後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

小金井の梅園の写真と全国の梅の名所

2018年02月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の冬は寒いです。諏訪湖も5年ぶりに全面凍結し、久しぶりに氷が長く盛り上がり割れる「お神渡り」が見られたそうです。
日本海側は例年にない豪雪で苦労しています。でももう少しの辛抱で春がやって来ます。梅や桜の咲く春がやって来ます。
ここ小金井の梅の開花も例年より10日ばかり遅れました。
昨日、小金井公園の梅の園に行きましたなら100本ある梅の木の10本ほどは満開になっていました。早速写真を撮ってきました。
梅の園の隣にロウバイも一月から咲き始め、ようやく満開になっています。
梅の花々とロウバイの花の写真をお送りいたします。



















写真を撮りながら昔行った水戸の偕楽園の梅林の風景を思い出していました。いろいろな梅林に行きましたが偕楽園の梅林ほど印象深い所はありません。南向きの梅林が満開になっていて良い香りが濃厚に漂っています。
その上、何と言っても枝の剪定が非常に上手なのです。
梅は黒い太い枝に咲きますが、剪定が上手だと黒い武骨な枝々が梅の花の陰になって見えないのです。好文亭に上がって見下ろすと紅白の花だけが春風に漂っているように見えるのです。それぞれの梅の木の姿が優しい丸みをおびた形に仕上がっているのです。
梅林の斜面を南に下りた先には白鳥の泳いでいる千波湖が春の陽に輝いているのです。
流石、水戸徳川家が長年愛した梅林だけのことはあります。
そんな思い出を楽しみながら帰宅後考えました。きっと全国には梅の名所が沢山あるに違い無い。そこで調べてみましたら本当に各地に沢山あるのです。皆様のお住まいの近所にも必ずやあると存じます。
以下に全国の梅の名所をお送りいたします。
(1)梅の名所; http://www.87spot.com/link/hsp@ume.htm
日本全国 梅の名所や撮影スポット盆梅展・梅まつり 2018年 梅図鑑 ウメの専門サイト

北海道・東北地方 - 青森県 岩手県 宮城県 秋田県 山形県 福島県
平岡公園 壮瞥公園 三笠あすか梅の杜 津軽フラワーセンター 大沢の臥竜梅  盛岡城跡公園 
国営みちのく杜の湖畔公園 瑞巌寺臥龍梅 堤梅団地 浜田森林総合公園 真室川梅まつり 
湯田川温泉梅林公園 専称寺 西田町梅の里 花見山公園 

関東地方 - 茨城県 栃木県 群馬県 埼玉県 千葉県 東京都 神奈川県
偕楽園 弘道館 筑波山梅林 越生梅林 大宮第二公園 ふかや緑の王国 清水公園 成田山公園 
亀戸天神社 京王百草園 小石川後楽園 小金井公園 せたがや梅まつり 神代植物公園 高尾梅郷 
府中市郷土の森博物館 向島百花園 谷保天満宮 湯島天神 吉野梅郷 
小田原・曽我別所梅まつり こどもの国 三溪園 保土ケ谷公園 湯河原温泉・梅の宴 

北陸信甲越地方 - 新潟県 富山県 石川県 福井県 山梨県 長野県
田上町梅林公園 梅護寺 豪農の館 高岡古城公園 兼六園 西田梅林 
浅間神社 敷島総合公園梅の里 不老園 放光寺 信州伊那梅苑 

東海地方 - 静岡県 愛知県 岐阜県 三重県
梅林公園・ぎふ梅まつり 熱海梅園 伊豆四季の花公園 伊豆月ヶ瀬梅林 岩本山公園 おおひと梅まつり 
大高緑地 佐布里池 名城公園フラワープラザ いなべ市農業公園 かざはやの里

関西 近畿地方 - 滋賀県 京都府 大阪府 兵庫県 奈良県 和歌山県
長浜盆梅展 坂本盆梅展 大阪天満宮 道明寺天満宮 郡山盆梅展 万博公園 
綾部山梅林 世界の梅公園 岩代大梅林 紀州石神・田辺梅林 月ヶ瀬梅林 南部梅林

中国地方 - 鳥取県 島根県 岡山県 広島県 山口県
樗谿公園梅鯉庵 尾高城跡梅園 河原城 野花梅渓 石見銀山 三隅梅林公園 
RSKバラ園 岡山市後楽園 神崎梅園 半田山植物園 梅の里公園 
梅の里 縮景園 ちゅーピーパーク 満汐梅林 
古熊神社 吉香公園 ときわ公園 東行庵 妙青寺梅園 冠山総合公園梅の里(冠梅園)  余田臥龍梅

四国地方 
- 徳島県 香川県 愛媛県 高知県
明谷梅林 観梅苑 阿川梅の里梅林 美郷の梅 滝宮天満宮 梅津寺公園 松山城  綱敷天満神社 
七折梅園 南楽園 市民の森梅林園 松軒山公園 高知城 白木谷梅林 土佐山嫁石の梅 

九州地方
 - 福岡県 佐賀県 長崎県 熊本県 大分県 宮崎県 鹿児島県
舞鶴公園 小富士梅林 普光寺臥龍梅 嘉麻市梅林公園 白木谷梅林  石橋文化センター 
太宰府天満宮の飛梅 谷川梅林  高伝寺 みゆき梅林園 牛尾梅林 御船が丘梅林 
梅園身代わり天満宮 松森神社 島原城 熊本城飯田丸梅園 谷尾崎梅林公園 人吉梅まつり 
中尾山自然公園 吉野梅園 日田おおやま梅まつり 愛の園朝倉文夫記念公園  月知梅 かいごん塔 
湯之宮座論梅 本東寺慧日梅  仙巌園 藤川天神の臥龍梅

(2)全国の梅の名所一覧、https://www.navitime.co.jp/category/0702002/

(3)梅の名所ランキング、https://www.enjoytokyo.jp/feature/flower/ume/

(4)全国梅の名所、https://www.navitime.co.jp/category/0702002/

皆様のお住まいの土地の梅は咲いたでしょうか?
日本は南北に長い列島なので、もう散った所もあるでしょう。現在満開の所もあります。そして深い雪に埋まって梅の花どころではない地方もあります。そして北海道では5月に梅も桃も桜も一緒に満開になるそうです。春が待ちどうしいですね。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

漁業用や運搬用に使われた小型帆船、smackの写真

2018年02月14日 | 写真
スペインやオランダの太洋航海用の大型帆船は16世紀以来日本にも沢山来ました。
ですから日本人は西洋の大型帆船の姿はよく知っています。
しかし沿岸用の小型の実用帆船はあまり知りません。
そこでイギリスの沿岸で運搬や近海漁業に19世紀まで実用されてきた、Smack小型帆船の写真をお送りします。

1目の写真の出典は、
https://www.pinterest.jp/paulleppington/mine-shadow/ です。

2番目の写真の出典は、https://www.pinterest.jp/explore/hull-ship/ です。

3目の写真の出典は、
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Notre_Dame_de_Rumengol_(Gabare).jpg です。

現在の日本のいしづえを作った偉大な吉田茂

2018年02月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昔の東海道の宿場町、大磯はさびれた町です。しかしそこには風景の良い城山公園があります。その一角にに旧吉田茂邸が復元され一般に公開しています。
小高い城山全体が美しい公園になっていて青い太平洋が眺められます。
吉田首相は幼少の時、大磯で過ごし引退後は亡くなるまで大磯に住んでいたのです。大磯の家が終の棲家になったのです。
昨日、家内が撮って来た旧吉田邸の写真をまずお送りします。足の弱い私は城山が登れないので駐車場で待っていました。









何故、旧吉田邸を訪れたかと言いますと、私が一番感謝している政治家だからです。
日本中が焼け野原になった敗戦国の復興の礎を作った政治家でした。ドイツ、イタリア、日本の三国同盟に反対し憲兵に逮捕されながらも太平洋戦争の停戦に努力し、戦後、首相としてサンフランシスコ講和会議で日本の独立を勝ち取った政治家だったのです。
マッカーサー総司令官と親密な関係を築きアメリカから70万トンの食糧の緊急援助を受け取って国民を飢餓から救ったのです。
その援助の赤い砂糖でカルメラ焼きを作った時の美味しさは忘れられません。
外交官としてイギリスに大使として駐在していたので英米人の考え方が分っていたのです。
「戦争で敗けても、外交で勝つ」という思いで、マッカーサー総司令官と交渉を続け日本国民の困窮した生活を守ったのです。
戦後の日本の安全保障を守った日米安保体制の基礎も作ったのです。
終戦直後約7年間にわたって首相を務めた吉田茂の功績は偉大です。詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82 をご覧下さい。
今日は彼にまつわる面白い3つのエピソードをご紹介いたします。
(1)大の葉巻好きだった
大の葉巻好きで知られ、戦中戦後の輸入自体が不如意な時代にも、戦前に大量に買い溜めしておいた本場物のハバナを喫っていたほどでした。サンフランシスコ講和条約の締結に至るまでの交渉が難航していた時期には葉巻を断っていたといいます。晩年には葉巻を止め、フィルター付き紙巻きのハイライトに切り替えたそうです。
戦後の物資不足の折、葉巻を愛好する吉田に対し、フィリピンにタバコ畑を所有していたマッカーサーから葉巻を贈りたいと言われましたが「私はハバナ産しかたしなみませんので」と慇懃に辞退しました。
(2)東京大学総長は曲学阿世の徒と叱りつける
サンフランシスコ講和会議直前、ソ連や中国を除く国々との単独講和を進める吉田首相に対し、東京大学総長南原繁がこれらの共産国を含めた全面講和を主張しました。これに激怒した吉田は「これは国際問題を知らぬ曲学阿世の徒、学者の空論に過ぎない」と発言、「学者風情に何がわかる」とばかり、南原を激しく叱りつけたものでです。
そして講和会議を終了した後で、日米安全保障条約にたった一人で署名したのです。条約調印の責任を一身に背負い、他の全権委員たちを安保条約反対派の攻撃から守るためだったのです。
(3)日本の統計が正しかったら真珠湾攻撃はしなかった
吉田はマッカーサーに「450万トンの食糧を緊急輸入しないと国民が餓死してしまう」と訴えたが、アメリカからは結局その6分の1以下の70万トンしか輸入できなかった。しかしそれでも餓死者は出なかった。マッカーサーが「私は70万トンしか出さなかったが、餓死者は出なかったではないか。日本の統計はいい加減で困る」と難癖をつけます。それに対して吉田は「当然でしょう。もし日本の統計が正確だったらむちゃな戦争などいたしません。また統計どおりだったら日本の勝ち戦だったはずです」と返しします。これにはマッカーサーも大笑いだったそうです。

そして復興を成し遂げた日本を見てもらいたいと考えた吉田は、1964年東京オリンピックにマッカーサーを招待しようとします。しかしマッカーサーは既に老衰で動ける状態にはなく、オリンピックの半年前に死去しました。吉田はその国葬に参列します。
1967年(昭和42年)10月20日 に、 神奈川県大磯の私邸で永眠します。1878年(明治11年)生まれの享年89歳でした。
妻の雪子がカトリックだったこともあり、吉田家は長男の健一を除いてみな信者で、吉田もカトリックには好意を持っています。
1964年(昭和39年)に建設された東京カテドラル聖マリア大聖堂の後援会の会長も引き受けているくらいでした。
ただし岳父の牧野伸顕のアドバイスもあって、極右による標的となることを避けるため、吉田自身は生涯洗礼を受けませんでした。それでも東京大司教館司教だった濱尾文郎神父には「元気なときはともあれ、死にそうになったら、洗礼をうけて“天国泥棒”をやってやろう」と語っていたそうです。濱尾司教は吉田に死後ただちに洗礼を授け、「ヨゼフ・トマス・モア」として天国に送ったそうです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「今日も晴天!大磯の浜辺の写真を撮ってきました」

2018年02月12日 | 写真
「今日も晴天!大磯の浜辺の写真を撮ってきました」
神奈川県の大磯町は自宅から中央高速道路と圏央道を60kmくらい走ると1時間半くらいで行ける相模湾に面した古い町です。
明治時代から海水浴場として有名な場所でした。
旧吉田茂首相の邸宅のある城山公園もあります。
そんな場所の写真を撮りながら遊んで来ました。





この大磯町は温暖な気候の場所として有名でした。明治時代にドイツ人医師ベルツによって海水浴の普及が叫ばれていました。その適地として大磯は海水浴場と指定されたのです。それで大磯は海水浴場の発祥と言われています。もっとも海水浴発祥の地は沙美(岡山県)二見浦(三重県)など他にも存在しますが。
明治時代の前には日本人は海水浴を楽しむ習慣が無かったのです。
明治中期から昭和初期にかけて、大磯には有名人の別荘がたくさん建てられました。特に伊藤博文、吉田茂の別荘は特に有名です。この他に山縣有朋や西園寺公望、大隈重信、陸奥宗光、岩崎弥之助、安田善次郎といった政財界要人の別荘が立ち並んでいたのです。1907年(明治40年)頃の大磯には150戸以上の別荘があったといわれていたのです。
現在は寂れた町です。全ての別荘は跡かたもありません、唯一吉田茂首相邸宅だけが城山公園に復元され公開されています。
旧東海道だった国道が大磯宿の町並を通っています。車でゆっくり走って左右を見ても昔の面影今いずこという景観です。
明治は遠くなりました。
時代が変わり過ぎました。この世は本当に常ならずです。

国際関係の客観的理解(2)北方四島は絶対にかえらない

2018年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
国際問題を客観的に考えるためには相手国の考え方を正しく理解することが一番重要です。それと日本人の考え方を加えて二で割れば、二つの違う考えの中間になります。それが客観的理解に近い理解になります。これは雑な言い方ですので問題ごとに丁寧な考察が必要になるのが当然です。
この手法に従って私が相手国の考え方をまず書きます。
日本人の考え方は皆様よくご存知なので書きません。そうすると読者は感情的になって私を非難するコメントを投稿して来ます。私は相手国の考え方が正しいと主張してはいません。
『喧嘩両成敗』というように国際間にある問題に争いが起きる場合には、双方に悪い原因があるのです。一方だけが悪いことなど絶対にないのです。
この原則を胆に銘じて以下の文章をお読みください。
さてロシア人は択捉島、国後島、歯舞島、色丹島の四島を正当な理由で自国の領土だと考えています。
その根拠は第二次大戦でロシアが日本を攻撃したら樺太と千島列島をロシア領として認めるとアメリカ、イギリス、などの連合国側が秘密裡に固く約束したからです。
この秘密協定に従ってソ連は終戦直前に参戦し満州と樺太と千島列島の択捉島、国後島、歯舞島、色丹島の四島を軍事占領したのです。
これに対して敗戦した日本は何も言えなかったのです。
後に吉田首相だけは歯舞島、色丹島は千島列島に含まれないからロシア領にするのは不当であると主張したのです。
しかしそれは負け犬の遠吠えとして国際間では全く無視されたのです。
もう少し詳しい事実を書きます。
以下は、「北方領土問題」http://www.ne.jp/asahi/cccp/camera/HoppouRyoudo/Hoppou3.htm からの抜粋です。
「千島列島はなぜロシア領か?」
 第2次世界大戦末期、ヤルタ会談で米国大統領ルーズベルトはソ連のスターリンに対して対日参戦を求めました。このとき、ドイツの降伏後、3ヵ月以内に、ソ連が日本を攻撃したら、樺太と千島列島はソ連領として認めるという秘密協定を作ったのです。
正しくは、これに先立ってモスクワでの外相会談の席上で、連合国側はソ連の対日参戦を要請していたのいです。その延長にヤルタ会談での秘密協定の調印がなされてのです。
 この協定に従ってソ連はドイツの降伏後のょうど3ヵ月後の8月6日に参戦したのです。8月6日から満州国に進攻し、8月11日には当時日本領だった南サハリンに進攻します。さらに18日には千島列島に進攻開始します。それは日本が9月2日降伏文書に調印する前の軍事行動だったので国際慣例上、ソ連の攻撃は正当化されています。
もっと深読みすればアメリカはソ連が千島列島のソ連による占領完了を待った上で9月2日に戦争修了の調印式を行ったと考えられます。
 日本政府が受諾したポツダム宣言8条にしたがって、日本の領土は、四つの主要な島(北海道、本州、九州及び四国)及び連合国が定めた諸小島に限定されたのです。
降伏文書調印と同日に出された一般命令第一号により、千島諸島に在る日本軍は「ソヴィエト」極東軍最高司令官に降伏することが求められています。すなわち、ポツダム宣言第8条とアメリカ占領軍の一般命令一項(ロ)により、千島はソ連の占領下になったのです。
しかし実際にソ連が北方4島を占領するのは、8月28日から9月5日にかけてです。

さて日本を占領したアメリカのGHQは1946年1月29日に日本の行政区域を定める指令(SCAPIN-677)を出します。この指令では、千島列島はもとより歯舞、色丹も日本の行政範囲から正式に省かれていたのです。なお、このとき竹島も日本の行政範囲から省かれています。正式にはこのとき以降、日本の施政権は北方領土や竹島に及ばない事になり、現在にいたっています。
 1951年、サンフランシスコ条約を批准します。条約第2条C項は次のようになっており、日本国は世界に向けて、千島の放棄を約束しました。
『日本国は、千島列島並びに日本国が千九百五年九月五日のポーツマス条約の結果として主権を獲得した樺太の一部及びこれに近接する諸島に対するすべての権利、権原及び請求権を放棄する。』
 日本が放棄した千島とはどこか、条約には明確な記述はありませんが、同年10月の衆議院で、西村熊雄外務省条約局長は、放棄した千島列島に南千島(国後・択捉島)も含まれるとの答弁を行っており、国内外に向けて、国後・択捉島の放棄が明確に宣言されました。
なお、歯舞群島と色丹島は北海道の一部であり千島に含まれないというのが当時の日本政府の説明でした。

 サンフランシスコ条約では、日本が放棄した千島とはどこか、若干の解釈の違いがあった事が知られています。 
 ソ連代表グロムイコは「樺太南部、並びに現在ソ連の主権下にある千島列島に対するソ連の領有権は議論の余地のないところ」であるとの発言をしています。
 アメリカ代表は演説の中で、「千島列島という地理的名称がハボマイ諸島を含むかどうかについて若干の質問がありました。ハボマイを含まないというのが合衆国の見解であります」との発言をしています。
 日本代表の吉田茂は「日本の本土たる北海道の一部を構成する色丹島及び歯舞諸島」との表現で、歯舞・色丹が千島列島に含まれないとも受け取れる表現を使っていますが、国後・択捉については「千島南部の二島」の表現をしています。
 これらのことから、サンフランシスコ条約では、国後・択捉は日本が放棄した千島列島に含まれるという事で一致していたわけですが、歯舞・色丹については、意見の一致をみなかったという事がわかります。

以上の経緯の結論として、現在のロシアは北方4島は国際的にも認められたロシアの領土だと考えています。
でから北方4島は日本へ絶対に帰ってこないのです。
さて日本人の考えはどういうものでしょうか?
ソ連は日本との相互不可侵条約があるのにも突然参戦したのであり北方4島の占領は国際的に認められない不当な占領である。その上満州や樺太の日本人軍人など60万人も抑留し、強制労働をさせた代償として北方4島は返還すべきである。
これは日本人の共通した考え方です。
しかしソ連に抑留され強制労働をさせられたドイツ軍兵士は230万人もいたのです。そしてその大部分は二度と祖国に帰れなかったのです。このことを考えると粛然たる思いをします。
日本人が北方4島に拘り過ぎるのは本当に国益にかなうことになるでしょうか?
私は択捉島と国後島は忘れ、歯舞島と色丹島の日本の権益を守るような外交努力を続行すべきと考えています。

今日の挿し絵代わりの写真は栄樹園というある園芸花屋さんで先日撮った花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)










カーニバル、灰の水曜日、四旬節、そして復活祭

2018年02月11日 | 日記・エッセイ・コラム
リオのカーニバルが新聞やテレビに出てくるようになると、ああ 春が近づいたと感じます。
そしてそれが終ると「灰の水曜日」があり四旬節が続いて、最後に復活祭がきます。
それは春先の季節のうつろいを示す歳時記のようなものです。
今年の灰の水曜日は2月14日です。ですからリオのカーニバルはその前日に一斉に終了します。
そのあとの四旬節は今年は2月14日に始まり、復活祭の4月1日へと続くのです。
北半球の西洋では春先ですが南半球は夏の終わりです。その季節のうつろいを示す祝祭日です。
西洋の祝祭日のクリスマスやカーニバルや復活祭も日本の俳句の季語になっていることは面白いと思います。

今日はリオのカーニバル、灰の水曜日、四旬節、復活祭の意味とお互いの関係を簡単にご説明したいと思います。
リオのカーニバルでは山車の飾りつけを競います。そして女性の踊りもついています。毎年、四旬節の前に行われるお祭りです。
南米でのようなお祭りさわぎはヨーロッパではしません。南ヨーロッパでは仮装を中心にした宴を開きます。謝肉祭の宴です。
ヨーロッパのカーニバルは仮装を競う宴ですが、謝肉祭とも呼ばれます。
ドイツなどの北ヨーロッパではカーニバルのお祭り騒ぎをしません。
ところで本来はカトリックのお祭りのカーニバルは日本人も参加するようになりました。
一昨年、青森県五所川原市の立佞武多の人形灯籠の「ねぷた」はブラジル・サンパウロのカーニバルに参加しました。(http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG14H3G_U5A210C1CR8000/ )

一昨年は日本とブラジルが外交関係を樹立して120年です。五所川原市が「日本の復興支援への御礼を伝えたい」とねぷたの参加で協力したのです。
カーニバルの踊りのサンバ踊りは日本各地の「サンバ祭り」として夏祭りの一つとして広がっています。サンバ祭りは四旬節に関係なく夏に行われますので宗教行事ではありません。
しかし夏の歳時記の一つとして開催されているようです。

さてそれはそれとして、これらの宗教的な行事の意味とお互いの関係を簡略に説明しておきます。
イエス・キリストは、ローマ提督、ピラトによって十字架刑にされました。2000年程前の出来ごとです。しかし3日後に復活して生き返りました。そして弟子達と会い、話をして、天国へ登り、神の右の座に着きました。
このイエス様の復活を祝うのが復活祭です。春先の大きなお祭りです。今年は4月1日(日曜日)です。
その前の40日間が四旬節として歌舞音楽を控え、断食や節食をしてイエス様の処刑を悼みます。
カトリック圏では騒がしい音楽やお笑いがテレビやラジオから消えます。静かな番組になります。禁欲的な生活を送る40日間なのです。
その四旬節の始めの日が、「灰の水曜日」です。灰の水曜日とはその日に神父さまが信者一人、一人の頭に灰をつけてくれるのです。この世の全てのものは土から生まれ、土へ還るということを忘れないように信者の頭に灰をつけるのです。今年は2月14日の水曜日です。
そしてこの日から禁欲の40日(四旬節)が始まります。
この禁欲的な40日間の前に大いに肉を食べ、ワインを飲み、馬鹿騒ぎをして断食や節食の期間へ突入する準備をします。それがカーニバル、あるいは謝肉祭と呼ばれるお祭りなのです。
ですからこの飽食や馬鹿騒ぎは「灰の水曜日」の前日にピタリと止めます。大規模なリオのカーニバルも2月13日にピタリと止め、世の中は水を打ったように静謐になります。
この謝肉祭が行われるのはカトリックの国々です。特にスペインやポルトガルの植民地だった南米では大きなお祭りとして毎年行われます。
しかし、イエス様は飽食や、欲望のままに酒を飲むのを喜ぶでしょうか?「汝、肉慾に生きるな」と教えました。ですから馬鹿騒ぎのカーニバルはキリスト教とは関係の無いお祭りだと私個人は理解しています。

「灰の水曜日」はカトリックの重要な儀式で、今年は2月14日で、この日から復活祭の四旬節が始まります。
なお復活祭の日付は毎年変わります。「春分の日の後の最初の満月から数えて最初の日曜日が復活祭」と定められているからです。これは、紀元325年に開かれたニカイア公会議という世界教会会議で定められました。その年によっては最大一ヶ月ほど、つまり月の周期プラス数日のずれが生じるのです。年ごとの日付は、http://www.calvin.org/misato/easter/easter04.htm をご覧下さい。
このような歴史的事情と関係の無いのが日本の夏の「サンバ祭り」です。
しかし日本に定着しているクリスマスと同じようにサンバ祭りも良いものです。

写真5枚にリオのカーニバルの様子を示します。写真は「リオのカーニバル」を検索して出て来る多数の写真の中から選び、お借りしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









彩湖の写真、平昌オリンピック、灰の水曜日

2018年02月10日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日も快晴でした。
車を駆って埼玉県の彩湖の写真を撮りに行きました。
彩湖は自然の湖でありませんが、その広々とした風景が好きで時々行きます。
子供の喜ぶ観覧車やメリーゴーランドなどが一切ありません。静かに散歩する人がいるだけです。
冬枯れのこの季節は湖岸に緑が無く淋しい風景です。
昨日、撮って来た写真をお送りいたします。









写真を撮ってから夜は平昌冬季オリンピックの開会式のテレビ中継を3時間も見ていました。
92の国や地域から3000人近くの選手や役員が参加する大会です。各国の選手団の入場行進の場面がえんえんと写し出されています。
韓国の文在寅大統領が開会宣言をします。その隣にはアメリカのペンス副大統領、安倍総理、北朝鮮の金正恩委員長の妹、金与正氏や金永南人民会議常任委員長らが座っています。
それは本当に平和な光景です。真の平和が一瞬ではありますが韓国を訪れた光景です。
私は目頭が熱くなりました。
特に一昨日、「国際関係の客観的理解(1)朝鮮併合と慰安婦問題」という重い内容の記事を書いたばかりなので韓国と北朝鮮が一緒の選手団として入場行進している姿を見ると深い感慨を覚えます。
「国際関係の客観的理解(1)朝鮮併合と慰安婦問題」の一節です。
・・・上海で1919年に大韓民国臨時政府が結成されたのです。
そして日本人は知らないようですが、この事は現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのです。その上、現在の韓国の教育ではこの上海の大韓民国臨時政府が現在の韓国政府の始まりだと教えているのです。 
皆様は大韓民国臨時政府が始まりだと現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのことをご存知でしょうか?こうして朝鮮併合は日本の負の遺産として将来も日本が背負うことになったのです。・・・
この慰安婦問題は昨日の安倍総理と文在寅大統領の会談でも重要な議題でした。
そんなことを思いながら来週の水曜日は「灰の水曜日」だということを何度も考えていました。
灰の水曜日には神父さんが信者一人一人の頭に灰を手で塗りつけて祈ります。
人間は土から生まれて土に帰る儚い存在だということを忘れないようにと祈ります。
佛教では全てこの世のことは儚いと教えています。現世のことに執着してはいけないと教えています。
92の国や地域からの選手団の華やかな入場行進の場面を見ながら、私は本当に人間は土から生まれて土に帰る儚い存在なのだろうかと疑っていました。たとえ一瞬でも全世界の人々がこうして仲良くしている姿は何にもまして貴重な時間ではないでしょうか?
北朝鮮、韓国、中国、そして日本の間の対立抗争にアメリカが深くかかわっています。
それが良いことなのでしょうか?多分アメリカがかかわらなければこの地域の平和は守れないのでしょう。ですから安倍総理は親米路線を強く進めているのです。
それにしてもこの世は複雑です。
平昌冬季オリンピックが開催されている間だけでも平和でありますように祈っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

国際関係の客観的理解(1)朝鮮併合と慰安婦問題

2018年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
国際関係を客観的に理解するために一番重要なことは相手国の立場に立って考えることです。
今日から連載記事として日韓関係、日中関係、日露関係を客観的に考えなおし、新しい建設的な歴史認識を提案したいと思います。
今日は1910年の朝鮮併合とそれに由来する慰安婦問題を考えなおすことにしました。
結論を先に書けば朝鮮併合は現在の日本にとっては負の遺産として残りました。その結果の現象の一つが慰安婦問題です。慰安婦問題が存在したか、存在しなかったかにかかわらずこの問題は非常に長期間にわたって続きます。日本人は日韓関係の歴史をより客観的に理解し慰安婦問題のような感情問題が長期間続く覚悟をすべきです。それが賢明であり日韓関係に新しい建設的な方向を与えるものと考えられます。
それでは何故このような結論に至ったかを説明します。
日本はアメリカのフィリピンの植民地化を黙認するかわりとして、1910年(明治43年)に朝鮮併合を行いました。当時は欧米諸国はアジアに植民地を持っていたので日本の朝鮮併合を黙認せざるを得なかったのです。
ですから当時の国際社会では、日本人自身は特に悪いことをしたという認識はありません。むしろ日本の領土が増えたので喜んだのです。

さて一方、合併された朝鮮の人々の立場に立って考えてみましょう。
合併により朝鮮語の使用は禁止され名前も日本式に創氏改名させられたのです。
朝鮮の人々の立場に立って考えれば、それは朝鮮文化の弾圧と日本化が強制的に進められたと感じたのは当然ではないでしょうか。屈辱です。反抗せざるを得ません。
その一例を示します。
上海で1919年に大韓民国臨時政府が結成されたのです。
そして現在の日本人は知らにようですが、この事は現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのです。
その上、現在の韓国の教育ではこの上海の大韓民国臨時政府が現在の韓国政府の始まりだと教えているのです。 前の朴大統領が上海の大韓民国臨時政府のあった建物を訪問しました。
皆様は大韓民国臨時政府が始まりだと現在の韓国の憲法の冒頭に書いてあるのことをご存知でしょうか?
こうして朝鮮併合は日本の負の遺産として将来も日本が背負うことになったのです。
この客観的な事実は事実として認めないと建設的な日韓関係が築けないと私は思っています。

ごちゃごちゃした詳しいことが書いてありますが、皆様、根気良くお読みください。
根気良く読むことで日韓関係の客観的な理解が得られるのです。
それでは1919年に韓国の臨時政府が出来る経緯をご紹介いたします。

1番目の写真は当時の臨時政府の要人の写真です。
朝鮮の独立運動は三・一独立運動と呼ばれています。この三・一運動は、1919年3月1日に日本統治時代の朝鮮で起こった運動です。
韓国では3月1日を三一節として祝日に指定しているのです。
この独立運動の継続と拡大のため、各地で臨時政府樹立の計画が進められていました。当時、上海には多くの朝鮮人独立運動家が集結していましたが、彼らは臨時議政院を設立し、李承晩を首班とする閣僚を選出、臨時憲章を制定し、1919年4月、大韓民国臨時政府の樹立を宣言したのです。
同じころ、京城(ソウル)とシベリアでも臨時政府が樹立されたが、やがて上海の臨時政府に統合されていくのです。
19年9月に統合された臨時政府は国務総理に李東輝を選出し、1920年に李東輝が臨時政府を去ると李東寧・申圭植・盧伯麟が国務総理代理を引き受けたのです。
国務総理代理体制は1922年9月、李承晩の大統領制に改編され、1925年には朴殷植を大統領に選出しました。1926年末に構成された金九内閣は1927年、集団指導体制である国務委員制に改編します。

大韓民国臨時政府の地方組職は朝鮮国内の連通府と交通局があり、海外には居留民団組職がありました。
連通府と交通局は朝鮮北西地方に結成され、江原道と忠清道の一部には大韓独立愛国団、中部以南では大韓民国青年外交団が代行しました。
この時大同団、ソウルの大韓民国愛国婦人会、平壌の大韓愛国婦人会・大韓赤十字会も大韓民国臨時政府との関係で活動したのです。
また、居留民団組職は上海などの中国本土にのみ存在し、アメリカとメキシコ・フランスでは大韓人国民会の組職、満州では大韓民国臨時政府傘下に結成されていた西間島の西路軍政署と北間島の北路軍政署の組職が各自代理しています。
太平洋戦争終結直前の地方組職は重慶の居留民団と米州の大韓人国民会、中国本土に点在する光復軍となっていました。
(上記は、http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓民国臨時政府 より転載しました。)

日本人の私は併合された朝鮮は平和で、人々は幸せに暮らしていたと教育されました。
しかし上にくどく書いたように朝鮮の人々は上海で、シベリアで、アメリカで、フランスで熾烈な独立運動を展開していたのです。
そして現在の国際関係の道徳観から考えると朝鮮併合は非常に悪いと考えられるのです。韓国人の屈辱感は一層強くなります。
その結果として慰安婦問題が起きているのです。慰安婦問題があったか無かったかは証明が困難な問題です。それだけにこれは感情問題として長期間残ります。
それを乗り越えて建設的な日韓関係を築くことがより重要だと信じています。

それはそれとして、今日も皆さんの健康と平和をお祈りする。後藤和弘(藤山杜人)

我が家の3匹の猫のこと

2018年02月07日 | 日記・エッセイ・コラム
「我が家の3匹の猫のこと」と言うのは正確ではない。庭に毎日のように遊びに来る3匹の猫がいる。昔風に言えば野良猫3匹である。近所の数軒の家の庭にも行って餌を貰っている。我が家に来ると家内が餌を少しやる。しかし近所で贅沢な餌を貰うらしく上等な餌でなければいけない。スーパーで売っている猫用の缶詰めやポリポリなら食べる。
それでは3匹の猫は何の目的で来るのだろう。不審に思った私は注意深く観察をした。
すると彼等は家内に会いに来るのである。鳴き声を上げて、家内を呼ぶ。家内が出て行って何やら話しかけると満足したような様子で鳴き声をあげて会話をし、やがて何処かへ帰って行く。
ニャーニャーと鳴く声を聞いて私が出て行くと、「お前ではない。奥さんはいないのか?」という顔をする。家内を呼ぶ。そうすると満足そうになる。
そんな3匹の野良猫の写真である。

1番目の写真は凶暴な性格の猫である。「ガチャミケ」と呼んでいる。

2番目の写真は家内を愛してくれる優しい性格の猫である。「チャコと呼んでいる。

3番目の写真は何事にもオドオドして気の小さい猫である。「ラテ」と呼んでいる。

猫と言えば夏目漱石、「吾輩は猫である」を思い出す人も多かろう。内田百閒の「ノラや」に涙した人も多いであろう。

夏目漱石、「吾輩は猫である」
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
 どこで生れたかとんと見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。この書生というのは時々我々を捕えて煮て食うという話である。しかしその当時は何という考もなかったから別段恐しいとも思わなかった。ただ彼の掌に載せられてスーと持ち上げられた時何だかフワフワした感じがあったばかりである。掌の上で少し落ちついて書生の顔を見たのがいわゆる人間というものの見始であろう。この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。第一毛をもって装飾されべきはずの顔がつるつるしてまるで薬缶だ。その後猫にもだいぶ逢ったがこんな片輪には一度も出会わした事がない。のみならず顔の真中があまりに突起している。そうしてその穴の中から時々ぷうぷうと煙を吹く。どうも咽せぽくて実に弱った。これが人間の飲む煙草というものである事はようやくこの頃知った。

 ・・・「そう云う君は一体誰だい」と聞かざるを得なかった。
「己れあ車屋の黒よ」
昂然たるものだ。車屋の黒はこの近辺で知らぬ者なき乱暴猫である。しかし車屋だけに強いばかりでちっとも教育がないからあまり誰も交際しない。同盟敬遠主義の的になっている奴だ。吾輩は彼の名を聞いて少々尻こそばゆき感じを起すと同時に、一方では少々軽侮の念も生じたのである。吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかを試してみようと思って左の問答をして見た。
「一体車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
「車屋の方が強いに極っていらあな。御めえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
「君も車屋の猫だけに大分強そうだ。車屋にいると御馳走が食えると見えるね」
「何におれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。御めえなんかも茶畠ばかりぐるぐる廻っていねえで、ちっと己の後へくっ付いて来て見ねえ。一と月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
「追ってそう願う事にしよう。しかし家は教師の方が車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
「箆棒(べらぼう)め、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」

 彼は大に肝癪に障った様子で、寒竹をそいだような耳をしきりとぴく付かせてあららかに立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのはこれからである。
 その後吾輩は度々黒と邂逅する。邂逅する毎に彼は車屋相当の気焔を吐く。・・・

それにしても夏目漱石は猫が好きだったに違いが無い。猫の個性の違いをよく観察している。
我が家の庭に来る3匹の野良猫もそれぞれ個性が非常に違う。
今迄家の中で飼ったのはチャーチャーと鳴いてガラス戸を開けさせ居着いた「チャーコ」、公園で五歳の息子が拾って来た「ピー」。これは賢くて水洗トイレに上がって用を足していた。
そして顔に古傷のある「ヨサブロウ」などなど。
今庭に来るノラたちも、凶暴な性格、家内を愛してくれる優しい性格、何事にもオドオドして気の小さい猫というように個性が違う。
今日はこれでお終いである。


それはそれとして、今日も皆さんの健康と平和をお祈りする。後藤和弘(藤山杜人)

あなたは北米先住民500万人の殺戮をどう思いますか?

2018年02月06日 | 日記・エッセイ・コラム
どう思いますか?と聞かれてもすぐには返事が出来ないかもしれません。
答はいろいろあるでしょう。例えば、殺された先住民(インディアン)達が可哀そうです。日本人は関係無いので何も思いません。自分も同じ人類として、殺した側の罪の深さに愕然とします。などなどいろいろあるでしょう。
私が一番尊敬出来ない意見は、「殺したのは西洋人で、彼等は日本人が想像もつかない残忍な人種です」というものです。この考えかたこそ差別主義そのものなのです。こういう考え方が人種間の争いや戦争の原因になるのです。
それはさておき私は、「絶滅寸前のヨーロッパの少数民族」という連載記事を1月8日から30日まで6回書きました。
その延長で北アメリカ大陸と南米大陸における先住民のことを書きたいと思います。
今日は南米大陸のことは後にして、北米大陸の先住民のモンゴロイド人種インディアンの運命を書いてみたいと思います。
彼等はコロンブスが1498年にアメリカに到達したた当時、500万人から1000万人いたと想像されています。
この推定500万~1000万人いたインディアンは白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えたと言われています。
このモンゴロイド人種のインディアンは15000年前頃にベーリング海峡が陸続きたっだときにアメリカ大陸に渡って来たのです。
ちなみに日本に人間が住み着き始めたのは旧石器時代の約40000年前ですから北米大陸への移動は随分と後の現象だったのです。
北米に移住したインディアン達は各地に散在し、それぞれ独自の文化を持つ部族になりました。
最近の研究によると北米には数百の部族が住んでいたと言われています。

例えば、カリフォルニアのインディアンの部族は次のようになります。
(https://ja.wikipedia.org/wiki/アメリカ州の先住民族、より抜粋)
アコマウイ Achomawi
アントニアーニョ Antoniaño
アツゲウィ Atsugewi
ベアリバー
カウィヤ Cahuilla
カンポ Campo
チュケチャンスィ Chukchansi
チュマシュ Chumash (Dialects: Roseño, Purisimeño, Barbareño, Inezeño, Ventureño, Obispeño, en:Santa Paula, Cruzeño, Emigdiano Allilik)
チルラ Chilula
チマリコ Chimariko

以上のような部族が全て絶滅したわけではありません。
現在のインディアン居留地で最大であるナバホ居留地は、アリゾナ州・ニューメキシコ州・コロラド州にまたがる8万平方kmで(約北海道と同じ大きさ)に約20万人のナバホ人が居住しているのです。
居留地の部族は政府を持ち、警察も裁判も行うが、重要犯罪は連邦裁判所管轄に置かれています。
居留地はインディアンが自由に使えるのが建前です。しかし経済的に自立できない居留地では連邦政府からの資金援助を受けており、そのために自治権も制約されるています。

北米のインディアンの人類学的研究は大変豊富です。そして北米のインディアン殺戮に関する一般的な本の出版やインターネット上の情報も多数あります。
いろいろ調べた結果、今日は佐世保市生まれ、厚木市在住の古賀一典さんが書いたインディアンに関する研究報告書の一部抜粋だけをお伝えします。詳細は是非、http://www.aritearu.com/Influence/Native/Native.htm をご覧下さい。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
推定500万~1000万人いたインディアンは白人の直接・間接虐殺により実に95%が死に絶えた。しかし、彼らの「与え尽くし」に実践された高貴な精神文化には私達文明人が遠い過去に忘れてしまった何かを思い起こさせずにはおかない。
西洋人が野蛮人とレッテルを貼ったインディアン、確かに一部の部族による捕虜の虐待や処刑、そして西欧の覇権争いに巻き込まれたインディアン同士の戦争には目を覆うものが存在する。
・・・しかし、彼らインディアンはその過ちから学んだ教訓を魂に刻んできた人々であり、命ある全てのものが自分の兄弟であり、人のためにいつでも喜んで命をさしだすことを最高の美徳としていた。しかし、文明人は彼らの命ばかりでなく、この崇高な精神を同化政策により徹底的に踏みにじり、現在でも多くのインディアンを苦しめ続けている。自己基盤を喪ったインディアン社会はアルコール依存、事故による自殺、貧困、育児放棄、肥満などに直面している。
・・・私は結婚する前にアッシジの聖フランシスコに導かれ、カトリックの洗礼を受けた。
その後、私はアメリカ・インディアンの精神に触れ、彼ら先住民族の方たちが如何に「与え尽くし」に生きた民であるかを、創造主の教えを如何に忠実に守りぬいた民であったかを感じるようになっていった。彼らが持つ崇高な精神文化を知れば知るほど、そして2000年もの間、キリスト教が犯してきた人間・環境破壊を思うにつれ、私が歩く道はいつしか彼ら先住民族の視点という灯台に導かれているのを感じている。
(この部は、http://www.aritearu.com/Influence/Native/NativeMind/NativeMind.htm から抜粋)
・・・アメリカ・インディアン(先住民族)に関する文献は過去から溯ると膨大な量にのぼり、その全てを網羅することは出来ません。それは私がアメリカ・インディアンの魂に触れたのが約17年前(私が36歳の時)と最近のことだからです。多くの文献が絶版になってしまった今では、これらの失ってしまった言葉に触れるのは困難かも知れません。ただ世界中でアメリカ・インディアンを始めとして世界各地の先住民族がもつ叡智に、地球・人間破壊を救い出すものがあると感じる人々が増えています。遥か太古から心に刻まれつづけられた人々の声を真剣に聴こうとする人々の手によって、今も多くの文献が生まれ続けていることはその証明だと感じています。また私自身これらの文献を再度読み直しているものがあり、その時感じられなかったものが今新たな響きをもって私自身の心を揺さぶっています。時間がかかるかも知れませんが、新たに加筆していかねばと感じています。ただ残念なことに「リトル・トリー」に代表される偽書がいくつか存在している事実があることを知っていただきたいと思います。
詳しくは「インディアンの伝記や物語を記した文献」に書きましたが、現在においても先住民族の魂への新たな侵略が産まれつづけているのも事実なのです。・・・以下省略。

ここに紹介した古賀一典さんの研究書の一番貴重な部分は数百に及ぶようなインディアンに関する文献の一覧表です。
内容ごとに分類された文献の一覧表は圧倒的です。感動的です。
是非、古賀一典さんの研究書、http://www.aritearu.com/Influence/Native/Native.htm を直接ご覧ください。

挿絵代わりの写真はこの研究書からお借りしたインディアンの写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)
















あなたは四季折々に咲く花々がお好きですか?そして・・・・

2018年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
恥ずかしい話ですが私が花々を好きになったのは家内の影響でした。例外はありますが、一般的には男性は女性ほど花を好きではないようです。しかしあまり花に関心の無かった男性も高齢になるに従って花々が好きになるようです。
さて、あなたは四季折々に咲く花々がお好きでしょうか?
お好きなら、何故好きなのか、その理由を説明できますか?  愚問ですね。
人間は太古の昔から花が好きだったのでしょうか?縄文時代の人は野山に咲く花を愛で、竪穴式の家の中に飾っていたでしょうか?
これも愚問ですね。しかしこの愚問から楽しい想像が出来ます。
数多く出土する土器には祈りや占いのような信心に関係する土偶が沢山あります。赤ん坊が死ぬという悲しみを癒すためにお棺も作りました。そして野山で採ってきた花々を挿したように見える細長い土器もあります。
しかし家の中からは花々の痕跡や化石は出て来ません。花々の弱い繊維は日本の酸性土壌で解けて消えてしまうのでしょう。
それでも私は縄文時代の竪穴式の家にも花々が飾ってあったと信じています。
縄文時代の女性は野山に木の実や食用植物を採集に行くのが仕事です。そこで見た美しい花々を持ち帰り自分の家に飾ったという想像をしても良いのではないでしょうか?
そして縄文時代に人々の愛した花々は現在、私達が見て楽しんでいる花と同じだったのでしょうか?
これは愚問ではありません。日本の植物学にとって重要な問題です。
そこで日本へ渡ってきた花の渡来植物を調べました。そうすると、渡来植物以外の花々は縄文時代から日本に存在していたと考えられるのです。
調べてみると、慶応大学、磯野直秀名誉教授の発表している「明治前園芸植物渡来年表」を見つけました。それは、http://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php?file_id=13125 です。これは完璧な研究論文です。信用出来る内容です。
下のにその一部をご紹介いたしますが、是非原文をご覧下さい。植物学の素人にも簡単に理解出来る素晴らしい文章で書いてあります。海外から渡来した時期は
(1)奈良、平安期
ウメ、キク、ボタン、シャクヤク、アサガオ、シモクレン、ケイトウ、ジュズダマなど。
(2)鎌倉期
ナンテン、フヨウ、ムクゲなど。
(3)室町期から安土桃山期
スイセン、ホウセンカ、ジンチョウゲ、ヒガンバナ、ロウバイ、ソテツなどなど。
(4)江戸時代(17世紀)
シュウカイドウ、サルスベリ、レンギョウ、ハクモクレン、オシロイバナ、エニシダ、ヒマワリ、など。
(5)江戸時代(18世紀)
キョウチクトウ、ハボタン、ニチニチソウ、など。
(6)江戸時代(19世紀)
ノボタン、ダリア、オジギソウ、コスモス、カンナ、キンギョソウ、スイートピー、パンジー、ラベンダー、チューリップ、ゼラニュームなど。
この研究論文の圧巻は30ページから39ページにわたる数百種の渡来園芸植物の年号別の一覧表にあります。
慶雲2年(705年)から始まって、明治1年(1968年)のそれぞれの年号に渡来した園芸植物の名前が明記してあるのです。それはこの研究者のライフワークと言っても過言ではありません。
驚くことにわれわれが普通日本古来の植物と思っていた梅も柿も皆渡来植物なのです。
この磯野直秀先生の渡来植物の表に無い花々は次の通りです。
ヤマザクラ、
ツツジ、
アジサイ、
いろいろな30種のユリ、
ツバキ、
山茶花、
ノバラ、
ハギ、
フジ、などなど。
そして縄文時代以後に絶滅した花々もあるでしょうから、当時は結構多種多様な花々が野山に咲いていたと考えられます。それらは園芸種ほど色あざやかではありませんが、楚々とした美しいものでした。
暗い竪穴式の縄文時代の家の中に美しいアジサイの花束が飾ってある光景を想像すると楽しいものです。
藤の花房が沢山野山に咲き、野バラも山桜の花々も人々が楽しんだことでしょう。
私は縄文時代や弥生時代の花々の考古学の進歩を願っています。

ついでに日本の昔からの文学作品に登場する植物や花を調べた記事をご紹介いたします。
出雲風土記、古事記、日本書紀、萬葉集、古今集、竹取物語、伊勢物語、今昔物語、源氏物語、枕草子、土佐日記、更級日記 などなど、江戸時代、明治維新後の文学作品に登場する植物が一覧表になっているのです。是非、http://www2.city.kurashiki.okayama.jp/musnat/plant/bungakusakuhin/index.html をご覧下さい。

上に書いたように縄文人も多くの花々を眺めていました。
そしてその後、多くの花々が海を渡って日本に来たのです。 渡り鳥が運んだり、人間が運んだのです。
特に美しい花々はその種子や苗を人間が大切に運んだのです。運んだ人の名前は分かりません。しかし外国から運んで来た種や苗が日本の土で花を咲かせたときの感動は大きかったに違いありません。
花々を見てそんなことを想像するのは楽しいものです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、都立薬草植物園で撮った蝋梅と紅梅と朝鮮連翹の花の写真と裏の雑木林の写真です。梅は奈良、平安時代に中國から来ました。ロウバイは室町期から安土桃山期に日本に来ました。レンギョウは江戸時代の1700年代に朝鮮からやって来ました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)










宮沢賢治は何故、過激な国柱会の熱心な会員になったか?

2018年02月04日 | 日記・エッセイ・コラム
賢治は法華経の真面目な信者でした。ですからこそ国柱会に入会したのです。
この法華経の教義の一つに次のようなものがあります。
・・・「菩薩」といわれる人がいます。法華経を信じて、たくさんの人にお釈迦さまの智慧を広める。人の苦しみを自分の苦しみとして受け止める。困っている人を助ける。世の中の役に立ちたいと願い、それを実行する。こんな生き方ができる人は皆、一人ひとりが菩薩なのです。人のために尽くし、相手の身になって考え行動する――、そんな菩薩のような生き方を、私たち一人ひとりが心がけたいものです。・・・
この考えに従って、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのです。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

さて国柱会とはどんな団体なのでそうか?
国柱会は、法華経の純正日蓮主義を信奉する田中智学によって明治17年(1884)に創められました。
その教義の三番目に次のようなことが書かれています。
・・・国柱会は、日蓮主義の理想が一天四海皆帰妙法である。ことに日本国は『法華経』本縁の国であり、日蓮聖人応誕の地であり、古来一貫して天皇を中心に仰ぐ道の国であり、この日本国体を開顕した〈法国冥合論〉を主張し、日本の真性命の覚醒をうながすことを大きな使命としています。・・・
この教義が「八紘一宇」という思想になり、昭和のアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったのです。

宮沢賢治は1921年に上京し、国柱会の街頭布教にも参加します。それ以来、1933年、37歳で亡くなるまで熱心な会員でした。
すなわち日本帝国主義の軍部のアジア侵略の前に賢治は死んでいます。
ですから国柱会がアジア諸国の軍事侵攻の精神的支柱となったこととは一切関知していません。
しかし賢治の戒名は国柱会からおくられ、遺骨の一部も会の聖廟に眠っているのです。
この間の詳しい事情は私が書いた「宮沢賢治が終生会員だった国柱会とは何か?」(2012年05月08日掲載記事)に説明してあります。
宮沢賢治は、紀元1世紀ごろインドで出来、鳩摩羅什によって漢文に翻訳された法華経が、日本軍の中国やアジア諸国の侵略に利用されるとは想像も出来なかったのでしょう。
ここに宗教の恐ろしさがあるのです。
この経緯は大航海時代にキリスト教の布教を旗印にしてスぺインの軍隊が残虐に南米のインカ帝国を滅ぼしたことと類似のことなのです。
国柱会は法華経こそ釈迦の正しい教えなのでアジア全域に布教しようとしたのです。
昭和時代になって、その布教方法に軍事侵略も辞さなかったのです。法華経信者の石原莞爾は勝手に満州国を作ってしまったのです。
宗教の怖さは現世の欲に利用されると悪魔の力に変わることにあるのです。
この危険性は何度繰り返し書いても避けることが出来ません。人間の業なのでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は昨日行った東京の西端の陣馬高原にある昔の恩方村の風景写真です。恩方村は現在、八王子市に合併されています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)












チャイコフスキーの白鳥の湖、冬の猪苗代湖のロマン

2018年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム
冬になると全国の湖や河に美しい白鳥が極寒のシベリアから4000kmも飛んで来ます。そして暖かい日本で冬を過ごします。
以前に23年間、霞ヶ浦にヨットを係留していたので毎年冬になると純白の白鳥の群れがやって来るのを楽しみにしていました。
その中の一家4羽だけは霞ヶ浦に住み着いていて仲良くなったものでした。
人間は白鳥の姿にロマンを感じるのです。
チャイコフキーは有名な「白鳥の湖」を作曲し、数多くのバレエが日本で公演されてきました。
そしてサンサーンス作曲の「白鳥」も「瀕死の白鳥」という題で日本では何回も公演されています。日本人はこの2つのバレエが好きなのでしょう。
そこで、この2つのバレエの動画を次にお送りいたします。是非この美しい映像をご覧下さい。
チャイコフスキーの白鳥の湖、O Lago dos Cisnes (Swan Lake) - Final
https://www.youtube.com/watch?v=uauwx-cBd0s
サンサーンスの「白鳥」、The Dying Swan / Ulyana Lopatkina / 瀕死の白鳥
https://www.youtube.com/watch?v=82kWFGttaX8
白鳥にはオオハクチョウとコハクチョウの2種類がありますが日本に飛来するのはコハクチョウが大部分です。
コハクチョウはオオハクチョウより一回り小さいだけで生態はほとんど同じです。
食べるものは水草の葉、茎、地下茎、根、果実、落ち穂、マコモなどの植物で草食性の鳥なのです。
水に潜れないので魚や貝は一切食べません。逆立ちして水中に上半身を入れ、水底の草などを食べます。草食性なのに大きな体でシベリアから往復することは驚きです。
それでは冬の猪苗代湖のコハクチョウの写真を3枚お送りします。

この3枚の猪苗代湖の白鳥の写真の出典は、https://blogs.yahoo.co.jp/y58122001/50010408.html です。



猪苗代湖の白鳥は10時過ぎの昼間になると周囲の水田へ飛んで行って長時間、根気良く落穂を拾って食べています。
ある時、そんな光景を見てガッカリしました。大きな水掻きのついた足でベタベタ歩き回り水田の泥にまみれた姿は、あまりにもバレエの白鳥と違うのです。所帯じみた姿だったのです。夕方になると寝る場所の猪苗代湖に帰ってきて羽根の泥を洗うのです。
こうして冬を日本各地で過ごしたコハクチョウは春になると産卵地のシベリアの湿原を目指して飛び立って行きます。
渡る時は一気に目的地へ飛んで行くのではなく、途中で食べる草木が芽生えるのに合わせながら休み休み飛んで行きます。
その様子は次の4番目の図面に示します。

4番目の写真は北海道で送信機を装着したコハクチョウの移動状況の図です。写真の出典、
http://www.env.go.jp/nature/dobutsu/bird_flu/migratory/migration_route.htmlです。
平成23年10月30日に終了した調査は次のように行われました。
新潟県で越冬していた1羽は3月中旬から下旬の間に越冬地を出発して北海道に渡りました。サハリンを経由後オホーツク海を越え、5月中旬にロシア東部に上陸しました。内陸部を北上して6月上旬にロシア北東部の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。その同じコハクチョウは9月下旬に秋の渡りを開始し、オホーツク海を縦断後アムール川河口付近を経て、10月下旬に捕獲地に到着しました。10月30日の時点で同地に滞在しています。
その他の2羽は北海道で越冬していました。この2羽は4月下旬から5月上旬にかけて春の渡りを開始しました。
1羽はサハリン、1羽はサハリンとアムール川中流部を経てオホーツク海を縦断しました。サハリン経由の1羽は5月中旬、アムール川経由の1羽は6月上旬にそれぞれロシアのマガダン州に上陸しました。その後内陸部を北上し、6月上旬から下旬にかけてコリマ川河口付近の湿地帯に到着して春の渡りを終えました。そこで産卵、繁殖したと想定されます。
そして2羽は9月下旬から10月上旬にかけて秋の渡りを開始し、10月30日の時点で、1羽はサハリン北東部沿岸、もう1羽はアムール川河口まで南下してきていました。
このような調査を繰り返し、現在はハクチョウ、雁(ガン)の渡りのルートと中継地はかなり明確に解明されています。

5番目の写真はハクチョウや雁(ガン)の渡りのルートを纏めて図示したものです。
その出典は、http://www3.famille.ne.jp/~ochi/bird/hakucho.html です。
この総合的な図面はロシアと日本の研究者の共同調査の結果です。
調査方法は、夏、シベリアの繁殖地で渡り鳥に標識をつけ、その標識の目撃情報を集めたり、渡り鳥につけた発信器による移動調査が行われました。
その結果ハクチョウの飛行距離は、オオハクチョウは3,000km、でコハクチョウは 4,000kmくらいと分かりました。日本から離れた北緯50度以北のシベリアから日本へ渡って来ていたのです。
渡り鳥の飛ぶコースは、カムチャツカ半島から千島列島を経て北海道へ渡るコースと、サハリンを経て北海道へ渡るコースの2つがあることも分かっています。
ついでに冬のシベリアの風景写真を2枚お送りします。

冬のシベリアの風景写真の出典は「冬のシベリアの風景写真」を検索してお借りしました。

この今日の記事で猪苗代湖の風景を選んだ理由は、この湖に特別な思い出があるからです。
この湖で、今は亡き大学時代の友人のヨットで「花春カップ」というヨットレースを一緒に楽しんだ思い出があったからです。
そのことは「猪苗代湖の美しさを見た石器時代、縄文時代、古墳時代の人々」(2017年08月29日掲載)という記事にあります。

それにしても碧い冬の湖に浮かぶ白鳥の姿は美しいものですね。
その姿を見ると多くの人々はチャイコフスキーの「白鳥の湖」やサンサーンスの「白鳥」を想うに違いありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

今朝の雪、賢治の「永訣の朝」を思い出させる

2018年02月02日 | 日記・エッセイ・コラム
今年は雪が多いですね。1月22日に降って庭に積もった雪が消えないうちに昨夜から今朝まで降っています。今も窓の外の暗い空から絶え間なく美しい雪片が舞い降りています。
庭の様子の写真です。





見上げる空には雪雲が低くかかり暗い陰惨な風景です。このような暗い雪を眺めていたら賢治の「永訣の朝」という詩を思い出しました。
雪の降る日に死の床にいる妹が賢治に雪を取ってきてくれと頼みます。兄の取って来た雪を食べてやがて妹が死んでいきます。そんな悲しい詩ですが岩手の方言で書いてあるので分かり難い詩です。
まず詩の説明を読んでから賢治の「永訣の朝」をお読み頂きたいと思いいろいろ調べました、
そうしたら長谷川 義明さんの素晴らしい説明を見つけました。
以下は http://www.chukai.ne.jp/~mechinko/kenji03.htm からの抜粋です。

「永訣の朝」

・・・(妹の とし子は、いきなり、枕元にあった二つの欠けた陶椀を賢治の胸元に突きつけて、
「あめゆじゅとてちてけんじゃ」と叫ぶ。「雨雪を取って来てちょうだい」と叫んだのである。
この陶椀には青い蓴菜(じゅんさい)の模様がついている。小さいときからこの兄妹は仲よく
この二つの陶椀でご飯を食べてきた。この欠けた陶椀は兄妹の変らぬ愛情の象徴なのである。
その時 賢治は、曲った鉄砲玉のように、あっちへぶつかり、こっちへぶつかりしてやっと
戸口から外へ飛び出した。
暗いみぞれの中に立って初めて賢治は、妹の真意をさとる。
このまま妹が死んだら、賢治は生涯返すことのできない負債を負うことになる。
妹さえも安心させ得なかった者がどうして他人をしあわせにできるかという思いが生涯つきまとう
ようになる。そうさせないために、兄の一生を明るいものにするために、泣くような思いで
妹は陶椀を突きつけたのだと、賢治はみぞれの中でさとるのである。かれはこう歌った。)・・・

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
うすあかくいっそう陰惨な雲から
みぞれはぴちょぴちょふってくる
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
青い蓴菜のもようのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
( あめゆじゅとてちてけんじゃ )
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといういまごろになって
わたくしをいっしょうあかるくするために
こんなさっぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを


・・・(こうして賢治は、二つの御影石の置いてある場所へやって来て、その上に危く立ち上る。
それから手を伸ばして、松の枝に降り積んだみぞれを二つの陶椀の中にそっと移し入れる。
みぞれ、それは雪でもなければ、水でもない、雪と水との二つの相を持ったもの、
いいかえると、天上的なものと地上的なものとの二相系を保っているものである。
これこそ死んで行く妹にふさわしい食物といえよう。
賢治がこの雪のようなみぞれを取ろうとした時、それはもう、どこを選ぼうにも選びようがないほど、
どこもかしこもまっ白であった。どこもかしこも仏の世界であったといっていい。
あんなに恐ろしい乱れた空から来たとは思えぬほど純白な雪の姿であった。賢治はそれをこう歌う。)・・・

ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらっていかう
わたしたちがいっしょにそだってきたあひだ
みなれたちゃわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまう
( Ora Ora de shitori egumo )ほんとうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびょうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらぼうにも
あんまりどこもまっしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ


・・・(賢治はこの二椀の雪を妹のところへ持って行った。
「これを食べれば、おまへは安心して仏さまのところへ行かれるのだよ」という思いをこめて、
この雪を妹に食べさせたのである。その時、とし子はこう云った。)・・・

うまれでくるたて
こんどはこたにわりゃのごとばかりで
くるしまなぁよにうまれでくる


・・・(「また生まれて来るのなら、今度はこんなに自分のことばかりで苦しまないように生まれて来る」とは、
「今度生まれて来る時は、こんなに自分のことばかりで苦しまず、
ひとのために苦しむ人間に生まれて来たい」
と云うこのけなげな妹のために、賢治は祈らずにはいられなくなる。)・・・

以下省略します。
最後に説明文を書いた長谷川 義明さんの自己紹介文を抜粋してお送りします。
・・・ わたしがお経を読み始めたのは、多分7歳か8歳の時だったと思う。はっきりとは覚えていない。
ただ、ひらがなを覚えた時期と、そうは変らない事だけは確かだ。
わたしが子供の頃は、毎月1日と13日には信者の人がうちにおまいりに来てて、
お勤めが終るとお供えを皆で分けるのだが、その時に一部はその場で茶菓子にして食べる。
そのお菓子目当てと、廻りの人が「偉いなぁ~」とか言ってくれるもんで、
ついその気になってやってた訳で動機は極めて不純だった。
・・・そして、常に心に微笑みをたやさないように、人々の幸せを願ってやまないように。
生きとし生けるものすべての命を尊敬し、尊重し、衆生の佛心に生かされて生きている事を忘れずに、そんな風に生きようと怠惰で欲深な自分自身と戦い続けたい、そして普通に苦しみながら死んで行けば良い。
楽に死にたいなどと、思わない。・・・

皆様ご存知のように宮沢賢治も法華経の信者でした。賢治も他の人々の幸せを願ってやまなかったのです。
長谷川 義明さんは深く深く賢治の作品を理解していたに違いありません。
そんなことを考えながら今日は庭に降る雪を眺めながら一日を過ごしたいと思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

こんなことは今更書かないほうが良いでしょうか?

2018年02月01日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は一人で車を駆って多摩川上流の写真を撮って来ました。多摩川を鳩ノ巣までさかのぼりました。
御岳駅の先に川辺に車で下りられる場所があります。そこから撮った冬の寒々とした多摩川の風景写真をお送り致します。









このような風景を見ながら今日の記事の構想を考えて来ました。
そしてこんなことは今更書かないほうが良いではないかと悩みました。
こんなこととはアイヌ民族を差別し衰微させた北海道旧土人保護法のことです。
過去の嫌なことは忘れたいものです。しかし奥多摩から帰りの車の中で決心しました。やはり短くても書いておこうと。

今日の記事の内容は次の2つの記事の続編のようなものです。
1、「外国人観光客が日本を絶賛する5つの理由」(2018年01月25日)
2、「絶滅寸前のヨーロッパの少数民族(5)絶滅する必然的な3つの理由」(2018年01月30日)

さて1番目の記事では何故日本の評判が良いか次の5つの理由を上げました。
(1)いろいろな差別が消え、完全に平等な国
(2)幼少時から好きだったアニメ番組を作った国
(3)人々が親切で何処へ行っても安全な国
(4)清潔で世界一豊かな食生活が楽しめる国
(5)73年間、平和が続いた平穏で風光明媚な四季のある国
このように現在の日本は良い国の代表のようになりました。
しかしここに至るまで明治維新からいろいろな反省すべき間違った政策をとってきたのも事実です。現在の価値観から考えて間違っていたのです。
それは2番目の記事の中にある少数民族の絶滅の次の3つの原因と深く関連していることです。
(1)少数民族は周りの多数民族に比べて圧倒的に貧しい。
(2)少数民族は自分固有の言語や伝統文化を捨て経済的に豊かな生活をしようとします。
(3)周囲の多数民族の同化政策と圧迫により少数民族の言語や文化は外部から崩壊させられる。
アイヌ民族は寒い北海道に住んでいて、主に獣猟や漁猟と採集に頼る生活をしていました。明治維新当時のアイヌ民族は和人に比べて圧倒的に貧しかったのです。
従ってアイヌ民族の一部は自分固有の言語や伝統文化を捨て和人と同じように経済的に豊かな生活をしようとしました。
これに追い打ちをかけたのが北海道旧土人保護法だったのです。
この通称、「北海道土人法」は明治32年(1899年)に制定され1997年(平成9年)に廃止されるまで98年間もアイヌ民族を差別し消滅に拍車をかけていたのです。アイヌ民族からはじめての国会議員になった萱野茂の登場によってやっと1997年(平成9年)に廃止されたのです。
この法律に対する日本人の鈍感さは日本の恥です。アイヌという少数民族を差別して来たことを反省すべきではないでしょうか?

それでは北海道旧土人保護法とはどんな内容でしょうか?
少し北海道開拓の歴史を書いてみます。
明治15年(1882年)に北海道は札幌、函館、根室の3県1局制制定されました。それが明治19年(1886年)に廃止され、新しく北海道庁が設置されました。
北海道庁はアイヌ民族が住んでいたところを官有地にし、その土地を民間への引き渡し開拓を進めて行ったのです。当然アイヌ人の住む場所を狭められたのです。
 そして明治時代の中頃から、北海道への和人の移住が急激に増加し開拓が著しく進展したのです。
アイヌ人たちは、生活の途を失って困窮がいっそう厳しくなります。
そして明治32年(1899年)に「北海道旧土人保護法」が制定されました。
「北海道旧土人保護法」という法律は、名の通り貧困にあえぐアイヌの人たちに対する保護を名目として作られたもので、農業のための土地を下げ渡し、日本語や和人風の習慣による教育を行うことで、アイヌ民族を和人に同化するためのものでした。
しかしそれは建前で実際にはアイヌの財産を収奪し、帝国主義的同化政策を推進するための法的根拠に過ぎませんでした。
具体的には、次のようなことが実行に移されました。
1. アイヌの土地の没収
2. 収入源である漁業・狩猟の禁止
3. アイヌ固有の習慣風習の禁止
4. 日本語使用の義務
5. 日本風氏名への改名による戸籍への編入
土地を与えられたアイヌの人たちの中には、農業経営に成功した人もいましたが数は少なく、はじめから農業に向いていない土地を与えられたり、農地にすることを失敗して土地を取り上げられたりした人が多かったのです。
また、「北海道旧土人保護法」による教育の重要な特徴は、和人児童との別学を原則とし、教育内容にも不当な格差を設けていたことです。そしてアイヌ語をはじめ独自の文化や習慣は否定され、日本語や和人風の生活の仕方を覚えることが強制されたのです。
このような明治時代以降のアイヌ民族の差別と迫害は戦後の続いたのです。
戦後すぐに共産主義者がアイヌ民族の解放運動をすすめ北海道のアイヌ民族を本州へ移住させる運動を繰り広げました。
しかしその運動もマッカーサーの共産党非合法の命令で頓挫してしまいます。
余談ながら私は仙台市の郊外の開拓地へ北海道から移住して来たアイヌ人3人家族の家によく遊びに行った経験があります。そして萱野茂さんが作った二風谷アイヌ資料館も訪問したこともあります。
最後に知里幸惠の「アイヌ神謡集」の序文の冒頭部分をお送りします。
・・・その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って,天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り,夏の海には涼風泳ぐみどりの波,白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り,花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて,永久にさえずる小鳥と共に歌い暮して蕗とりよもぎ摘み,紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて,・・・

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)