後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

霧の箱根の風景写真をお楽しみ下さい

2018年05月20日 | 写真
箱根にはよく行く方も多いと存じます。
宮の下の冨士屋ホテル、強羅の彫刻の森、仙石原のルネ・ラリック美術館、ガラスの森美術館、そして元箱根の山のホテル、芦ノ湖と富士山の風景などなどがあり観光客を魅了しています。
今回、西伊豆の戸田に泊まった翌日は箱根に行きました。箱根に行けば必ずのように訪問する仙石原の湿性花園を散歩しました。皐月の花々が咲き、ウグイスや雉やホトトギスがしきりに鳴いています。
その後、霧が突然出て来ました。
芦ノ湖を見ようと元箱根の方へ車を走らせたら、霧が益々と濃くなります。ヘッドライトを点けても対向車が見えにくいのです。
そろそろゆっくり走り、元箱根に行きましたが、濃霧で何も見えません。
霧の箱根のドライブは50年前に経験した以来です。
大変珍しい風景なので写真を沢山撮りました。霧の千石原や霧の芦ノ湖などの写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









日本の仏教と釈迦の教えの違い(3)般若心経は大乗仏教のお経

2018年05月17日 | 日記・エッセイ・コラム
佛教は紀元前6世紀の中葉にお釈迦様によって作られた世界宗教です。
それが2つに分かれ、上座部仏教(南伝仏教やテラワーダ仏教とも呼ばれます)と大乗仏教(北伝仏教)の二大宗派になりました。
上座部仏教は紀元前4世紀頃に初期仏教から生まれ、それがスリランカに渡り、現在のようにミャンマー、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムなどに普及しています。
一方、大乗仏教はインドで紀元前1世紀頃に作られ、1世紀以後に中央アジアから中国、朝鮮、台湾、日本へと伝承されました。
この関係を図に示すと1番目の図面のようになります。

1番目の写真は仏教のいろいろな宗派が何時出来て、何処へ伝ったかを示しています。
この図の示すように、インドでは5、6世紀頃に密教が盛んになり、それが中国を通して日本にも入って来ました。
空海が唐の青龍寺の恵果に指導を受け、真言密教として体系付けた真言宗が日本の密教の始まりになりました。
また最澄によって創始され天台宗も日本密教に分類されます。真言宗が密教専修であるのに対し、天台宗は天台・密教・戒律・禅の四宗相承である点が異なっているそうです。

それはさておき、インドでの仏教は13世紀初頭には完全に消滅してしまったのです。

それでは大乗仏教とはどのような教えなのでしょうか?
答は簡単至極です。大乗仏教の重要な経典の般若心経を理解すれば良いのです。
般若心経とお釈迦様が弟子のシャーリプトラ(舎利子)へ向かって話したことをまとめたお経です。私自身は「般若心経」が大好きです。
とても短い上にお釈迦様の教えの全てが詰まっているのです。
このお経は玄奘三蔵法師がインドから持って来て、唐の長安の大慈恩寺で漢文に翻訳したものです。そして大雅塔に全てのお経を大切に保管したのです。余談ながら私は1982年にこの大雅塔に登りました。幸な時間が流れました。
それはさておき、玄奘三蔵法師が翻訳した漢文の「般若心経」を示します。

摩訶般若波羅蜜多心経
観自在菩薩行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。舎利子。色不異空、空不異色、色即是空、空即是色。受・想・行・識亦復如是。舎利子。是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。無眼界、乃至、無意識界。無無明、亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。無苦・集・滅・道。無智亦無得。以無所得故、菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙、無罣礙故、無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。故知、般若波羅蜜多、是大神咒、是大明咒、是無上咒、是無等等咒、能除一切苦、真実不虚。故説、般若波羅蜜多咒。即説咒曰、羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶。般若心経
(般若心経は、「大般若経」という600巻の経典(約300万文字)の内容を、わずか276文字に凝縮したものです)

この漢文の意味は次のようになります。
http://structure.cande.iwate-u.ac.jp/religion/hannya.htm

摩訶 般若 波羅蜜多 心経(まか はんにゃ はらみった しんぎょう)
偉大なる"悟りを開く智慧"の真髄

※摩訶=偉大なる
※般若=智慧
※波羅蜜多=悟りを開く、彼岸に至る
※心経=真髄

観自在菩薩 行深 般若 波羅蜜多 時、(かんじさいぼさつ ぎょうじん はんにゃ はらみった じ、)
観音様(かんのんさま)は、悟りを開くための修行を究められて、

※観自在菩薩=観音様。悟りを開いた明慧自在(みょうえじざい)の仏さま

照見 五蘊 皆空、(しょうけん ごうん かいくう、)
五蘊(形あるものと精神活動のすべて)は「空(くう)」であることを悟られ、

※五蘊=色(形あるもの)・受・想・行・識(精神活動)

度 一切 苦厄。(ど いっさい くやく。)
一切の苦しみから逃れられる道を示されました。

舎利子。色 不異 空、空 不異 色、色 即是 空、空 即是 色。(しゃりし。しき ふい くう、くう ふい しき。しき そくぜ くう、くう そくぜ しき)。
舎利子よ。形あるものはすべて「空」であり、「空」が形あるものの真の姿です。

※舎利子=お釈迦様の十大弟子のひとり(般若心経は、彼への呼び掛け)
※A不異B=AはBと異ならない
※A即是B=AはBである

受・想・行・識 亦復如是。(じゅ・そう・ぎょう・しき やくぶにょぜ。)
精神活動も、また同じ(く、実体は「空」)です。

※受=心が感受すること
※想=思いをめぐらすこと
※行=意志を持つこと
※識=認識・識別すること

舎利子。是 諸法 空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減。(しゃりし。ぜ しょほう くうそう、ふしょうふめつ、ふくふじょう、ふぞうふげん。)
舎利子よ。この世にあるすべてのものの実体は「空」です。
生じることもなく滅することもなく、
汚れもせず清らかにもならず、
増えることもなく減ることもありません。

是故空中、無 色、無 受・想・行・識、(ぜこくうちゅう、む しき、む じゅ・そう・ぎょう・しき、)
故に、「空」が実体のこの世には、形あるものも、精神活動もありません。

無 眼・耳・鼻・舌・身・意、無 色・声・香・味・触・法。(む げん・に・び・ぜっ・しん・に。む しき・しょう・こう・み・そく・ほう。)
目も耳も鼻も舌も身体も精神もなく、(目から見える)形も(耳から聞こえる)声も(鼻で感じる)香りも(舌で感じる)味も(身体が感じる)触感も(精神が)感じ取ることもありません。

無 眼界、乃至、無 意識界。(む げんかい、ないし、む いしきかい。)
目に見える世界も、目に見えない意識の世界もありません。

無 無明、亦 無 無明 尽、乃至、無 老死、亦 無 老死 尽。(む むみょう、やく む むみょう じん、ないし、む ろうし、やく む ろうし じん。)
この世に無明はなく、無明が尽きることはありません
また、老死もなく、老死が尽きることもありません。

※無明=悟りを開いていないこと

無 苦・集・滅・道。無 智 亦 無 得。(む く・しゅう・めつ・どう。む ち やく む とく。)
苦しみも、苦しみの原因も、苦しみがなくなることも、苦しみをなくす道もありません。
また、教えを知ることもなく、悟りを得ることもありません。

以 無所得 故、菩提薩埵、依 般若 波羅蜜多 故、(い むしょとく こ、ぼだいさった、え はんにゃ はらみった こ、)
よって何も得ることがないため、菩薩(ぼさつ)さまは悟りを開いたが故に、

心 無罣礙、無罣礙 故、無有恐怖、遠離一切 顛倒夢想、究竟涅槃。(し んむけいげ、むけいげ こ、むうくふ、おんりいっさい てんとうむそう、くぎょうねはん。)
心に障りがなく、心に障りがないから、恐怖を感じず、一切の迷いから離れて、安らぎの極致へと到りました。

三世 諸仏、依 般若 波羅蜜多 故、得 阿耨多羅 三藐 三菩提。(さんぜ しょぶつ、え はんにゃ はらみった こ、とく あのくたら さんみゃく さんぼだい。)
三世の仏さまも、このような智慧によって、完全なる悟りを開かれました。

※三世=過去・現在・未来
※阿耨多羅三藐三菩提=サンスクリット語の「アヌッタラ・サムヤック・サンボーディ」を漢字で表したもの。完全な悟りを開いた状態

故知、般若 波羅蜜多、是 大神 咒、是 大明 咒、是 無上 咒、是 無等等 咒、能除 一切苦、真実不虚。(こち、はんにゃ はらみった、ぜ だいじん しゅ、ぜ だいみょう しゅ、ぜ むじょう しゅ、ぜ むとうどう しゅ、のうじょ いっさいく、しんじつふこ。)
故に、悟りを開く智慧は、霊力のある咒文であり、明らかなる咒文であり、この上ない咒文であり、他に並ぶものがない咒文であり、一切の苦しみを取り除き、真実にして虚しいところがありません。

故説、般若 波羅蜜多 咒。即 説咒 曰、羯諦 羯諦 波羅 羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶。般若心経
悟りを開く智慧の咒文を説きましょう。その咒文いわく、「行こう、行こう、悟りの世界へ行こう。みんなで一緒に悟りの世界へ行きましょう。」以上が、"悟りを開く智慧"の真髄です。

※羯諦 ~ 菩提薩婆訶=「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハーガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハーガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ、スヴァーハー」を漢字で表したもの。

このお経は日本人の文化の基調になりました。
それでは大乗仏教にかかわる写真を少し示します。

2番目の写真は大雁塔です。玄奘三蔵法師がお経の漢語への翻訳作業をした長安の大慈恩寺です。この大雅塔は慈恩寺の境内に立っています。

3番目の写真は現在の蘇州にある道教と仏教の習合した寺院です。大乗仏教は他の宗教と混淆しやすい性質を持っています。

4番目の写真は東大寺の写真です。インドの大乗仏教が日本へ伝承して出来た壮大な伽藍です。

5番目の写真は奈良の大仏の盧遮那仏です。この仏像はお釈迦さまではありません。
盧舎那仏像は釈迦を超えた宇宙仏(法身仏)で、宇宙の真理を全ての人に照らし、悟りに導く仏です。このように仏像にお釈迦さまだけでなく、いろいろな抽象的な意味のある像を用いるのが大乗仏教の特徴です。他の例では観音像、薬師像、不動王像、弘法大師像などなどいろいろな像があり、それぞれが崇拝の対象になっています。上座部仏教ではお釈迦さまの像しかありません。もっとも例外はありますが。

6番目の写真は東大寺の夜景です。
少し長くなったので止めます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=====参考資料======================
西安の大慈恩寺;
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%85%88%E6%81%A9%E5%AF%BA
隋の大興城にあった無漏寺(一説に浄覚寺)の故地に、648年(貞観22年)、皇太子の李治が、亡母(文徳皇后)追善のために建立したのが、大慈恩寺である。その名は「慈母の恩」に由来する。
各地から、良材を集め建てられ、その規模は、子院(塔頭)10数院を擁し、建築物は総数1,897間、公度僧だけで300名という大寺であった。帰朝した玄奘は、本寺の上座となり、寺地北西の翻経院で仏典の漢訳事業に従事した。当寺での、玄奘の訳経活動は、658年(顕慶3年)までの11年に及び、合わせて40部余の経典が漢訳された。玄奘の弟子である基(窺基)は、師から相承した法相宗を宣教し、「慈恩大師」と呼ばれた。
652年(永徽3年)、大雁塔が建立される。当初は、玄奘がインド・西域から持参した仏像や経典を収蔵するための塔であった(大雁塔の項を参照)。
唐代半ば以降、大慈恩寺の境内には、大きな戯場があり、俗講や見世物が行われていた。また、牡丹の名所としても知られ、それを詠んだ多くの漢詩が知られ、藤も植えられていた。春には、寺が所有していた南にある通善坊の「杏園」で杏の花が、夏には、寺の南池で蓮の花が咲き、秋には、柿がなり、紅葉につつまれたと伝えられる。

日本の仏教と釈迦の教えの違い(2)タイの仏教、Theravada Buddhism

2018年05月15日 | 日記・エッセイ・コラム
タイに私が尊敬しているご婦人がいます。Sunitra Satornさんという方です。アメリカに長く住んでいました。現在はタイに住んでいます。知的で上品な英語を書きます。 その方が熱心な上座部仏教の信者です。
時々、仏教のことで情報を下さいます。今日はそのSunitra Satornさんの信じているタイの仏教を簡単にご紹介したいと思います。

まず上座部仏教はまたの名前をテラワーダ仏教とも言います。英語で書くと Theravada Buddhism となります。南伝仏教徒やパーリ仏教とも言います。その詳細は以下のURLにあります。
https://m.facebook.com/story.php?story_fbid=10154654407680069&substory_index=0&id=341743060068 (英語)と
https://ja.wikipedia.org/wiki/上座部仏教 (日本語)です。

1番目の写真はTheravada仏教の僧侶達の写真です。上座部仏教では仏像はお釈迦さまの像です。日本のように観音像や薬師像や大日如来像なのようにいろいろありません。

さてタイは現在でもチャクリー王朝の王様のいる王国です。国王の権限が大きく、不敬罪のある社会なのです。
この王朝は1782年(タイ仏暦2325年)に成立したのです。現在の王様は初代から数えて10代目のラーマ10世です。
この王国は 仏教を大切にしている文字通りの仏教国なので、お釈迦様が入滅した翌年の西暦の紀元前543年を仏滅紀元元年としている仏歴を日常生活に使っています。
ちなみに私は1936年生まれですから、これに543年を加えた仏歴の2479年に生まれたことになります。
現在のタイの人々はこの仏歴が身についていて西洋の西暦へ換算するのが難しい人々が多いそうです。

今日はタイ王国の仏教の托鉢の風景をご紹介したいと思います。托鉢をしている修行中の子供や若者の写真です。

2番目の写真は子供達の托鉢姿です。
この子供達は栄養状態の良い伸び伸びした表情をしています。良家の親が子供をある期間だけ寺に預け出家させるのです。

3番目の写真は少年僧の托鉢です。道端に座って食べ物を寄進している女の敬虔な表情にご注目下さい。

4番目の写真は青年僧の托鉢です。左に普通の中年夫婦が籠いっぱいに食べ物を入れて僧侶一人一人へ寄進しています。右側には屋台を出して何か食べ物を売っている人も写っています。托鉢僧は商売ものには近づきません。タイの街角の日常の風景です。

5番目の写真は托鉢を終えた青年僧が列を作って帰る姿です。その表情に深い宗教的な静かさが宿っていることにご注目下さい。托鉢は釈迦に帰依する心を強める祈りなのです。写真に写っている僧達は皆普通の人なのです。ある期間だけ出家しているのです。

これらの写真の出典は「タイ仏教修行」で、そのURLは以下の通りです。
https://www.bing.com/images/search?q=%E3%82%BF%E3%82%A4+%E4%BB%8F%E6%95%99+%E4%BF%AE%E8%A1%8C&go=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&qs=ds&form=QBIDMH

タイにおいては、男子はすべて出家するのが社会的に望ましいと考えられています。
出家するためには普通20歳以上でそれまで悪いことをしていないことが大切なのです。
出家の目的はお釈迦さまの教えを修行を通してより深く理解するためです。
出家の期間はいろいろですが、大体3ケ月くらいと言われています。それを済ませると一人前の大人と見なされます。
ですからタイの社会では出家は成人への通過儀礼として行われるとも考えられます。
しかしその一方で、自分の精神力を強めたり、社会性をつけたいなどの目的もあります。
基本的には出家で功徳を積み親や先祖の恩に報いるということが基本になっています。
ですから写真のように修業中の人へ食物を献上する行為も自分の親や先祖の恩に報いるということになります。
また貧しい家に生まれたが、学業に優れていたために僧になって仏教大学に入学する若者もいます。
詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99 をご覧下さい。

このようなタイの仏教的な風景を見聞きすると何故か魅力を感じます。
誤解を恐れずに書けばタイの仏教は日本の仏教よりも本物のように思えるのです。お釈迦様の教えどうり忠実にその教えを守っているように思えるのです。
個人的なことで恐縮ですが私の祖父は曹洞宗のお寺の住職でした。それで仏教関係の本を多く読みました。
日本の仏教は中国や朝鮮の百済を通って飛鳥時代に入って来ました、そのせいで中国の道教や儒教や朝鮮の原始宗教と習合し多神教的な宗教になっているようです。お寺のご本尊はお釈迦様ではなく薬師様、観音様、弘法大師様、伝教大師様などと、いろいろです。
しかしタイのお寺のご本尊様はお釈迦様なのです。お釈迦さまの座った姿の仏像か、寝た姿の涅槃像なのです。
そして出家による修行を大切にしています。私個人は修行無くしては宗教を理解出来ないと信じていますので、タイの仏教こそ本物だと魅力を感じるのかも知れません。
上座部仏教やテラワーダ仏教の詳しいことは私は知りません。それを信じていないので説明は出来ないのです。

最後にバンコックに旅をした時のことを書かせて下さい。
それは1993年の頃でした。バンコックに数日滞在した時のことです。朝にホテルの窓から見ていると、幅広い河の向こうから沢山の通勤者が船てやって来るのです。
好奇心にかられて、その日の夕方私は小さな舟に乗り河向うの住宅街に行ったのです。そこは樹木に囲まれた家々が並んでいる住宅街だったのです。決して金持ちではなく、家には塀がありません。道から部屋の中まで見通せるのです。仏壇があって灯明の炎が揺れています。子供が庭で遊んでいて可愛い声が聞こえます。家の裏の方から夕食の準備の包丁の音が聞こえます。何やら金木犀の花のような良い香りが風に乗ってきます。外国人の私がズカズカと歩き回っているのに全く警戒しないのです。全ての人を信頼しているのです。
嗚呼、なんと平和なのだろうと感動しました。仏教国だなあと感動したのです。
もっと書きたいことは沢山ありますが、長くなるので今日はこれでお終いにします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)

後期高齢者になると考えが変わる(3)すべての事に感謝の気持ちが湧く

2018年05月14日 | 日記・エッセイ・コラム
自分でも不思議だと思うのですが、後期高齢者になり、特に80歳を過ぎると全てのことに感謝の気持ちが強く湧き上がって来るのです。
よく言われることですが、80歳以上生きることが出来るのは、神様の与えてくれたボーナスなのです。私もそれを実感しています。
そのように考えると全ての事に感謝の気持ちがごく自然に湧いてきます。
全てのことと書くと曖昧過ぎますので、幾つかの例で下にもう少し具体的に説明したいと思います。

(1)朝起きて気持ち良く息が出来ていると、嗚呼、今日も楽しく過ごせると思います。
そうすると健康で床から起き上がれることに猛然と感謝したくなります。天候、季節、自然など周りの全ての事に感謝の気持ちが湧きます。

(2)家内が元気で家の仕事を全てしてくることに大きな感謝を覚えます。特に自分の体が硬くなって庭仕事が出来なくなったので、家内が雑草を取ったり、花々を美しく咲かせています。感謝です。家内が庭の手入れをし、その上、家事の一切、私の外出に付き添ってくれることなど全てに感謝しています。

(3)もう旅立ってしまった親、叔父や叔母に感謝しています。兄弟姉妹にも感謝しています。
そして一緒に遊んでくれた幼馴染や小学校や中学校の友達の顔を思い出して感謝しています。高校と大学での友人たちへも感謝しています。その幾人かは旅立ってしまいました。感謝と哀惜の念にたえません。

(4)毎週、通っているリハビリ施設の若いスタッフ全員に感謝しています。彼等は後期高齢者に実に優しく話しかけいろいろな運動の指導をしてくれるのです。
後期高齢者ははっきり言えば見苦しいものです。それなのに若いスタッフは見る影も無い高齢者に触って指導してくれるのです。感謝せざるを得ません。感動もします。

(5)病院の医師や看護師に感動し、感謝しています。私は、そんなにしょっちゅう病院の世話になりませんが、2、3回は外科手術を受けたことがあります。
私は手術をしてくれる医師や看護師を徹底的に尊敬します。出会ったことは運命と思い彼等を尊敬し、一切を任せます。まな板の上の鯉の心境です。
私は永久に医師と看護師に深く感謝しています。

(6)私は毎日のようにインターネットの上に文章を書いています。毎日、1000人位の方々が私の文章をご覧になって下さいます。この読者の方々に感謝しています。会ったことも無い方々へ感謝出来るとは今迄想像も出来ませんでした。しかし後期高齢者になるとそれが自然に出来るから不思議です。特にコメントを送って下さる方は親しみを覚え感謝しています。

(7)スーパーの店員や病院の受付のスタッフが高齢者へ実に優しいのです。特に私は杖を突いて、トボトボ歩きます。すると道で会う若い人がすばやく道を空けてくれるのです。街角で会う人が皆優しくて親切なのです。自分が若い時は感謝を感じませんでしたが、後期高齢者になると優しい他人への感謝の気持ちが強く湧いて来るのです。

(8)私共は長くアメリカとドイツに住んでいたことがあります。そこで親身の世話になった外国の人々を忘れません。もうクリスマスカードも送りませんが時折思い出して感謝しています。外国に住んでしまうと、頼りになるのはその土地の人しかいません。人間の善意が信じられるようになりました。感謝しています。

(9)学校の恩師や学界で親切に私を指導して下さった先生方に感謝しています。特に他の大学の先生方でお世話になった方々へ感謝しています。

(10)私に洗礼を授けて下さった塚本金明神父さまへ感謝しています。そしてそれぞれ10年以上個人的にもお世話になったムニ神父さまと山本量太郎神父さまへ終生感謝しています。それから教会の歴代の主任神父さまへも感謝しています。いつも慈愛に満ちた態度で私共に接してくれるのです。感謝しています。

このように書いていると幾らでも書けます。しかし長くなるので、この辺で止めにします。
ここまで読んで下さった方々へ深く深く感謝します。

今日は皆様への感謝を込めて先日、神代植物公園で撮った薔薇の花の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










高尾山の新緑の写真を撮りに行く

2018年05月14日 | 写真
今日も風薫る皐月晴れです。
午後から旧甲州街道の小仏峠の手前の旧道を、車でゆっくり登りながら高尾山の新緑の写真を撮ってきました。
新緑の影が射す甲州街道の細い旧道を散歩しているとご想像しながら写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

下の3枚の花はオガタマ・シシウド・エゴノキです。













後期高齢者になると考えが変わる(2)職業の差別感が完全に消滅

2018年05月13日 | 日記・エッセイ・コラム
昭和11年生まれ、戦前、戦後に育った私は職業に差別感を持っていました。
戦前、戦争直後の日本には現在では想像も出来ないような職業差別があったのです。医師、裁判官、学者は尊敬される職業でした。職人さん、八百屋さんや魚屋さんは軽く見下げられる職業でした。大会社の社員が肩で風を切って歩けば、中小企業の社員は道をあけなければいけなかった社会でした。士農工商の名残でしょうか。
日本から職業差別が消えて行ったのは経済の高度成長の進んでいた頃です。
私はそのような職業差別の時代に生きていたのです。ですから高齢者になるまで職業には尊敬すべき職種と尊敬出来ない職種があると信じていました。
職業には聖職と賤業があるとも思っていました。

しかし70歳を過ぎて仕事を一切辞めてから、この私の職業差別は間違いだったと気づき始めたのです。
全く恥ずかしいです。この私の間違いを、ここに公表するのは、職業差別を完全に此の世から無くすためです。
職業差別は人種差別と同じくらい悪いことなのです。

そのことを思い知ったのは後期高齢者になってインターネットを通して、いろいろな職業の人々と知り合って、親しくなったお陰です。
知り合って深くお付き合いをしてみると、人間の価値は職業に関係がないことが実感出来たのです。これで戦前、戦後から抱いていた自分の職業差別感が揺らぎ始めました。その間違いが分かったのです。
その上、毎週通っているリハビリ施設で品性の高い八百屋さんと知り合ったのです。
彼は何時も明るく笑っています。不自由な足を引きずって大きな杖を使って歩いています。
雰囲気が知的職業についていたようです。話しかけて、次第に仲良くなりました。
親しくなったので、ある時、どんな仕事をしていましたかと聞きました。八百屋をしていましたと屈託なく答えます。
私は衝撃を受けました。人間の品性は職業に全然、関係が無いのです。

そして70年前の昔に、新制中学校で教わったことを思い出したのです。
「職業に貴賎は無い。どんな職業でも世のためになっているのです」という社会科の先生の言葉をありありと思い出したのです。
恥ずかしいかぎりですが私はその教えの意味を、後期高齢者になってから本当に理解出来たのです。
死ぬ前に理解出来て幸せでした。
世の中には八百屋さんや魚屋さん農家さんなどを差別し見下げている後期高齢者の人も多いかも知れません。大会社で働いている人が偉いと思っている人も多いかも知れません。中央官庁の役人は地方公務員を見下しているかも知れません。それは時代錯誤なのです。
現在の日本人には職業差別が無いのです。東京大学の卒業生がお笑い芸人になる時代なのです。

差別する人も、差別される人も高齢者に多いようです。しかし75歳を過ぎて看護師や介護士の献身的な態度に接すると、職業差別など消えてしまうのです。自分の大間違いに気がつきます。
もし高齢者の八百屋さんや魚屋さんがいて、自分の職業を恥ずかしいと思っていたら、それは不幸なことです。
彼等はまだ、後期高齢者の至福の境地に至っていないのです。一刻も早く職業差別を卒業するように祈っています。それを卒業出来れば人種差別も克服出来るのです。
私はこのように自分の職業差別が解消する後期高齢者まで生きながらえたことに神に感謝します。

それにしても現在の若い日本人には職業差別なぞ微塵もありません。実に住み良い社会になったものです。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日、都立薬用植物園で撮ってきた花々の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









「猛毒の本物のケシの花の写真をお送りします」

2018年05月12日 | 写真
ケシの種子のケシ坊主から麻薬が出来ます。栽培禁止です。
東京では薬科大学やこの都立薬草植物園など限定された場所で栽培されているということです。
何処でも厳重な鉄の檻の中の畑で栽培されています。赤.白・紫など美しい花ですが、なにか妖しい感じもします。
今日はケシの花の公開日なので、2重の柵の外側の柵の中に入れますが、その中にもう一つの鉄柵があります。手は入りますが、ケシへは手が絶対に届きません。最後のケシ坊主の黒い縦線は人為的に付けたものです。
柵の中へカメラを入れ苦心して撮りました。

猛毒の本物のケシの花の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









後期高齢者になると考えが変わる(1)容姿の劣等感が消滅

2018年05月12日 | 日記・エッセイ・コラム
人間は後期高齢者になると考え方が劇的に変わるものでしょうか?
私もいろいろな事柄に対する考え方が最近非常に変わりました。
そこで「後期高齢者になると考え方が変わる」という題で、変わったことの幾つかを連載風に書いて行きたいと思います。

今日の第一回は後期高齢者になると容姿に関する劣等感が消滅するという話です。

私は毎週一回、リハリビ施設に3年間ほど通っています。午後の4時間ほど若い男女の指導員が相手をしてくれます。
集まるのは18人ほどの男女の後期高齢者です。
仔細に観察すると男女のみんなが等しく見る影もない容姿です。当たり前と言えば当たり前ですが、18人まとめて見るとかなり衝撃的なのです。
若い男女の指導員は6人ほどですが、皆輝くような美しさです。
私は戦前生まれで食糧難の時代に育ったので短足で容姿は自慢ではありませんがかなり悪いのです。
長年それを劣等感として持っていました。しかし毎週、18人ほどの男女の後期高齢者の見る影もない容姿を見ると、その劣等感が消滅してしまったのです。

その施設で知り合ったある後期高齢者は映画女優でした。東映のニューフェイス審査に合格したのです。
若尾文子と同期だったそうです。私は女優だったという歴史に敬意を表しました。すると彼女は容姿はご覧の通りですが歌声だけは衰えていませんと言います。
そしてその後、カラオケのマイクを持ってきてリハビリ施設い声を響かせたのです。その唄い方はプロそのもにのでした。その時施設にいた全員が聞き惚れて、拍手喝さいをします。
しかしその姿は若尾文子とは違い過ぎます。
そこで私は確信しました。容姿の劣等感ほど馬鹿々々しいものが無いと。

この私の確信を一層強めてくれたのが若い看護師です。施設に常駐している女性の看護師です。
はっきり言えば容姿が悪い看護師です。
しかし彼女の老人へ対する優しさに圧倒されたのです。毎週来る18人の後期高齢者の自宅での健康状態をそれとなく聞きます。
怪我や出来物があると簡単な治療もしてくれるのです。18人の後期高齢者へ完全に等しく優しいのです。

ある時、私は背中に出来物ができました。すると彼女は私をトイレに連れ込んで裸にさせます。背中と腹の全体を観察します。そして専門医から特効薬を貰えば簡単に治ると言います。言った通りしました。簡単に直ったのです。
私は彼女を尊敬しました。その結果、彼女の忠告どうり毎晩飲む酒の量を半減したのです。これには家内も吃驚しました、
しかし残念なことに彼女は最近辞めてしまったのです。看護師資格の他にもう一つの国家資格を取るために学校に戻ったのです。
彼女は私に人生で大切なものは容姿ではないと教えてくれたのです。若いのにその真理を確信していたのです。
この彼女の香しい心情を理解出来たのは私が後期高齢者だったからです。若かったなら理解出来なかったと思います。

もうこれ以上は長くなるので止めます。
今日の挿し絵代わりの写真は昨日撮ってきたカルミア(アメリカシャクナゲ)と西洋シャクナゲの花です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)










「薔薇の花の写真をお楽しみ下さい」

2018年05月11日 | 写真
今日は朝から皐月晴れです。午後から神代植物公園の花々の写真を撮りに行きました。
広いバラ園には色とりどりの花が咲いています。バラ特有の高貴な香りが風に乗ってきます。お客さんも沢山いましたが、皆が幸せそうに歩いていました。
バラは春、夏、秋と咲きますが春のバラが一番美しいと思います。気分爽快な花園の午後でした。
どうぞ撮って来たばかりのバラの花の写真をお楽しみ下さい。















本当にこういう事ってあるのでしょうか?

2018年05月11日 | 日記・エッセイ・コラム
昔、知り合ったJim Peroさんと奥さんの Santaさんは、絶対に恩を忘れないアメリカ人です。45年以上、毎年、奥さんのSantaさんが長い文章のついたクリスマスカードをくれました。そしてJimも面白い写真を貼付したメールを送ってくれます。

それはさておき、今日は、Jimから送って来た不思議な写真をご紹介いたします。
本当にこんな事ってあるのでしょうか?驚くべき5枚の写真で示します。
数人の男が南太平洋でMaiken号というヨットから撮った写真です。
写真の出典は以下の通りです。
https://3.bp.blogspot.com/-6V7hw6ZbaRE/VtFOT6Bl-MI/AAAAAAAABSg/eZl3mTzPQw8/s1600/1.jpg

1番目の写真は南太平洋は深い筈なのに、いきなり砂浜のように見えるものが現れた時の写真です。
ヨットに乗っている時、一番恐ろしいことは不意に座礁することです。船底から下に伸びた鋼鉄のキールが海底の岩や砂に食い込んだら、もう動きが取れないのです。そのうち干潮になり水位が下がるとヨットは横倒しになるのです。
ですからこのMaiken号のクルー達も恐怖で顔が青くなったそうです。座礁、横倒し、遭難死が頭の中を駆け巡ります。

波風で砂浜が近づいて来ます。もうどうしようもなく、覚悟して砂浜に船首を突っ込みました。そうしたら砂浜に見えたものは海に一面に浮いた小さな軽石だったのです。ですからヨットはこの軽石をかき分け進んでいきます。
2番目の写真はヨットの後ろに出来た航跡の写真です。

3番目の写真はヨットは軽石が浮かんでいた海域から離れて後ろを振り返った時の光景です。
なんと海底火山が爆発しているではありませんか!

4番目の写真は火山爆発の続いている様子です。軽石の浮いていた海域を通過するのが、ホンの少し遅かったらMaiken号とクルー達は噴火の勢いで空に噴き上げられていたのです。九死に一生の体験にクルー達が震え上がります。

5番目の写真は海底火山の噴火で出来た島に近づいて撮った写真です。クルー達の恐怖が静まると好奇心が出てきます。そこでヨットを恐る恐る噴火の場所に近づけて、新しい島が誕生したことを確認したのです。
これは実際にあったことです。
本当にこんな事ってあるのですね。地球にはまだまだ不思議なことがあるのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


日本、韓国、中国、北朝鮮、米国の急展開する外交戦を読み解く

2018年05月10日 | 日記・エッセイ・コラム
北朝鮮をめぐる国際関係が急に動きだしました。   
金正恩委員長が二度も習近平主席に会うため北京と大連を訪問しました。
一方アメリカのポンペオ国務長官も2度、平壌を訪問し金正恩委員長と会談し、逮捕されていた米人3人を連れて帰国しています。
これらの急激な外交戦の進行に戸惑い、ついて行けないのは私だけでしょうか?
そこで何が起きても驚かないようにするために私は考え方を整理しました。

トランプ大統領は北朝鮮が呑めないような厳しい要求をしているに違い無い。そのトランプ大統領をなだめようとしているのが韓国と中国です。このように考えると全てが整理できます。

この状況で中国と韓国は、北朝鮮の金委員長が呑めるような要求をとトランプ大統領に働きかけています。習近平国家主席と文在寅大統領がトランプ大統領に直接電話をし説得しています。
ところが日本の安倍総理はアメリカの尻馬に乗って厳しい要求を繰りかえしているばかりです。
昨日の東京・元赤坂の迎賓館での中国の李克強首相、韓国の文在寅大統領との会談の共同発表でも分かります。中国と韓国は北朝鮮へ玉虫色の表現を主張しましたが、安倍総理はかたくなに検証可能な不可逆的な核の廃棄という強い表現を主張したそうです。最終的には「完全な核の廃棄」という表現に折り合ったそうです。

これで現在急速に進行中の外交戦の敵と味方が鮮明になってきました。
北朝鮮の支援陣営は中国と韓国です。それに対してアメリカと日本が団結して戦っているのです。

それでは北朝鮮が飲めないトランプ大統領の要求とは何でしょうか?
答を簡単に言えば核兵器製造にかかわった数千人の技術者の国外移住の要求です。
兵器製造施設をいくら破壊しても技術者が生きていれば、短期間で製造工場を作れるのです。このことは技術者の世界では常識です。しかし流石にこれは金正恩委員長は呑めません。
以下はこれに関する報道です。
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「北朝鮮に拘束されていた米国人3人は解放されたが、米朝の事前交渉で、核廃棄をめぐる双方の溝が埋まったのかははっきりしない」
(https://www.asahi.com/articles/ASL597DCPL59UHBI04C.html )
水面下では米国が高い要求を出し、北朝鮮が難色を示していることが分かった。北朝鮮関係筋が明らかにした。核開発のデータ廃棄や技術者の海外移住が焦点になっているという。
 同筋によれば、米側は、北朝鮮が行った6回にわたる核実験や、寧辺(ヨンビョン)核関連施設に関するデータの廃棄を求めている。さらに、核開発に携わった最大で数千人ともされる技術者を海外に移住させるよう求めているという。
 これに対して北朝鮮側は、データの廃棄にはあいまいな態度を取る一方、技術者の移住には難色を示しているという。

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この核開発に携わった数千人の技術者の海外移住の要求を皆様はどのようにお考でしょうか?
私はこのアメリカ側の要求に断固反対したいと思います。皆さんは賛成されますか?
私が反対する理由はそれは個人の人権の侵害だからです。いかにもトランプさんらしい行き過ぎた要求です。

さて金正恩委員長とトランプ大統領の会談場所はシンガポールになるらしいという報道があります。
場所はさておき会談の結果はどうなるでしょうか?アメリカの要求が厳しすぎるだけに心配です。

最後に昨日の安倍晋三首相と李克強首相と文在寅大統領との会談に関する感想を書かせて下さい。(詳細は、https://mainichi.jp/articles/20180510/k00/00m/010/120000c にあります)

日本も韓国も北朝鮮も、そして台湾も歴史的に考えれば同じ漢文化圏です。この繋がりを大切にしようという気持ちを感じさせたのが李克強首相と文在寅大統領でした。しかし安倍総理からは漢文化の影が感じられなかったのです。歴史への重視が感じられなかったのです。
私の言いたいことは漢文化圏が団結して欧米に対抗すべしという主張です。長い目で見れば結局はその方が日本の為になると私は信じています。脱亜入欧の弊害も常に忘れないようにするのが良いと信じています。

今日は国際政治の抗争について書いたので心が平穏でありません。そこで今日の挿し絵代わりの写真は先日、東久留米市の竹林公園で撮った静かな竹の写真をお送りいたします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









分かる人と分からぬ人がいる今回の世界文化遺産

2018年05月09日 | 日記・エッセイ・コラム
ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が5月3日に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録がふさわしい旨を勧告しました。
その結果、6月24日から開催される第42回世界遺産委員会での登録が確実になりました。
この潜伏キリシタン遺産は 12の資産で構成されています。そしてその 半数は長崎県の五島列島などの過疎地にあるのです。
何故、何も無い集落が世界の文化遺産になるのでしょうか?
理解出来ません。法隆寺や唐招提寺が世界文化遺産になるなら分かります。
でも長崎や熊本にある教会群は文化遺産ではなく、原城の跡地やキリシタンの隠れていた集落の跡地が世界文化遺産になるのです。
分かりません。賛成出来ません。と言う人も多いでしょう。観光バスで見物に行く価値など無いのでしょう。
ですから今回の世界文化遺産の認定への運びの価値が分る人と、分からない人が出て来るのは当然です。
結論を先に書けば分かる人は宗教を信じている人です。人間にとって信仰が重要だと信じている人です。
分からない人は宗教に関心の無い人、更に宗教は有害だと思っている人なのでしょう。
人間は自由であるべきです。宗教を信じようが信じまいが、どちらでも良いのです。絶対に優劣はありません。

さて何故、何も無い集落が世界の文化遺産になるか一つの実例の写真を示しながら説明したいと思います。
一つの実例とは12の構成資産の2番目に出て来る、「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」です。
九州の北西部に平戸城で有名な平戸島があります。平戸城の周囲には美しい教会もあり観光地になって賑わっています。
しかし平戸の集落、春日集落と安満岳は平戸島の反対側の淋しい場所にあります。その北には生月島があり橋でつながっています。
観光客は行かない地域です。

1番目の写真は今回世界遺産になる「平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)」の範囲を示しています。何も無くてもこの範囲の土地が世界文化遺産になるのです。

2番目の写真は現在の春日集落の段々になった水田です。

3番目の写真も春日集落の段々になった水田です。この集落の現在の人口は40人ほどだそうです。

4番目の写真は山の上の方から海の方を見た春日集落の風景です。

5番目の写真は春日集落の海沿いにある神社の写真です。
このように写真で示した現在の春日集落には潜伏キリシタンの存在を示す証拠は皆無なのです。
それにもかかわらず、この場所が世界文化遺産になるのです。はたして観光客が押し寄せるでしょうか?

しかし国際記念物遺跡会議(イコモス)がここを文化遺産として認定しようとする理由を以下のように発表しているのです。
宗教というものに関心のある方は是非お読み下さい。


平戸の聖地と集落(春日集落と安満岳)
http://kirishitan.jp/components/com002 から転載いたします。
「平戸の聖地と集落」は、キリスト教が伝わる以前から続く自然崇拝思想に重ねて自然の山などを崇敬し、キリシタンの殉教地を聖地とすることにより自らのかたちで信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落である。禁教期の春日かすが集落の潜伏キリシタンは、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場とされてきた安満岳(やすまんだけ)に対して自らの信仰を重ねて崇拝した。さらに彼らは、禁教初期にキリシタンの処刑が行われた中江ノ島を殉教地として崇敬し、洗礼などに使う聖水採取の場とした。解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けたが、現在ではほぼ消滅している。
 「平戸ひらどの聖地と集落」は、平戸島の北西に位置する潜伏キリシタン集落と彼らが崇敬した山岳と島からなる。春日集落は、平戸島の西岸に位置し、東側の安満岳から伸びる2本の尾根に挟まれた谷状の地形が海岸へと連続する緩やかな傾斜面に形成された潜伏キリシタン集落である。春日集落には、キリスト教伝来期のキリシタンが葬られ、禁教期以降に聖地となったと考えられる丸尾山をはじめ、潜伏キリシタンが信心具を隠した「納戸」のある住居、潜伏キリシタンの墓地がある。春日集落に隣接し、潜伏キリシタンが在来の自然崇拝に重ねて崇敬した安満岳には、白山比賣神社その参道、石祠、西禅寺跡、および禁教期に管理されていた山頂の自然林がある。さらに春日集落からのぞむ海上には、禁教初期にキリシタンの処刑が行われ、殉教地として崇敬の対象となった中江ノ島がある。

 平戸島には1550年にフランシスコ・ザビエルによってキリスト教が伝えられ、平戸島の西岸地域の領主である籠手田氏が改宗したことにより春日集落にもキリスト教が広まった。1563年のイエズス会宣教師の書簡からは、キリシタンの共同体である「組」が春日集落において成立していたことが確認できる。
 しかし、1599年、平戸地方の領主であった平戸松浦氏がキリスト教を禁じたため、籠手田氏は平戸島から退去した。1614年に江戸幕府による全国的な禁教令が出た後も宣教師はしばらく国内に潜入し、ひそかに平戸を訪れていたが、1622年にカミロ・コンスタンツォ神父が殉教して以降、この地を訪れる宣教師はいなくなった。宣教師が不在となる一方で、春日集落では「組」の指導者を中心として共同体が維持され、ひそかに信仰が続けられた。

 禁教期の春日集落では、潜伏キリシタンが2つの共同体を維持し、指導者を中心として自分たち自身で日本の伝統的宗教や一般社会と共生しながら信仰を続ける伝統がはぐくまれた。指導者の住居には仏壇や神棚のほか、潜伏キリシタンの信心具(納戸神)を隠した「納戸」と呼ばれる部屋があり、屋外では、キリスト教が伝わる以前から山岳信仰の場であった安満岳に対して潜伏キリシタンの信仰を重ね、聖地として崇拝した。

 安満岳は春日集落の東側に位置し、標高536mの平戸地方における最高峰である。山域の広い範囲にアカガシの原生林が残り、山中には白山比賣神社とその参道、山頂部には石祠、西禅寺跡などの禁教期の潜伏キリシタンの信仰のあり方に関係する遺構が今も残っている。白山比賣神社は718年に創建され、白山権現とも呼ばれた。山頂には近代に建て替えられた社殿と、江戸時代以前につくられた石の参道や鳥居がある。社殿の後背地には多様な石造物群が見られ、「キリシタン祠」と呼ぶ石祠いしぼこらもある。参道に隣接する西禅寺跡は、白山比賣神社とあわせて創建された寺院の跡で、その境内には建物の礎石をはじめ、池、石造物などの遺構が残されている。

16世紀の宣教師の書簡によると、西禅寺を中心とする仏教勢力が「安満岳」と称して大きな勢力を誇り、宣教師らと敵対していたことがわかる。しかし禁教期になると、在来の神道、仏教に基づく宗教観と潜伏キリシタンの信仰とが重なり、安満岳は神道、仏教、潜伏キリシタンの信仰が並存する聖なる山となった。春日集落からも安満岳山頂に向けて参道が延び、集落全体の住民にとって崇拜の対象となっていた。禁教期から伝わるとされ、潜伏キリシタンの祈りの言葉である「神寄せのオラショ」においても、安満岳は「安満岳様」または「安満岳の奥の院様」と呼ばれており、安満岳が潜伏キリシタンにとって信仰の対象として重要な存在であったことがわかる。

 平戸島北西岸の沖合2kmに位置する中江ノ島は、東西約400m、南北約50m、標高34.6mの無人島で、禁教初期に平戸藩によるキリシタンの処刑が行われた記録が残されている。中江ノ島は、春日集落など平戸西海岸の潜伏キリシタンが殉教地として崇敬した場所であり、岩からしみ出す聖水を採取する「お水取り」の儀式を行う重要な聖地となった。
 潜伏キリシタンによる安満岳や中江ノ島の聖地への崇拝、崇敬は、外見的には伝統的な在来信仰、民俗の儀礼として行われ、内面での信仰は隠し続けられた。

 1865年の大浦天主堂での「信徒発見」の知らせはただちに平戸地方にもたらされ、春日集落の潜伏キリシタンが新たな信仰の局面を迎えるきっかけとなった。春日集落の納戸神の中に、19世紀に海外で制作されたと考えられるカトリックの信心具が加わっていることから、集落内の潜伏キリシタンとパリ外国宣教会宣教師との接触があったことがうかがえる。しかし、春日集落の潜伏キリシタンは、解禁後もカトリックに復帰することはなく、禁教期以来の信仰形態を維持し続けた。やがて20世紀になると禁教期の信仰形態は次第に失われ、現在ではほぼ消滅している。


以上のような宗教的活動は世界的にも非常に価値があるという判断で今回の世界文化遺産になるのです。
今回12の潜伏キリシタン遺産は、幕末や明治期以後に建てられた教会ではなく禁教期の信仰が文化遺産になるのです。
信仰は精神活動ですから目には見えません。
見えないものを世界文化遺産と指定しようとするのです。
分からい人がいて当然です。
しかし雑に言えば長崎県や熊本県に世界文化遺産が沢山あるのです。長崎や熊本への観光客が増えるでしょう。それも大変良いことです。目出度いことです。嬉しいです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


花々の写真を眺めつつ老人ホームに独り入った友人を想う

2018年05月08日 | 日記・エッセイ・コラム
季節はうつろい、沢山の花々が咲いた春も過ぎ行きつつあります。
今年の春も甲斐駒の麓の山里や、住んでいる小金井市近辺で花の写真を撮ってまわりました。
この欄に掲載した花の写真は数十枚もあります。梅、桃、桜は勿論、コブシ、モクレン、マンサク、サンシュウ、レンギョウ、イヨミズキ、ユキヤナギ、コデマリ、ウノハナ、イカリソウ、ヒトリシズカ、ケマンソウ、ジャーマンアイリス、それから栽培種の花を植え込んだ花園の花々など実に沢山の花の写真を撮りました。

今朝はこの欄の2月、3月、4月のページを順々に開き、花々の写真を眺めながら想いに耽っています。
突然、独りで老人ホームに入ってしまったある友人のことを考えています。
彼とは仙台一高で1951年に知り合い、大学の同じ学科を卒業しました。彼は石川島重工に就職し停年まで勤めました。就職後も度々会っていました。ある時は私を田無工場に招んでくれ、戦闘機の桜花のジェットエンジンを詳しく見せてくれました。彼の仕事はジェットエンジンのタービンの羽根の研究でした。羽根はニッケルやコバルトやクロームの合金で作ります。
当時、石川島重工はアメリカからライセンスを貰って戦闘機のジェットエンジンを盛んに作っていたのです。
彼の一家は葉山に住んでいました。昔、私が葉山マリーナの会員だった時、彼と何度か一緒にヨットに乗りました。ある時は葉山マリーナ所有の古い巡視艇で一緒に初島まで航海して泊まって来たこともあります。泊まった民宿のおじさんに手漕ぎの小舟を出して貰い鯖釣りに行きました。夕食に釣った鯖の刺身が出ました。彼は食べながら活きの良すぎる鯖は固くて不味いと言いながら日本酒を飲んでいました。
彼は律儀な男で大学のクラス会には必ず出席してきました。ついこの前の4月27日のクラス会にも来ていました。非常に元気でした。
それが突然、昨日、彼から転居通知のハガキが来て、川崎の老人ホームに入ったというのです。
驚いて電話してみました。ここを終の棲家としますと相変わらず明るい声で言います。
夜の門限はあるが外出自由で楽しいそうです。認知症になっても死ぬまで面倒を見てくれる契約をしたと言うのです。部屋には炊事道具があるので毎日供される3食に飽きたら自分でビフテキでも鰻重でも作って食べて良いそうです。酒もコンビニで買って来て、自分の部屋で独酌する限り自由だそうです。
老人ホームは外出禁止で窮屈な所と聞いていましたが、彼の入ったホームは食事付きのマンションのようです。その上、看護師や介護士が常駐しているそうです。
そんな訳で私も安心しました。と同時に家族に迷惑をかけまいと自分から率先して老人ホームに独りで入った勇気に感嘆しました。彼はサバサバしたそういう男なのです。
私は勇気がありませんから、何時までも自宅にしがみつく様にしていると思います。
そして家内に、「愛している人の傍にいたいのです」とか言って自宅から絶対に出ようとしないのです。困ったものです。

今日の挿し絵代わりの写真は今年の春、甲斐駒の麓の山里や小金井市近辺で撮った花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)














民族の誇り、隠れキリシタンが高く評価され世界遺産に

2018年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
私は愛国者です。日本民族の文化が外国で高く評価されると嬉しいのです。
隠れキリシタンの歴史は日本人の精神文化の誇りです。250年近くの禁制の中でも人々は勇気をもって、不屈の精神で信仰を守ったのです。この日本民族の勇気と不屈の精神文化が高く評価されて国連の世界文化遺産として認定される運びとなったのです。

今日は来月の6月24日からの第42回世界遺産委員会での登録が確実になった隠れキリシタン関連遺産のご紹介をしたいと思います。
もう少し正確に書くと、ユネスコの諮問機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が5月3日に、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が登録がふさわしい旨を勧告したのです。
その結果、6月24日からバーレーンのマナマで開催される第42回世界遺産委員会での登録が確実になりました。
日本としては22件目の世界遺産になります。
この潜伏キリシタン遺産は 12の資産で構成されています。そしてその 半数は長崎県の五島列島などの離島にあるのです。
これはキリスト教の信仰が禁じられた禁教期に厳しい弾圧を受けながらも日本の伝統的な宗教や社会と共生しながら独自の形で信仰を続けた潜伏キリシタンの精神文化の歴史を伝えるものです。

構成資産の内容は次の3つの種類になります。
1、日本が厳しい鎖国政策をとるきっかけとなった「島原・天草一揆」で信者たちが立てこもった「原城跡」、
2、弾圧を逃れて移り住んだ離島の集落、
3、1865年に、潜伏キリシタンが外国人神父に信仰を打ち明けた「信徒発見」の舞台となった「大浦天主堂」、などです。
登録が確実となった12の資産は以下の通りです。
1、原城址
2、平戸島の聖地と集落 - 春日集落と安満岳
3、平戸島の聖地と集落 - 中江の島
4、天草の崎津集落
5、外海の出津集落
6、外海の大野集落
7、黒島の集落
8、野崎島の集落跡
9、頭ヶ島の集落
10、久賀島の集落
11、奈留島の江上集落 - 江上天主堂とその周辺
12、大浦天主堂
この12の世界遺産は1原城址 と12大浦天主堂の2つ以外は全て集落になっています。
これは今回の世界遺産の特徴です。何故、過疎の集落が世界遺産になったのでしょうか?
理由はその集落が禁教の江戸時代にどのような内容の信仰を守っていたかということに焦点が絞られているからです。
それぞれの集落で独自のキリシタン信仰を守って来たのです。その文化活動を高く評価して世界遺産として子孫へ伝承しようというのが今回の認定への理由なのです。

10の集落の独自の信仰のあり方を全て説明するとこの記事はあまりにも長々しいものになります。
そこで1つだけ4天草の崎津集落 だけを一例として以下に示します。

「天草の﨑津集落」は、生活、生業に根差した身近なものをキリシタンの信心の対象としていました。それは漁村特有の信仰をひそかに続けた潜伏キリシタンの集落でした。(http://kirishitan.jp/components/com004 )
﨑津集落では、指導者を中心として自分たち自身で信仰を続けるために、大黒天や恵比須神をキリスト教の唯一神であるデウスとして崇拝していました。そして、アワビの貝殻の内側の模様を聖母マリアに見立てて拝んでいました。これは漁村特有の信仰形態です。
明治5年の禁教廃止の後に﨑津集落の潜伏キリシタンはカトリックへと復帰し、禁教期に祈りをささげた神社の隣接地に教会堂を建てました。
今回認定されるものは、潜伏キリシタンが祈りに用いた信心具を今日に伝える水方屋敷跡、ひそかにオラショを唱えた﨑津諏訪神社境内、絵踏が行われた吉田庄屋役宅跡、解禁後にカトリックに復帰して﨑津諏訪神社の隣接地に建てられた旧﨑津教会堂跡などです。

﨑津集落は15世紀にはすでに集落として成立しており、1569年にイエズス会のアルメイダ修道士によって宣教が開始されると、﨑津集落にもキリスト教が広まりました。
禁教期になると、﨑津集落では毎年、吉田庄屋役宅において潜伏キリシタンを探すための「絵踏(えふみ)」が行われるようになりました。
村人はキリストや聖母マリアの像を踏むことを強制され、「宗門改帳」により宗旨、および所属する寺院が管理されたのです。
﨑津集落の潜伏キリシタンは、表向きは﨑津諏訪神社の氏子や寺の檀家となったのです。
集落内には、禁教期に洗礼をつかさどるなど信仰を指導した「水方」の屋敷跡があります。﨑津集落では、禁教期においても小規模な共同体である「小組」がひそかに維持され、「水方」と呼ばれる指導者が洗礼を授け、葬送儀礼をはじめ日繰りをもとに儀礼、行事などを行った来たのです。
 
1805年、潜伏キリシタンの信仰が発覚する「天草(あまくさ)崩れ」では村人の7割が潜伏キリシタンとして検挙され、代官所は潜伏キリシタンが所有する信心具を﨑津諏訪神社に差し出すように指示して没収したが、村人は「心得違い」として処罰されなかった。
 19世紀後半における宣教師の天草への来訪後、﨑津集落の潜伏キリシタンたちは改めて洗礼を受け、カトリックへと復帰しました。
そして1888年、﨑津諏訪神社の隣地に最初の﨑津教会堂が建てたのです。
この木造教会堂は、老朽化により移転、新築された。跡地には修道院が建てられ今日に至っています。
 現在の﨑津教会堂は、1934年、踏み絵が行われた吉田庄屋役宅跡地に建てられました。
会堂の内部は当初から畳が敷かれ、祭壇はかつて絵踏えふみが行われた場所を選んで設置されたと言われています。

上のような歴史は今回認定される10ケ所の集落にあります。長くなるのでこれで止めますが詳しくは、http://kirishitan.jp/components/com002  をご覧下さい。
隠れキリシタンの歴史は日本人の精神文化の誇りです。人々は勇気をもって、不屈の精神で信仰を守ったのです。この日本民族の勇気と不屈の精神文化が高く評価さて国連の世界文化遺産として認定される運びとなったのです。日本民族の一人として嬉しい限りです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


1番目の写真は「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の関連遺産のある場所です

2番目の写真は無人島になってしまった野崎島の集落跡に残った教会です。

3番目の写真は天草の崎津集落です。

4番目の写真は外海の出津集落にあるカトリック出津教会です。

5番目の写真は外海の出津集落の全景です。

6番目の写真は大浦天主堂です。

7番目の写真は大浦天主堂の内部です。
===参考資料=======================
長崎におけるキリスト教の伝来~禁教の歴史
1549年(天文18年)
フランシスコ・ザビエルらの一行が鹿児島に上陸、キリスト教伝来。翌年から平戸で布教を始めた。
1549年(天文18年)
大村の藩主だった大村純忠が洗礼を受け日本初の「キリシタン大名」となり、長崎などをイエズス会に寄進、キリスト教文化が栄えた。
1587年(天正15年)
豊臣秀吉が「バテレン追放令」を発し、宣教師らの追放を命じた。
1597年(慶長元年)
宣教師や信徒ら26人が長崎の西坂で処刑された。
1615年(慶長20年)
徳川幕府が「禁教令」を全国に発布。
1622年(元和8年)
国外追放に従わず潜伏していた宣教師と宣教師をかくまったとされた信徒ら56人が長崎の西坂で処刑された。
1865年(元治2年)
浦上地区に潜伏していたキリシタンが外国人居留地に建設され大浦天守堂を訪れ、プティジャン神父に信仰を告白した(信徒発見)。

「風薫る皐月、奥多摩の新緑の写真をお楽しみ下さい」

2018年05月06日 | 写真
一昨日、青空に誘われて奥多摩の鳩ノ巣まで車を走らせました。新緑に染まった光を浴びて生き返るような気分でした。
アカシアの花の下を多摩川の清流が瀬音をたてて流れ下っています。
奥多摩は四季折々、何時行っても素晴らしいところです。
新緑の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。