後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

我が故郷、山梨県の驚異的な縄文時代と農耕

2019年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県北杜市の甲斐駒山麓に小生の山林の中の小屋があります。山林の中の小さな小屋です。45年以上通っているとその北杜市が自分の第二の故郷のようになりました。第一の故郷は生まれ育った仙台市です。仙台市の歴史は詳細に調べ幾つかの記事を掲載してきました。

そこで今日は、北杜市の縄文時代の驚異的な縄文土器と農耕の始まりをご紹介いたしたいと思います。
その前に北杜市の位置を簡略にご説明いたします。山梨県の西端にあり、釜無川の上流で八ヶ岳と甲斐駒岳の山麓にあります。清里、大泉、小淵沢、白州、武川、須玉などの町や村が合併して出来た広い面積にまたがる市です。私の小屋はその北杜市の中の旧武川村にあります。

1番目の写真は甲斐駒岳です。手前の山の向こう側の甲斐駒岳の山麓の林の中に私の小屋があります。

2番目の写真は小屋へ登って行く雑木林の中の道です。このような道を2Km位登った淋しい森の中に小屋があります。
さてその小屋から北西に30Kmくらいの所に井戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。
八ヶ岳の西南麓には伏流水が地表に現れ数多くの清流になっています。その多くは釜無川に流れくだっております。黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて多くの人が住んでいました。
特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。出土した土器は大型で、その上、形が奔放でエネルギーに溢れているのです。嗚呼、こんなにも力強い人々が住んでいたのだと驚きます。題目に「・・・驚異的な縄文時代・・・という表現を用いましたが、それは誇張ではなく私の実感なのです。
それらの縄文土器は井戸尻考古館(http://userweb.alles.or.jp/fujimi/idojiri.html )に収蔵され、一部は常設展示されています。その中から約5000年前の代表的な縄文土器の写真を示します。

3番目の写真は水煙渦巻文深鉢です。
写真で示した派手な飾りのついた土器は宗教的な祭器として作られたと想像されます。縄文時代の神秘的な宗教儀式が想像出来ます。

4番目の写真は神人交会文深鉢です。

5番目の写真は蛇文装飾深鉢です。
この他に四方眉月文深鉢や毎日、煮炊きに使用する土器など多数が発見されているのです。
煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていました。
底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたのです。

食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。畑で作った粟や稗や蕎麦などの穀類や豆類を煮て柔らかくして毎日食べることが出来るようになったのです。
縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたのです。
井戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して展示しています。
畑を耕した農耕用の石鍬(いしくわ)と想像される石器も多数発見されています。
また畑の雑草をとった除草用の小型鍬(くわ)と考えられる石器もあります。
井戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっているという説明文をHPから以下に転載いたします。

・・・・ 井戸尻遺跡発掘に取り組み、八ケ岳山麓の考古学において、先駆的な業績をあげた藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。これらも今日的にみれば、論旨のなかに不十分な点や修正すべき内容のあることはいなめない。
しかし井戸尻考古館では、この意志を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求してきたが、この10年来、面目を一新するような段階に至った。中期の主要な石器群を体系的に把握することに成功したのである。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達している。・・・以下省略

縄文人は少なくても駐機以降は畑作農業をして粟や稗は蕎麦などの穀類を生産していたのです。
そして畑の周囲にはクリの木や柿の木のような実のなる木を植えていたと考えられています。
そして当時はイノシシや鹿が現在よりも非常に多数棲んでいたので獣肉を土器で煮て日常的に食べていたと推定出来ます。
自分の山林の中の小屋の周囲で現在でもイノシシシや鹿は沢山棲んでいます。
このように農業は縄文時代から発達し農業を中心にした集落が北杜市に散在していたのです。
一方水稲栽培をする弥生時代は甲府盆地の東部の富士川や笛吹川流域から始まりました。
その豊かな水稲栽培が大規模な権力を生み、やがて甲府盆地の東部の古墳群を作ったのです。
大和朝廷時代になると甲斐の国の国府と国分寺も甲府盆地の東部に置かれました。
甲斐の国の国分寺跡は発掘、調査が終わり公開されています。

分かり易く結論を書きます。
畑作農耕を中心にした縄文文化は山梨県の西部の甲斐駒岳と八ヶ岳の山麓に発達していました。
その後水稲栽培を中心にした弥生文化が富士川を遡って甲府盆地の東部に入って来たのです。
その結果、西部の縄文文化と東部の弥生文化が併行して存続していたのです。
歴史の教科書には縄文時代と弥生時代の時代区分が明記してあります。しぁしその時代区分は日本全国の地域の実態には合致したものでないことは明白です。

文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則なのです。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり混合していた時代があるのです。

今日は我が第二の故郷、山梨県北杜市の約5000年前の驚異的な縄文文化とその後の歴史をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)