後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

先住民族、アリュート族を愛したロシア正教のインノケンティ司祭

2018年05月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なのでミサに行きます。日曜日には仏教や道教やキリスト教にまつわる軽い話を書くようにしています。
今回はアリューシャン列島の先住民族のアリュート族を本気で愛したロシア正教のインノケンティ司祭をご紹介したいと思います。
アリュート語を完全に習得して、聖書をアリュート語に翻訳したのです。島々に教会堂をたて、アリュート人のカヌーで巡回し礼拝式を行なっていたのです。
その以前からロシア人はアリューシャン列島のラッコやオットセイの乱獲をしていました。海獣を食べて命をつないでいたアリュート族にとっては、ロシア人の銃猟は死活問題だったのです。
しかし1824年に来たインノケンティ司祭はアリュート人に優しく接したのです。アリュート語を完全に習得してアリュ-ト人を深く愛したのです。その詳細はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アラスカのインノケンティ にあります。
彼はその後アラスカにロシア正教の教会を作り北米大陸に宣教活動を広げて行ったのです。

アリューシャン列島に行く途中、函館にも寄ったのです。
もう少し詳しく書くと、1861年に函館で、インノケンティと、日本に正教伝道を行おうとしていたニコライが会っています。
インノケンティは領事館内の聖堂で聖体礼儀を行いましたが、主教祈祷による聖体礼儀は日本で初めてであったのです。
インノケンティ大主教がニコライの部屋を訪れると、ニコライの机上にはフランスとドイツの神学書が置かれていました。
それを見たインノケンティがニコライに「君は今こんなことをしている場合ではない。専ら日本語を学ぶように」と叱ったと伝えられてます。

ニコライは日本人を愛し、日露戦争が起きてもロシアに帰らなったのです。上野の谷中の墓地に眠っています。
このように現地に溶け込めるのは背後にイエスさまの愛があるからです。神の愛があるからです。

今日はこれだけの話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はインノケンティ司祭です。

2番目の写真は日本の土になったニコライ司祭の写真です。

3番目の写真はインノケンティ司祭がアラスカのシトカに建てた教会です。

4番目の写真は函館の古いロシア正教の教会堂です。

5番目の写真は壮麗な現在のロシアの修道院です。

今日の美しい竹林の写真をお楽しみ下さい

2018年05月05日 | 写真
今日も快晴です。午後から東京都東久留米市の竹林公園に行きました。
竹林は鬱蒼として何か神秘的な雰囲気です。家内が歩きまわって写真を撮りました。私は竹林の奥の方を眺めたり梢の明るい空を見上げて時を過ごしました。
竹林にはゆるゆかな時間が流ていました。
最近は晴天続きなので車でよく出歩きます。昨日は奥多摩の鳩ノ巣まで行って山々の緑に染まってきました。
竹林の緑と山々の緑は同じようですが、受ける印象が違います。それぞれから連想されることが違うからでしょう。
そんなことを考えながら竹林を散歩して来ました。
今日の美しい竹林の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









欧米人がラッコなどの動物を乱獲して絶滅危惧種にした

2018年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄の私の記事はクドクドと長すぎる。もう少し簡明に書けないかとお叱りをうけます。
そこで今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書きます。
友人の白崎謙太郎さんが最近、「明治・海・2人」という本を出版しました。
そこに驚くべきことが書いてあったのです。
明治初期に横浜にいたスノーという英国人が北方四島のエトロフ島へ行ってラッコを銃猟で獲り莫大な利益を上げたと書いてあったのです。
「明治・海・2人」はフィクションも含む小説です。このラッコの銃猟の部分は単なるフィクションでしょうか?調べてみました。以下は判明したことです。
・・・江戸時代の1800年には、高田屋嘉兵衛が択捉島の場所請負人となり、ラッコ捕獲を始めました。松前藩はアイヌとの交易でラッコの毛皮を得ていていました。
明治時代になると、北海道開拓使がロシアの密猟を監視し、北方領土島民だけがラッコを捕獲できるようにしました。
 1873年には官営のラッコ猟が始まりました。1895年の猟虎膃肭獣猟法施行、2年後の遠洋漁業奨励法施行により、ラッコやオットセイの猟を推し進めました。免許を受けて猟を行ったのは函館の帝国水産会社が大半を占めました。
 それだけでなく、英国人探検家H.J.スノーがラッコを乱獲しました。彼は1872年以降、千島列島を中心に8000頭のラッコを密漁し、近隣のラッコ個体数を激減させた主要人物と言われます。・・・(https://pucchi.net/hokkaido/nature/rakko.php より抜粋しました)
そしてH.J.スノーという人物を調べますと、
・・・H.J.スノー(Henry James Snow、1848年 - 没年不詳)は、リッチリバー号の船長でイギリス人探検家、密漁従事者。日本の北海道を拠点として千島列島を中心に活動した。
1872年頃に千島列島に到着。以後、10年間にわたり千島列島を探検、測量しながらラッコやオットセイの密漁を行った。ラッコに関しては、8,000頭以上もの数を捕獲し、ラッコの個体数激減の原因を作った一人となる。
1884年には、千島列島の測量図を書き上げ英国女王に奉呈し、その功績により英国政府から叙勲された。また、千島列島の風土を取りまとめた書籍(『In Forbidden Sea』)を書き上げた。これらの書籍や資料は、『千島列島黎明記』などに翻訳されて日本でも出版された。(https://ja.wikipedia.org/wiki/H.J.スノー より抜粋しました)

ラッコの毛皮は欧米で非常に高価な高級毛皮として取引され莫大な利潤を生んでいたのです。生息域の千島列島、アリューシャン列島からアラスカ沿岸や北米のカリフォルニアまでではロシア人やイギリス、アメリカ人に乱獲され絶滅寸前にまで追い込まれたのです。
現在は国際的に絶滅危惧種に指定されて禁猟になっています。

今日は簡明!、簡明!と心の中で呟きながら書いていますので、これでお終いにしたいのです。
しかし2つのことだけは書かせて下さい。
H.J.スノーは密漁者となっていますが、白崎謙太郎著、「明治・海・2人」では思慮深いラッコ猟の船主、帆走冒険家として客観的に紹介してあります。ぞしてエトロフ島のラッコ猟に帆船で5回行きましたが、どんなに多く見積もっても総数1000匹以下のラッコしか獲らなかったと思います。上記の8000匹のラッコの密漁者という記録は間違いのようです。
もう一つ最後に問題提起として書きたいことです。
「欧米人は銃器を乱用してラッコなど多種の動物を絶滅危惧種にしたのではないか?」という問題提起です。
勿論、日本人もラッコを獲っていましたが撮った数は欧米人の獲った総数に比較すると圧倒的に少なかったのです。

白崎謙太郎著「明治・海・2人」は2000円で他に送料がかかります。下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。shirasakikentaro@gmail.com
写真に生きているラッコの様子と殺されたラッコの写真を示します。最後の写真はラッコ猟に使われたスクーナー型帆船です。現在の帆船、Ami号の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===ラッコの悲しい運命==============
ラッコは、1741年にロシア皇帝の命によって、ベーリングを隊長とする探検隊がアラスカを発見した後に、現在のベーリング島で座礁した時に発見された。
http://www.asahi-net.or.jp/~mc5m-kyn/racco/history.htm
生き延びた博物学者のステラーらは約900枚のラッコの毛皮をもって 帰国。北太平洋に最高級の毛皮をもつ動物がいることがわかったため、ハンターや毛皮商人たちが カムチャッカ周辺に殺到し、乱獲が始まった。
ハンターたちは、続いてアリューシャン列島沿いに北アメリカ沿岸を荒し、さらにこれらの地域のラッコが少なくなると千島列島沿いに南下してきた。江戸時代末期にロシア人が 北海道周辺に姿を現した裏には、ラッコの狩猟という目的があったのである。
良質な毛皮を求めて乱獲されたため、30万頭はいたと思われていたものが20世紀初頭には絶滅寸前まで 追い詰められてしまった。
そのため、1911年に結ばれた国際保護条約(日本、ロシア、カナダ、アメリカの4か国間で結ばれた「オットセイ保護条約」。1988年に失効した。)による保護活動が実を結び、商業取り引きが規制されていることもあり、近年は個体数を徐々に回復させており、世界全体での生息数は およそ12万~18万程度ではないかと推測されている。









アリューシャン列島とカムチャッカの先住民とロシアによる統治

2018年05月04日 | 日記・エッセイ・コラム
友人の白崎謙太郎さんが海洋冒険小説の本をごく最近、出版しました。「明治・海・2人」という本です。内容を簡単に言うと、2つの部分に分けられます。
一つはアリュート族の青年のニコライがカヌーでアリューシャン列島、カムチャッカ半島、そして千島列島へと単独航海する話です。
そして2つ目は横浜在住のイギリス人、スノーがスクーナー帆船で何度も千島列島へラッコ猟に行く話です。どちらも明治維新前後の話です。
この本はあくまでも小説ですが、アリューシャン列島とカムチャッカ半島の史実が書いてあるのです。
そこで今日はこの地域とさらにアラスカまでを何故、ロシアが領有していたかを説明したいと思います。
そして「明治・海・2人」という本に出て来るアリュート族やカムチャッカ半島に住んでいた先住民について簡単な説明をしたいと思います。

初代ロシア皇帝、 ピョートル1世( 在位:1721年 - 1725年)がベーリング隊にアラスカまでの探索を命じたのです。
ベーリング隊は2度目の遠征でアジアと北米の間にベーリング海峡があることを発見します。
そしてその直後の1741年に、ベーリング隊の隊員がアラスカに上陸します。
この上陸によってカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカはロシア皇帝の領有地になったのです。
その後、ロシア正教の宣教師が派遣されカムチャッカ半島、アリューシャン列島、そしてアラスカにはロシア正教の教会が建てられたのです。
しかし1867年にロシア皇帝はアリューシャン列島と広大なアラスカをアメリカに売り渡したのです。ですから現在はアラスカとアリューシャン列島はアメリカの領土なのです。

さてこの地域の先住民の話をします。
アリューシャン列島にはアリュート族が住んでいました。
土地が貧しく資源の少ない島でしたが、彼らは流木や海の生物資源を巧みに利用して生活していました。特徴的なのは海獣を狩ることが上手だったのです。
海獣の皮や消化器官でできたフードつきの防水服を着て、流木と海獣の皮で作られたカヤックに乗り、流木と骨で作る投げ槍などを持って数人の仲間と漁に出てラッコ、アザラシ、トド、セイウチ、クジラといった獲物を捕らえてきました。
長年孤立した民族でしたが、17世紀までに列島には約25,000人が暮らし、大いに栄えたそうです。
しかしロシア人の進出により海洋資源が枯渇し、またロシア人が持ち込んだ疾病によってその数は十分の一以下に激減し、1910年の調査ではアリュート族の数は1,491人しかいなかったそうです。
それでは写真を示しながら説明を続けます。

1番目の写真はアリューシャン列島のある島の夏の風景です。この列島は典型的な火山列島で、島々には火山があります。冬は厳寒の地ですが短い夏には草花も咲きます。

2番目の写真はある島のロシア人が開いた町の写真です。ロシア正教の教会も見えます。
「明治・海・2人」という本によると列島の島々にこのような教会堂があり、アリュート族は皆ロシア正教の信者になり、ロシア風の名前になっていたそうです。

3番目の写真は暖かい夏のアリュート族の家族の写真です。

4番目の写真は厳寒の冬のアリュート族の家族の写真です。

さてカムチャッカ半島の先住民をごく簡単に示します。
カムチャッカ半島の大部分を占めていた民族はイテリメン族でした。
(http://karapaia.com/archives/51643453.html )
 このイテリメン族と呼ばれる人々は、北はコリヤーク族、南は千島アイヌと接し、17世紀末までは2万人といたと推定されています。しかし17世紀末にロシア人が侵入し、カムチャツカ半島がロシアに併合された後は、混血とロシアへの同化、紛争や伝染病の流行などで人口が激減し、現在では2000人ほどしか残っていないそうです。

5番目の写真は伝統衣装を着たイテリメン族の男女の写真です。

6番目の写真は激しい踊りをしているイテリメンの男と女の写真です。

7番目の写真は戦士の服装をしたイテリメンの男性の写真です。

最近のイテリメン族の研究では、アラスカのトリンギット族と最も近い遺伝子を持つことが分かりました。かつてシベリアとアラスカを結ぶ陸橋、大平原ベーリンジアが海上にその姿を現していた期間、シベリヤからアラスカへと移動していったのがモンゴロイド達だったのです。当然、血筋が近いのもうなずけます。
ちなみに日本の縄文人は古モンゴロイド、弥生人は新モンゴロイドと考えられているので、日本人とも血がつながった民族だったのです。
なおアラスカのトリンギット族のことは長くなるので割愛します。

以上のようなロシア支配と先住民達のことを知った上で、白崎謙太郎さんの「明治・海・2人」という本を読むと一層面白いと思います。
この本は2000円で他に送料がかかります。下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派な装丁の198ページの本です。
shirasakikentaro@gmail.com


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

こんなことを書くと又みんなに叱られます

2018年05月03日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、『血も涙も無いと思われていた金正恩委員長の本物の笑顔に感動』(2018年04月28日 掲載)と『北朝鮮の協調外交への変化は歴史の転換点』(2018年04月30日 掲載)という2つの記事を書きました。
それに対していろいろ批判的なコメントを頂きました。コメントを下さった方々へ深く感謝しています。
そこで深く考えてみると批判的なコメントの背景には朝鮮半島に住む人々、特に北朝鮮の人々に対する嫌悪感や憎しみがあるように感じられるのです。
私も昔は同じような蔑みの感情を持っていました。しかし現在は朝鮮半島に住む人々へ対して限りない親しみを感じます。同じ人間として大切に思います。強いて言えばこれは私の人類愛の表れなのです。
日本人は朝鮮半島に住む人々を大切に思い、愛すべきです。
このように書くと、又みんなに叱られます。
何度叱られても私は繰り返し書きます。日本は言論の自由がある民主国家なのですから。
それでは何故、私が朝鮮を蔑視していたのに愛するようになったか?

今日は、その理由の本音を書きたいと思います。
戦前生まれの私は朝鮮半島の人々を蔑む言葉に囲まれて育ちました。戦争直後も日本に住んでいる朝鮮半島の人々の横暴な振る舞いに嫌悪感を持っていました。
しかし新制中学校に進学するとアメリカ占領軍の教育方針にしたがって、日本が朝鮮を併合したのは悪いことだと教わりました。悪いのは日本人だと教わりました。
朝鮮の併合だけではありません。中国を侵略したことや、満州国を勝手に作った日本は非常に悪いと教わりました。日教組の影響を受けた先生は特に強く日本が悪いと教えました。
これで私は自虐史観を持ってしまったのです。
ですから日本人は朝鮮の人々に謝罪し賠償を払うべきと思っていました。
しかしそん考えでいた35歳の頃、カトリックの洗礼を受けたのです。
すると世界のカトリックの信者が11億人もいて、いろいろな国々に住んでいることを知りました。
朝鮮半島にもカトリック信者が日本より非常に多いことも知りました。
キリスト教では神が全ての人を平等に愛します。私は神が愛する人間同士も、民族の違いを越えて愛し合うべきではないかと考えるようになりました。
その頃から自虐史観は間違っていると思いだしました。どちらかの国が一方的に悪いということは無いのです。世界の歴史を考えれば自虐史観は間違いだということが分ります。

私は格好良く言えば自虐史観を卒業して人類愛の境地に入ったのです。
朝鮮半島に住む人々へ対して好意的な記事を書く理由が、自分の自虐史観ではなく人類愛へと変わったのです。
こう書くと少し嘘になります。まだ自虐史観の残影が私の心の中に残っていることを白状すべきです。
これで私が朝鮮半島に住む人々へ対して好意的な記事を書く理由がご理解頂いたと存じます。
人類愛ですから中国人、インドネシア人、フィリピン人、欧米人、アフリカの国々の人々、全ての人間を私は大切に思っています。

今日の挿し絵代わりの写真は朝鮮半島の風景写真です。写真の説明は、『豊かな朝鮮文化を少しだけ知ろう!』(017年10月11日掲載記事)にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考資料、「朝鮮の簡略化した歴史」===============
日本人がよく知っている朝鮮の歴史は飛鳥、奈良時代に交流のあった百済、新羅、高句麗の三国だけです。その後のことはあまり学校では習いません。
その後はいろいろ戦乱があり、918年、後高句麗の豪族の健が新羅を滅ぼして王位を簒奪し、高麗を建国したのです。この高麗は現在の韓国の英語名のKorea になったのです。
この高麗は918年から、1392年に朝鮮王朝の開祖李成桂が開城で王に即位し李氏朝鮮が始まるまで続きました。
朝鮮の1392年以後の李氏朝鮮では焼き物の技術が発展します。
日本の歴史と朝鮮の歴史を比較すると非常に大きな違いがあります。
朝鮮は中国と陸続きです。いろいろな時代に中国大陸から強大な敵国が侵入し、北朝鮮のみならず南も占領されたのです。
北朝鮮は渤海、東丹国、元朝に支配され、特に元は朝鮮半島全部を支配し、日本へまで攻め込んで来ました。
一方、日本も秀吉の出兵により李氏朝鮮の首都、漢陽(現在のソウル)も陥落したのです。
それは1592年の 文禄の役(壬申の倭乱)と1597年の 慶長の役(丁酉の倭乱)です。しかし 李舜臣の活躍で日本軍は撃退されました。
そして最後に李氏朝鮮は日本によって1910年に併合されたのです。
その時、上海に出来た朝鮮の亡命政権の李承晩が戦後の韓国の初代大統領になったのです。
現在の韓国政府は上海の亡命政府を政権の始まりと憲法に明記しているのです。









帆船は横型帆のシップと竪型帆のスクーナーに分けられる

2018年05月01日 | 日記・エッセイ・コラム
友人の白崎謙太郎さんが海洋冒険小説の本をごく最近、出版しました。「明治・海・2人-スクーナーとカヌー」という本です。内容を簡単に言うと、2つの部分に分けられます。
一つはアリュート族の青年のニコライがカヌーでアリューシャン列島、カムチャッカ半島、そして千島列島へと単独航海する話です。
そして2つ目は横浜在住のイギリス人、スノーがスクーナー帆船で何度も千島列島へラッコ猟に行く話です。どちらも明治維新前後の話です。日本領の千島列島で欧米人はラッコ猟で莫大な利益を上げていたことに驚きます。
この本はあくまでも小説ですが、明治維新前後の知られざる史実が克明に書いてあるのです。
この本の面白さは幾つかありますが、少し予備知識があると一層興味深く読めると感じました。

そこで今日は、この本で何度も出てくるスクーナーと言う帆船の構造と特徴を説明したいと思います。この型の帆船が荒れた海でどのように帆を張り帆走するかが何度も書いてあります。この本のおもしろさの一つはスクーナーの操船技術の紹介にあるのです。

さて帆船は、帆の種類と帆を支えるマストの本数で分けられます。
帆には横帆(おうはん)と縦帆(じゅうはん)があり、横帆は文字通り横に長い四角形の帆です。縦帆は、船の中心線に沿って縦に張られる三角形の帆のことです。
横帆の特徴は、追い風には有利で向かい風には扱いにくいことです。大型帆船は、風の向きが安定している遠洋を航行するので、その多くは横帆を主帆として装備します。
一方縦帆は、帆の向きを変えることで向かい風に対して風上に登れます。狭い海路や近海で使う小型の帆船にはこの縦帆を用いられます。
言葉で説明すると分かり難いので写真で説明します。

1番目の写真は多数の横帆を上げた日本丸の写真です。詳しくは、「帆船カティサーク、帆船日本丸、そして私の帆舟、そのニ」(2018年04月05日 掲載)をご覧下さい。

2番目の写真は典型的な縦帆を上げたフランス海軍のスクーナーです。エトワール号の写真の写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/スクーナー です。
「スクーナー」は、すべての帆が縦帆の帆船で、「トップルスクーナー」は、船首にあるマストの上部のみが横帆になっている帆船です。
なお広く趣味に使われているクルーザーヨットは「スクーナー」の一種ですが、一本のマストに縦帆を2枚張っている小型帆船で特に「スループ」と呼ばれています。

「スクーナー」の特徴は帆の上げ下ろしが5、6人の少人数で出来ることです。ベテランになると3人でも出来るそうす。ですから現在の日本でも人気があり、スクーナー型の帆船が使われています。

3番目の写真はスクーナーの帆船、Ami号の写真です。
写真の出典は、http://www.schooner-ami.com/index.html です。

4番目の写真はAmi号の操縦席、コックピットから竪型に上げてある前方の3枚の帆を撮った写真です。手前の帆はメインスルでその前はフォアスルです。一番前にロワーステイスルが写っています。写真の出典は、http://onthewaters.hatenablog.com/entry/introduction-of-the-schooner-Amiです。

5番目の写真はAmi号の8枚の帆の位置と名前です。
このAmi号を詳しくご紹介する理由は誰でも料金さえ支払えば乗って帆走体験が出来るからです。
もう少し詳しく書くと、Ami号は54フィートのトプスルスクーナーです。
静岡県、沼津市の静浦港をホームポートとしています。1990年に研修用の船として建造され、2006年から「帆船 Ami」として、体験航海などに使用されています。定員は、20名です。 全長:16.4mで、総トン数:10トンです。
体験帆走の申し込みは、http://www.schooner-ami.com/index.html へ申し込みます。
1回、6時間で6000円です。

さて白崎謙太郎さんの海洋冒険小説、「明治・海・2人ースクーナーとカヌー」の購入方法です。この本は非常に面白い本ですが一般の書店では売っていません。
本は2000円で他に送料がかかります。下記にメールで申し込むと買うことが出来ます。立派の装丁な198ページの本です。
shirasakikentaro@gmail.com
尚この本の面白いところは他にもいろいろあります。追って順にご紹介したいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)