今日は日曜日なのでミサに行きます。日曜日には仏教や道教やキリスト教にまつわる軽い話を書くようにしています。
今回はアリューシャン列島の先住民族のアリュート族を本気で愛したロシア正教のインノケンティ司祭をご紹介したいと思います。
アリュート語を完全に習得して、聖書をアリュート語に翻訳したのです。島々に教会堂をたて、アリュート人のカヌーで巡回し礼拝式を行なっていたのです。
その以前からロシア人はアリューシャン列島のラッコやオットセイの乱獲をしていました。海獣を食べて命をつないでいたアリュート族にとっては、ロシア人の銃猟は死活問題だったのです。
しかし1824年に来たインノケンティ司祭はアリュート人に優しく接したのです。アリュート語を完全に習得してアリュ-ト人を深く愛したのです。その詳細はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アラスカのインノケンティ にあります。
彼はその後アラスカにロシア正教の教会を作り北米大陸に宣教活動を広げて行ったのです。
アリューシャン列島に行く途中、函館にも寄ったのです。
もう少し詳しく書くと、1861年に函館で、インノケンティと、日本に正教伝道を行おうとしていたニコライが会っています。
インノケンティは領事館内の聖堂で聖体礼儀を行いましたが、主教祈祷による聖体礼儀は日本で初めてであったのです。
インノケンティ大主教がニコライの部屋を訪れると、ニコライの机上にはフランスとドイツの神学書が置かれていました。
それを見たインノケンティがニコライに「君は今こんなことをしている場合ではない。専ら日本語を学ぶように」と叱ったと伝えられてます。
ニコライは日本人を愛し、日露戦争が起きてもロシアに帰らなったのです。上野の谷中の墓地に眠っています。
このように現地に溶け込めるのは背後にイエスさまの愛があるからです。神の愛があるからです。
今日はこれだけの話です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はインノケンティ司祭です。
2番目の写真は日本の土になったニコライ司祭の写真です。
3番目の写真はインノケンティ司祭がアラスカのシトカに建てた教会です。
4番目の写真は函館の古いロシア正教の教会堂です。
5番目の写真は壮麗な現在のロシアの修道院です。
今回はアリューシャン列島の先住民族のアリュート族を本気で愛したロシア正教のインノケンティ司祭をご紹介したいと思います。
アリュート語を完全に習得して、聖書をアリュート語に翻訳したのです。島々に教会堂をたて、アリュート人のカヌーで巡回し礼拝式を行なっていたのです。
その以前からロシア人はアリューシャン列島のラッコやオットセイの乱獲をしていました。海獣を食べて命をつないでいたアリュート族にとっては、ロシア人の銃猟は死活問題だったのです。
しかし1824年に来たインノケンティ司祭はアリュート人に優しく接したのです。アリュート語を完全に習得してアリュ-ト人を深く愛したのです。その詳細はhttps://ja.wikipedia.org/wiki/アラスカのインノケンティ にあります。
彼はその後アラスカにロシア正教の教会を作り北米大陸に宣教活動を広げて行ったのです。
アリューシャン列島に行く途中、函館にも寄ったのです。
もう少し詳しく書くと、1861年に函館で、インノケンティと、日本に正教伝道を行おうとしていたニコライが会っています。
インノケンティは領事館内の聖堂で聖体礼儀を行いましたが、主教祈祷による聖体礼儀は日本で初めてであったのです。
インノケンティ大主教がニコライの部屋を訪れると、ニコライの机上にはフランスとドイツの神学書が置かれていました。
それを見たインノケンティがニコライに「君は今こんなことをしている場合ではない。専ら日本語を学ぶように」と叱ったと伝えられてます。
ニコライは日本人を愛し、日露戦争が起きてもロシアに帰らなったのです。上野の谷中の墓地に眠っています。
このように現地に溶け込めるのは背後にイエスさまの愛があるからです。神の愛があるからです。
今日はこれだけの話です。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
1番目の写真はインノケンティ司祭です。
2番目の写真は日本の土になったニコライ司祭の写真です。
3番目の写真はインノケンティ司祭がアラスカのシトカに建てた教会です。
4番目の写真は函館の古いロシア正教の教会堂です。
5番目の写真は壮麗な現在のロシアの修道院です。