ベトナムは釈迦の教えに忠実な上座部仏教の国です。
しかし1862年6月第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を領有し、1867年にはフランス領コーチシナが成立しました。
フランスによる支配は1941年の日本による占領まで続いたのです。
このフランス領の時代に数多くの美しいカトリック教会が建てられたのです。
ベトナムは現在、敬虔な仏教国ですがカトリックの信者も人口の約10%もいる国です。
今日は代表的な美しいカトリック教会の写真をご紹介します。そしてベトナム戦争の後にボートピープルとして日本へ亡命して来た私達のディン神父の数奇な運命もご紹介いたします。
それにしても1966年から10年間も続いたベトナム戦争は本当に悲惨な戦争でした。
それはさて置きベトナムのカトリック教会の写真をご覧下さい。
1番目の写真は 1886年創建の市内で最大のハノイ大聖堂です。カトリック教会です。
現在の姿に至ったのは1900年のことです。写真の出典は、https://pianotohikouki.com/nha-tho-lon/hanoi です。
2番目の写真はハノイ大聖堂の内部です。美しいステンドグラスはイタリアのベネチアから輸入されました。色とりどりのガラス片をつなぎ合わせて幻想的な風景を表現しています。
写真の出典は、https://pianotohikouki.com/nha-tho-lon/hanoi です。
3番目の写真はホーチミン市の聖母マリア教会です。フランス植民地時代の1877年に着工され、3年後の1880年に完成しました。
写真の出典は、https://www.viet-jo.com/news/social/170711011854-pic1.html です。
4番目の写真は聖ザビエル教会(チャータム教会)です。
ホーチーミン市に1900年に創建されたカトリック教会です。教会内は奥行きが深く、高い天井が特徴です。写真の出典は、https://www.vietnamnavi.com/miru/227/ です。
さて1966年から10年間も続いたベトナム戦争では北ベトナムの共産党が勝利しました。北ベトナムはソ連と中国の支援のもとでアメリカ軍を打ち破ったのです。
10年間もの戦争は残虐なものでしたが戦後の共産党政権の南ベトナムへの弾圧も凄惨でした。
特に経済を握っていた華僑とキリスト教関係者には過酷でした。キリスト教関係者は忌まわしいフランスの植民地の記憶として憎んでいたのです。
その結果多数の華僑とキリスト教関係者が船に乗って海へ逃れました。この人々をボートピープルと言います。
当時神学生だったゴ・クアン・ディンさんも命からがらボートに乗って海に逃げ最終的に日本に亡命したのです。そして東京大司教区の神父になったのです。
そのディン神父は2007年頃から10年ほど私共のカトリック小金井教会の主任司祭として我々の世話をじてくれたのです。
5番目の写真はゴ・クアン・ディン神父様(中央)です。2010年11月07日 のミサの時に撮った写真です。
このミサは、岡田大司教様の司式でディン新主任司祭様の着任を祝いながら行われました。
山本量太郎主任司祭さまのほぼ10年の任務の後、しばらく後任の主任司祭様が決まらなかったので一層嬉しいミサになりました。
ディン神父さまは日本で白柳大司教様の支援とご指導で、カトリックの神父様になった方です。
話はいきなり飛びます。話が飛びますがお許し下さい。
ベトナム戦争後のボートピープルを救助するために、アメリカと西ドイツなどの欧米の民間団体がベトナム沖に船を出したのです。
その頃、私はオハイオの大学のR教授の家に泊ったことがあります。
そうしたらR教授は日本人がベトナム難民を助ける船を出していないことを激しく非難するのです。
日本人は人道的でないと言います。ドイツ出身の奥様も西ドイツでは客船を出していますと非難に加わります。R教授夫妻はベトナム難民を数人自宅に引き取り、就職が決まるまで生活の支援をしたそうです。私は日本人として恥ずかしくなりました。
それ以来、「日本人はヒョットして人道的でないのではないか?」という想いを持つようになったのです。
この想いは現在続いて居ます。アフリカからヨーロッパへの多数の難民流入問題や内戦続く近東の難民問題ついて日本のマスコミは冷淡です。多くの日本人は無関心です。
第二次大戦後に約100万人以上の日本人が満州から悲惨な引揚を経験しました。これは日本人の歴史的な難民の経験でした。
それはまさしくアフリカや中東あの難民と同じようなことです。
日本人はもっとアフリカや中東からの難民に対して人道的な支援をすべきではないでしょうか?
話が飛び過ぎてしまいました。お許し下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
しかし1862年6月第1次サイゴン条約でフランスに南部3省を領有し、1867年にはフランス領コーチシナが成立しました。
フランスによる支配は1941年の日本による占領まで続いたのです。
このフランス領の時代に数多くの美しいカトリック教会が建てられたのです。
ベトナムは現在、敬虔な仏教国ですがカトリックの信者も人口の約10%もいる国です。
今日は代表的な美しいカトリック教会の写真をご紹介します。そしてベトナム戦争の後にボートピープルとして日本へ亡命して来た私達のディン神父の数奇な運命もご紹介いたします。
それにしても1966年から10年間も続いたベトナム戦争は本当に悲惨な戦争でした。
それはさて置きベトナムのカトリック教会の写真をご覧下さい。
1番目の写真は 1886年創建の市内で最大のハノイ大聖堂です。カトリック教会です。
現在の姿に至ったのは1900年のことです。写真の出典は、https://pianotohikouki.com/nha-tho-lon/hanoi です。
2番目の写真はハノイ大聖堂の内部です。美しいステンドグラスはイタリアのベネチアから輸入されました。色とりどりのガラス片をつなぎ合わせて幻想的な風景を表現しています。
写真の出典は、https://pianotohikouki.com/nha-tho-lon/hanoi です。
3番目の写真はホーチミン市の聖母マリア教会です。フランス植民地時代の1877年に着工され、3年後の1880年に完成しました。
写真の出典は、https://www.viet-jo.com/news/social/170711011854-pic1.html です。
4番目の写真は聖ザビエル教会(チャータム教会)です。
ホーチーミン市に1900年に創建されたカトリック教会です。教会内は奥行きが深く、高い天井が特徴です。写真の出典は、https://www.vietnamnavi.com/miru/227/ です。
さて1966年から10年間も続いたベトナム戦争では北ベトナムの共産党が勝利しました。北ベトナムはソ連と中国の支援のもとでアメリカ軍を打ち破ったのです。
10年間もの戦争は残虐なものでしたが戦後の共産党政権の南ベトナムへの弾圧も凄惨でした。
特に経済を握っていた華僑とキリスト教関係者には過酷でした。キリスト教関係者は忌まわしいフランスの植民地の記憶として憎んでいたのです。
その結果多数の華僑とキリスト教関係者が船に乗って海へ逃れました。この人々をボートピープルと言います。
当時神学生だったゴ・クアン・ディンさんも命からがらボートに乗って海に逃げ最終的に日本に亡命したのです。そして東京大司教区の神父になったのです。
そのディン神父は2007年頃から10年ほど私共のカトリック小金井教会の主任司祭として我々の世話をじてくれたのです。
5番目の写真はゴ・クアン・ディン神父様(中央)です。2010年11月07日 のミサの時に撮った写真です。
このミサは、岡田大司教様の司式でディン新主任司祭様の着任を祝いながら行われました。
山本量太郎主任司祭さまのほぼ10年の任務の後、しばらく後任の主任司祭様が決まらなかったので一層嬉しいミサになりました。
ディン神父さまは日本で白柳大司教様の支援とご指導で、カトリックの神父様になった方です。
話はいきなり飛びます。話が飛びますがお許し下さい。
ベトナム戦争後のボートピープルを救助するために、アメリカと西ドイツなどの欧米の民間団体がベトナム沖に船を出したのです。
その頃、私はオハイオの大学のR教授の家に泊ったことがあります。
そうしたらR教授は日本人がベトナム難民を助ける船を出していないことを激しく非難するのです。
日本人は人道的でないと言います。ドイツ出身の奥様も西ドイツでは客船を出していますと非難に加わります。R教授夫妻はベトナム難民を数人自宅に引き取り、就職が決まるまで生活の支援をしたそうです。私は日本人として恥ずかしくなりました。
それ以来、「日本人はヒョットして人道的でないのではないか?」という想いを持つようになったのです。
この想いは現在続いて居ます。アフリカからヨーロッパへの多数の難民流入問題や内戦続く近東の難民問題ついて日本のマスコミは冷淡です。多くの日本人は無関心です。
第二次大戦後に約100万人以上の日本人が満州から悲惨な引揚を経験しました。これは日本人の歴史的な難民の経験でした。
それはまさしくアフリカや中東あの難民と同じようなことです。
日本人はもっとアフリカや中東からの難民に対して人道的な支援をすべきではないでしょうか?
話が飛び過ぎてしまいました。お許し下さい。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)