後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(4)猟銃の種類と狩猟文化」

2016年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
今日は猟銃のお話しです。でいしゅうさんの体験にもとづく猟銃や古銃にまつわる記事は大変面白いと思います。
しかし彼の文章を理解しやすくするために3種類の猟銃と狩猟には使わない古銃の概略をご説明いたします。
古銃は猟銃ではありませんが付録として付け足してあります。
 
猟銃銃の種類は法律で決まっています。ライフル銃、散弾銃、空気銃の3種類です。原則的にいずれも一定の長さがあることが基準で、基準値より短いものは認められません。長いものしか許可されない理由にはいろいろな理由があります。
ライフル銃
国内で許可される銃器の中で最も威力のある銃と言えます。銃身内はライフリングと呼ばれ、発射弾に回転を与えられるようにラセンが入っております。弾の種類およびそれを使用できる銃の口径の種類は世界的にも多種豊富にありますが、全てのライフル口径が日本で認められるわけではありません。ライフル銃の最大到達距離は4km以上とも言われ、威力と精度が優れていることから倍率のあるスコープを用いて200m以上の距離で多く使用されております。狩猟では主に、クマ、イノシシ、シカ等の大物猟に使用されます。
散弾銃
日本で狩猟に最も多く使われている銃です。ショットガンともいわれます。1発の弾薬に複数量の弾粒が詰められており、散り広がる装弾を発射できる銃が散弾銃にあたります。散弾銃規格は主に外装される弾の太さで番径規格が定められており、12番(12GA)と言われる規格が射撃、狩猟において圧倒的に使用割合を占めております。同一規格でも内装される弾粒の大きさには多種類あり、用途によって使い分けることができます。 散弾銃は全般的に狩猟では幅広く用いられ、散弾を用いて鳥類・小動物猟に使われます。
空気銃
その名の通り空気の力で発射される銃です。デパート等で売られている空気銃は威力もそれ程ないことから許可を受けずに購入・使用できる、いわゆる玩具として扱われており、ここで挙げる空気銃ではありません。
銃刀法上の空気銃は大変威力があり、殺傷力を持っている銃をいいますので、しっかりとした安全に対する知識・許可が必要となります。空気銃は散弾のように複数を同時に発射できるものはなく、1発での発射です。手軽に手の力でポンプするタイプや、炭酸ガスを使用するタイプ、最近では高圧の空気を注入するハイパワータイプが人気を集め、40m~50mで使用することも可能です。狩猟では主に鳥類・小動物猟に用いられます。
尚詳しくは、http://gun-net.com/main/public/gun_kind.htm をご覧下さい。
銃の構造の種類
銃の構造によっても種類を分けることがあります。例えば上下二連銃と言われている種類にも、散弾銃があればライフル銃もあります。日本に普及している代表的な種類のものは上下二連銃 と水平二連銃 です。
古銃
古銃とは火縄銃と雷管銃のことです。雷管銃は明治維新の時に大量に輸入された銃です。
これらは猟銃としては許可されていません。猟銃ではありませんが付録として紹介してあります。
それではでいしゅうさんの猟銃の話をお楽しみ下さい。
===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(4)猟銃の種類と狩猟文化」 ===

我々が所持できる銃は3種類あります。
装薬銃(散弾銃、ライフル銃)と空気銃です。ピストルとか機関銃も有りますが、関係ないし、よく知らないので書きません。
空気銃は以前子供の遊具とされ免許の無い時代も有ったそうですが、私は知りません。
現在はポンプ式の空気銃よりも圧縮空気(潜水用のボンベ)を利用した強力な物が出現しています。2メーターで撃つと猪さえ絶命します。
散弾銃は大きく分けて2連銃と単身半自動銃です。変わった設計の銃もあったり、散弾とライフルがセットになっている銃も有りますが、特殊な為に割愛します。
2連銃は上下2連と水平2連がほとんどです。上下2連は競技用と言われてきましたが、今では猟野でも使用されます。私はメルケルの水平2連銃(12#)を鳥猟に使用しています。
犬がいなくなって出番が減りました。ただサイドロックなので機関部の彫刻が楽しめます。

1番目の写真がメルケルの水平2連銃の機関部の彫刻の写真です。
80歳以上の方の中にはロンドンガンを持っておられるそうです。3000万円ぐらいの銃ですから拝見したいものです。○○宮様が所持していた銃、とも漏れ伺います。戦後のどさくさで売りだされた銃でしょう。
半自動は現在レミントンです。最初に所持したのがレミントン1100で、ベレッタなども所持しましたが、レミントンに帰ってきました。これで猪撃ちに行っています。やや重いのが玉に瑕ですが、慣れた鉄砲が一番です。

散弾銃の新品は20万円程度から3000万円程度、いやもっと高価な銃も有ります。機関部の彫刻が高価です。イタリア、ドイツ、イギリスと作風が違い、好みも多様です。

ライフル銃は散弾銃を所持して10年以上の経験が無いと所持できません。なぜ10年なのか理由は知りません。
ですから、50歳ぐらいでないと申請できなく、眼も弱ってくる頃ですから困ったものです。
ライフル銃は散弾銃と全く異なります。散弾銃で選手をされていた人ほど、ライフルには適せないとも言われています。

散弾銃は「思い切りよく撃つ」のが大切ですが、ライフル銃は狙いこんで引き金を5回に分けて慎重に撃てと教わりました。
猟銃の使い方には精進が大切です。そしてライフル銃では散弾銃ほど高価な物はありません。100万円程度です。つまりライフル銃は消耗品なのです。
ライフル銃はサコー75(ボルト式)を買いました。いろんな資料を読み、先輩の言に従いました。口径は北海道のエゾシカ猟のガイドさんのアドバイスで300winMagとしました。
頬宛て(チークピース)が嫌いなので(メルケルには附いています)購入前に削ってもらいました。

望遠鏡は銃本体よりも高価な物を付けなさいと言われていたので、ツアイスを乗せました。12倍までの品です。現在は6倍・単倍のツアイスです。理由は又お話します。
北海道のエゾシカ猟では失敗続きで勉強の毎日でした。
そう、ライフル銃の話でしたね。
他には半自動銃が有り、BAR(ブローニング・オートマチック・ライフル)も所持しました。これは北海道での害獣駆除用です。望遠鏡は付けてなく、100メーターまでの鹿を撃ちます。
ライフル銃のメーカーにはレミントン、ウインチェスター、等無数のメーカーが存在します。日本でもミロクが欧米のメーカー品を作っています。
それぞれに好みが有り、数値的に優劣は競えるが、所詮懐具合が決定打となるようです。
趣味のものですから、それでよいと思います。公道を走る車の性能に、レーシングカーの性能を求めるような事と思っています。

滋賀県の甲賀に滋賀サファリ博物館があります。
此処の館長さんは狩猟の為、世界中に行かれた方です。その成果を剥製で展示されています。この館長さんに質問しました。狩猟で命中の為、何が大切ですか?銃ですか?
答えは「近くへ行って撃つ事や」これで銃のカタログを読むことを止めました。
羆撃ちで有名な久保さんも5メーターか10メーターぐらいで撃つ、と言っています。

銃について書くつもりでしたが、普通のライフルマンですから、体験を基にした文になりました。もっと詳しい事が知りたかったら、専門書をお読みください。
一般に猟銃は美しい彫刻がついていたりするので持っているだけで楽しいものです。
そして狩猟の成果は猟銃の良し悪しよりの勇気をもって獲物を近くまで引き寄せて撃つことが重要なのです。

さてついでに古銃について少し書かせて下さい。
古銃は火縄銃と雷管銃です。雷管銃は明治維新の時に大量に輸入された銃です。

2番目の写真は雷管銃のストーム銃(アメリカ製)です。

前でも書きましたが、銃には散弾銃とライフル銃(装薬)があり、それぞれの用途で使用されています。
ところが、幕末の頃までは火縄銃が主流でした。戦国時代から約300年ガラパゴス化されて日本独自の進歩をしていました。

これに対し明治維新の戦いでは、欧米の廃棄銃がどっと流れ込みました。NHKドラマ八重の桜で登場したスペンサー銃(アメリカ製)もありました。アメリカの南北戦争終結で不要になった銃が何百倍もの価格により輸入されたのです。酷い場合は木製の台に鉄パイプを括りつけた、絶対安全の銃も有ったそうです。長崎のグラバーは濡れ手に粟のボロ儲けでした。
そして輸入する毎に最新式の銃となりました。初めは前装銃です。有名な銃にはゲーベル銃(オランダ製)とかエンフィールド銃(イギリス製)です。私も所蔵していたが改造され、元の形から変わっていたので手放した。これらの銃は明治維新後、国産銃が整備されたため、一般に払い下げた。このままでは重いので、先台などを切り猟用に改造されています。改造すると骨董的価値は無くなります。

マンソ―前装銃がある。歩兵銃で全長は約1300mm、3バンドである。比較的完全な形が残っているので、所持している。
火縄銃も所持している。なんとか整備して撃てるようにとしたが、銃口の中が錆びていて不可能であった。しかし、機関部は完動する。
この場合銃身をくり抜き、鉄パイプを挿入する者もいるらしいが、日本では違法である。海外では良く行われる改造と聞いている。

3番目の写真は自分が持っている堺銃です。農民が持っていたと思われます。短筒もあるが、銃身内の錆が酷い。しかし、火薬入れなどもついていて、コレクションとしては面白い。

横浜の銃砲店で完全なスペンサー銃を見せてもらった。これは古銃に分類されず、実銃なので簡単には所持できない。150年も前の銃がまだ生きているとは感動しました。
所荘吉著の「図解古銃事典」で勉強した。なんでも鑑定団に登場する時があるが、高価で手は出ない。蒐集を始めた頃は輸入銃に人気がなく安価で入手できたが、最近は洋古銃の人気も上がっている。

銃刀法に掛かるので「銃砲刀剣類登録証」が絶対に必要である。しかし所持する人間に資格試験はない。
もし天井裏などで発見されたら、正直に警察へ届けて欲しい。そして年数回行われる教育委員会の審査を経て、登録証が発行されて、天下御免となる。
ご先祖様がしまい込んだ古銃では絶対に逮捕されないし、没収もされない。刀剣も同様である。
火縄銃ならば絶対に所持できます。洋式銃も前装銃ならば大丈夫です。
後装銃で弾が金属薬莢の場合は没収の可能性があります。前期のスペンサー銃が該当します。
古銃の蒐集も趣味なのでつい書いてしまいました。猟銃から話がそれたことをお許し下さい。(続く)
最後に江戸時代の火縄銃の写真と現在の水平二連銃の写真と上下二連銃の写真を示します。





大型客船の寄港と昔風の蒲郡市の地域発展を祈る

2016年10月07日 | 日記・エッセイ・コラム
愛知県の蒲郡市は全国的に有名な観光地ではありあせん。三河湾の一番奥にある地味な町です。
近くの大都会の名古屋の人々が静かに夜を過ごす温泉がある街です。
そして名古屋近辺の人が大型ヨットを係留している立派なマリーナのある町です。
しかし昔ながらの人情のある懐かしいところです。昔の日本の町を思い出させる懐かしい町です。
乗った観光バスのガイドさんが今年の3月に女子高校を卒業したばかりでした。
そのガイドさんは素朴ですが切々とした郷土愛に溢れていたのです。そして愛知県は尾張地方と三河地方に分かれ、方言も人間の性格も違うと一生懸命説明します。歌も唄ってくれましたが、その声が子供のように初々しいのです。
嗚呼、日本にはこんなにも素晴らしい地方文化があるのかと感動した小さな旅でした。
それでは撮って来た写真で蒲郡市のことをご説明いたします。

1番目の写真は客船が蒲郡市の岸壁に着いた時の歓迎ぶりです。船長や機関長や船の幹部を市長や市役所の幹部が歓迎しているようすです。大型客船がめったに来ないようです。「ようこそ がまごうりへ」と書いた横断幕に歓迎の気持ちがこもっています。
客船であちこち訪問したことがありますがこのような歓迎式を見たことがありません。

2番目の写真は船の乗客達が上陸して乗る観光バスの列です。3つの観光コースが準備してありました。

3番目の写真は蒲郡クラシックホテルの写真です。昭和9年に開業したホテルです。昔風のダイニングで土地の魚介類や野菜を使った洋風のコース料理を食べました。
このホテルの周りには竹島や水族館や文学記念館などがあり蒲郡市の観光の中心になっています。

4番目の写真は蒲郡クラシックホテルから見下ろせる竹島へ続く海上の橋の写真です。
橋の長さは400m近くあります。竹島の頂上には古い神社があります。健脚の家人は神社まで101段の急な石段を登りましたが私は橋を渡り切ったところで勘弁して貰いました。

5番目の写真は竹島の海岸で磯遊びをしている家族の写真です。兎に角のんびりした所です。

6番目の写真は蒲郡のマリーナの風景写真です。マリーナには行きませんでしたがバスの窓から3つほどのマリーナが見えました。三河湾はヨットに向いた海域なのでしょう。
この写真と7番目の写真は蒲郡観光協会のホームページから転載させて頂きました。

7番目の写真は菊池寛などの文士がよく泊まった旅館の跡地に建てた文学記念館です。戦前風の古い建物です。

8番目の写真は今回の客船の出港イベントの為に特別準備した手筒花火の写真です。
花火は丈夫な細長い筒の中に火薬を慎重に詰める作業が重要だと師匠の説明がありました。
8人の男性が手筒を持って花火を上げる間は火の粉が全身に降りかかり熱いと言います。それを我慢するのがこの手筒花火の見せ所だと言うのです。
何度か客船の旅をしましたが、このように心の籠った出港イベントは初めてでした。

この旅が楽しかった理由は蒲郡市の人々の歓迎ぶりに心がこもっていたからで。
大型客船が一日だけ着岸しても大きな経済効果はありません。観光バスだって名古屋の大会社のものを使っていました。
しかし蒲郡市の人々は嬉しそうに歓迎します。お金が目的でないのです。遠方からお客が来てくれたのが嬉いのです。
古い日本には客人を暖かくもてなすという文化がありました。
その文化があまり有名でない蒲郡に残っていたのです。
昔風の蒲郡市の人々が豊かに発展することを祈ります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料============
愛知県 蒲郡市;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%92%B2%E9%83%A1%E5%B8%82

面積;56.95km2  総人口;80,788人(2016年6月1日)
隣接自治体;岡崎市、豊川市、西尾市、額田郡幸田町

蒲郡市(がまごおりし)は、愛知県南東部、東三河地方にある市。「蒲郡競艇(BOAT RACE蒲郡)」の「ムーンライトレース」や、テーマパーク「ラグナシア」、「蒲郡温室みかん」の産地として知られる。
1954年(昭和29年)4月1日市制施行された愛知県下15番目の市である。市名は蒲形村と西之郡村(現在の市中心部)から一文字ずつ取った合成地名に由来する。本州のほぼ中心に位置し、渥美半島と知多半島に囲まれた温暖な気候の海辺の街で、沿岸一帯が三河湾国定公園に指定されている。明治期から全国的知名度を誇っている「景勝地竹島」(愛知県)と桟橋で繋がる橋の袂には、大正~昭和初期に文人達が多く利用した料理旅館「常磐館」があり、菊池寛の「火華」をはじめ多くの文学作品に登場すると共に、その他多くの作品が蒲郡市を舞台とした文芸作品群として残されている。 現在、跡地には「海辺の文学記念館」があり、その足跡を残している。 また、現在も愛知県を代表する歴史的建築物であり、現役の宿泊施設「蒲郡クラシックホテル」として営業する「旧蒲郡帝国ホテル」の建物は、城郭風の外観にアールデコ様式の内装と独特の建築であり、春にはつつじ祭りが開かれ市内には4つの温泉郷があるほか、マリンレジャーやテーマパークもあり、海と山に囲まれた景勝地であることから「愛知県の熱海」と呼ばれるなど、県内屈指の観光地でもある。

産業面では、温暖な気候を活かしたフルーツ栽培がさかんで、特に「蒲郡みかん」の生産では日本国内で有名で、温室栽培の「蒲郡温室みかん」の出荷量は全国屈指である。また、伝統の「三河織物」では織物・繊維ロープ工業が発展し、昭和40年代には市内工業製造出荷額のうち80%近くを占めていた。現在は、工業分野の多様化により繊維工業の比率は下がっているものの、繊維ロープ製造業界においては日本一の生産量を誇る。

でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(3)山間部集落の獣害とイノシシ猟」

2016年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
狩猟は主に欧米で発達した趣味です。洗練された猟犬の訓練法や猟師と猟犬の深い信頼関係は素晴らしい一つの文化として保存すべきかも知れません。日本も豊かになるに従ってこの欧米流の狩猟の趣味を楽しむ人々が増えて来ました。
勿論、日本にも奈良時代から貴族のあいだでは鷹狩りもありましたし、また生活のための狩猟や熊の胆を取るためのマタギもいました。
さて「狩猟の趣味の深さ」の連載も第3回目になりました。今回は猟犬を使ったイノシシ猟です。
イノシシは北海道にはいません。本州、四国、九州や島々に合計約100万頭住んでいます。このイノシシや約300万頭の日本鹿は山間部の集落に出没して農作物に甚大な損害を与えています。
ですから趣味としてのイノシシ猟は山間部の人々に対して大きな助けになっています。
この農作物の鳥獣被害については末尾の参考資料をご覧ください。

===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(3)山間部集落の獣害とイノシシ猟」 ===
大物猟を一人でやる場合もありますが、チームでやるのが普通です。犬を6頭ほど飼い、飼い主が勢子を努めますがそうでない場合もあります。
猟欲の強い犬だと、数匹の犬で猟師も一人です。臭いをたどって猪を追い詰めると、激しく鳴き、逃げそうになる猪を釘付けにします。
かみ殺すような犬は良くありません。命知らずの為に若死にします。主人が来るまで釘づけにしていればよいのです。
追いついた主人は銃かナイフで殺します。大猪も後ろ足を持ち、引き上げれば降参です。すかさず、ナイフで刺殺します。ナイフは柳葉包丁の様な形状よりも出刃包丁のような形状が適しています。長さも皆さんが考えている物より短い(12cm)のが普通です。
グループならば仲間を呼び車まで運搬です。
そしてグループ猟の場合、犬に追われた鹿や猪は射手の所へ逃げていきます。獣道で待ち構えているからです。普通は山の上へ逃げていきますね。
仕留められた猪は伐採した立ち木で背負われて、山を降ります。
水のある所へ行き、開腹します。臓物を出し、軽くしてから運び直します。この時、立木の上に獲物の頭を向けて運搬します。
私どものチームは解体すると頭割にして分配します。
チームによって、犬も一人に数え、足跡を見つけた者には増量されます。
シーズン中一度も発砲しなくても肉は同じだけ頂けます。
命中させた者には名誉だけで、◎○撃ち、とその場所に名前が残ります。失中させた場所には◎○スカリと名前が残り、笑いの種になります。
昔は反対の山の頂上へ勢子長が昇り、旗で合図したそうです。今は無線機の時代だし、GPSも犬に装着し、近代化されています。

しかし、一犬二足三鉄砲の順は変わりません。

さて前回は猟犬について書きましたが、ここでもう少し補足させて下さい。
前回紹介したのは私が実際に飼って、実猟に使用した犬達です。
一般に猟犬は、洋犬と和犬にに分類できます。洋犬ではポインター、セッター、ブルドンがいますが、黒ラブも鴨撃ち用の回収犬ですね。
獣用ではハウンドやビーグルがいます。見た事はありますが飼った事が無いので紹介できません。
薩摩ビーグルで兎撃ちに行った事は一度だけあります。
ビーグルが兎を発見すると鳴いて追いかけます。この鳴声をまず楽しみます。兎には不思議な習性があり、山を一巡すると元の場所へ戻ってきます。それを待ち構えていてズドンとやります。最初の犬で狩りをしていると、近くの草叢がガサッとしました。音から狸かと草を透かすと野兎でした。頂きです。(続く)
====================
(1)全国の日本鹿とイノシシの生息数;http://www.env.go.jp/press/102196.html
全国のニホンジカ及びイノシシの個体数の推定等を実施しました。平成25年度末では、全国(本州以南)のニホンジカの推定個体数は中央値約305万頭となり、増加傾向が続いていることが明らかになりました。また、イノシシの推定個体数は中央値約98万頭となり、長期的には増加傾向であるものの、平成23年度からはほぼ横ばいであることが明らかになりました。

(2)日本の鳥獣被害の概況;http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=5d75237bde32721c88166adb3705776a&p=1&disp=50
鳥獣による平成24年度の農作物被害については、被害金額が230億円で前年度 に比べ3億円増加(対前年1%増)、被害面積が9万7千haで前年度に比べ6千ha減少(対前年6%減)、被害量が70万tで前年度に比べ1万3千t減少(対前年2%減)しています。
2.主要な獣種別の被害金額については、シカが82億円で前年度に比べ5千万円減少(対前年1%減)、イノシシが62億円で前年度に比べ1千万円減少(対前年0.2%減)、サルが15億円で前年度に比べ7千万円減少(対前年4%減)しています。

(3)年間イノシシの捕獲数
https://www.env.go.jp/nature/choju/capture/pdf/d1.pdf
イノシシ捕獲数の動向. 鳥獣関連統計によると、S16 年以来、イノシシの捕獲数は増加傾向にある。特に H9. 年以降、狩猟による捕獲と狩猟以外による捕獲(有害駆除など)の両方が増加した。狩. 猟による捕獲のうち、銃猟(第一種/ 乙種)による捕獲数は ...
全国の捕獲数、狩猟者数、被害の推移 [PDF 595KB]

(4)全国の捕獲数推移
https://www.env.go.jp/nature/choju/conf/conf_wp/conf04.../ref07.pdf
1. 全国の捕獲数推移(捕獲目的別). 1. ニホンジカの捕獲数推移(捕獲目的別). 2. イノシシの捕獲数推移(捕獲目的別)

写真はでいしゅうさんが仕留めたイノシシです。

でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(2)猟犬への深い愛が狩猟の決め手」

2016年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
「狩猟の趣味の深さ」という連載の第二回目は3匹の猟犬と、でいしゅうさんとの強い絆が描かれています。この文章を読むと狩猟の主人公は猟犬だと思えるのです。いや獲物を追う人間と猟犬の躍動的なチームワークが猟の成功、不成功を決定するのです。
そこには人間と猟犬の強い絆がなければなりません。人間は猟犬を深く、時には厳しく愛さなければなりません。
こんな世界があるのですね。人間と猟犬の抜き差し無いドラマです。時期をずらして飼った3匹の猟犬の個性の違いも面白いです。
それでは第二回の文章をお楽しみ下さい。

===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(2)猟犬への深い愛が狩猟の決め手」 ===
今まで3匹の猟犬を飼いました。古い順にセッター2匹、最後はフランスブルトン(ブルタニュースパニエル)でした。
一頭目は狩猟の師匠が紹介してくれました。師匠の猟友が飼っていた犬の仔犬でした。生後3か月ぐらいになったので師匠と見に行きました。もう2匹しか残っていませんでした。
観察していると一頭が私に寄って来るので、決めようかと師匠を見ると「ダメだ、違う犬」と目で合図を送ってきました。私はその指示に従い、1万円で買いました。
飼い主は師匠と友人なので、無料で良い、血統書はないと言ってくれましたが、師匠は丁重にお断りしていました。
帰り道に尋ねると
「2頭いたが、選んだ方の犬の骨格が良い、遊具を与えると良く観察し、ポイントらしき姿勢を取っていた。無料の犬は大切にしない」こう説明してくれました。そして「仔犬は予想だが、あの母犬の猟芸は絶品だ。ラウンドをしてこちらへ雉を追い出す」だから仔犬にも期待が出来るそうでした。

それから師匠との二人三脚で、訓練しました。狩猟の解禁前には猟場へ連れて行きました。当然猟銃は使用できませんから、子供の百連発ピストルを持参しました。
訓練では雉の臭いを地に擦りつけていますが、自然では沢山の臭いが残っています。古い臭いではその先に雉はいません。何日も通い、本物の雉にポイントしました!
眼は限りなく開かれ、右前脚を曲げ、尾は震えています。
犬も実物の近くへ行き、嗅いだ事もない強烈な臭いに興奮しています。それ以上に私と師匠は緊張し、興奮しました。犬は臭いでポイントするだけで、実物は見ていません。
そこで「ハッ」と声を掛けると、草叢に飛び込みました。
たまらず雉が舞い上がります。
百連発ピストルをバーンと打ちますが、雉は?で逃げていきました。
犬は雉のいた場所を盛んに嗅ぎまわっていました。

そして狩猟解禁日です。場所は休猟区明けが良いのですが、今回は練習でよく雉を出した場所にしました。
解禁時刻は日の出時刻ですから、待機して待ちます。他府県ナンバーの車もやって来ますが、私の車を見て帰ります。師匠と時計を確認して、猟野に出ました。私は銃を持たず、犬を一番に出ます。犬を誘導してその後に師匠がつきます。
犬の様子が変わりました。歩き方、地面の嗅ぎ方に「力」が漲ってきました。師匠に眼で合図をすると大きく肯きました。そして畳3畳ほどの草叢で犬は停止し、ポイント姿勢になりました。涙が出るほどうれしい。

この間、師匠は周囲を確認し、矢先の安全を再度確認、そして弾を込めました。
「ハッ!」
犬が草叢に飛び込むと、ガタガタと羽音を立てて雉が飛び出しました。20メーターほど飛ばし、滑空飛行に変わる寸前に 、「ドーン」と師匠が撃ち落としました。命中です。
羽を広げて落ちれば、半矢(半死)ですが、濡れ雑巾を落とすように落ちましたから、命中です。
ところが犬は雉のいた場所でウロウロしているだけで、回収に行きません。仕方なく、リードを付けて雉の落ちた場所へ連れて行きました。臭いで発見した犬はしばらく咥えましたが、捨ててしまいました。
回収運搬が課題として残った初猟でした。

その後捜索や、ポイントは良くなりましたが回収だけはマスター出来ず、猟期の終わりには見ている前で穴を掘り、埋めてしまうようになりました。食べるよりは良いかと、使役しましたが、3年目の夏に盗まれました。

2頭目は猟犬を得意とする犬舎から購入しましたが、凡庸な犬でした。転勤で困った時に、欲しいと言う人が現れ譲りました。血統書が附いていましたので、交配で儲けたそうです。
2番目の犬(セッター)は凡庸な犬でしたが、糞が好きだったのです。ですから猟野では随分悩みました。狸の糞を見つけると体中に塗りつけるのです。犬はその強烈な臭いに快感を得ているのか、平気です。寒中の河に入り何度も洗いました。私の手も臭くなり、車の中も悪臭で窓を全開にして帰りました。
ただセッターにしては珍しく、山鳥猟が出来ました。これはと思う谷に入り、犬が臭いを拾うと弾を込めました。谷の上流を監視していると、ワーンと鳴きます。山鳥を追い出したのです。私はスキート射撃の要領で構えると、山鳥が流れ星のように下ってきます。ところが滑空してくる山鳥の速度は雉の何倍も有り、5回に1回ぐらいしか落とせません。黒い十字架が流れ星のように飛んできます。
2番目の猟犬との長い間には、恥多き体験ばかりです。

さて最後の3番目の犬は訓練も3回目なので順調に出来上がりました。
暑い時に河に行き、木片を投げると飛び込み拾ってきました。私が参るまで何度もやらされました。ところが狩猟シーズンになり、川に雉が落ちても拾いに行きません。足を川に入れて「おっ寒」となると絶対に入りません。仕方なく人間が拾いに行きました。しかし、野原では確実に拾ってきます。雉もバタバタしていると直ぐに発見できますが、命中し草の間に落ちていると1メーターの距離でも解らないものです。犬の眼は悪く、全て臭いが元ですから、探すことが出来るのです。
3匹目のブルドンでは小綬鶏、ヤマシギ、ウズラも獲らせてもらいました。
昨年の夏に11歳で死に、それからは犬を飼っていません。鉄砲撃ちに犬が無ければ陸に上がった河童です。
この次は大物猟の犬の話をしますが、他人の犬です。(続く)

日本3大稲荷、豊川稲荷、伏見稲荷、祐徳稲荷神の不思議

2016年10月05日 | 日記・エッセイ・コラム
日本には稲荷神社というものが実に数多くあります。赤い鳥居とその下に2匹のキツネが座っているのがお稲荷さんの特徴なのですぐに分かります。
お稲荷様の神様が祀ってあって、キツネはその神の使いです。お稲荷さんの一部にはキツネ自身が神として祀られているところもあります。
人々はキツネを神の使いとして信仰し、キツネに油揚げを供えたりします。
このような信仰は日本独特なもので朝鮮半島や中国大陸やシベリアには皆無です。
今回の客船の旅では、2日目に蒲郡港で船を下りて、観光バスに乗り換えて豊川稲荷を訪問しました。
驚いたことに豊川稲荷は曹洞宗の妙厳寺を囲んでいて、妙厳寺を守るために作られた神社なのです。ところが豊川稲荷の方が妙厳寺よりも有名になってしまい人々はお寺の本堂を拝まないで裏にある豊川稲荷神社の方へい急いで歩いて行きます。
仏教が好きな私にとってはその光景にショックを受けました。

そこで今日は日本の稲荷信仰について簡単に書いてみます。
まず三大稲荷の写真を見てみましょう。

1番目の写真か今回撮ってきた豊川稲荷の本殿の写真です。妙厳寺の左裏にあります。

2番目の写真は九州にある祐徳稲荷神社の門です。数年前に訪れた時、田園地帯に突如、豪華な赤い建物群が現れ、吃驚したものです。

3番目の写真は京都の伏見稲荷神社の赤い鳥居が並んだ参道の写真です。

さて稲荷信仰とはキツネを神の使いとして敬い、願い事を祈る信仰と言えます。
全国の稲荷神社は仏教系と神道系の2つに大別できます。
仏教系とは豊川稲荷の系統を汲むお稲荷さんです。祀ってある神が仏教系(ヒンズ-教)の神様なのです。
豊川稲荷の場合の神様は吒枳尼天(だきにてん)と言うインドの古代民間信仰に由来する仏教の女神です。
この吒枳尼天(だきにてん)は日本に入って来ると稲荷信仰と習合し、稲荷神と同一視されるようになったのです。妙厳寺では「吒枳尼真天」(だきにしんてん)と呼んでいます。
ですから豊川稲荷では手を打つ代わりに曹洞宗の陀羅尼経の一部を唱えます。その部分は本殿の両脇の柱に大きな金文字で書かれています。

さて一方神道系のお稲荷さんの祭り神を祐徳神社の場合に示すと以下のようになります。
倉稲魂大神、大宮売大神、猿田彦大神、 神令使命婦大神、 萬媛命 。

これが京都の伏見神社では次のようになります。
宇迦之御魂大神 (うかのみたまのおおかみ)、佐田彦大神 (さたひこのおおかみ)、大宮能売大神(おおみやのめのおおかみ)、田中大神(たなかのおおかみ)、四大神 (しのおおかみ)。

如何でしょうか?あまりにも神様の名前が多いので頭が痛くなりませんか?
しかし多くの神々を神道の神と総称してしまえば簡単です。
神道の神を祀ってあるお稲荷さんが神道系のお稲荷さんで、仏教の神が祀ってあれば仏教系のお稲荷さんと言えます。

さて豊川稲荷の神仏混淆ぶりを示します。

4番目の写真はお寺の鐘楼です。それがお稲荷さんと仲良く同じ境内にあるのです。
そしておキツネさんへ対する信仰も示してみます。

5番目の写真は曹洞宗の妙厳寺の裏にあるキツネ塚の写真です。
信者がお祈りして願いがかなうとお礼にキツネの石像を寄進するのです。数百のキツネが並んだ光景は異様です。
このキツネ塚の光景をお釈迦さまがご覧になったら、どのように思うでしょうか?

あまり長い記事になりましたので今日はここで一旦終りと致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
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豊川稲荷の情報;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B7%9D%E7%A8%B2%E8%8D%B7
祐徳稲荷の情報;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E5%BE%B3%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E7%A5%9E%E7%A4%BE
伏見稲荷の情報;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%A4%A7%E7%A4%BE

でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(1)品性の良い犬の訓練」

2016年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
まえがき、
このブログではいろいろな方に寄稿をお願いして、時々寄せて頂いたものを掲載しています。
今回は、「狩猟の趣味の深さ」という連載記事をでいしゅうさんという方にお願いいたしました。でいしゅうさんとはネットの上で友人になりました。
奥深い狩猟という趣味を生涯続けている方です。
人間性が良い方です。毎年、猟期になると狩りのための車を大型フェリーに積んで北海道に移り住みます。エゾシカを狩るためです。
その話が面白いので狩猟について気楽な連載記事を私のブログの為に書いて下さいと数週間前にお願いしました。 やはり狩猟の趣味は奥深いと感じるような記事を昨日お送り頂きました。
以下は第一回の連載記事です。
お楽しみ頂けたら嬉しく思います。

===でいしゅう著、「狩猟の趣味の深さ(1)品性の良い犬の訓練」 ===
気楽に書きますから、そのつもりで。
狩猟は昭和58年から始めました。33年ほど前の事です。
子供の頃から鉄砲が大好きで、手製の銃を作って遊んでいましたから、悪い子供でした。
当時、銃器を取得するのには2名の保証人が必要でした。1名は職場の先輩に居たので、お願いしました。もう一人のアテが無いので困っていると、会社内の別な部門にいました。かなり上位職の方でしたが、勇をふるってお願いすると「よし、事故だけはするな」と印を押してくれました。この方とは長い付き合いとなりました。
接待ゴルフはあっても、接待狩猟はありません。運と腕の世界です。裸の付き合いとなりました。

最初は、鳥猟を始めました。幸い元の職場に先輩がいたので、弟子にしてもらいました。
1、銃に弾を込めるのは、犬がポイントをしてから
2、撃つ前に周囲の安全を確かめる
3、偶然に歩いて居る雉や、突然飛び出した雉がいても、撃ってはダメだ
4、雉撃ちに行くのだから、鴨を撃ってはいけない。
5、犬より前を歩くつもりで、歩きなさい

いろいろありましたが、思いだす事はとても大切な事です。先ほど環境省の狩猟フォーラムで講師が話していましたが、危険な事ばかりです。
2年ほどすると、少しは自信も出来たので、自分の犬が欲しくなりました。師匠に尋ねるとダメでした。
まだ早い、犬を育てると飼い主よりも立派な犬は育たない。良しと言うまで待ちなさい。
5年後に許可が出て、セッターを飼いました。3か月ほどの犬でした。
1か月は犬と遊び、それから訓練に入りました。
師匠も来てくれて、私と犬を指導してくれました。先ずはポイントです。生きたウズラを買ってきます。これを3メーターほどの先の竿から垂らした糸に括ります。そして、私の周囲をぐるぐる回します。
犬はウズラの臭いとバタバタするので周囲を回り追いかけます。疲れると犬は休みます。すると目の前にウズラを落とします。飛びつきますが竿を上げてぐるぐる回します。
約15分ぐらい練習します。長くやると厭きるからです。
何度も何日も繰り返すと、眼の前に落としても身構えるだけで、飛びつきません。ポイントです!!
ハッと声を掛けると、飛びつきますが竿を上げる為に咥える事が出来ません。最後は咥えさせます。
これが出来たら、ウズラの死骸を靴下に入れ、ソーセージ状の物を作ります。これで地面を擦り、臭いを付けて、草叢に隠します。そして犬を端に連れて行くと、臭いに反応して、力強く鼻先で地面をたどります。これが捜索です。
ソーセージ状の所へ行くとポイントして、私に知らせます。30秒ほど待たして「ハッ」と声を掛けると犬はソーセージ状のダミーを咥えます。
納得するまで噛むとその場に捨てるか、穴を掘って埋めます。これでは狩にならないので、私の所へ運搬させます。
渡すとビスケットを与えます。

犬にとってはウズラも雉も遊びであって、食物ではありません。此処が大切です。褒めたり、ビスケットはありますが、犬の生涯では一度も肉は食べません。
こうして訓練は1年以上をかけ、最後は射撃場へ連れて行き、鉄砲の音に慣れさします。
ひどい場合、銃声を聞くと車へ逃げ帰る犬もいます。
初めての猟期は犬の為の猟期です。他の犬と会わない場所、広くも狭くもない猟場、バカな雉のいる所(?)、それから2年ぐらいは、犬も若く犬の遊びの付き合いです。ここは辛抱して「主人と一緒に狩りを楽しむ犬」になってもらわねばなりません。ビスケットは常にポケットに入れ、殴ってやりたい時も辛抱です。可愛がってやり、主人がしょんぼりしていれば、犬は心配そうに寄ってきます。
6年目ぐらいからは絶頂期です。
そうしても犬の寿命は短く、愛玩犬なら10年以上ですが、猟犬は10年以内です。
朝飯抜きで夕方まで使役するからです。
こうして私は3頭の猟犬を飼いました。
ラッキー、白、ココ、です。もうこの歳では仔犬より育てる気力が有りません。忍耐力も落ちています。
ですから猟犬を飼う事はないでしょう。

犬の話ばかりですみません。写真は最後の犬(ココ)でブルタニュースパニエルです。(続く)

非日常の世界の客船の中の生活へご案内いたします

2016年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
最近は日本にも楽しい客船が数隻出来て、海外へや国内のクルーズが多くあります。参加する人数も増え今では客船の旅は珍しくなくなりました。
しかしまだ一度も経験していない方々も多数いらっしゃると存じます。そこで今日は撮った来た写真にしたがって客船の中の非日常の世界へご案内いたします。
今回、2泊3日の旅では「ぱしふぃっく びいなす」(26,000トン)に乗って、横浜大桟橋と蒲郡市の港を往復しました。
横浜を9月30日の夕方に出港し、蒲郡市には翌日の10月1日の朝に着岸し、9時に下船し、観光バスで豊川稲荷神社へ行き、お昼は蒲郡クラシックホテルで海を見下ろしながら食べました。
午後からは竹島への長い海の橋を歩き竹島神社へ登ります。その後は又船に戻りました。
夜に出港し、翌朝に横浜大桟橋に帰って来ました。それだけの旅でしたが客船の中の様子を写真にそってご案内致します。
 
左の1番目の写真は大桟橋での出港イベントです。ブラスバンドが威勢の良い音楽を奏で出港を見送ります。乗客達は8階のデッキからシャンペンのグラスを片手に見下ろして楽しみます。出港がまじかにになると色とりどりの紙テープを投げ別れを惜しみます。
大きなドラの音で船がゆっくり動き出します。8階のデッキではバンドの生演奏がはじまり客たちが踊りながら桟橋の上の人々に手を振ります。出港イベントはそれで終わりです。
右の2番目の写真は10月2日の夜に蒲郡市を出る時の出港イベントです。豪快な手筒花火8本で見送ってくれました。とても珍しい出港イベントでした。
 
左の3番目の写真は横浜港を出る時見上げたベイブリッジです。
右の4番目の写真は船に入ったエントランスホールの上にあるシャンデリアの写真です。
 
左の5番目の写真は自分の船室の窓から見た横浜の街の風景です。客室にはベット、テレビ、冷蔵庫、トイレ、シャワーなどがついています。
右の6番目の写真は7階にある軽食コーナーでケーキやドリンク類を何時でも無料でサービスしてくれます。
 
左の7番目の写真は10月1日の朝のメインダイニングの様子です。窓の外には三河湾が広がっています。人々の顔がはっきり見えないように写真を暗くしてあります。
右の8番目の写真は夕食の光景です。夕食は1日目は洋食コースで2日目は和食コースでした。朝食は洋食か和食が選べるようになっていました。
 
左の9番目の写真は1日目の夕食後のショーの大ホールの舞台の写真です。上演中は撮影禁止なので舞台だけの写真です。
右の10番目の写真はショーを見ようと集まってきたお客さんたちの様子です。
ショーの内容はある有名な女優のシャンソンとトークです。その方はいささかお年を召した豊かな体をしています。豊か過ぎていていけません。シャンソンはまあ良いのですが、トークに品性が無く、内容が一向に面白くないのです。その方の名誉の為に名前を伏せましたが、有名な方なのでお客さんは満足な様子でした。
 
左の11番目の写真は2日目の夜に歌唱とバンドの演奏のあった小劇場の写真です。楽団は客船専属のシャーロット&セントロスバンドという楽団でした。シャーロットの歌唱力が抜群で素晴らしかったです。有名な映画音楽やミュージカルの歌も良かったですが、日本の歌謡曲も情感がこもっていて感動しました。
右の12番目の写真は船の最上階の12階にある展望室の様子です。
 
左の13番目の写真は12階にあるトレーニングジムです。
右の14番目の写真は9階にある茶室の入り口です。茶室は本格的で畳に炉が切ってあります。水屋もついています。
 
左の15番目の写真は海を見ながら入れる展望風呂です。
右の16番目の写真は11階のジャグジーとプールの夜景です。
 
この17番目と18番目の写真は横浜出港後の船の上からみた横浜の対岸の木更津方面の夜景です。

写真では示しませんでしたが、この他には、常時何かしら映画を映写している映画劇場や、ダンスホール、娯楽室、カジノ室、図書室、コンピューター室などなどが揃っています。そして船特有のお土産用の売店があります。

最後に客船にはドレスコードがあります。カジュアルなので普通の時間は男性は襟のついた半袖シャツにズボンなら良いです。丸首シャツやジーパンや短いズボンはいけません。女性は普通の恰好なら良いのです。ジーパンと短すぎるパンツはいけないようです。
夜のディナーの時は男性は上着とネクタイが必要になることが多いようです。女性はセミフォーマルが無難です。しかし一般的には街へ買い物に行くような気楽な服装で良いのです。

今日は撮った来た写真にしたがって客船の中の非日常の世界へご案内いたしました。まだご経験のない方々が気軽に客船の旅に出てみられることを心からお薦めいたします。そこには不思議な楽しい世界が広がっているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

氷川丸と「 びいなす」号を比較し、日本の文化の大きな変遷に驚く

2016年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
船旅はのんびりして良いものです。波静かな太平洋を飽かず眺めて時間がゆったりと流れていきます。眼を転じると緑豊かな日本の陸地が遠く見えます。2泊3日の蒲郡市への客船の旅をして来ました。
その折に横浜の大桟橋の客船、「ぱしふぃっく びいなす」とそこから見える客貨船、「氷川丸」をつい比較して考えました。
氷川丸は総トン数11,000トンの1930年建造の日本の船です。一方、「ぱしふぃっく びいなす」は26,000トンで、1998年に建造された日本の客船です。どちらも大きなジーゼルエンジンがついていて巡航速度は同じ時速18ノット(約時速30Km)です。
同じような大きさと性能を持っている日本の客船ですが、この両者の客室の違いは非常に大きいのです。
氷川丸に入って見ると、チャップリンなどの泊まった一等客室が公開されていますが、その狭さに驚きます。また船底に近い三等客室は12人分のベットが蚕棚のようになっていて、向かい合っています。その上とても狭いのです。
一等客が食事をするダイニングも狭く暗いのです。当時は強化ガラスが高価過ぎたようで氷川丸の窓は全て小さいのです。
当時の日本の客船は人間が我慢してなんとか太平洋を渡るという考えで設計されていました。
航海中のお客はデッキに出て海を眺め、読書をして時間を過ごしたようです。それが戦前の日本の客船でした。
氷川丸の建造された1930年は昭和5年です。日中戦争がはじまり、やがて真珠湾攻撃の行われるような時代です。
贅沢はいけない。清貧こそ美徳だという文化の時代だったのです。そのような質素を美徳とする日本の文化の中に生まれ育った私は今でも贅沢なことに対してはいささかの抵抗感がるのです。
それはさておき、氷川丸と並ぶように係留されている「ぱしふぃく びいなす」の船内の施設をご紹介します。
その特徴は客室が使いやすく出来ていて、綺麗なのです。そして客室は全室が海に面していて大きな窓がついています。
ダイニングや、ショウのための大小のホールやプールや展望風呂までいろいろな遊びの施設がついていることです。
この人生を楽しむ為の客船は、お客を運ぶためだけの氷川丸とは全く違う考え方で出来ているのです。
「ぱしふぃっく びいなす」のお客を見ると普通の人々です。孫を連れた高齢者、老夫婦、中年の女同士のグループ、若い家族連などです。
決して金持ちそうではありません。この客船の旅は食事や間食を含んで大体一泊5万円程度で、2泊3日で10万円余です。
若い人でも生活を少し切り詰めて貯金すれば手が届く金額です。このような客船の旅を趣味にしている若者にも会ったことがあります。
嗚呼、これが現在の日本の文化なのだと深い感慨を感じるのです。
しかし一方で世界中の貧富の差を感じざるを得ません。
このような客船の良さは従業員のサービスが良いことです。それは一流のホテルのような上質なサービスなのです。
そのサービスを支えているのがフィリピン、インドネシアやウクライナ、スロベニアなどの人件費の安い国々の人々なのです。
深く考えると悲しい現実があるのでしょう。

しかし物事はあまり考え過ぎるといけないのかも分かりません。単純に素直に楽しめば良いのかも知れません。
そんなことを考え、海を眺めて来ました。その折に撮った写真をお送り致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は、戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。

2番目の写真は、ぱしふぃっく びいなす Pacific Venusです。旅客数、620名 、乗組員、220名 、石川島播磨造船会社製。

3番目の写真は、「ぱしふぃっく びいなす」の5階のピアノのあるエントランス・ホールを6階から撮った写真です。

4番目の写真はメイン・ダイニングの夕食の風景です。

5番目の写真は12階のトップラウンジから見下ろした11階のジャグジーとプールです。

6番目の写真は11階のスポーツデッキ、展望大風呂、ジャグジー、オブザベーションラウンジなどの各施設の配置図です。7階後方にはメインダイニングルームがあり前部にはメインラウンジがあります。

===参考資料;氷川丸と「ぱしひっくいびーなす」号================
(1)氷川丸:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B7%E5%B7%9D%E4%B8%B8
「氷川丸」は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年(昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。
運航終了後は横浜市の山下公園前(横浜港)に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受け、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。
氷川丸(ひかわまる)は、日本郵船が1930年(昭和5年)に竣工させた日本の12,000t級貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。2016年時点では、横浜市で博物館船として公開されている。国の重要文化財(歴史資料)に指定されている[2][3]。
「氷川丸」は、横浜船渠(現三菱重工業横浜製作所)で建造された1万トン級貨客船であり、太平洋戦争では病院船として運用された。戦後は1960年(昭和35年)まで北太平洋航路で運航を続けた。
運航終了後は横浜市の山下公園前(横浜港)に係留されている。戦前より唯一現存する日本の貨客船であり、船内のインテリアなども含めて貴重な産業遺産であるため、2003年(平成15年)には横浜市の有形文化財の指定を受け、2016年8月に国の重要文化財(歴史資料)に指定された。
本船(氷川丸)の船名は、大宮氷川神社に由来する[4]。ブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている[4]。姉妹船には2隻(日枝丸、平安丸)があり、「日枝丸」は東京千代田区日枝神社を、「平安丸」は平安神宮を祀った[4]。なお本級3隻は頭文字『H』で統一されている。

建造経緯、
日本郵船は昭和初期、北太平洋で展開されたアメリカやカナダとの貨客船就航(路線)競争の一環として、明治末期から大正初期に建造された天洋丸級をはじめとする老朽船に代わる、新型貨客船を必要としていた。
船種、貨客船。船籍、日本。運用者、日本郵船。就航、1930年5月13日。除籍、1960年12月21日。現況、山下公園に係留。

総トン数、11,622トン。載貨重量、10,436トン。
全長、163.3m 。  型幅、20.12m
主機関
B&W社製 ダブルアクティング4ストローク8気筒ディーゼルエンジン2機2軸
主機関
出力
11,000hp (5,500hp×2) 最大速力18.21ノット、航海速力、15.0ノット

(2)ぱしふぃっく びいなす Pacific Venus
http://www.venus-cruise.co.jp/
就航年月、1998年4月
主機、Diesel United 12PC2-6 (9,270馬力×2基
総トン数、26,594トン
全長、183.4m。 幅、25.0m
巡航速力、18.0ノット。 甲板数、12層。
旅客数、620名、乗組員、220名
石川島播磨造船会社製、
日本クルーズ客船が運航するクルーズ客船。
同社が運航していた「おりえんとびいなす」の姉妹船(同型ではない)として1998年に就航した日本籍で2番目に大きなクルーズ客船である
設備;
エントランスロビー
メインダイニングルーム「プリマベーラ」
オブザベーションラウンジ「グラン・シャリオ」
トップラウンジ「サテライト」
メインラウンジ「ル・パシフィーク」
ピアノサロン「アルカンシェル」
プロムナード
プールサイドデッキ
カジノゲーム
客室
客室は全室が海に面している。
ロイヤルスイートルーム - 65m²
スイートルーム - 35m²
デラックスルーム - 23.5m²
ステートルーム(A・B・C) - 15.3m²

日記、横浜のカトリック山手教会のミサに行きました

2016年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
ここ3日ほど記事の掲載をお休みしてしまいました。旅に出ていたのです。
横浜、大桟橋から2泊3日の船の旅に行き、今朝の9時に大桟橋に着岸しました。急いで下船し、駐車場に停めてあった車でカトリック山手教会へと丘を登りました。9時30分からのミサに間に合いました。
この時間のミサは英語なのでインド人、シンガポール人、フィリピン人、欧米人などなどいろいろな外国人の信者達が聖堂を埋め尽くしていました。
私は英語はよく分かりませんが、カトリックの式次第は同じなので一緒にミサにあずかり祈りました。
嗚呼、カトリックには国境がないと感動しました。
司式した日本人の神父さまはピンチヒッターで英語があまりお上手でありません。説教の時は日本語と英語をまじえて話しました。
しかし各国の信者達は根気よく聞いて、説教が終わった時、盛大な拍手をしていました。英語が上手でない神父様を励まし、助けようとする暖かい気持ちが聖堂に満ちていたのです。それは心温まる光景でした。イエス様の愛が信者の心を優しくしているようです。
旅の帰りに横浜で教会に行って良かったと思う経験をしました。
写真は今日撮ったカトリック山手教会の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

===参考:山手教会の歴史、http://catholicyamate.org/history/====
開港後日本最初の聖堂
聖フラシスコ・ザビエルにより日本宣教が始まった1549年の後、厳しいキリシタン弾圧が続いていましたが、幕末の1859年開港時に日本再宣教のため、パリ外国宣教会のジラール神父らが来日しました。1862年横浜居留地80番地(現横浜市中区山下町80)に「横浜天主堂」(イエズスの聖心教会)が献堂されました(国宝・長崎大浦天主堂が献堂される3年前の事です)。近代日本最初の教会であり、現在のカトリック山手教会の初代聖堂です。
1906年、天主堂付近の市街化により移転を行い、山手町44番地(現教会番地)に双塔を持つゴチック風の威風堂々とした聖堂が献堂されました。しかし、1923年の関東大震災によって崩壊、就任間もない主任司祭ルバルべ神父はその犠牲となりました。
その後、約10年の建設募金活動等を経て、1933年に鐘楼をもったゴチック式鉄筋コンクリート作りの美しい現在の聖堂が献堂されました。設計者は山手教会信徒・チェコ人のスワガー氏です。この司教座教会は教区の母なる教会であるだけでなく、1988年に横浜市の歴史的建造物に認定され市の文化的建物でもあります。
教会の中庭にある聖母像は、1868年にフランスから贈られたもので、開国後初のキリスト教会として1862年(文久2年)に居留地に建てられたイエズスの聖心教会の入り口の上に人々を見守る形で設置されていたものです。1906年(明治39年)に教会が、現在の地(山手町44番地)に移転した際に現在の場所に移されています。
塔の鐘は、1874年(明治7年)にフランスから贈られたものです。第2次世界大戦における兵器の製造に必要な金属資源の不足を補う目的で公布された金属類回収令による回収の危機に見舞われたものの、鐘に刻まれている『NAPOLEON』の文字によりその難を逃れたと言われています。
初代聖堂のあった中区山下町80番地には、『横浜天主堂』跡地として、再宣教100周年を記念したイエス像が立てられ道行く人々を招いておられます。