後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「補聴器を再調整して五嶋龍さんのチャイコフスキーのバイオリン協奏曲を聞く」

2017年10月13日 | 日記・エッセイ・コラム
ドイツのシーメンスの補聴器を買ってから1ケ月になりました。
高周波音域の雑音に慣れたので今日、補聴器を再調整して貰いました。低周波の音から高周波の音まで同じ感度で聞こえるようにして貰いました。
そうしたらピアノの最高に高い鍵盤の音も美しく聞こえます。
雨の午後ですのでオーケストラをいろいろ聴いて楽しんでいます。特に五嶋龍さんのチャイコフスキーのバイオリン協奏曲の音色には感動しました。その動画のURLを下にお送りします。
https://www.youtube.com/watch?v=gQbpBGwlv3s
お楽しみ下さい。
尚、補聴器は使っている間に何度か再調整したほうが良いようです。

日本における砂糖の歴史と美しい和菓子

2017年10月12日 | 日記・エッセイ・コラム

(写真の出典は、http://m.noa195.net/sima/gallery49/index.phpです。)
1番目の写真はサトウの原料にするサトウキビの沖縄における栽培風景です。

砂糖は人間の食べもに夢を与えます。人間がこの世に現れると甘い美しい天然の果実を食べていたことは現在の猿たちの果物好きから想像できます。
砂糖はおもにサトウキビとテンサイからつくりますが、日本では奈良、平安の時代には枕草子にあるように甘蔦(あまづら)を削った氷にかけたりして楽しんでいました。蔓性の植物の樹液をを煮詰めて作っていたのです。
ところが驚くべきことにサトウキビから砂糖を作る方法は紀元前6000年頃に既に北インドで使われていたのです。
サトウキビを絞ってその甘い液体を煮詰めて黒砂糖を作ります。黒砂糖を精製して真っ白い砂糖にします。この方法で作った砂糖を始めて日本へもたらしたのが唐招提寺を建てた鑑真和尚だと言われています。その後、遣唐使が中国から砂糖を持ち帰ったことは正倉院の記録にも明記してあります。
しかし当時はほんの少しの砂糖を遣唐使が唐から持ち帰り、一握りの貴人たちだけが味見をしたに過ぎません。
一般の人々は甘い干し柿や熟した自然の果実をたべて甘さを楽しんでいたのです。
甘蔦からとった「あまづら」は上流階級しか味わえなかったのです。この「あまづら」のつくりかたと味わいは検索すると出ています。
さて日本へサトウキビで作った砂糖が広まったのは何時からでしょうか?
それは江戸時代の初めころの1623年以後のことです。
その年に琉球王国が中国からサトウキビの栽培方法と黒砂糖の製造方法を導入してからです。現在、沖縄では何処に行っても、上の1番目の写真のようにサトウキビ畑が広大に茂っています。琉球王国の産業が現在も伝承されているのです。
しかし琉球王国は薩摩藩の支配も受けていたのです。薩摩藩は琉球の黒砂糖を大阪や江戸へ運び莫大な利益を得たのです。
砂糖は長崎の出島でも輸入され大阪の問屋へ送られたのです。
江戸幕府は財政の安定のために全国へサトウキビの栽培を奨励したのでしす。しかしサトウキビは九州や四国では生育しますが本州では無理でした。
四国の高松藩と徳島藩は特に熱心に黒砂糖を生産し、更にその黒砂糖を独特の精製法で白くして「和三盆」という上品な味の砂糖を作ったのです。
現在、徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖といい、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ばれています。
現在、日本で日常の料理に使う砂糖はサトウキビやテンサイから工業的に抽出し精製した安価な白砂糖か、あるいは澱粉を糖化した砂糖です。
一方、和三盆は上質な和菓子を作るとき使用します。
それでは和三盆を使った美しい和菓子の写真をお贈りして今日の記事の終わりといたします。
和菓子の写真の出典は、スタッフブログ: 田町梅月 ―静岡県浜松市の御菓子処、http://www.tamachi-baigetsu.co.jp/staff_blog/archives/2013_04.html です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)












====参考資料=====================
日本に砂糖が伝えられたのは中国から;
(http://www.alic.go.jp/koho/kikaku03_000078.html より)
我が国における砂糖の歴史は古く、鑑真和上が伝えたという説もありますが、遣唐使によって中国からもたらされたものと考えられています。
日本における砂糖の最初の記録は、「正倉院」献納目録の「種々薬帖」の中に「蔗糖二斤一二両三分并椀」の記録があります(825年)。当時は大変な貴重品であったため、ごく一部の上流階級が用い、それも食用ではなく、むしろ薬用でした。その後、鎌倉時代末頃から大陸貿易が盛んになり、砂糖の輸入も増加しました。1543年にポルトガル人が種子島に上陸し、砂糖を原料としたカステラ、コンペイトウなどの南蛮菓子をもたらしましたが、当時の大陸貿易の品目の中では生糸、絹織物、綿織物に次ぐ重要輸入品が砂糖でした。
日本での砂糖の製造;
さとうきび:
江戸時代の初期、最初に砂糖の製造を始めたのは当時の琉球(沖縄県)でした。1623年に琉球の儀間真常が中国に使いを出し、砂糖の製造方法を学ばせ黒糖を製造したと言われています。その後、琉球をはじめ奄美大島、喜界島、徳之島おいても、さとうきびは製造増産され、管轄していた薩摩藩に莫大な収益をもたらしました。
 当時は鎖国状態であったため、貿易の窓口である長崎の出島に限定して陸揚げされた砂糖のほとんどが、中央市場である大阪の問屋(当初は薬種問屋のちに砂糖問屋)へ運ばれ、そこから江戸や諸国の問屋へ出荷されていきました。
幕府は砂糖の国産化の方針を打ち出し サトウキビの作付けを全国に奨励します。江戸時代の中期以降、さとうきび栽培は、西南日本の気候温暖な地域において積極的に取り入れられ「和糖業」として広まっていきました。1798年に讃岐(香川県)の砂糖(和三盆)が始めて大阪の中央市場に登場します.
和三盆とは:(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%92%8C%E4%B8%89%E7%9B%86)
徳川吉宗が享保の改革において全国にサトウキビの栽培を奨励すると、高松藩が特産物創生と財源確保を目的としてこれに呼応した。
その後、徳島藩でもサトウキビが育てられるようになり、領内各地で栽培できるまでなった。しかし精糖の方法については不明だったため、他国における秘伝扱いの情報を収集し、高松藩とほぼ同時期の1700年代末に精糖方法を確立させた。徳島県で生産されている和三盆を阿波和三盆糖、香川県で生産されている和三盆を讃岐和三盆糖と呼ぶ。
和三盆は貴重な特産品として諸国へ売りに出され、全国の和菓子や郷土菓子の発展に大いなる貢献を果たした。

豊かな朝鮮文化を少しだけ知ろう!

2017年10月11日 | 日記・エッセイ・コラム
我々日本人が学校で習う朝鮮の歴史はおもに3件の出来事です。大和朝廷と高句麗、新羅、百済との交流と、豊臣秀吉の李朝時代の出兵と、1912年の朝鮮併合のことです。すべて政治的な事件です。
その一方、朝鮮半島に花咲いた文化についてはほとんど教えません。
ですから現在の日本人は朝鮮に古代からあった郷歌のことや百済、新羅、高句麗の三国時代の『三国史記』や『三国遺事』のことは一切教えません。
日本に萬葉集や源氏物語や古事記や日本書紀があったように百済、新羅、高句麗の三国にも同じような文学作品や歴史書があったのです。
これを知らなければ韓国や北朝鮮のことを蔑んだり悪口を言う日本人が多いのも自然ではないでしょうか。

さて朝鮮文化を知る第一歩として、韓国の世界遺産を見ることから始めてみましょう。観光案内のように気軽にお読みください。
そしてその次に韓国の古典文学を概観してみましょう。萬葉集や源氏物語に相当するような文学作品があったか調べて見ましょう。その次に韓国人なら誰でも知っている「春香伝」、「沈清伝」、「薔花紅蓮伝」など文学作品のあらすじを読んでみましょう。

さて韓国の世界遺産です。以下にその一覧を示します。
世界文化遺産:
石窟庵と仏国寺 - (1995年)
海印寺大蔵経板殿- (1995年)
宗廟 - (1995年)
昌徳宮 - (1997年)
華城 - (1997年)
慶州歴史地域 - (2000年)
高敞、和順、江華の支石墓群 - (2000年)
朝鮮王陵 - (2009年) 
大韓民国の歴史的村落:河回と良洞 - (2010年)
南漢山城 - (2014年)
世界自然遺産:
済州の火山島と溶岩洞窟- (2007年)

以上の世界遺産の中で朝鮮王陵を見てみると李朝朝鮮の歴史が一挙に分かります。
朝鮮王陵は、大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にある李朝の朝鮮王朝時代の歴代王族の王陵です。朝鮮王陵は、1408年から1966年のおよそ5世紀にわたって造られたのです。2009年6月27日に韓国が申請した朝鮮王陵40基がユネスコにより世界遺産として登録されています。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E7%8E%8B%E9%99%B5 より)
そして同じく世界文化遺産の首都のソウルにある昌徳宮の概略を説明すると以下のようになります。
朝鮮王朝の開祖李成桂は1392年に開城で王に即位、その2年後の1394年に漢陽(漢城、現在のソウル)への遷都を決定します。
無学大師の風水に基づき漢江の北、北岳山の南にあたる「陽」の地が選ばれ、李成桂が開城で政務を執っている間から王宮の建設が始まったのです。鄭道伝によって「景福宮」と命名され、1395年から李氏朝鮮の正宮として使用された。1397年には漢陽の城郭と四大城門が完成しました。
その後約200年間、正宮として使用され、1553年に大火によって焼失しました。1592年の文禄の役において、国王の宣祖が漢城から逃亡して治安が乱れると、先陣争いをする小西行長らの一番隊や加藤清正らの二番隊の入城を前に朝鮮の民衆によって略奪と放火の対象となり再び焼失したのです。(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AF%E7%A6%8F%E5%AE%AE より)
それでは李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真と昌徳宮の写真を示して終わりと致します。

1番目の写真は李氏朝鮮第4代国王・世宗の墓の写真です。

2番目の写真は昌徳宮の全体の写真です。

3番目の写真は昌徳宮の大門の前の風景です。

4番目の写真は韓国の世界遺産の南漢山城の写真です。

5番目の写真は世界遺産の「大韓民国の歴史的村落:河回と良洞」の風景写真です。郷愁を感じるような農村風景です。

さて次に朝鮮の古典について概観してみましょう。
その為にいろいろ調べましたら次の研究論文が明快な概説だと感心しましたので、その概要を示します。
「文学からの接近:古典文学史:―― 時代区分とジャンルを中心に」、山田 恭子著http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/nomahideki/edu_04_004_yamada_se4l.pdf
この研究論文ではまず韓国古典文学史を考える上で重要な時代区分やジャンルについて言及し,韓国古典文学の全体像を把握することを目的としています。
そして時代区分を以下のように6つの時代に別けています。
碑文学,漢文学,国文文学(ハングル文字)の関係から,古代前後期,中世前後期,近世,近代の6 期に分けて考察しています。

碑文学は5世紀になって漢字や漢文学が入ってくるまでの口承文学です。この口承文学は後に「帝釈本解」へと発展します。
そして古代後期とは,建国神話の出現,漢字伝来と漢文学の成立,郷歌の形成に至るまでの時代をさすそうです。
郷歌とは,新羅の三国統一期である6 世紀頃から高麗中期である13 世紀まで存在した文学形式を意味します。しかし広義の郷歌とは紀元前からあった形式で中国漢詩に対する当時の朝鮮の歌謡を広くさす呼称でした。
そして百済、新羅、高句麗の三国時代には.『三国史記』や『三国遺事』が書かれたのです。
それはさておき、中世文学の時代は、漢文学の時代です。科挙制度の前身ともいえる新羅の読書出身科が788 年に,本格的な科挙試験は958 年に実施されたことも漢文学の隆盛とつながったのです。しかし漢文学は訓民正音を用いた国文文学とも共存しました。
最初は漢字を利用した吏読 を通じて,次には朝鮮語を直接表記できる訓民正音との併用されたのです。
私が想像しているのはこの訓民正音は日本の万葉仮名に相当するものと思います。
中世前期は郷歌と漢文学,特に漢詩が盛行したのです。
そして1446年に李氏朝鮮第4代国王の世宗が、「訓民正音」を正式に公布し、公文書にも使用するようになったのです。それが現在のハングルです。
朝鮮では日本と同様に教養のある人は現在でも漢字の読み書きが出来るのです。
末尾に「春香伝」の粗筋を示しましたのでお楽しみ下さい。
以上のように朝鮮の文学は日本と同様にいろいろな分野があり、内容も豊かなのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
===春香伝とは============================
春香伝は李氏朝鮮時代の説話で、妓生の娘と両班の息子の身分を越えた恋愛を描いた物語です。
18世紀頃、民族音楽的語り物であるパンソリ、すなはち「春香歌」の演目「春香歌」として広まるとともに、小説化も行われました。韓国では現在も人気のある作品であり、映画化も何度か行われています。
あらすじは次のようなものです。
南原府使の息子・李夢龍と、妓生(キーセン)である月梅の娘・成春香は、広寒楼で出会い、愛を育みます。しかし、父の任期が終わり、夢龍は都に帰ることになります。夢龍と春香は再会を誓い合って別れます。新たに赴任した卞府使は、春香の美貌を聞きつけて我が物としようとするが、春香は夢龍への貞節を守って従いません。激怒した卞府使は春香を拷問し投獄します。都に帰った夢龍は科挙に合格して官吏となり、南原に潜入します。夢龍は卞府使の悪事を暴いて彼を罰し、春香を救出し、二人は末永く幸せに暮らしたという話です。
韓国人なら誰でも知っている話です。
「沈清伝」や「薔花紅蓮伝」なども検索すると内容が出て来ます。
「沈清伝」;https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B8%85%E4%BC%9D
「薔花紅蓮伝」;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%94%E8%8A%B1%E7%B4%85%E8%93%AE%E4%BC%9D

一般庶民の生活の歴史を教えない学校の歴史教育の欠陥

2017年10月10日 | 日記・エッセイ・コラム
学校の歴史教育は実につまりませんでした。天皇や武士政権の権力者の名前とその交代の年号を完璧に丸暗記すると良い点数が取れるのです。
他人には言いませんでしたが、そんな教え方を内心軽蔑さえしていました。当時は先生は聖職者として絶対的な権威を持っていた時代でした。
学校で教える歴史とは権力者の歴史だけだったのです。一般庶民はどのような暮らしをして、どんな気持ちで生きていたかを教えません。その歴史的な変化を教えません。権力者へ納める税金はどのように納めていたかも具体的に教えません。長い間不思議に思っていました。
ところが庶民の生活の歴史的変化を明快に説明し、関連する道具を展示している博物館があるのです。
東京都府中市立の郷土の森博物館です。ここでは縄文・弥生時代から古墳時代に始まって、平安、鎌倉、江戸と全ての時代の歴史を権力者の歴史と一般庶民の歴史に分けて説明しています。とくに一般庶民の歴史は知らなかったことが多かったので驚きの連続です。
そこで以下に一般庶民の生活の歴史的な変化を少しだけご紹介したいと思います。
(1)平安時代になっても庶民は縄文時代とあまり変わらない掘立小屋に住んでいたのです。
平安時代の府中には京都から派遣される多数の役人と一般庶民が暮らしていました。役人の生活は贅沢でしたが、庶民は質素な食器を使い貧しい生活をしていました。

1番目の写真は庶民が使っていた食器や壺です。縄文時代とあまり変わっていません。

2番目の写真は庶民の家です。一般庶民は縄文時代とあまり変わらない掘立小屋に住んでいたのです。

3番目の写真は平安時代の農機具です。
農民が使っていた農具をよく見ると、鉄の刃は磨きながら丁寧に使っていた様子が伺えます。
(2)鎌倉時代になっても租税は京都から派遣された守護へ納めていた。
武家政権の鎌倉時代になっても庶民は平安時代と同じ掘立小屋に住み、租税は京都から派遣されていた守護に納めていました。武蔵野国では府中にある国衙政庁にいる守護職の代理人へ納めていたようです。

4番目の写真はその様子を説明しています。
そして納めた租税の何割かは鎌倉幕府へ送られた筈です。その上、地方地方の小型武力集団(国衆)へも租税を納めていた筈です。
学校で教える歴史教育では農民の租税の納め方を具体的に教えません。しかしそれこそが一般庶民の死活につながる重要な項目なのです。そのような疑問が湧いて来る説明板ではないでしょうか?
(3)鎌倉時代には天皇や貴族のための佛教から庶民のための仏教が出て来た。

5番目の写真は鎌倉時代の庶民の宗教を説明しています。
鎌倉時代の武蔵野国の農民は板碑という自分の信仰のための碑を実に多数立てたのです。
上の方に梵字が彫ってあって、庶民の土俗信仰を暗示するような異様な雰囲気を与えています。

6番目の写真はこの板碑の写真です。
器用な農民は仏像もほりました。素朴な仏像です。

7番目の写真は農民が彫ったと考えられている仏像の写真です。
現在の日本人は無宗教の人が多いのですが、鎌倉時代から江戸時代の庶民は非常に強く宗教を信じていたのです。
(4)多摩川で魚を取ることは非常に重要な産業だったのです。
現在、多摩川で漁業を営む人はいません。しかし江戸時代までは沿岸の庶民の生活にとっては死活問題だったのです。

8 番目の写真はその多摩川での漁業を説明しています。
取っていた魚はアユ、ハヤ、ウナギ、コイ、カジカ、川エビ、川カニ、などなどでした。

9番目の写真はドウという漁具です。

10番目の写真はその他の漁具の写真です。

(5)一般庶民は芸術作品を作らず生活に必要な道具を作った。
庶民は藝術作品は残しませんでした。使っていた道具を民藝作品として高く評価する人々もいますが正直言えば洗練されていません。
しかしすぐれた芸術作品を残した絵師や彫り物師はお寺の支援や保護を受けたいたことが多かったのです。そのお寺の財政を支えていたのが農民や一般庶民だったのです。
ですから、ある国の歴史や文化を総合的に考える時、一般庶民の歴史も重要だと私は信じています。
一般庶民の歴史が私の好奇心を刺激し、尽きない興味を掻き立ててくれているのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

補聴器でよみがえる老境の幸せ、そして辻井伸行のラ・カンパネラ

2017年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
9月14日に、「高齢者は補聴器を耳につけることを考えよう!」という記事を掲載しました。
それ以来、片耳に補聴器をつけています。そうしたら途端に日々の暮らしが一段と楽しくなったのです。補聴器のお陰で老境の幸せが再び蘇って来たのです。これには驚いています。
何故そんなに驚くのかと言うとそれには隠れた原因があったのです。
高齢になると知らず知らずのうちに耳の聴く機能が低下しているのです。普通はそれに気が付きません。老齢のせいで少し耳が遠くなったのだと心配もしないで放置しています。そして知らないうちにどんどん高周波の音が聞こえなくなって行くのです。
高周波の音が聞こえないとシンフォニーオーケストラの音が歪んで聞こえるのです。その理由で、ここ数年は知らないうちにクラシック音楽から遠ざかっていました。
ところが補聴器を耳につけると、クラシック音楽の響きが感動的に美しく聞こえるのです。
そこでここ数日はコンピューターの前に座っていろいろクラシック音楽を聴いて楽しんでいます。
そこで今日は再び高齢の皆様へ補聴器を付けることをお薦めします。
そして特に盲目のピアニスト、辻井伸行さんのラ・カンパネラごご紹介します。
理由が2つあります。この曲は短いのです。誰でも気軽に聞けます。
もう一つの理由は辻井伸行さんはウイーンで弾いているのですが、感動した観客の表情が曲とともに変わって行く様子が克明に写し出されているからです。始めは頭を振り回しながら弾く姿に違和感を感じたようですが、すぐに辻井さんの音楽の世界に引き込まれてしまいます。
正装したウイーンのお客達が最後には辻井さんを尊敬した眼差しで見上げる姿は美しい光景です。
是非、下のURLをクリックして辻井伸行さんのラ・カンパネラをお聞き下さい。そして正装したウイーンのお客達の美しい光景をご覧下さい。
https://www.youtube.com/watch?v=f2IRyrkmP7Q
もう少しお聞きしたい方へ、辻井伸行のラフマニンフのピアノ協奏曲のURLをお送りします。
https://www.youtube.com/watch?v=ySR4WBGHkvQ
そしてリストのハンガリア狂詩曲は、https://www.youtube.com/watch?v=02YpEen_m1k です。

今日の記事はこれで終わりです。くどいですが、是非、辻井伸行さんのラ・カンパネラをお聞き下さい。
今日の挿し絵代わりの写真は先日、都立薬草植物園で撮った花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)










今日はサンタマリア・カトリック小平教会のミサに行きました

2017年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は隣町の小平の教会のミサに行きました。
昔風の縦長の会堂で、静かにミサにあずかって来ました。
信者の雰囲気が素朴です。伝統的な長崎の教会のようでした。
主任司祭のパウロ小池 亮太神父様の説教も明快で分かり易かったです。
今日のミサの写真を示します。
尚、カトリック小平教会のホームぺージは、http://st-maria-kodaira.xii.jp/ にあります。





佛教は理解し難いがキリスト教の新約聖書は平易で理解しやすい

2017年10月08日 | 日記・エッセイ・コラム
おはようございます。今日は日曜日の朝ですので宗教の話を少しだけいたします。
佛教の顕教と密教の以下の説明は理解が難しいが、新約聖書は読めば分かるという話を書きます。
まずご通読下さい。
・・・顕教とは、仏教の中で、秘密にせず明らかに説かれた教えのことです。密教の反対語です。真言宗の開祖である空海が、密教が勝れているという優位性の観点から分類した仏教の解釈の一つです。
そして空海は、顕教と密教を次のように区別したのです。
顕教とは、衆生を教化するために姿を現した釈迦如来が、秘密にすることなく明らかに言葉で説明した教えなのです。
それに対して密教とは真理そのものの姿で容易に理解出来ない大日如来が説明した教えで、その奥深い教えである故に言葉では容易に説明出来ない神秘的な教えのことです。
そして空海の解釈では、経典をそれぞれ次のように位置づけたのです。
顕教の経典は、 『華厳経』・『法華経』・『般若経』(一部を除く)・『涅槃経』などです。
そして密教の経典は、 『大日経』・『金剛頂経』・『理趣経』などなのです。

一方最澄や弟子の円仁らは、中国の天台宗とは趣を異にした日本独自の天台教学の確立を目ざし、『法華経』を核にし、他の仏教の経典を含んだ『四宗兼学』という立場から密教を説いています。・・・
如何でしょうかお分かりになったでしょうか?

さて以下に新約聖書の数カ所を示します。

・・「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは,世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな,またおじけるな。」ヨハネ14:27、

「弟子たちはイエスに尋ねて言った,『先生,この人が生れつき盲人なのは,だれが罪を犯したためですか。本人ですか,それともその両親ですか』。
イエスは答えられた,『本人が罪を犯したのでもなく,また,その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが,彼の上に現れるためである。』」ヨハネ9:2-3、

「すべて重荷を負うて苦労している者は,わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう。
わたしは柔和で心のへりくだった者であるから,わたしのくびきを負うて,わたしに学びなさい。そうすれば,あなたがたの魂に休みが与えられるであろう。わたしのくびきは負いやすく,わたしの荷は軽いからである」。マタイ11:28-30、

「イエスは,すべての町々村々を巡り歩いて,諸会堂で教え,御国の福音を宣べ伝え,あらゆる病気,あらゆるわずらいをおいやしになった。」マタイ9:35、

「患難をも喜んでいる。なぜなら,患難は忍耐を生み出し,忍耐は練達を生み出し,練達は希望を生み出すことを,知っているからである。そして,希望は失望に終わることはない。なぜなら,わたしたちに賜っている聖霊によって,神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。」ローマ5:3-5・・・

如何でしょうか?普通の日本人なら読めば何が書いてあるか簡単に分かるのではないでしょうか?
密教と顕教とは簡単に言ってしまえば、密教は言葉では説明出来ないお釈迦様の教えであり、修行をすることで初めて理解出来る教えなのです。一方顕教は言葉で説明のつく教えであり、別に修行をしなくても理解出来る教えのことです。

今日は佛教は理解し難いがキリスト教の新約聖書は平易で理解しやすいということを主張しようとしたのではなかったのです。
本当の目的はキリスト教にも言葉では説明のつかない奥深い教えがあるということを言いたかったのです。
毎週、日曜日に遊びに行かないで教会に通い続けていると神の深い愛が実感的に理解できるのです。
より本格的な修行とは修道院に入れば出来ると思います。修道士さんたちは普通の信者よりも深い理解をしているのです。毎週教会に通い続けていると修道士さん達の深い理解が想像出来るようになるのです。

今日の主張はどんな宗教でも密教的な信仰が非常に重要なのだということです。
浅学菲才の私にとっては空海の論の全てを理解することは不可能です。
しかし真言密教の重要さは何となく分かります。私はカトリックの信者ですが、空海様、弘法大師さまを尊敬しています。

今日の挿し絵代わりの写真は真鶴道路から見た海の風景写真と真鶴港のヨットの風景写真です。9月29日に撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





現在のタイ王国はチャクリー王朝で仏陀の入滅、仏教歴の国

2017年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム
一昨日、「愛を強く感じる人、全く無関心な人、嗚呼、人はそれぞれ」という記事を掲載して、タイのチャクリー王朝のラーマ9世の昨年の死を嘆く悲しむ様子を写した写真をご紹介しました。
タイ王国という国名が示すように、この国は現在でもチャクリー王朝の王様の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国は 仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。
そこで今日はタイ王国の仏教をご紹介したいと思います。
まず托鉢をしている修行中の子供や若者の写真をご覧下さい。









これらの写真の出典は「タイ仏教修行」で、そのURLは以下の通りです。
https://www.bing.com/images/search?q=%E3%82%BF%E3%82%A4+%E4%BB%8F%E6%95%99+%E4%BF%AE%E8%A1%8C&go=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&qs=ds&form=QBIDMH
タイにおいては、男子はすべて出家するのが社会的に望ましいと考えられているのです。
出家するためには普通20歳以上でそれまで悪いことをしていないことが大切なのです。
出家の目的はお釈迦さまの教えを修行を通してより深く理解するためです。
出家の期間はいろいろですが、大体3ケ月くらいと言われています。それを済ませると一人前の大人と見なされます。
ですからタイの社会では出家は成人への通過儀礼として行われるとも考えられます。
しかしその一方で、自分の精神力を強めたり、社会性をつけたいなどの目的もあります。
基本的には出家で功徳を積み親や先祖の恩に報いるということが基本になっています。
ですから写真のように修業中の人へ食物を献上する行為も自分の親や先祖の恩に報いるということになります。
また貧しい家に生まれたが、学業に優れていたために僧になって仏教大学に入学する若者もいます。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 をご覧下さい。

このようなタイの仏教的な風景を見聞きすると何故か魅力を感じます。誤解を恐れずに書けばタイの仏教は日本の仏教よりも本物のように思えるのです。お釈迦様の教えどうり忠実にその教えを守っているように思えるのです。
個人的なことで恐縮ですが私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。それで仏教関係の本を多く読みました。
日本の仏教は中国や朝鮮の百済を通って飛鳥時代に入って来ました、そのせいで中国の道教や儒教や朝鮮の原始宗教と習合し多神教的な宗教になっているようです。お寺のご本尊はお釈迦様ではなく薬師様、観音様、弘法大師様、伝教大師様などいろいろです。
しかしタイのお寺のご本尊様はお釈迦様なのです。お釈迦さまの座った姿の仏像か、寝た姿の涅槃像なのです。
そして出家による修行を大切にしています。私個人は修行無くしては宗教を理解出来ないと信じていますので、タイの仏教こそ本物だと魅力を感じるのです。
スリランカ、タイ、カンボジア、ラオス、ビルマなどの仏教を上座部仏教と言うそうです。そして日本、中国、チベット、朝鮮半島などの仏教は大乗仏教と言うそうです。この両者の比較や検討は今日の記事では割愛します。
そんなことよりバンコックの住宅街での忘れられない体験を書かせて下さい。
それは1993年の頃でした。バンコックに数日滞在した時のことです。朝にホテルの窓から見ていると、幅広い河の向こうから沢山の通勤者が船てやって来るのです。
好奇心にかられて、その日の夕方私は小さな舟に乗り河向うの住宅街に行ったのです。そこは樹木に囲まれた家々が並んでいる住宅街だったのです。決して金持ちではなく、家には塀がありません。道から部屋の中まで見通せるのです。仏壇があって灯明の炎が揺れています。子供が庭で遊んでいて可愛い声が聞こえます。家の裏の方から夕食の準備の包丁の音が聞こえます。何やら金木犀の花のような良い香りが風に乗ってきます。外国人の私がズカズカと歩き回っているのに全く警戒しないのです。全ての人を信頼しているのです。
嗚呼、なんと平和なのだろうと感動しました。仏教国だなあと感動したのです。
もっと書きたいことは沢山ありますが、長くなるのでこれでお終いにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

米国と北朝鮮の戦争を防ぐために大戦の犠牲者数を思い出そう!

2017年10月06日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカと北朝鮮の感情的な応酬が危険な状態になって来ました。アメリカがトマホーク・ミサイルを北朝鮮の軍事基地に打ち込む可能性があるかも知れません。そうすれば否応無しに日本も戦争に巻き込まれます。
このような危険な情勢なのに日本人は戦争の悲惨さを忘れたように北朝鮮を刺激する発言をしている安倍総理に拍手を送ります。
しかし日本の平和を守るため戦争は絶対に避けなければなりません。
安倍政権になってから再軍備と海外派兵を正当化する法改正が着実に進んでいます。戦争の足音が近ずいているのです。
このような時期に第二次世界大戦の犠牲者数を思い出すことが重要なことではないでしょうか?
戦後72年間、平和の続いたので、現在の日本人は先の戦争の膨大な犠牲者数を忘れてしまったのでしょうか?
多くの日本人は軍備強化を平和を守るための必要悪と認めているのです。
戦争は一旦始めると途中で止められないのです。ですから膨大な数の死者が出ます。人間の人格が破壊されます。捕虜が抑留されます。戦争責任を感じて自殺する人も出ます。
夫や息子が戦死し、残された家族が塗炭の苦しみを味わうのです。
その想像を絶する悲劇の大きさを忘れないでいると、戦争を絶対に避けようと決心出来るのではないでしょうか?
忘れないために何度でも記録を見直すことが大切です。
そこで今日は第二次世界大戦で戦争の犠牲になった人々の数をもう一度示します。
船橋精一さんの「我が家のホームページ」から、第二次世界大戦等の戦争犠牲者数のページを転載いたします。
(http://www.max.hi-ho.ne.jp/nvcc/TR7.HTM に掲載されていましたが、現在は削除されています)

国  名      兵員の死亡数  行方不明者数    一般市民の死亡数 
   アメリカ     407,828人     ―        ―

   イギリス     353,652人   90,844人       60,595人 

   フランス     166,195人       ―       174,620人 

   ポーランド      死者総数 6,000,000人   

   ソ  連       死者総数20,000,000人     
   中  国       死者総数10,000,000人

   ド イ ツ      2,100,000人   2,900,000人     500,000人 

   イタリア     389,000人     214,647人      179,803人 

   日  本    約2,300,000人              約800,000人  
  (日本の兵員のうち、朝鮮・台湾の兵員犠牲者、約5万人を含む)、   (以上の数字はワールドアルマナック等より)

犠牲者数の多いのは、ソ連の2000万人、中国の1000万人、ポーランドの600万人、ドイツの550万人、日本の310万人の順になっています。
更に「シベリア抑留とは」(PDF)を検索すると第二次世界大戦の国別の膨大な捕虜の数の統計があります。そしてシベリア抑留でドイツ兵が55万人死んだと記録されています。日本がシベリア抑留で5万人余死んだと言われていますから、その10倍です。

そして戦後、責任を取って自殺した民間人もいます。
ポツダム会談で敗戦後のドイツの処理案が発表された直後の4日間だけのドイツの自殺者数は;ベルリンで1200人、ライプチッヒで600人、ハンブルグで450人、ケルンで300人でした。4日間だけでの総計が2550人です。
日本では愛宕山にこもった民間人10人位とその他に数人が自殺したと言われています。戦争では敗戦後にも大きな悲劇が起きるのです。
20世紀の人類は狂気のように殺しあったのです。
上に示した犠牲者の数をジッと見て、決して忘れないで下さい。
死んだ人には家族が居ます。犠牲者の数の数倍の人々が生涯忘れられない悲劇を背負ってしまったのです。
「戦争反対!」と叫ぶ前に、戦争の想像を絶する悲劇の大きさを心に刻むのが重要と信じています。永久に戦争を廃絶し平和を守るために悲劇の大きさを忘れないようにしましょう。

北朝鮮とアメリカの戦争を止めるのは中国とロシアです。大戦争になれば中国の経済が崩壊します。ロシアも同様なので北朝鮮の暴走を止めるとも想像されます。
日本はこの動向がより順調に進むように中国やロシアの北朝鮮との外交交渉を支援すべきなのです。アメリカのトランプ大統領の挑発的な発言の尻馬に乗るべきではありません。
皆様はそうお思いになりませんか?

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、小金井公園で撮った秋の空の風景写真です。この平和な風景がいつまでも続くようにと思いつつ撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)





愛を強く感じる人、全く無関心な人、嗚呼、人はそれぞれ

2017年10月04日 | 日記・エッセイ・コラム
愛にはいろいろなかたちがあるようです。親子の愛や夫婦の愛は実感出来る分かり易い愛です。
しかし子供の童話によく描かれている王様の人々へに対する愛は、現在の日本人には分かりにくいのではないでしょうか。
王様が人々を愛し、人々は王様を愛することは美しいことです。王様も人々も幸福です。どんなに科学や工業が発達していても愛が豊かにみなぎっている国ほど幸せな国はありません。
そのような国がアジアのいっかくにあるのです。タイ王国です。
昨年の10月13日にプミポン国王が88歳で亡くなったときのタイの人々の写真をご覧下さい。

1番目の写真は国王を慕う民衆がタイのシリアート病院の外で国王の病気が良くなるように祈っている光景です。病院の外にいる人の多くがピンク色の服を着て、国王に幸運が訪れることを願っています。

2番目の写真はプミポン国王の姿を写した写真を掲げ嘆き悲しむ女性の写真です。

3番目の写真も同じようにプミポン国王の姿を写した写真を掲げ嘆き悲しむ女性の写真です。

4番目の写真は悲しみのあまり道端で泣き崩れる3人の女性の写真です。以上の写真の出典は、http://www.huffingtonpost.jp/2016/10/13/thailand-_n_12481536.html です。
プミポン国王の遺骸の通る沿道を国民が埋め尽くして悲しみにくれたそうです。そして国中が黒服を着て1年間の喪に服したのです。その1年間の喪も間も無く明けます。そして一年後の今月にプミポン前国王の葬儀を国家こぞって行うのです。

5番目の写真はこの一年間、黒服で通勤している光景の写真です。

プミポン国王はタイで敬愛される存在でした。国王の肖像画はタイの至る所で見かけられ、多くのタイ人は国王を崇拝の対象としていたのです。
プミポン国王は1927年12月5日、アメリカのマサチューセッツ州で生まれ、1946年6月、18歳で即位しました。世界で在位期間が最も長い王様でした。趣味は音楽、絵画、写真、ヨットなどだったそうです。作曲も行い、発表された作品は50を超えていたとも言います。。

タイは立憲主義の国ですが、政府に問題が起こったときには国王が仲裁役として大きな役割を担ってきた歴史があるのです。70年間に及ぶ在任中、クーデターや政治的な対立が起きたとき、国王は常に政治的な権力を行使して国内の平和を守ったのです。
タイは現在、2014年5月にクーデターが発生し、国王の承認を得たのち、軍政の支配下にあります。
このようにタイの王様は政治的な力を何度も発揮してきたのです。
それが可能だったのは国民が王様を愛していたからです。王様が国民を愛していたからです。
翻って日本の天皇制を考えて見ましょう。
私どもの天皇性は1300年の歴史があります。この長い間の存続を可能にしたのは時代、時代の政治権力者が天皇を利用して来たからです。と理解するのはあまりにも皮相的な理解です。
どんな時代にも天皇は人々を愛し、人々は天皇を愛していたのです。この相互の愛が天皇制を守ってきたとも理解できます。この相互の愛が無ければ政治権力者は天皇を利用できません。
このように目に見えない愛を強く感じる人もいます。鈍感で感じない人もいます。全く無関心な人もいます。
天皇制を否定する人にはこのような愛の存在が理解出来ないのです。
嗚呼、人はそれぞれです。しかし目に見えない愛を強く感じる人は幸せです。そのような人々を私は好きです。
今日示した写真に写っているような人々が好きです。尊敬しています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

政治に関心の無い人の罪、そして人間的な魅力

2017年10月03日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日、『安倍総理が辞め、小池総理に?原発は廃止か?』という題の記事を掲載しました。
そしてその冒頭部分は次のようなものでした。
・・・安倍さんの独断的解散が藪蛇になり小池さんという強力な蛇が鎌首を上げました。
その結果、「自民・公明のグループ」と「希望・民進・維新というグループ」と「共産・社民・その他のグループ」の3つのグループの三者対抗戦になってしまいました。この3つのグループが475定員の衆議院議員の議席を争う選挙が今回の選挙なのです。・・・
今日はそれにまつわる感想です。簡略に書きます。
民主国で政治に関心を持たない人は悪いと言います。全ての国民が政治に関心を持ち自分の自由な考えに従って投票することが民主主義の原理原則です。ですから政治に関心の無いことは罪なことなのです。
このようなことを戦後教育で教わりました。その中学校で教わったことを私は金科玉条として信じています。
しかし日本にはまったく政治に関心の無い人も多いのです。関心の無さは国会議員や市町村議員の選挙の際の棄権率が30%から40%、あるいはそれ以上あることで分かります。
棄権率が「政治に関心の無い人」という短絡的な書き方に問題があるのは承知していますが、話を進めます。なにせ上で簡略に書きますと書いたのですから。
私は政治に関心の無い人に人間的な魅力を感じます。
この世の俗悪な権力欲が無い素晴らしい人が多いのです。
そんな人の例は芸術家、学者、そして聖職者に多いのではないでしょうか?
芸術的な価値、学問的な価値、信仰の価値などは政治的権力とは無縁のものです。
しかしここにも陥穽があります。例えば画家の組織、学会の組織、そして宗教の組織が出来ると、その中に権力構造ができます。
その権力にも無縁な人こそ人間として本物の魅力があるのではないでしょうか?
実例を挙げます。この欄で、8月7日に『薄幸の画家たち、山内龍雄と韓国の朴壽根のはなし』という記事を掲載しました。
そうして日本ではあまり有名ではない山内龍雄氏(1950年ー2013年)と韓国の朴壽根氏(1914年~1965年)の人となりをご紹介しました。二人の絵画には東洋的な無常感が漂い、何故か共通な基底があるようなのです。
これで止めます。
最後に一言です。
政治に関心の無い人には生活の追われて、その暇が無い人もいます。
単に怠慢で新聞の政治記事を読まない人もいます。子育てに熱中していて政治には全く関心の無い女性も多いかも知れません。私はそんな全ての人に人間的な魅力を感じます。
しかし民主主義の社会に生きている限り、政治に関心の無いことは良いことではありません。政治に自分固有の意見を持つことが民主主義の原理原則なのですから。
政治家の悪口を言って、自分が偉いと思っている人は論外です。

今日の挿し絵代わりの写真は江戸時代そのままの中山道、奈良井宿の風景写真です。今年の7月18日に撮りました。自動車が写っているのは江戸時代と違いますが。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)











安倍総理が辞め、小池総理に?原発は廃止か?

2017年10月02日 | 日記・エッセイ・コラム
これは素人の政治談議です。信用しないで下さい。安倍さんの独断的解散が藪蛇になり小池さんという強力な蛇が鎌首を上げました。
その結果、「自民・公明のグループ」と「希望・民進・維新というグループ」と「共産・社民・その他のグループ」の3つのグループの三者対抗戦になってしまいました。
この3つのグループが475定員の衆議院議員の議席を争う選挙が今回の選挙なのです。
そうすると誰が考えても「自民・公明のグループ」が議席を40以上減らし475席の半分以下になります。当然、安倍首相は責任を取って辞めます。
新しい衆議院議員の開会冒頭では次の首相の投票が行われます。
ここで「希望・民進・維新というグループ」と「共産・社民・その他のグループ」の野党が団結して小池さんへ投票すれば小池さんが次期総理大臣になる可能性があります。
しかし全ての野党議員が団結しないで自民・公明の議員が団結して石破さんへ投票すればまた自民党の総理大臣が生れるのです。
さて小池さんは都知事を辞めて衆議員選挙に出るでしょうか?
私は出ると思います。後出しジャンケンの得意な小池さんです。その上、都知事の後任は「都民ファーストの会」の有力メンバーを副知事にしているようです。

さて小池さんが総理大臣になった場合には日本はどのように変わるでしょうか?
まず大きな変化は脱原発の約束にしたがって、段階的に原子力発電所を廃止して行くことになるでしょう。
日米安保条約は今迄と同じように強化の方向を続けるでしょう。しかしトランプ大統領とは少し距離を置き、安倍総理のような前のめりの発言はしなくなるでしょう。
そして小池さんの特徴はエジプトのカイロの大学を卒業していることです。
日本の中東政策がアメリカ一辺倒から離れ、アラブよりの政策になると思います。イスラエルを助けるよりはパレスチナ自治区を陰で支援すると思います。中東の情勢は混沌としていますが、アラビア語に堪能な小池さんは独自の見解を持っていると思います。
そして小池内閣と各省の官僚組織の関係はどうなるでしょうか?
さきの民主党政権では官僚組織をあまりにも無視したために内政が混乱し、結局は民主党政権は倒れてしまいました。
今度はこの苦い経験から官僚との協調が行われると思います。
官僚のある程度の同意を得た上で消費税を10%に増額することは延期されるでしょう。
小池さん自身は防衛大臣などの大臣を大過なくして来た経験があるので先の民主党の失敗はしないでしょう。

このように書くと小池さんが総理大臣になりそうですが、以上は単なる素人の政治談議です。信用しないで下さい。
それにしても政治家には節操が無いのものですね。驚いています。

今日の挿し絵代わりの写真は混沌とした世界を忘れ良い気分になるような秋の空の写真です。9月14日に霧ヶ峰や車山で撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









海岸道路、真鶴道路からの海の群青色

2017年10月01日 | 写真
真鶴道路は海岸にぴったり沿った楽しい自動車道路です。
2週間前には、八ヶ岳高原から白樺湖、車山、そして霧ヶ峰と山岳道路をゆっくり走りましたが、一昨日は小田原から真鶴道路に入り、真鶴半島で遊び、湯河原までのドライブを楽しんで来ました。
空は青く、車の窓からは絶えることなく群青の海の景色が見えます。車内に居る私の腕も顔も藍色に染まったような気分でした。
そんな太平洋へ開いた相模湾の風景写真をお送りします。写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









カトリック小金井教会の岡山 尚幹さん達の『ジョン・ラターを歌う会』の合唱を聞く

2017年10月01日 | 日記・エッセイ・コラム
カトリック小金井教会で長い間、聖歌の指導をしてきた岡山 尚幹さんは『ジョン・ラターを歌う会』の代表として活躍しています。
昨日、その『ジョン・ラターを歌う会』の特別演奏会が小金井宮地楽器ホールでありました。岡山さんからご招待がありましたので家内と午後2時から聴いてきました。ジョン・ラターは現役のイギリスの作曲家です。
プログラムはジョン・ラター作曲のレクイエム(鎮魂曲)が主でした。
レクイエムならモーツァルト「死者のためのミサ曲」は知っていましたが、その他は知りませんでした。
そうして、レクイエムという言葉の意味も分かりませんでした。
そこで調べてみましたら、レクイエムの意味は死者の安息を神に願うカトリック教会のミサのことを意味し、またそのミサで用いる聖歌のことも意味するそうです。
それはさておき昨日聴いたジョン・ラターのレクイムの感想です。
聴いて驚きました。女性合唱と男声合唱の声が静かに美しく響き、見事にハーモニーをしているのです。その上、全てが始めて聞く曲なのに何故か懐かしく感じられ親しみやすいのです。そして穏やかで歌い易い作曲です。ジョン・ラターの人々に対する愛が感じられるのです。陳腐な言い方ですが心底から感動しました。
正直に言えばあまり期待していなかったのです。昔、ドイツに住んでいた頃、あちこちの美術館で宗教画を嫌になるほど沢山見ました。結論として芸術と宗教は別々にすべきという確信に至りました。
芸術に安易に宗教を持ち込めば信者は感動するでしょうが信心の無い人にとっては迷惑千万なのです。
ところが昨日聴いたレクイムは宗教的なものが抑えてあり、芸術的な美しさが主になっています。宗教に関心の無い日本人が聞いても合唱の美しさや楽しさに感動すると思います。年齢を重ねた男性・女性の精神的な落ち着きが流れる合唱でした。
その上、ピアノ、オーボエ、チェロ、の伴奏が合唱の美しさを一層引き立てていました。
そしてまた合唱団を指導してきた小津準策さんの折り目正しい指揮ぶりにも好感が持てました。彼の指導で出来上がった演奏会であると分かりました。
ソプラノの独唱者、文屋小百合さんは牧師の娘です。チェロの伴奏の高城晶一さんの控え目ながら美しいチェロの音色には魅了されました。オーボエの小花恭佳さんは良い音で吹いていました。
ピアノ伴奏の山口真未さんは才能溢れる方ですが、伴奏なのにピアノコンチェルトのように弾く時があり、いささか辟易しました。伴奏の難しさが理解できました。
それにしても良い合唱でした。男性合唱団の中にカトリック小金井教会の岡山 尚幹さんの他に石島武一さんがいて嬉しかったです。石島さんは桜町病院の院長をしていたお医者さんです。教会の男声合唱を支えている方です。合唱団には小金井教会の信者がまだいます。テノールに一人、アルトに2人です。高円寺教会の男性が1人、吉祥寺教会の女性が1人、合計カトリックの人が合計7人も歌っていました。
そんなこともあって心楽しい土曜日の午後でした。ラテン語の意味は判らぬながら、神の大きな愛を感じるコンサートです。

写真は昨日の小金井宮地楽器ホールでの『ジョン・ラターを歌う会』の特別演奏会の様子です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





===参考資料==================
(1)作曲家、ジョン・ラターの経歴や作風、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%BF%E3%83%BC
ジョン・ラター(John Rutter、1945年9月24日 - )は、イギリスの作曲家・指揮者である。主に合唱の分野で活躍し、その曲は英米を中心にポピュラーになっている。

経歴、
ロンドン生まれ。ハイゲイト校(Highgate School)の聖歌隊員を経て、ケンブリッジ大学のクレア・カレッジ(Clare College)で音楽を学ぶ。在学中から既成のクリスマス・キャロルを編曲するとともに、自ら作詞・作曲した新作キャロルを発表する。卒業後、1975年から同カレッジの音楽科主任を務めた。
1979年、作曲活動に専念するためカレッジを辞し、1981年には教え子を中心としたプロの合唱団ケンブリッジ・シンガーズ(The Cambridge Singers)を結成。1984年には専用レーベルのコレギウム・レコード(Collegium Records)を設立、自作を含めた合唱曲を多数録音している。
また、フォーレ作曲『レクイエム』の校訂をおこない、1984年に1893年版が出版された。これは、オーケストラの編成がそれまで一般的に演奏されてきたものより小規模な「第2版」で、作曲者の意向を反映したものとされている。その後第2版を再現する試みがいくつかなされているが、ラターの1893年版はその嚆矢となった。
作風
20世紀後半の作曲家としては異例なほど保守的で、前衛的・実験的な要素はほとんど見られない。それに代わって、ポップで歌うのが楽しい旋律とすっきりとした和音が曲の基調をなし、諸所に変拍子やジャズのイディオムを混ぜることで現代性を加えている。また、グレゴリオ聖歌を引用するところや、民謡を積極的に取り入れることもあり、音楽を専門としない人たちにも親しみやすさがある。
印象的でポップな旋律によって、各国のアマチュア合唱団の間では絶大な人気を誇る一方、キリスト教に関連した合唱曲が大半なのにもかかわらず、本国イギリス・聖公会およびキリスト教国およびプロの合唱団からは、重要な作品とみなされておらず、合唱曲のポップ版、またはクリスチャン・ロックの合唱版と同じレベルでみられている。
日本においては、1980年代後半に作品が歌われ始め、1990年代にケンブリッジ・シンガーズのCDが多数輸入されるようになると、広く演奏されるようになった。

(2)レクイムとは?https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%A0
レクイエム(ラテン語: Requiem、レクィエムとも表記される)は、ラテン語で「安息を」という意味の語であり、以下の意味で使われる。
死者の安息を神に願うカトリック教会のミサ。死者のためのミサ(羅: missa pro defunctis)。聖公会においても行われる。
上記のミサで用いる聖歌。完全ミサ曲のひとつ。またそれに想を得て作られた楽曲。「死者ミサ曲」、「死者のためのミサ曲」などと訳される。「鎮魂歌」(ちんこんか)、「鎮魂曲」(ちんこんきょく)と訳されることもあるが、レクイエム自体には「鎮魂」の意味はない。
宗教的な意味を離れて、単に「葬送曲」「死を悼む」という意味でレクイエムという語が使われる。このカテゴリーに声楽を伴わず、ピアノ独奏とトランペット独奏を伴う室内オーケストラのために書かれたハンス・ヴェルナー・ヘンツェの作品、オルガン独奏のための「ウェービング」に始まり、様々な楽器編成のための作品がほぼピッチ・インターヴァル技法で作曲されている松平頼暁の作品、「若き詩人のためのレクイエム」と題して電子音を含めた様々な楽器編成で構成されるベルント・アロイス・ツィンマーマンの作品などがある。またレクイエム本来の典礼文と他の詩作品を組み合わせたものに作曲した例として、ベンジャミン・ブリテンの作品などがある。
正教会におけるパニヒダのことを、永眠者のための祈りであることの類似性から「レクイエム」と呼称することがあるが、西欧と日本以外ではこうした用例は一般的ではない。