.jp/gauss0jp/kamuimis.htm
神威岬灯台は、北海道の積丹半島西北端にある神威岬の突端に立つ白と黒に塗られた大型灯台です。周辺は、ニセコ積丹小樽海岸国定公園に指定されていて、日本海を望む風光明媚の地です。
 この灯台は、1888年(明治21)8月25日に初点灯しましたが、その後1923年(大正12)にフランス製の第1等フレネルレンズに改良され、1960年(昭和35)4月1日に灯塔を改築、LB-90型灯器に変更、機器を自動化されています。また、2003年9月に改修されて、灯塔部が変わりました。
 現在の灯塔高(地上から塔頂まで)は11.8m、標高(平均海面~灯火)は81.65mで、LB-90型灯器を使い、光度は37万カンデラ(実効光度)、光達距離は23海里(約43km) です。

4、泊原子力発電所;http://www.geocities.jp/gauss0jp/kamuimis.htm
泊発電所(とまりはつでんしょ)は、北海道古宇郡泊村にある北海道電力の原子力発電所。
泊発電所は計画を含めて北海道で最初[1]かつ現在に至るまでの唯一の原子力発電所であり、北海道電力の保有する唯一の原子力発電所である。「1~3号機の発電設備容量の合計は207万kWで、北海道の電気の約40%を賄う重要な電源となっている」と泊村のホームページには掲載されている[1]。
1号機:加圧水型軽水炉(PWR)、1989年(平成元年)6月22日[2]
57.9万kW、定期点検中

2号機:加圧水型軽水炉(PWR)、1991年(平成3年)4月12日
57.9万kW、定期点検中

3号機:加圧水型軽水炉(PWR)、2009年(平成21年)12月22日
91.2万kW 定期点検中

5、積丹半島、神威岬の女人禁制;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E5%A8%81%E5%B2%AC
この付近は古くから海上交通の難所として知られていた。日高地方の首長の娘チャレンカが源義経を慕ってこの岬まで義経一行の後を追ってきたが、既に海の彼方へ去ったことを知って身を投げ、神威岩になったという言い伝えがある。チャレンカの嫉妬心が女を乗せた船を転覆させたことから、岬一帯が女人禁制の地になったとされる。もっとも現実は、和人が岬から奥地へ定住することで、ニシン漁を始めとした権益を損なうことを恐れた松前藩による規制と考えられている[4]。1855年(安政2年)に蝦夷地一帯が幕府直轄下におかれると女人禁制は解かれ、奥地への定住が進んでいった。

「狩猟の趣味の深さ」 の連載を終えて考え込んでしまった

2016年10月17日 | 日記・エッセイ・コラム
でいしゅうさんへ「狩猟の趣味の深さ」という題目で連載記事を書いて下さいとお願いしました。
7回の連載を終えていろいろと考え込んでいます。

始めに驚いたことは鳥猟とエゾシカ猟とイノシシ猟とは全く違うということでした。
良く訓練した小型の猟犬一匹だけを連れ、独りで静かに、静かに山を歩く鳥猟には雉や小綬鶏やヤマシギなどと、猟犬と、人間の抜き差し無い緊張感が漂います。
猟犬が藪に飛び込む。鳥が飛び立つ。その一瞬にバーンと銃声がこだまします。それだけで全て終わりです。
鳥猟は孤独です。静かです。しかし奥の深い趣味です。
本州のイノシシ猟は騒々しいい猟です。数人の勢子が犬たちを山裾からイノシシを追い上げて来ます。山上の獣道の脇に隠れた撃ち手が身じろぎもしないで根気よく待っています。
イノシシが獣道を駆けあがって来て、近くまで来ても撃ちません。10m以内に来た時、落ち着いて静かに引き金を引きます。ドンと低い銃声一発で大きなイノシシが転がります。
鳥猟を十年以上してからイノシシ撃ちを始めた でいしゅうさんの腕を信頼している勢子たちがでいしゅうさんの待ち位置にイノシシを追い上げるのです。
この猟では勢子たちと撃ち手の人間的な信頼関係が猟の成果を決めるのです。

さて道東の中標津町や別海町での蝦夷鹿猟は様相が違います。
現地に短期間住み着いて農家や牧場と仲良くなります。そして厳寒の猟期に畑の端や牧場の端に林の中から出てくる大きな雄のエゾシカを射程の長い猟銃で仕留めるのです。
何日も吹雪の農道や林道を4輪駆動車で一人で走り回ります。
角が3段にもなった大きな雄のエゾシカだけを選んで撃つのです。
静まり返った白樺林に一発の銃声が木霊します。
 
憎しみの微塵もなくて鹿を撃つ 泥舟

写真は2013年の1月にでいしゅうさんが撮った写真です。





でいしゅうさんは撃ち取った鹿や猪は解体して全て友人に送ります。全てを感謝して食べるのです。
このような狩猟の趣味は自分では出来ませんが、何故か魅力的な趣味に思えます。
ロマンを感じます。このような趣味は尊重し大切に守りたいと思います。
しかし以下のような問題があるのです。考え込んでしまいました。

以下はでいしゅうさんの文章です。
1、警察の取り締まりと司法、
狩猟や銃を語り出すと警察が登場する。公安委員会の許認可業務を実質的に行っている。だが現実は「俺が許可してやった」と思っている担当もいる。
これほど厳しく取り締まっているのは独裁国家と日本ぐらいだ。
所持者が少ないし、秀吉以来国民は銃や刀を取り上げられていたので、銃や狩猟に拒否反応しか示さない。
銃を所持する場合、家族が賛意を示さないと許可されません。奥方たちは亭主の首根っこを押さえているのです。
隣近所も「昨日、警察が来て貴方の事を調べて行った。ええ人やと言っておいた」こう言ってきます。到来物でもあれば届けねばなりません。
所持者の身辺調査をしますが、正確な実態は分かりません。何度何度も通わねばなりません。まあ行って「調査した実績」が有れば良いのです。
その上、銃の保管場所には厳重な鍵が必要です。警官が家の中まで何度も入ってきて保管庫の強度と鍵の完全さを調べるのです。
しかし、このご時世、留守宅ばかりですから警察も大変です。

2、火薬と雷管の購入の不便さ、
火薬と雷管についてお話します。ライフル弾を構成するには弾丸、薬莢、火薬、雷管です。後の2つは規制されていますが、前の2つは誰でも買えます。
猟期になる前に「猟銃用火薬類無許可譲受票」が県猟友会から発行されます。
これによりライフル銃用の雷管は50個まで、無煙火薬は600gまで購入できます。公安委員会が発行するのではなく、猟友会が発行するのです。
そして銃砲店へ行き、雷管50個を買おうとしても出来ません。雷管は100個入りで売っているからです。仕方がないので50個だけ買い、残りの50個は店で保存してもらいます。半年ぐらい先に射撃用で購入します。
田舎の銃砲店ではリロードをする者が1~3名ぐらいしかいないので、他の人に買ってもらえないのです。
火薬も1瓶は1ポンド(454g)売りです。ところが1瓶買うと雷管約100個分なのです。ですから火薬も半分しか買いません。半分残った火薬は好みが有るので、誰も買いません。これも半年ぐらい先に買うと約束し、銃砲店に納得してもらっています。火薬や雷管のバラ売り、量り売りをしてくれれば一番良いのですが、銃砲店が在庫で倒産します。
つまり完全に管理の難しいリローディングはしないで工場製の弾を買いなさい、と言いたいのです。これならば警察がハンターの管理を簡単にできるからです。使用した弾は全て記録し、後日報告しなければなりません。山で紛失したら、草の根も分けて探します。

3、銃購入の問題点、
銃を購入する際も、対象の銃が鉄砲店にあれば良いのですが、まず不可能です。
ですからパンフレットで買います。狩人はパンフレットの数字やインターネットで決めます。昔は銃砲店主が指導しましたが、今は出来る店主がいません。それで、安価に引かれてインターネットで買います。銃は宅配便で送られてきます。これで地方の銃砲店はバタバタと倒産しました。安くなるのは結構ですが、ネット店は売るだけです。修理や調整は地方の銃砲店を経て東京の専門業者へ送られます。
だから少々高価になっても地元の銃砲店を大切にしてほしい。閉店すれば、その反動は消費者(ハンター)に来る。私の知っている銃砲店も5つあるうちの3つが廃業した。
現物の銃が届くと、こんな筈ではなかったと後悔します。ですから私は総代理店のある横浜市まで行って、現物を手に取って確認した。
友人がたまたま所持していても、触れてはなりません。違法行為になります。其処に評論家が入り込み、散々散財させられて、行きつく先は書斎のハンターです。ネットの話も笑って聞いていればよいが、接すればカモにされます。
私が推奨するのは
皆が持っている銃、その地の獲物に合った銃、安価で故障がない、これが条件です。
消費者(ハンター)も銃砲店も息が詰まりそうです。店はダイナマイトなど爆薬を売るので、どうにか商売になっています。
4、猟銃許可のための診断書、
数年前まで、医者の診断書は精神科医の診断書で無ければ受け付けなかった。
医師の免許は医師としての免許であり、科別には与えられていない。
その辺を無視して精神科医の診断書を求められたハンターはたまったものではありません。都会と異なり田舎では精神科の診断書一枚の為、一日が費やされます。
私も3回ほど精神科を訪れました。
すると待合室には一人でブツブツ言っている患者や、睨み付ける女もいます。長く待っていると気が変になりそうです。やっと先生にお会いした時は仏に縋る気持ちでした。これでは平常心ではありませんから、正確な診断は無理と思いましたが、5つほど質問して放免してくれました。
最近、警察も矛盾に気が付き是正され「医師ならばよい」となった。私は掛りつけの医師(内科)の元へ行っています。
その他いろいろ不便なことが沢山あります。
日本では猟銃を持っているだけで悪人とみなされてしまうのです。

雲と海が演ずるドラマチックな風景、銀河鉄道の夜を連想す

2016年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム



飛行機が青森の陸地を通り過ぎ、千歳空港へ向かって太平洋に出た時、急に雲が乱舞し始めました。激しく動く雲の合間から射し込む太陽の光が北海道の沖の海面を輝かせています。
飛行機が進むにしたがって雲の不思議な形がドラマチックに変化します。それに合わせて海面の輝きと色彩が芸術的に変貌して行きます。
それは美しくはありますが暗鬱な光景です。
たった数分間のドラマでした。
しかしこの暗い光景を見て、自分の人生のつらかったことや悲しかったことを全て思い出していました。
思い出は楽しいものだけと考えていた私は、やはり人生の苦しみや悲しみを背負っていたのです。
よく言われる言葉ですが、人間は悲しみの器なのです。
そうして時は流れ、人はみんな、みんな死んで行くのです。
死んだ人の乗る列車が天の川にかかっている銀河鉄道なのです。
星祭りの夜に水死した親友、ザネリを探してカンパネルラが暗闇の丘に登ります。そこで不思議な光に打たれ、気がついた時カンパネルラは銀河鉄道の列車の中に座っていたのです。
列車はあの世に旅立った人々の乗るものです。そこでカンパネルラは水死した親友のザネリを見つけます。
この列車には不思議な人々が乗っています。窓の外に鳥を見つけると、鳥を獲りに行って捕まえてしまう男もいます。その鳥がすぐに砂糖菓子になってしまうのです。
宮沢賢治がこれを書いたころタイタニック号の悲劇が起きます。
ずぶ濡れになった兄妹と家庭教師らしい青年が乗って来ます。よく見ると三人の足は靴を履いていません。
そんな不思議な列車の中でザネリとカンパネルラは仲良く旅を続けます。しかしついに惜別の時がやって来ます。
ザネリが暗い闇の中に消えてしまうのです。列車の窓から思いっきり身を乗り出したカンパネルラは大声でザネリを呼ぶのです。胸が張り裂けるように声を振り絞ります。その悲鳴のようが声が空しく天の川の虚空に吸い込まれてます。
ふと気がつくとカンパネルラは暗い丘の上に戻っているのです。
見上げると夏の星座が燦然と広がっています。
それは星祭りの夜に起き悲しい親友との別れでした。水に落ちた子供を助けようとして死んだザネリとの永遠の別れでした。
銀河鉄道の夜の思い出をカンパネルラに残して、ザネリは星の一つになってしまったのです。

旅は非日常の光景に囲まれます。人生の来し方をついあれこれと思い返えすものです。そしていろいろな作品のことを思い出させてくれます。そんな想いをしたのは10月13日午後の出来事でした。

写真をご覧になりながらご自分の人生をあれこれお考えになられたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(7)正しい狩猟文化への諸問題」

2016年10月16日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
西洋諸国では狩猟は格調の高い文化であると考えられていた時代がありました。貴族や上流階級の間に趣味として行われていた時代が中世から近代まで続いていたのです。しかし第一次世界大戦や第二次世界大戦で多くの貴族が没落すると狩猟文化も変化して行きます。
日本ではこの西洋の狩猟の趣味が一般の人々に普及したお陰でいろいろな問題が起きています。
狩猟を趣味にしている人は、まず自然を崇拝しながら鳥獣の命を頂くのです。そこには鳥獣への畏敬の念が無ければなりません。狩猟に関する法律を厳密に守る精神力も要求されます。
狩猟に対する誤解にも根気良く対応し丁寧に説明責任を果たさなけばいけません。行き過ぎた動物愛護運動家にも怒ってはいけません。
日本では正しい格調の高い「狩猟文化」など育つのでしょうか?
以下の でいしゅうさんの書いた諸問題を皆様と一緒に考えてみたいと思います。

===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(7)正しい狩猟文化への諸問題」 ====
(1)狩猟は残酷だという誤解
趣味人の一部には銃猟が残酷と言いますが、まったく実態を知らないのです。
前にも述べましたが、映画「イタズ」やドキュメント番組で、全ての動物は可愛いという思考になっているのです。
知床の最果てで漁師と羆の共存しています。事実その姿を見ましたか?漁師は熊が怖いのです。しかし銃を持ってないので、そうしているだけなのです。
「熊出現」の看板は林立し、その恐怖の中で住民は生活しているのです。これを自然がいっぱいで良いなあと理解し、バスの窓から見付けると餌を与えます。現地の人々の恐怖を知らな過ぎます。
トドの被害が漁協より発表されます。駆除する人はほぼ絶滅させます。ボランティアでやっているのです。
危険な海で、頑張っていますが保護団体の人からは「悪魔」呼ばわりされています。
保護団体の人は海の上で笛を吹き、トドをロシアへでも連れて行って下さい。

皆さんが毎日食べている豚や牛の場へ見学に行った事がありますか?
運ばれた牛は狭い場所に追い込まれ、眉間に鋲撃ち銃の様なもので撃たれます。
半死の牛は解体されます。ナイフの代わりに圧搾空気で切って行きます。血は出ていませんから凄い技術です。ぶら下げられると者は台に乗り切り分けます。台は上下して作業は効率的に行えます。
案内の方が、あれは◎◇の牛です。見れば直ぐに分かりますと言っていました。
肉質が遠くから見ても分かるぐらい違うようです。
非常に衛生的な作業場で流れ作業でした。
此処の作業がモデルになって、各県はジビエの処理場の水準を決めています。
近代的な処理場ですから身近な処を見学して下さい。考え方が変わります。

(2)狩猟の世界における違法狩猟の横行
以前「アマッポ」をポロリと出しました。
アマッポとは北海道で知った言葉で、違法狩猟の一種です。東北各地にもその言葉はあるそうです。
肉片などの中に爆薬を入れて、羆の通る道へ仕掛けるそうです。すると食べた羆の口の中で爆発し、口が裂けます。死なない程度の爆薬です。
すると羆は苦しみ何日もかけてから死にます。当然その肉は不味くて食べられませんから売れません。
では?羆の肝を取るためなのです。羆の肝は羆を苦しめれば、苦しめるほど大きくなると信じられています。ですから密猟者は苦しむ羆を追いかけますが、殺しません。死ぬ直前に殺し、大きくなった肝を手に入れます。アイヌは内地人のハンターに会うと、腕が悪く口に弾が当たったとか、アイヌの風習でここを撃つ、とも言いました。昔の話です。
しかし現在は法律で認められた罠猟もよく使われています。毎日巡回すればよいのですが、誰もやりません。すると空腹の為、檻の中の猪や鹿は皮の下にゼリー状の物質が蓄積されます。確実に美味しくない肉になりますが、ゼリー状の物質さえ取り除けば分かりません。
ククリ罠に掛かった猪などの肉も同じです。道の駅などで売られている肉に「銃で捕獲」とは書いてありませんね。

銃で捕獲しても、我々のように担いで降ろせばいいですが、地面を曳ずって降ろすグループが大部分です。この肉もよく見ると細かな内出血が有り、不味い肉です。ジビエの基準は衛生的で安全が大切です。しかし美味しさのための搬出方法や、銃でどうして撃ったかまでは明示していません。県などの役人もこのような事は知りませんから、美味しいです食べて下さいとだけ宣伝します。
理想の形は、誰にも追われず、ボーとしている時に、急所を撃たれ3秒ぐらいで死ぬ形です。怒ったり恐怖の中で死んだ肉は美味しくないと言われています。ヨーロッパの肉屋の店頭に、笑っている豚の頭部が飾ってあるでしょう。たぶん根拠はこれだと思います。

アマッポから話が飛びましたね。
「据え銃」も有りました。未登録の銃を利用して、山中に仕掛けます。引き金に紐を付けて猪の足が引っ張ると、ドンと弾が出ます。もちろん知らずに来た人間もイチコロです。これは内地の無法猟師がやりました。

(3)残酷な場面が溢れているYou Tubeの横行が狩猟への誤解を増大している。
ユーチューブを開くと「狩猟」「蝦夷鹿」、「猪」で沢山のYou Tubeが見つかる
しかしどれも残酷な場面に溢れているのです。
私さえ見ていると残酷場面に驚く。死んだ鹿の眼をジート写している。うつろな眼をアップで写す。どのような必要があるのか分からない。
ある映像で撮影者が質問していた「これが散弾ですか」ウンと返事が有り「この弾がバット広がるのですね」狩猟者は面倒なので無言で山を降っていた。
この撮影者も視聴者もバーと弾が広がる、と思いこんだ。まさにTVキャスターである。刺激的な場面を好んで撮影し、視聴数を競っている。しかし実際には散弾は広がらない。纏まったまま飛んでいくものなのです。
そして何も知らない人は散弾は広がると誤解し、意見を述べる。
狩猟に関するYou Tubeは随分拝見したが参考になる映像は無い。その代り自慢映像は山の様にある。
命中した蝦夷鹿に何発も撃ち込んでいる。首の撃てる距離でも、腹を撃ち苦しめている。残酷な若者が多いが、ゲーム感覚なのであろう。
じっくりと経験が必要な鳥猟はユーチューブには少ない。
ドラマチックで映像受けする狩ばかりである。本気にしてはダメです。

(4)禁猟区・保護区の出鱈目さ
禁猟区・保護区は、ええ加減なものである。
一例を示そう。近くの丘陵が銃猟禁止区域になるので、集会が行われ県の担当者が出席した。会場に入ろうとすると猟友会長が私を呼び止め「今日は何も言わずに賛成して下さい」と言った。良く分からないので、よく伺わせてもらいます、と返事した。
私も鴨撃ちに行く地区が銃猟禁止区域になる提案が県担当者よりなされた。
指定する理由はゴルフ場が出来た為である。そこでカチンと来た。
「県内でゴルフ場のある所は全て銃猟禁止区域にするのですか。〇〇町にもゴルフ場が沢山あるが、銃猟禁止区域にはなってない。建物の近くは撃てないのだから、それで充分である」
県担当者は無言であったが、この地区は銃猟禁止に指定された。
ゴルフ場のオーナーは知事さんの後援会で有力者だってさ。
結論ありきの説明会ならやるな。会長もどちらを向いて会長をしているのだ。
二つ目の例は
ある町の山林が鳥獣保護区になった。猪も鹿も沢山いる猟場である。そこのグループに入れてもらっているので、困ったので電話をした。
「ああ、あれか心配せんと来てください」が返事であった。
内容はこうだ。
良い猟場であるが他のグループが最近やって来るようになった。注意しても、法律に書いてあるのか、と凄まれた。そこで手を尽くして保護区にしてもらい、他のグループを追い出した。法に書かしたのである。
その上で、鳥獣が増えて田畑に被害が出ていると泣付いた。こうしてこのグループのみの、専用狩場(鳥獣保護区)誕生した。

以上、今回は狩猟にまつわる諸問題をご紹介しました。
私はイノシシでも蝦夷鹿でも苦しめないで一発で即死するような銃猟を行っている。狩猟に関する全ての規制と法律を守るように自己規制に努力している。何日も獲物が無くても禁猟区であれば絶対に発砲しない。猟区内でも獲物の背後に人家が望見される場合には獲物をあきらめる。仕留めた鹿や猪は必ず美味しく解体し食べつくす。鹿や猪の肉が好きな友人や親類へ無料で配る。全て感謝しながら食べると自然へ対する崇敬の念が湧いてくるのです。(続く)

写真は北海道の別海町で2015年11月09日にでいしゅうさんが仕留めたエゾシカの雄です。
3日目でやっとであった雄鹿です。6:15でした。軽トラに装備しているミニクレーンで引き揚げましたが、大きすぎて乗りません。
臓物を出すと軽くなり乗せる事が出来ますが、牧場を汚すのでしたくありません。
40分ほどかけて、鹿を積み込み別な農家へ行きました。それからは次回にします。

今年の北海道の紅葉の写真をお楽しみ下さい

2016年10月15日 | 写真
昨年の秋も北海道へのミステリーツアーに参加して、この前の記事に書いたように、帯広空港に降りて、狩勝峠から始まって、幸福駅、鶴居の里、阿寒湖、知床五湖、網走のオホーツク流氷館などを巡り、女満別空港から羽田に帰ってきました。
さて今年も北海道への2泊3日のミステリーツアーに参加して昨日帰って来ました。
今年のミステリーツアーは有名な観光地は避けて地元の人しか知らない隠れ宿に泊まるという趣旨で出来上がったコースでした。行き先を明らかにしないミツテリーツアーですから企画した旅行会社の企画力で全てが決まります。
今回はとにかく、「有名な観光地は出来るだけ避ける」という趣旨です。ですから泊まった場所は北海道伊達市大滝区北湯沢温泉町と北海道虻田郡留寿都村字泉川の2ケ所でした。
どちらも洞爺湖や昭和新山や有珠岳に近接した場所だったのですが、これらの有名な観光地は一切見えません。通る道からも見えません。
見えるのは秘境のような山林だけです。紅葉した山林だけです。
これだけ徹底すると心が諦観の境地になります。有名なものを見よう、おいしいものを食べようという浅薄な欲望が無くなるのです。
ただ無心に紅葉の写真を撮って来ました。
そんな今年の紅葉の写真をお送りします。お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は北海道虻田郡京極町にある京極吹き出し公園です。

2番目の写真は伊達市北湯沢温泉第二名水亭前の紅葉です。

3番目の写真は伊達市大滝区三階滝町にある三階の滝です。

4番目の写真は支笏湖の紅葉です。これだけは有名な湖でした。

5番目の写真は余市のニッカウイスキー蒸留所のナナカマドです。地味な工場や倉庫が白樺の林の中に広がっている静かな場所でした。

===参考資料=================
(1)北海道伊達市大滝区北湯沢温泉町、第二名水亭(北海道有珠郡、旧、大滝村);
北湯沢温泉郷,http://www.date-kanko.jp/page-26/page-418/
峡谷に位置する伊達市の温泉郷として知られるのが北湯沢温泉郷です。 夏の山全体が萌えあがるような緑と秋の紅葉、冬に露天風呂から眺める静かな雪景色と季節ごとに違った趣をもつ温泉地帯になります。 峡谷を流れる長流川(おさるがわ)に沿って温泉宿が分布するこの街は、川と温泉両方からの水の恵みに満たされた街ともいえるでしょう。 長流川は北湯沢温泉地区のみ川底が緑色凝灰岩の岩盤が露出した状態になっており、その黄色い岩の景観は「白絹の床」と名付けられた観光名所ともなっています。 夏は避暑地として人気も高く、マイナスイオンあふれる空気とさわやかな温泉を求めて多くの方が訪れます。
(2)北海道虻田郡留寿都村字泉川、ルスツリゾート
http://rusutsu.co.jp/
(3)北海道伊達市大滝区三階滝町にある三階の滝;
http://www.jalan.net/theme/koyo/hokkaido/01_koyo43.html
水量が豊富で轟音を響かせて流れ落ちる滝に圧倒される。特に紅葉期の景観は岩肌に砕ける水しぶきと紅葉の調和がすばらしいの一言。秋の一日、自然が作り出す絶景を満喫してみては。
(4)北海道虻田郡京極町字京極527番地、京極町のふきだし公園;
http://www.town-kyogoku.jp/kanko-event/fukidashi-park/
自然と羊蹄山とで作り出す「おいしい水」が絶え間なく湧き出る噴き出し公園は「名水の里」として多くの人に親しまれています。 特に、湧水池は開拓当初より聖なる場所と崇められ、地域の人々の手によって大切に守られてきました。

昨年の秋の北海道の思い出写真

2016年10月13日 | 写真
昨年の秋は10月17日から19日まで、帯広空港に降りて、狩勝峠から始まって、幸福駅、鶴居の里、阿寒湖、知床五湖、網走のオホーツク流氷館などを巡り、女満別空港から羽田に帰ってきました。
その間、十勝平野の広大な農地の風景に感銘を受けました。
一泊目は十勝の「さほろリゾート」のホテルと、2泊目はウトロのホテルに泊まる2泊3日の旅を致しました。

その道すがら撮った秋の北海道の旅の思い出写真をお送りいたします。
写真をお楽しみ頂ければ嬉しく存じます。

1番目の写真は知床のヒグマの写真です。バスの窓から撮ったヒグマです。
ホテルを出て知床五湖に近づいた頃、バスの傍の白樺林の中に大きなヒグマが悠然と歩いています。この熊は人を恐れずにバスから10m位の所を徐行するバスに従って歩いているのです。数分歩いて写真を撮り終わった頃に林の中に消えて行きました。
知床には何度か来ていましたが、ヒグマをこんなに間近に見るのは初めてでした。

2番目の写真はエゾシカが草を食べている光景です。
エゾシカは熊を恐れるのでクマからは数キロメートル離れた雑木林にいました。

3番目の写真はバスの前方の路上で遊んでいる北キツネの写真です。
このように道路で遊んでいるキツネは観光キツネと言い、観光客の与えるお菓子を待っているようです。野生動物へは餌やりは厳禁ですが、それでもたまに誰かがお菓子を投げ与えるのでしょう。

4、5番目の写真知床五湖のうちの一番近くの一湖の写真です。

駐車場から幅の広い立派な木道があり一湖までは足が弱い人でも歩いて行けるのです
背景の山並みは知床連山です。

6番目の写真はこの木道の展望台から北の方角を見た風景です。はるか向こうにオホーツク海が青く見えます。

7番目の写真は西の方角にある知床連山です。斜里まで連なっているのが見えます。
知床連山の西の端は斜里岳で、そこで知床半島は終わっています。
知床五湖の観光の後はバスが引き返しました。
そしてウトロを過ぎて斜里へ向かいます。

8番目の写真はウトロを出た所にあるオシンコシンの滝です。
バスを駐車してお客がオシンコシンの滝壷の近くまで歩いて行きます。
国道のすぐ傍にこんなに大きな滝があるのは流石に北海道です。写真の手前に写っている人間に比較するとこの滝の巨大さが想像出来ると思います。
この後は騰沸湖を左にしてオホーツク海の岸辺を走ります。
斜里を過ぎて網走に行き、そこで焼きサンマや鮭鍋のついた昼食を摂りました。
網走の寂れた繁華街を散歩して、時の流れを想います。
その後は天都山に上がり「オホーツク流氷館」に入ります。年中マイナス15度に保った流氷体験室で濡れタオルを振り回し、棒状に凍るのを実験します。去年の流氷も展示してあります。
そして屋上に上がり眺望を楽しみます。

9番目の写真の左前の湖が網走湖で、右遠方にあるのが能取湖です。

10番目の写真は東北側の眺望で網走市とその向こうにオホーツク海が見えます。
「オホーツク流氷館」を楽しんだあとは網走湖を右に見ながら女満別空港へはバスで40分の行程です。
途中、右手に網走湖に続く湿原の水芭蕉の群落地が見えます。数年前に訪れ、一面に咲いた水芭蕉の白い花に感動したことを思い出していました。
女満別空港を飛び立って一路羽田に向かいました。
皆様には北海道の旅の思い出がありますでしょうか?
今日の写真をご覧になって、また思い出を楽しまれますように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

でいしゅう著、「猟犬、ココとの別れ」

2016年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム
でいしゅうさんは「狩人の道東放浪記 Ⅱ」というブログを書いています。
URLは、http://blog.goo.ne.jp/1414sako1732 です。
その中に愛する猟犬、ココの死の悲しみが2014年6月のブログに断片的に数ケ所に書いてありました。
以下は私が勝手にまとめて編集した文です。
===でいしゅう著、「猟犬、ココとの別れ」===
最後の3番目の猟犬、ココは2014の夏に13歳で死に、それからは犬を飼っていません。
その危篤状態の時の様子を時々思い出しています。忘れられないのです。
長い間、猟の友であり同志であったココもいよいよダメなようです。足はふらつき、よく見えないためか、近づいても知らん顔です。
表情もなく、腹で弱く息をしています。昨日与えた葦簀の陰にも行かず、息をしています。
もう可哀想で見ていられません。釈迦の涅槃図を思い出しますが、ココの周囲にいるにのは私と蟻ぐらいです。児も作らず伴侶もなく、最後のようです。ゆっくりと体を撫ぜてやりました。
一緒に雉撃ちに出かけたココも13歳となり「ホーホー」と変な呼び声で鳴いています。ヨタヨタで自分の家に入るときも階段で滑っています。
見ていると可哀想です。雉や山鳥を追いかけて藪の中に一目散に突入した姿からは想像もできません。

写真は2014年6月の頃、ココが小屋で寝ている姿です。
この3番目の猟犬、ココは猟犬の訓練も3回目なので順調に出来上がりました。
暑い時に河に行き、木片を投げると飛び込み拾ってきました。私が参るまで何度もやらされました。ところが狩猟シーズンになり、川に雉が落ちても拾いに行きません。足を川に入れて「おっ寒」となると絶対に入りません。
仕方なく人間が拾いに行きました。しかし、野原では確実に拾ってきます。雉もバタバタしていると直ぐに発見できますが、命中し草の間に落ちていると1メーターの距離でも解らないものです。犬の眼は悪く、全て臭いが元ですから、探すことが出来るのです。
ココには小綬鶏、ヤマシギ、ウズラも獲らせてもらいました。
そのココは沢山の楽しい思い出を作ってくれて、13年間の生涯を終えたのです。
思い出すと可哀想です。そしていろいろな動物に囲まれている釈迦の涅槃図を思い出します。ココのそばには私しかいませんでした。それは2014年のある夏の日でした。
ココの墓は美しい自然石で作りました。(終り)

でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(6)猪と鴨を美味しく食べるこだわりの料理法」

2016年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき
甲斐駒岳の麓の甲州街道にある肉屋さんで猪肉と鹿肉を売っているお店がありました。何時も通りかかる肉屋さんなので何度か猪肉と鹿肉を買ってイノシシ鍋やシカ肉のシチューにして食べたことがあります。
猪肉と鹿肉はインターネットで簡単に入手出来るので料理して召し上がった方も多いと思います。
しかし私の食べたイノシシも鹿も不味かったです。やはり牛肉や豚肉の方がしみじみと美味しいのです。
そこで、でいしゅうさんへ美味しく食べる料理法を書いて下さいと依頼しました。
以下がその依頼に答えて書いて下さった文章です。
驚いたことには鹿は不味いので撃たないし食べないそうです。
そして、もっと驚いたことにはイノシシを美味しく食べるには慎重な解体方法が一番重要だと言うのです。
私が以前に食べたイノシシは解体方法が雑だったために不味かったのでしょう。
以下に解体方法を丁寧に書いてあります。
そして美味しい鴨鍋の作り方も付け足してあります。
これを読むと毎日スーパーで買う牛肉や豚の解体の難しさも想像出来ます。
世界にはいろいろな食文化がありますが、解体方法が材料の味を決定することが面白いと思いました。
少し残酷な表現もありますがご一読なさってみて下さい。

===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(6)猪と鴨を美味しく食べるこだわりの料理法」 ===
猪を山で捕獲してから、皆さんの手元へ行くまでを、まず書いてみた。
見事に命中すると、血抜きをする。心臓付近の動脈か、足の付け根の血管を切る。まだ生きて居るほうがよく血が出る。血管を切るためにはダガー状のナイフは絶対にダメである。ランボータイプも役には立たない。

1番目の写真は解体につかうナイフです。
私もランドールナイフやラブレスタイプなど随分買い込んだが、人に自慢するためのナイフである。昔からの狩猟刀が万能である。ただしPRで古式マタギのなんて書いてあるのは感心しない。あれは実用から縁遠い物だ。
尋ねられると、高知県の「黒鳥」のナイフを勧める。
さて、血抜きをしていると仲間が集まって来る。状況によって変わるが、近くに川が有る場合此処へ運ぶ。そして内臓を出し、川に沈める。清流だと良く冷えて肉質も良くなる。そして車に乗せて親方の解体小屋へはこぶ。
台に乗せて解体するグループと、吊るして解体するグループが有るが、やり良い方法でやればよい。各部位を平等に分ける。

20年ほど昔に参加していたグループでは先輩が絶対であった。私など5年に一回しか獲物が来ないような場所か、北風の通り道の様な場所に行かされた。
そして肉を分配してもらうが、石鹸箱にいっぱいぐらいのスジ肉であった。
先輩達は1キロ以上のロース肉を分配されていた。
これで経験を積み、辛抱して狩猟技術を身につけた。今思うと先輩の教えには疑問が沢山あったが、質問してはいけない。
昔は非常に封建的な世界だったのだ。しかしそれも良い思い出である。

良く冷えた猪は水で徹底的に洗浄する。そして解体台に乗せられ、まず皮を剥ぐ。左手で皮を抓みスキナーナイフで剥いで行くが、よく脂の乗った猪ほど難しい。皮と脂の間に刃を入れねばならない。この時皮を掴んだ手で肉は絶対に触ってはならない。不潔だし肉に変な臭いが付く。脂には毛根が残るようになると一人前である。良い猪の時はベテランがやり、それ以外は新人がやるが、4名のグループでは何ともやりようがない。
この点、鹿はスーと剥ぐだけであるから楽だ。
皮を剥ぐと手足を離し、背ロースを取る。そしてアバラ骨から肉を離す。この時はタコ糸を骨に沿わせると簡単にできる。希望があると骨から外さず、スペアリブにして分配する。
親方の奥さんが、目分量で人数分の山にするが、30グラムも違わない。

私は家に帰る前に友人宅へ寄りプレゼントする。お歳暮のつもりだ。
猪肉は喜ばれるが、鹿肉は不人気だ。
鹿肉は上手にスジを取り、刺身で食べるのか一番と思う。良い鹿が獲れた時は下山の途中、山葵を採る。鹿肉よりも山葵を喜ぶ友人には困ったものだ。
猪肉は普通スライスして、真空パックして保存する。真空パックしないと乾燥肉になる。
その日には食べない。ステーキ肉ぐらいに切って、スジを取り除き、よく絞ったタオルに包む。これを冷蔵庫に入れて五日ほど熟成さす。残った血もタオルに吸われ、更に良くなる。
皆さんが貰った肉も、このように処理して有るだろうか?
勿論18貫ぐらいのメス猪で、急所を一発で仕留め、血抜きと冷却をした肉は美味しいが、処理を適当にやった肉は不味くて不衛生である。

猪肉の料理で簡単なのは塩コショウの焼き肉だ。手間がかからないし単純な味付けは万人好みである。
その次は仲間とやる猪鍋である。赤味噌仕立てで根菜類を入れ、よく煮る。
だし汁の代わりに清酒で煮ると美味しい。残った猪鍋を翌日食べると更に美味しい。ただし狩人毎にレシピは違うから、鍋奉行を選定していないと喧嘩の種になる。私のグループには某ホテル退職の料理長がいるので、誰も文句は言わない。
猪肉は長時間煮ても固くならない。そして美味しいのは脂身である。赤身の数倍美味しい。気を使い、脂身の沢山ある猪肉を差し上げた友人の奥さんは、脂身を全部捨ててしまった。

最後に鴨鍋を紹介します。
小鴨を沢山獲って来て、骨を貯蓄します。数日間貯蔵していた骨(10羽以上)を清酒でコトコトと7時間以上煮詰めます。清酒が少なくなると更に足して煮詰めます。
この鴨のエキスを大切に保存します。
軽鴨や真鴨が獲れると、さあ鴨鍋です。
根深を山ほど用意します。そしてエキスを鍋に入れ、醤油と砂糖(味醂)で味を調え、これに根深を山盛りに入れます。蓋をして根深が沈んだら、鴨肉を入れます。鴨肉に火が通ったら、出来上がり!
素人さんは鴨肉に手を出しますが、鉄砲撃ちは根深を食べます。
エキスが根深にしみこんで、絶品です。ネギを白飯に乗せれば鴨丼です。
どのような有名店にもありませんね。 

 その他の料理法

◎ 猪肉
猪の歩留まりは3.5割である。70㌔の猪でも精肉すると25㌔ぐらいにしかならない。
そこで先輩たちは捨てるような肉でも食べ方を考えた。脛肉は圧力釜で調理して、大和煮にした。私は時雨煮にしたがどうしても筋が残り食べづらい。
舌は喉からナイフを入れて取り出すと、大きい。丁寧に薄皮を取、塩タンにすると美味である。詳しくは知らないから岩塩で味付けして、焼く。頬肉も取れるが、面倒なので私は食べない。
好評なのは猪の骨である。寸胴鍋でコトコト煮ると素晴らしいスープが取れる。頭骨をスープにする者もいるが、これ以上頭が良くなるとノーベル賞を貰い、狩猟の時間が無くなるので私は捨てている。
猪も鹿も皮は捨て、剥製も作らない。今のご時世では誰も欲しがらないからだ。
昔は新築祝いなどでプレゼントすると喜んでくれたが、拒否される。
◎ 兎肉
兎は2度ほど獲ったが、焼き肉にして食べた。特徴の無い肉だった。ただ解体の時に、膀胱には気を付けた。臭いが強烈だからだ。
◎ 蝦夷鹿肉
蝦夷鹿の解体も基本は猪と同じだ。
内臓は引っぱれば出てくるが、横隔膜だけはナイフを入れて体から切り離す。下へ下へと出せばよい。胃袋と腸には傷を付けてはならない。やれば悲惨な目に会う。腸を裏返してよく洗うと、素晴らしいホルモン焼きになると言うが挑戦した事はない。
それよりも蝦夷鹿肉の10頭ほどのスジ肉を溜めて、缶詰め業者に送ると2番目の写真のような缶詰めが出来上がる。

個数にもよるが1個250円ぐらいで出来る。随分作り友人へ無料で差し上げたが、これが一番好評であった。無料にしたのは食品衛生法に引っかかるからだ。
◎ 小綬鶏
小綬鶏はツクネニして、吸い物の椀種にして食べた。
ウズラは首の骨を包丁でよく叩き肉と混ぜると最高である。
◎ 雉
雉は全て雉飯にして食べた。飯にして隣近所へも配った。犬の鳴声で迷惑を掛けているからだ。皆さん雉飯を楽しみにしてくれた。  (続く)

武蔵野御陵の清掃と赤坂氷川神社の紹介

2016年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日、八王子市の昭和天皇のお墓の武蔵野御陵に参りました。
そうしたらその参道を掃除をしている一団に会いました。

1番目の写真は清掃をしている皆さんの様子です。

2番目の写真は掃き集めた落ち葉を軽四輪トラックに積んでいる様子です。
好奇心の強い私は頭領と見える男性に「何処からいらっしゃったのですか?」と聞きました。その男は姿勢を正して「赤坂の氷川神社の者です」と言います。それだけの会話でしたがその男性は神主のような雰囲気を持っていました。
私はカトリックの信者ですがお釈迦様を尊敬しています。日本古来の神道にも興味がありいろいろ調べています。
そこで帰宅後、氷川神社について早速しらべてみました。
驚いたことに赤坂の氷川神社のホームページが実の内容が豊富で良く出来ているのです。
その上、氷川神社は雅楽会や茶道会や混声合唱団などの活動を活発にして人間の幸せに貢献しているのです。
神社と言えば例大祭や御神輿くらいしか行事がないと思っていた私にとっては赤坂の氷川神社の活動ぶりには驚きます。
そこでそのホームページ、http://www.akasakahikawa.or.jp/ から幾つかの興味深いところをご紹介したいと思います。

まず氷川神社の「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ出雲から引っ越して来た神社なのです。
「氷川」の名の付く神社は全国で261社あり、内訳は、埼玉県に162社、東京都に68社、福井県に12社、福島県に5社、茨城県・栃木県・神奈川県・山梨県・島根県にそれぞれ2社、北海道・千葉県・長崎県・鹿児島県にそれぞれ1社となっており、関東を中心に鎮座、荒川流域に多く分布しているそうです。
氷川神社の本社は埼玉県の大宮の武蔵国一ノ宮の氷川神社です。ここから御霊(みたま)を分け(ご分霊)、各地に氷川神社が祀られました。そのため原則どこの氷川神社もご祭神は同じです。
ですから祭神は、素盞嗚尊(すさのおのみこと)、奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)、大己貴命 (おおなむぢのみこと)です。

3番目の写真は赤坂の氷川神社の写真です。

4番目の写真は神社の内部の写真で、結婚式や雅楽会や茶道会などに使われています。

5番目の写真は例祭の時の山車の写真です。
この神社の氏子たちは、以下の地域に住んでいます。
元赤坂1丁目・2丁目
赤坂1丁目~9丁目
六本木1丁目・3丁目・4丁目の一部
虎ノ門1丁目1番
全国の神社はさびれつつあると言われています。高齢化がすすみ過疎が進行し神社の例祭もままならないそうです。
それに反して東京の真ん中の神社は盛んです。
神社だけでなくお寺も過疎化が進み廃寺になるところが増えているようです。
全国に7万5千ほどあるお寺のうち2万ほどな兼任の住職がやっとお寺を維持していると言います。
神社も同様な運命にあると私は考えていました。ところが元気の良い神社を見つけまして何故か少しホッとしています。
最後にこの氷川神社の歴史をご紹介しておきます。以下はホームページからの抜粋です。
・・・創立の起源は、古い書物によると、天暦5(村上天皇 951)年武州豊島郡人次ヶ原(俗称…古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られました。
これよりおよそ百年後の治暦2(後冷泉天皇 1066)年、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。
江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元(1716)年将軍職を継ぐに至り、同14(1729)年に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15(1730)年4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝がありました。
以後十四代家茂公まで歴代の朱印状(※港区文化財)を下附され、一層の御神徳を高め、開運・厄除・良縁の鎮守神として尊崇を深められました。・・・

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(5)勢子と撃手の緊迫した連携」

2016年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
このブログではいろいろな方に寄稿をお願いして、時々寄せて頂いたものを掲載しています。
今回は、「狩猟の趣味の深さ」という連載記事をでいしゅうさんという方にお願いいたしました。
でいしゅうさんとはネットの上で友人になりました。私自身は狩猟はしたことがありません。ただ好奇心はあります。
ですから でしゅうさんに頼んで書いて頂いているのです。毎回、今迄知らなかった面白い話を送って下さいます。
でいしゅうさんは 奥深い狩猟という趣味を生涯続けている方です。
人間性が良い方です。毎年、猟期になると狩りのための車を大型フェリーに積んで北海道に移り住みます。エゾシカを狩るためです。
その話が面白いので狩猟について気楽な連載記事を私のブログの為に書いて下さいと数週間前にお願いしました。
今日は本州でのイノシシ猟と鹿猟における勢子と撃手の緊迫した連携の見事さが書いてあります。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。
===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(5)勢子と撃手の緊迫した連携」 ===
日本鹿(以降は鹿)は狩猟の対象として大きなウエイトを占めてきた。一時は自然の変化により大量死(栃木県日光)もあり、その雌鹿が保護されてきた。しかし科学的見地の無い保護政策により森林の荒廃(大台ケ原)を招き、森林経営に甚大な被害を与えた。
今日では雄雌ともに狩猟の対象とされ、1日につき1頭/1人が捕獲数となっている。
しかし、ハンターの数から計算すると、今後も爆発的に増加するだろう。そして、狩猟の対象として鹿は人気が無い。猪に比べれば美味しくないからである。魚釣りで言う所の「外道」となって来ている。

「鹿猟」としての狩りを我々はしない。猪と鹿を狩るのである。
親方所有の山でグループ猟、巻狩りを行う。複数の山が含まれているが、猪や鹿の寝る場所は決まっている。風の当らない羊歯の深い場所である。
まず親方の家で打ち合わせをする。跡見(足跡や食事の跡)をした者が報告し、どの辺に居るか予測する。そして放犬の位置を決め、逃げるだろう経路も予測するから過去の経験や洞察力が必要だ。ところが我のグループのようにマチ(待ち伏せて撃つ者)が3名のグループでは予測される逃げ道全てに配置出来ない。比較的に真ん中で待つ者は勢子が通り過ぎると、最も外へ移動する。山の頂上付近は足の良い若者(50歳)が行く。私は足が悪いので道の近くと配慮してもらう。その代り、連絡を受けると車で山向こうへ走行する。こうして持ち場が決まるとスタート時刻を定め、それまでに配置に着く。猟犬もGPSを装着されると意味が分かっているので、興奮して鳴く。1年生の犬には防牙用のベストを着せる。
スタート時刻になると勢子さんが確認する。泥舟さんOKですか?一郎さんOKですか?
OKの返事が全て揃うと「では放犬します、安全に気を付けて下さい」と無線が飛ぶ。
もう誰も返事はしない。猟は始まったのである。
勢子は低位置から犬を放つ。この犬達にはGPS発信機が装着されているので、勢子には位置が把握でき、違う方へ犬達が行くと修正する。次から次へと寝屋を襲うが空である。
犬達が臭いを拾うと「◎○で臭いが有るぞ、気を付けて」と無線が飛んでくる。
そして「出た!16貫ぐらいの猪や。三郎さんの方へ行く」猪は一目散で逃げ、犬達が後を追う。ワンワンキャンキャンと山はひっくり返したような騒ぎになるが、一つ隣の山に居る私には聞こえない。
そして無線が「泥舟さん下や!そっちへ犬が走っている」と喚いてきた。嬉しさ半分と、責任感に緊張する。再度銃の安全offを確かめる。猪が飛び出した場所と、待っている場所をイメージして、飛び出しそうな獣道を推測する(予断なので誤る場合もある)
微かに犬の鳴声が聞こえた。猪は目の前のはずである。
出た!予測した獣道をやって来る。一度は羊歯で見えなくなったが、ガサガサとしている。見えた!!もう15メーターだ。ドーン、猪から血が噴き出た。一瞬停止するとズルズルと羊歯の中へ逃げ(?)込んだ。私はその位置から動かずに、銃の狙いを合わせている。
3分ほど経ても逃げないので、ぐっと近づいた。ポケットの小石を投げても動かないので、羊歯を分けて確認すると死んでいた。
無線機は呼び続けている。一発で終わったので、多分OKと思っているようだが、私の報告を待っている。
「泥舟です、コケました」
おめでとう、と言って貰う。勢子長が「午前はこれでやめます。皆さん揚げて下さい。三郎さんともう一人猪を吊りに行って下さい」それぞれの射手(マチ)は銃から弾を抜き、助力の者以外は山を降りる。私は手頃な雑木を切り、担い棒を作った。助力に2名が来て猪を褒め「良い所に当たっている。さすが蝦夷鹿撃ちやな」と言ってくれるが、偶然そうなったのはよく承知だ。
1シーズンに2回ぐらいしか、この様な場面はありません(はっきりと断言)98㌫は寒さに震えて、山中で精神修養です。
山から親方の家まで近いので、そのまま運んだ。臓物を抜き、心臓やレバーは欲しい者が貰う。撃った私が一番の権利だが、食べないので権利を譲った。刺身で美味しいそうだ。
前の小川で猪の体温を冷やす。これで肉質がグッとよくなる。
昼飯を食べながら、勢子さんが面白く解説してくれた。やっぱり蝦夷鹿撃ちだとヨイショしてくれ、面はゆい。えらいプレッシャーだよ。
その年の初手柄だと皆さんにカツ丼を奢る事になる。既に無線を聞いていた親方の奥さんが手配してくれていた。嬉しいような、そうでないような・・・・。

午後の狩りで鹿が出たが、親方からの無線で逃がした。
午前の猪を解体する時間が無くなるからだ。これほど鹿には魅力を感じない。
駆除中、写真を撮ると鹿は穴に埋めるチームが有ると聞いている。
私達も鹿を撃つと犬が鹿の臭いを覚えて、鹿ばかり追うようになる。こうなると鹿専門の犬になるので嫌う。走る鹿はゲームとして面白いが、撃ちたくない。食べないのに撃つのは殺生だと思っているからです。食べてあげれば供養です。

鹿猟で書くつもりでしたが、ほとんど鹿猟はやって無いのです。猪の「ついでに」獲ってしまうだけなのです。
写真は でいしゅうさんが仕留めたイノシシです。(続く)

昭和天皇のお墓に参り、明治維新後の日本の歴史を想う

2016年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
どういう理由か知りませんが私は墓参りが好きです。趣味と言ってもよいほど好きです。
車で通りかかった農村のお寺の裏の墓地にフラリと入ります。眠っている人々の生きていた時代の様子を想像しながら散歩するのです。
それから本堂の前に行ってご本尊様に手を合わせます。
数日前も昭和天皇のお墓を参拝しました。
この場所は八王子の西端にある武蔵野御陵と呼ばれています。多摩御陵とも言います。高尾の手前で甲州街道から右に曲がると喬木が並木になっている気持ちの良い参道が続きます。その奥に広い駐車場があり、後は数百メートル歩きます。深い森の中の参道です。
この場所は気分が爽快になるので何度も来ては散歩を楽しむ場所です。
武蔵野の深い雑木林の奥の武蔵野御陵には昭和天皇と香淳皇后のお墓が並んでいます。
その左隣の多摩御陵には大正天皇と貞明皇后のお墓が並んでいます。
写真で示します。

1番目の写真は昭和天皇の稜です。

2番目の写真は香淳皇后の稜です。

3番目の写真は大正天皇の稜です。

4番目の写真は貞明皇后の稜です。

5番目の写真は4つの稜墓の配置図です。

明治維新を1867年としますとそれ以後、現在までの日本の歴史は2つの時代に大別できます。
昭和20年、1945年の完膚無き敗戦までの78年間の戦争に明け暮れた「戦争の時代」とそれ以後の「平和の時代」の2つの時期に大別されるのです。「平和の時代」は1945年から現在の2016年までの71年間続いています。
「戦争の時代」とそれ以後の「平和の時代」はほぼ同じ年月が流ていたのです。

昭和天皇はこの「戦争の時代」の20年間と「平和の時代」の43年間に在位していました。
私が国民学校に入学すると教室の前に昭和天皇と皇后の写真がありました。
昭和という時代が始まるとすぐに満州事変や日中戦争が始まります。軍部は天皇にすぐ戦争は終わると言いながら泥沼の戦争になったのです。そして真珠湾攻撃です。初戦は勝っていた日本はその後、玉砕につぐ玉砕です。
そして4500人の特攻隊が敵艦へ突っ込んで行ったので。昭和天皇の心痛は想像に余りあります。
そして玉音放送です。
朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
・・・・
帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク
且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ
惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス
爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス・・・

昭和天皇はほんとうに国民の犠牲に心を痛めていたのです。
・・・戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク・・・

そして敗戦です。
戦後。すぐに昭和天皇は全国の津々浦々を訪問します。それは悲しい旅だったに違いありません。私も荒廃した仙台の街のお立ち台に立ってソフト帽を振っている姿を見ました。

昭和という時代の苦しみと悲しみは高齢者の皆様の心に刻み込んであります。
その後、昭和天皇は1988年までこの日本の復興と高度成長を見ていたのです。
少しばかりお心が安らかになられてと思います。
皆様は昭和天皇をどのように思っていらっしゃるでしょうか?
昭和天皇のお墓に参りながら想ったことを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「狩猟の趣味の深さ」という連載記事を続けていると心が乱れる

2016年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
狩猟は自然界に生きている鳥や獣を罠や猟銃で獲ることです。
旧石器時代や縄文時代から人間の食物を得るために狩猟が行われて来ました。人間が生き延びるために行われて来たのです。
それが近代の欧米では趣味としても狩猟が発達して来ました。
その趣味としての銃猟が明治維新後に日本にも入って来たのです。
人間が生きる為に鳥獣を獲るのではなく猟犬を使ったスポーツとして発達して来たのが欧米の銃猟です。
日本の仏教では殺生を禁じています。ですから銃猟は仏教の教えに反しています。
その上、近年には動物愛護運動が世界的にさかんになって来ました。
たとえ食べるためでも野生の鳥獣を殺すのは残酷だから止めよという運動です。
その社会風潮のお陰て銃猟を趣味にする人が年々、減少しています。若い人が銃猟をしないので猟師は一層高齢化するばかりです。
従って日本から銃猟が消滅するのはそんなに遠い将来ではないと言われています。
それなのに何故、私は「狩猟の趣味の深さ」という連載記事を続けているのでしょうか?
理由はこの消えゆく狩猟文化を少しでも記録に残したいと思ったからです。
そして銃猟は本当に悪い趣味でしょうか?
鳥獣被害にあって困っている人々を助けているのです。
その上、この趣味は自然界を相手にして人間の勇気や忍耐力をみがくスポーツという側面を持っています。
宗教的に殺生はいけませんが、銃猟は止めるべきでしょうか?そんなに悪い趣味なのでしょうか?
私の心が乱れます。
ご意見を頂けたら嬉しく思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。