後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「豆腐ものがたり、そして『とうふ処三河屋』」

2020年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
おはようございます。残暑が相変わらず厳しいです。お元気にお過ごしでしょうか。暑いときには冷や奴が食べたくなります。
さて早速ですが豆腐料理の写真と美味しい豆腐を売っている「とうふ処三河屋」の写真をご覧下さい。「とうふ処三河屋」の写真は昨日撮ってきたものです。

1番目の写真は我が家でよくたべる「冷や奴」です。
写真の出典は、https://park.ajinomoto.co.jp/recipe/card/705616/ です。

2番目の写真は甘辛い味噌を塗った「味噌田楽」です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90 です。

3番目の写真は甘辛い醤油味で煮込んだ「雁もどき」です。写真の出典は2番目の写真と同じです。

4番目の写真は「とうふ処三河屋」の 高幡本店です。アクセスは、https://www.mikawaya12.com/ に出ています。

5番目の写真は「とうふ処三河屋」の 高幡本店の店内の写真です。

さて豆腐の起源について簡単に書きます。いろいろな説がありますが、16世紀に編纂された『本草綱目』では、豆腐は紀元前2世紀前漢時代の淮南王で優れた学者でもあった劉安によって発明されたと書いてあるのです。真偽については分かりませんが中国ではそのように信じられています。
そして豆腐の原料となる大豆は遅くとも紀元前2000年頃までには中国の広い範囲で栽培されていたと考えられています。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%86%E8%85%90 )
日本へは豆腐は中国から伝えられました。遣唐使によるとする説が最も有力で、空海によると一般に信じられています。

豆腐はアジアの広範な地域で古くから食べられてきました.中国本土、日本、朝鮮半島、台湾、ベトナム、カンボジア、タイ、ミャンマー、インドネシアなどでは現在も日常的に食べられています。
アメリカ合衆国やイギリスを始めとする英語圏のほか、ドイツ語圏、フランス語圏、イタリア語圏等々、世界の様々な国々で、"tofu "と書かれて食べられています。

欧米諸国へ導入されたのは17世紀です。清で布教したスペインのドミニコ会宣教師が欧米に紹介したことになっています。
20世紀末期以降のアメリカを始めとする欧米諸国では、健康的な食品への関心の高まりによる健康ブームに伴い豆腐が注目を集めるようになります。

さて江戸時代の日本では『豆腐百珍』という本が書かれました。この本では100種の豆腐料理の調理方法を解説しています。ちょっと面白いのでご紹介します。
豆腐百珍では、豆腐料理を以下の6段階に分類・評価しているのです。
1、尋常品:どこの家庭でも常に料理するもの。木の芽田楽、飛竜頭など26品。
2、通品:調理法が容易かつ一般に知られているもの。料理法は書くまでもないとして、品名だけが列挙されている。やっこ豆腐、焼き豆腐など10品。
3、佳品:風味が尋常品にやや優れ、見た目の形のきれいな料理の類。なじみ豆腐、今出川豆腐など20品。
4、奇品:ひときわ変わったもので、人の意表をついた料理。蜆もどき、玲瓏豆腐など19品。
5、妙品:少し奇品に優るもの。形、味ともに備わったもの。光悦豆腐、阿漕豆腐など18品。
6、絶品:さらに妙品に優るもの。ただ珍しさ、盛りつけのきれいさにとらわれることなく、ひたすら豆腐の持ち味を知り得るもの。湯やっこ、鞍馬豆腐など7品。
(『豆腐百珍 原本現代訳』教育社新書 ISBN 978-4315506846)。

最後になりますが、美味しい豆腐を売っている「とうふ処三河屋」をご紹介いたします。
この店のことはフランスに在住のMotoko Boutdumondeという方からFace Bookで教わったのです。
Motokoさんは素晴らしい国際感覚を持った日本人の女性ですが、フランス人のご主人とお子さんやお孫さんと幸福に暮らしてます。日本が懐かしいらしく私の記事へよくコメントを下さいます。
それはさておき、 「とうふ処三河屋」は日野市に高幡本店と万願寺店があります。詳しくはhttps://www.mikawaya12.com/ をご覧ください。
昨日、家内がこの店からおぼろ豆腐、寄せ豆腐、雁もどき、厚揚げを買って来ました。
夜におぼろ豆腐に生姜をおろしてかけ、醤油をたらして食べました。大豆の香りがしてふくよかな絶品でした。
雁もどきの方は出汁砂糖醤油みりんで煮ました。口に入れると粗挽きの大豆とごぼう、黒ゴマなどの歯ごたえが絶品です。嗚呼、豆腐は大豆から作るのだと納得します。上質の揚げ油と原料の大豆の美味しさがよく分る雁もどきなのです。
美味しい豆腐を食べると懐かしさと幸福感が湧いてきます。

皆様のお住まいの近所に美味しい豆腐を売っているお店があるでしょうか?
今日は豆腐の起源や豆腐のものがたりを書きました。そして美味しい豆腐を売っている「とうふ処三河屋」をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、多摩動物公園へ写真を撮りに行った」

2020年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は午後から都立多摩動物公園へ写真を撮りに行きました。アフリカなどから来た動物がどんな様子か見たかったのです。   ところが1番目の写真が示すように今日は休園日でした。

仕方なくネット上で多摩動物公園の動物の写真を探しました。そうしたら次のブログに見事な写真が出ていました。
「多摩動物公園のおすすめ見どころを徹底取材!スタッフに周り方も聞いてみた!」、https://tabicoffret.com/article/77236/index.html
このブログから6枚の写真をお借りしてここに掲載します。
写真にある動物は順にキリン、ユキヒョウ、アフリカゾウ、アジアゾウ、トラ、オオカミです。











皆様も、もう少し涼しくなったらお子さん、お孫さんと一緒に多摩動物公園へ行ってお楽しみください。広い上に坂道が多いので熱中症対策をお忘れなく。
余計なことを書いて失礼しました。それにしても今日は暑い日ですね。

「芸術の秋(4)日本人が好きなチャイコスキーの哀愁」

2020年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
戦後すぐに私が入った新制中学の社会科の男先生がクラシックが大好きでした。レコードを学校に持って来て生徒に何度も聞かせました。そして「クラシックの音楽を聴かないと立派な人間にならない」と繰り返し言うのです。私はクラシックを沢山聞きましたが、残念ながら立派な人間になりませんでした。
それはさておき、クラシックのレコードで一番退屈したのはチャイコフスキーの「悲愴」でした。男先生が教壇から見ているので生徒はみな姿勢を正し感動したような顔で我慢していたのです。
中年になってから「悲愴」を聞くと、なるほど名曲です。
そして暗い東洋的なメロディー感動しました。「悲愴」は叙情的で流れるような美しさがあります。哀愁も感じます。ロシアの大地にある白樺林の中をゆっくり流れる大河のようです。
一方家内は姉がバレエを習っていたので「眠れる森の美女」「くるみ割り人形」「白鳥の湖」などの華麗な曲に親しんでいました。曲を聴くと華やかな舞台が甦るそうです。
今日から「芸術の秋」という連載で、音楽の分野を書こうと思います。
クラシックと言えばベートーベン、モーツァルト、から始めるべきと思いますが、私は迷わずチャイコスキーから始めることにしました。
まずチャイコフスキーの音楽をお聞きください。ここに選んだYouTubeは若い日本人の演奏です。しかしYouTubeには世界的な名演奏もたくさんあります。ご自分のお好みでお聞き下さい。
チャイコフスキーヴァイオリン協奏曲、https://www.youtube.com/watch?v=N3YKSVHWNpw
チャイコフスキー ピアノ協奏曲、https://www.youtube.com/watch?v=l4XPQtyQscU
チャイコフスキー 交響曲第6番「悲愴」、https://www.youtube.com/watch?v=mHlyntPmGnc
さて次に3枚の写真をご覧ください。

1番目の写真はチャイコフスキーの家の周りに広がっていたであろうと私が想像している白樺林です。写真の出典は、「写真素材 - ロシアのシベリアの川のほとりに美しい白樺林」です。

2番目の写真はヴォトキンスクにあるチャイコフスキーの生家です。現在ではチャイコフスキー博物館となっています。

3番目の写真はチャイコフスキーが晩年に住んで作曲をしたモスクワ近郊のクリンの邸宅です。現在は博物館となっているそうです。

チャイコフスキーは1840年5月7日に生まれ 1893年11月6日に亡くなりました。53歳の短い生涯だったのです。
以下は「フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』ピョートル・チャイコフスキー」からの抜粋です。

作品は多岐にわたります。とりわけ後期の交響曲・バレエ音楽・協奏曲などが愛好されているほか、管弦楽曲、オペラ、室内楽曲、独奏曲にも人気作があります。
チャイコフスキーの繊細な心はあらゆる弱いものに向けられました。孤児や可哀想な動植物、同性愛者などへも、彼らに理解を寄せてともに時間を過ごすこともあったそうです。
チャイコフスキーは1840年、ウラル地方ヴォトキンスクで、鉱山技師(工場長)イリヤ・ペトローヴィチ・チャコフスキーの次男として生まれました。
家にあったレコードで、モーツァルト、ロッシーニ、ベルリーニ、ドニゼッティの作品を聞いたそうです。
5歳から家庭教師の手ほどきによりピアノを習い始めて音楽的才能を示しますが、両親には息子を音楽家にする意志はなく、1850年10月(10歳)でサンクトペテルブルクの法律学校に寄宿生として入学させます。
1855年、R・キュンディンゲルからピアノを、A・キュンディンゲルから和声学を学び始める。1859年5月13日に法律学校を卒業し、6月3日に法務省に文官として就職しました。
チャイコフスキーの兄弟姉妹は後年にいたるまで仲がよく、チャイコフスキーを支え続けました。

チャイコフスキーは平凡な文官としての道を歩んでいましたが、1861年の秋に知人からの紹介で音楽教育を行っている帝室ロシア音楽協会を知り、1862年9月より和声学と対位法を学び、編曲と作曲を学び始めます。
これがチャイコフスキーに取って大きな転機となったのです。
本格的に音楽の道に進むことを決意したチャイコフスキーは、1863年に、23歳のときに法務省の職を辞して音楽に専念することになります。
これ以降、チャイコフスキーはモスクワを活動拠点とするようになりました。1866年に交響曲第1番『冬の日の幻想』(作品13)の初演があり、また初のオペラである『地方長官』を完成させます。
オペラ歌手デジレ・アルトーと恋に落ち、毎晩、彼女の元へ通うようになります。しかし婚約にまで至るが翌年破局します。
1866年以後、チャイコフスキーは1893年11月6日に53歳で亡くなるまで数多くの傑出した作曲をしたのです。

1893年10月28、交響曲第6番『悲愴』が作曲者自身による指揮で初演されました。それから9日後の11月6日に急死します。死因はコレラおよび肺水腫によるものと言われています。ロシア皇帝アレクサンドル3世によって国葬が決定され、サンクトペテルブルクのカザン大聖堂にて国葬が執り行われた。遺体はサンクトペテルブルクのアレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に10月29日に埋葬されました。

作品はご承知の通り多数ですが、以下のものを書いておきます。
バレエ音楽
「白鳥の湖」作品20
「眠れる森の美女」作品66
「くるみ割り人形」作品71
そして、正教会聖歌の、
聖金口イオアン聖体礼儀 作品41
晩祷 作品52
9つの宗教音楽作品

それにしてもチャイコスキーは偉大でした。ここ数日、この記事を書くために彼が作曲したヴァイオリン協奏曲やピアノ協奏曲や「悲愴」を改めて聞きました。それは正しく「芸術の秋」にふさわしいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「年間第23主日のミサと菊地功大司教のお話」

2020年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
今日の日曜日は年間第23主日です。動画配信で主日のミサにあずかりました。
ミサの動画は、https://www.youtube.com/channel/UCc2LbUPcHohKUgO2dYhrCvw/videos にあります。
そして今日の菊地功神父さまのお話と説教は以下にあります。
https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/?fbclid=IwAR2inAKWRhjhCKtwN0sKQY_8-LTkQCbwJ1UtJNE68qWLhVaQwQpYdEdpw1E

私は東京大司教の菊地功神父さまには直接お会いしたことがありません。しかしコロナ問題発生以後は動画配信のミサで毎週お会いし説教を聞いてきました。揺るぎない信仰の持ち主です。その上非常に優しいご性格です。声も良くミサの司式も明瞭です。感動的なお方です。そこで今日は菊地功神父さまのお写真を掲載いたします。

以下に菊地功神父さまの冒頭のお話と説教の始めの部分を示します。
「菊地功神父さまの冒頭のお話」
9月に入りました。最初の日曜日は被造物を大切にする世界祈願日です。
のミサで
また今年から、9月1日から10月4日までは、教皇フランシスコ訪日を記念して、「すべてのいのちを守るための月間」となっています。これについて解説する司教協議会会長高見大司教の文章の註には、次のように記されています。

「すでに正教会は、コンスタンティノープル全地総主教ディミトリオス一世のイニシアティブにより、1989年から9月1日を「被造物の保護を祈る日」としていました。その後2007年に開催された第3回ヨーロッパエキュメニカル会議において、その9月1日からアシジの聖フランシスコの記念日である10月4日までを「被造物のための期間」とすることが提唱され、世界教会会議(WCC)がそれを支持し、現在では「被造物の季節(Season of Creation)」としてエキュメニカルな年間行事になっています」(全文はこちら)

すなわち9月は、日本のカトリック教会だけではなく、世界中のキリスト者が、ともに天地の創造主である御父の与えてくださった共通の家のために、思いを馳せ、心を砕き、祈りをささげる「とき」です。

東京教区のホームページには、FABCの人間開発局(OHD)が整えた毎日の祈りの翻訳が掲載されています。すでに触れたように、原文が送付されてきたのが8月末で、9月に間に合わせるため、教区本部広報担当が急遽翻訳してくれました。短いけれど、豊かなテーマの祈りです。ご活用いただければと思います。リンクはこちらです。

さて、新型コロナウイルスの感染は、毎日新規に公表されるPCR検査の陽性者数が、若干低い数字で推移しているようですし、このところ東京の実効再生産数も1を切る日が続いています。まだまだ慎重な対応が必要ですが、現在の教会における感染症対策としての活動制限を、多少緩和することが出来るかどうか、意見を交換中です。とはいえ、即座に制限を撤廃できる要素はあまりありませんから、しばらくは慎重な対応が必要だと判断しています。したがって、9月6日から13日までの一週間も、これまで通りの感染症対策を継続します。

「本日の東京カテドラルにおける公開配信ミサの説教」

年間第23主日A
東京カテドラル聖マリア大聖堂(公開配信ミサ)
2020年9月6日
被造物を大切にする世界祈願日

「ラウダート・シ、ミ・シニョーレ(わたしの主よ、あなたはたたえられますように)」というアシジの聖フランシスコのことばで始まる回勅「ラウダート・シ」を2015年に発表された教皇フランシスコは、翌年から9月1日を、「被造物を大切にする世界祈願日」と定められました。日本の教会は、9月1日が平日となることも多いことから、その直後の日曜日を、この特別な祈願日と定めています。今年は9月6日が、「被造物を大切にする世界祈願日」であります。・・・以下は省略します。続きは、https://bishopkikuchi.cocolog-nifty.com/ をご覧下さい。

「日本人を深く愛したチマッティ神父とそのお墓」

2020年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
サレジオ修道会のチマッティ神父は日本人を深く愛していました。第二次大戦でサレジオ会の日本人が徴兵され、戦死する度に深く嘆き悲しんだのです。
今日はサレジオ会のチマッティ神父とそのお墓をご紹介いたします。
サレジオ修道会は19世紀にイタリアで創設されましたが、現在はイエズス会に次いで世界で2番目に大きな修道会です。
日本には1928年にチマッティ神父等が来てサレジオ修道会を創りました。そして宣教活動を活発に始め、数多くの学校を作りました。
東京都の調布市にはサレジオ神学校を作り、1965年にそこで帰天しました。享年86歳でした。
その墓はサレジオ神学校の裏手の地下室にあり遺骸も石棺の中に安置されています。3年前に思い立ってチマッティ神父のお墓詣りに行きました。撮ってきた写真をお送りします。

1番目の写真は地下にあるチマッティ神父のお墓へ下りて行く階段です。

2番目の写真はチマッティ神父の遺骸の入っている石棺です。お墓です。

3番目の写真はチマッティ神父の資料館です。

4番目の写真は戦死したサレジオ会の日本人です。

5番目の写真は同じ場所にあるカトリック調布教会です。

尚、ヴィンチェンツォ・チマッティ 神父(Vincenzo Cimatti、1879年7月15日-1965年10月6日)の略歴を書いておきます。
チマッティ 神父は1923年、ローマ教皇がサレジオ修道会に日本の宣教地の一部を担当するように願い出ました。サレジオ会の司祭6人と修道士3人とともに日本に派遣され1926年2月8日に門司港に到着します。46歳でした。
2月16日宮崎で日本語の勉強を開始します。
一年後1927年2月から宮崎教会の主任司祭に着任しました。1928年、宮崎教区の教区長となり田野、高鍋、都城、別府、延岡など、次々と新しい教会を設立しました。
1930年、大分に「ドン・ボスコ社」を創立し、同年、日本人司祭の育成を目的に中津で小神学校を設立し、1933年、宮崎へ移転させます。
一方で東京への進出も果たします。三河島教会を引き受けた後、1935年、東京都練馬区で修練院、神学校、サレジオ会独自の教育事業「育英工芸学校」(後の育英工業高等専門学校、現在のサレジオ工業高等専門学校)を開校します。そして「ドン・ボスコ社」の出版事業の本部もここに置いたのです。
また、1933年、見放された年寄りや孤児たちのために宮崎で「救護院」という事業も設立し、この事業を維持発展させるために、1937年に「宮崎カリタス修道女会」(現在のイエスのカリタス修道女会)の創立します。
戦時中には苦労します。キリスト教が外国の宗教として厳しく監視され不自由でした。
しかし勇気を出して、度々コンサートを開いたのです。音楽を通して教会に対する好感を培うように努めるためでした。
コンサートは奄美大島から札幌、占領下の満州、北朝鮮や韓国など各地で開催され約2,000回におよんだのです。
演目には宗教的な曲も交えその内容を説明しながら教義を伝えてたのです。
1940年、教会の外国人責任者に対して辞職命令が出され教区長を辞職します。旅行を制限され1943年末以降、空爆中でも練馬のサレジオ神学校で過ごします。戦後、破壊された事業を復帰させ、サレジオ会の新しい事業設立と発展に尽力しました。
70歳で管区長を退任し、2年間図書係となり手書きで図書の目録の完成に努めます。
1965年10月6日、86歳で死去しました。「日本の土になりたい」との遺言にしたがい遺体は府中カトリック墓地に土葬された後1967年10月4日、調布サレジオ神学院の新聖堂が完成に伴い、棺は府中カトリック墓地から地下聖堂に移されました。

3年前にチマッティ神父のお墓詣りに行きました。お墓は調布サレジオ神学院の地下聖堂に2番目の写真のようにありました。
このようにな日本人を深く愛したチマッティ 神父を日本人は絶対に忘れません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「緑の牧場にのどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行く」

2020年09月05日 | 日記・エッセイ・コラム
まだまだ暑い日々ですが秋らしくなってきました。そこで秋空のもとの緑の牧場にのどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行くことにしました。車で1時間30分くらい走った所に広い緑の牧場があり乳牛を90頭飼っているのです。八王子市の西はずれにある磯沼ミルクファームという牧場です。 東京都八王子市小比企町1625にあります。(https://www.its-mo.com/detail/DIDX_DKE-2016985/access/ )
磯沼牧場で草を食む乳牛の写真をお送りいたします。

1番目の写真の出典は、https://feature.cozre.jp/66875 です。

2番目の写真の出典は、http://blog.ushi-camera.com/?eid=65 です。

3番目の写真の出典は、https://twitter.com/zoo_biker/status/1269569901636644865?lang=bg です。
磯沼ミルクファーム牧場へは8月30日と9月4日と2度行きました。ところが広い放牧場に牛がいません。のどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行くという私の目論見はまったく失敗に終わったのです。2日とも車の冷房をかけギンギンに冷やすような暑い日だったのです。牛だって暑すぎて炎天下の牧場には出て行かないのです。そんなことを想像もしなかった私が馬鹿でした。
そこで昨日は何処に牛がいるか探しました。いました。牛舎の中に沢山いました。幾つもある牛舎には強烈な悪臭が立ち込めています。その牛舎の一つ一つへ首を入れて家内が撮ってくれた写真をお送りいたします。

4番目の写真は8月30日に撮った写真です。牧場の木陰に黒い牛が寝そべっています。牛も暑いのです。

5番目の写真も牛舎の中に寝そべっている牛です。動こうともしないで肩で息をしています。

6番目の写真は元気に立って我々に挨拶してくれた牛です。

7番目の写真はジャージー種の牛です。暑さに強いのか皆立っています。

それにしても牛舎の臭さは酷いものです。私は冷房した車の窓を閉め、写真を撮ってくれている家内に感謝していました。
牧場主の磯沼正徳さん達はこの悪臭の中で四六時中牛の世話をしているのです。頭が下がります。
事務所兼の売店で家内が買ってくれた冷えた牛乳を飲みましたが、甘い乳糖の味がふくよかとして流石に美味この上ないものでした。
この牧場は新宿からの京王高尾線の山田駅から歩いて行けます。広さおよそ6000坪です。
現在68歳の磯沼正徳さんが自宅の裏山を切り開いて作りました。放牧している乳牛はホルスタイン、ジャージー、ブラウンスイス、ガンジーなど6種類約90頭です。なお正徳さんは2代目です。彼が牧場を大きくしたのです。父親が1950年に牧場を始めました。
「八王子市にある磯沼ミルクファームで牛が草を食む動画です」
https://www.facebook.com/100000450424646/videos/pcb.3443745698983744/3443743038984010/

さて皆様も緑の牧場にのどかに草を食む乳牛の写真を撮りに行きたいと思うでしょうか?
でも本当に行く場合は牛が放牧場に出ている秋の涼しい日になさって下さい。そして牛舎の悪臭は覚悟して下さい。
なお末尾の参考資料に「磯沼ミルクファームのビジョンとチャレンジ」をつけてあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

=====参考資料====================================
「牧畜を楽しみ人も牛も幸せに 磯沼ミルクファームのビジョンとチャレンジ」https://agri.mynavi.jp/2018_06_19_29428/
「牛乳は命を搾取することのない栄養源です」。磯沼ミルクファーム(磯沼牧場)の搾乳体験で必ず添えられるスタッフの説明は、オーナーである磯沼正徳(いそぬま・まさのり)さんの経営哲学がそのまま凝縮された言葉です。おいしいミルクが楽しめて、人と牛がともに幸せになれる“動物福祉”の牧場。そんな牧場の実現に磯沼さんは長年、努めてきました。けれどもそれは苦労ではなく、人と牛に対する自然な愛情と信念、そして牧場経営の常識にとらわれない遊び心があって成功したものです。

「オーストラリアで感じたこと」
牧場を引き継いだ磯沼さんは26歳の時、オーストラリアへ渡航。ある酪農農家に滞在しました。そこでインパクトを受けたのは、牧畜が単なる仕事・労働としてだけでなく、人生を豊かにする遊び・楽しみであり、牛などの家畜が友達的存在として見なされる「牧畜文化」になっているということでした。

日本の稲作文化と同様の、オーストラリアの牧畜文化
「社会の中にミルクを提供する牛がいて、それが人々の共有財産になっている。牛を飼育する牧場は生産の場であり、生命の息吹を感じ、生きる喜びを体験する場でもある。牧畜文化が根付いたオーストラリアにおける牧場は、稲作文化が根付いた日本における田んぼに匹敵する存在なのではないだろうか」
そう思った時、磯沼さんの胸にこれから自分がめざすべき牧場の姿が浮かび上がりました。
・・・・・以下省略します。

「芸術の秋(3)多くの日本人が好きなゴッホの絵」

2020年09月04日 | 日記・エッセイ・コラム
2020年09月02日 に「芸術の秋(2)西洋のバロック絵画を楽しもう」という記事で中世の暗い宗教画、ルネサンス期の明るい均整のとれた絵画の後に流行ったバロック絵画をご紹介しました。今日は後期印象派のフィンセント・ファン・ゴッホの油彩画を11点お送り致します。しかしゴッホは印象派とは別の独創的な画家というのが適切ではないでしょうか。
それはさておき、ゴッホの油彩画で生前に売れたのは「赤い葡萄畑」という一枚だけでした。

1番目の写真は「赤い葡萄畑」です。「赤い葡萄畑」は1888年11月に描かれた絵画です。フランス・アルルの葡萄畑で夕方に人々が農作業をする様子を描いた作品です。 この作品は、ゴッホが死去する5ヶ月前の1890年2月にベルギーのブリュッセルで行われた展覧会「20人会展」に出品され、ゴッホのアルル時代の友人でもあったベルギーの詩人のウジェーヌ・ボックの姉で女流画家のアンナ・ボックによって400フランで購入されました。
結果的に、この作品はゴッホの生前に売れた唯一の作品となったのです。 現在はモスクワのプーシキン美術館蔵です。
ゴッホ(Vincent van Gogh/1853-1890)は、オランダに生まれ、主にフランスで活動した画家です。37歳で夭折した天才でした。
ゴッホが画家を志したのは、27歳になった1880年のことです。ブリュッセルでデッサンの勉強を始め、1881年、28歳の時にに実家の自宅に画室を作ったのです。それまでは職を転々としていたのでした。
ですからゴッホの画家としての活動はたった約10年間と短いものでした。その10年間で描いた油彩は900点であると言われています。
しかし生前に売れた絵はたった1枚だったので生活費は弟のテオドールが出しました。
現在でこそ極めて高い評価を得ていますが、不遇の生涯を送ったのです。そして現在有名な傑作は晩年の2年半に集中しているのです。

2番目の写真は1885年の「馬鈴薯を食べる人々」です。この油彩画はかれの初期の作品で、1885に描かれました。それはキリスト者として貧しい生活の人々に寄り添った絵画でした。
しかしこの画風は続きませんでした。1886年に、ゴッホはパリの弟テオのところに同居します。初めてモネ、ルノワール、ドガ、ピサロなどの作品を目の当たりにしたのです。
華やかな印象派の影響で、ゴッホの絵はくすんだ色彩から、一気に活き活きした色彩へと変貌したのです。
3番目以降の作品の印象派らしい明るい作風へ大きく変化したのです。

3番目の写真は1887年の「春の釣り」です。

4番目の写真は1888年の「ひまわり15本」です。

5番目の写真は1888年の「ローヌ河の星月夜」です。

6番目の写真は1888年の「夜のカフェテラス」です。

7番目の写真は1888年の「黄色い家」です。

8番目の写真は1888年の「アルルの跳ね橋」です。

9番目の写真は1889年の「星月夜」です。

10番目の写真は1888年の「ファン・ゴッホの寝室」です。

11番目の写真は1890年の「麦畑」です。

ゴッホの絵画については解説は不要です。見れば何故か心が揺さぶられるのです。
解説ではなく一つだけ私の体験的な感動を書かせて下さい。
それは中年の頃、アメリカの中西部のある町で研究の仕事をしていた時のことです。そこの市立美術館にゴッホの絵が2枚だけあったのです。
仕事に行きづまり、落ち込んでだことが何度かありました。そのたびにゴッホの絵を見に行ったのです。感動しました。胸が熱くなります。勇気が湧いてきます。また研究に対する情熱が燃えたのです。
ゴッホの傑作は何点も以前にフランスの美術館で見ていました。アメリカのその町の市立美術館の2点は決して良い出来ではありませんでした。しかしその筆使いと部分的な色彩が、以前に見た感動的な作品を瞬時に眼前に再現してくれるのです。
絵画から勇気を貰い研究に対する情熱を貰った経験は生涯一度だけでした。
マネーもモネーもルノアールも美しい絵を残しました。シスレーもセザンヌの絵画も感動的です。
しかしゴッホの絵から受けた魂を揺さぶるような影響はありません。ゴッホの絵は私の体を振り動かしたのです。
そして生きていることへの歓喜を与えてくれます。ふたたび仕事へ対する情熱に火をつけてくれたのです。
現在84歳になった私は仕事を止めて久しいのです。もう仕事のことはすっかり忘れました。しかしゴッホの絵から貰った歓喜と情熱を今でも憶えています。
今朝、彼の絵を沢山見ながら自分の好き11点を選びました。それは実に楽しい仕事でした。こころよい静かな時間がゆっくり流れて朝が過ぎ行きます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「国木田独歩の武蔵野に憧れる、その現在の風景」

2020年09月03日 | 日記・エッセイ・コラム
私は仙台生まれ仙台育ちなので武蔵野を見たことがありませんでした。しかし青春のころ国木田独歩の「武蔵野」という随筆集を読んで憧れてしまったのです。ですから武蔵野という言葉を聞くと青春のころの甘い夢を連想して幸せな気分になります。特に広い武蔵野に点々とある雑木林の風景に憧れていました。
その後結婚して東京の郊外に60年くらい住み続けていますが、今でも「武蔵野」の風景を求めて彷徨っています。そして雑木林を見つけると幸せな気分になります。それは私の永遠の恋人のような存在です。
先週も昔のままの武蔵野の雑木林の風景を探し車であちこちを走り回りました。
国木田独歩の「武蔵野」を読んだ方々には武蔵野に憧れる私の気持ちがお分かりと思います。
武蔵野の雑木林はクヌギやコナラやカシワの木が混じっている林です。樹木は他にもエゴノキ、シデノキ、ナラノキ、クリノキ、ヤマザクラなどなど落葉する木々が混じっています。
関東平野は昔、武蔵野とよばれ、雑木林で覆われていました。人々はその雑木林を切り開いて田畑にしました。しかしその一方、雑木林は薪を取り炭を焼くために必要でした。落ち葉は肥料になります。雑木林からは山菜やキノコも採れます。そこで田畑の周囲には雑木林が大切に保存してあります。このような雑木林は里山とも呼ばれ、美しい田園地帯の風景になっています。先週撮った写真をお送りいたさいます。

1番目の写真は八王子市の郊外にある磯沼ミルクファームという広大な牧場です。武蔵野の雑木林に囲まれた牧場です。この牧場ではホルスタイン種やジャージー種などの乳牛を100頭以上飼っていて毎日1トンの牛乳を出荷しているそうです。

2番目の写真は埼玉県所沢市の郊外の畑の向こうに雑木林のある風景です。秋の紅葉も、そして冬の落葉した光景も美しいので四季折々何度も写真を撮りに行く場所です。

3番目の写真は埼玉県南部にある平林寺のそばの雑木林です。

4番目の写真は平林寺の雑木林です。平林寺の境内に入ると裏に広い雑木林があり武蔵野固有の珍しい植物が生えています。植物が好きだった昭和天皇も訪れたそうです。

5番目の写真は磯沼牧場の上に広がっていた雲の写真です。あまり美しかったので家内が思わず写しました。

武蔵野の雑木林は春は淡い緑の瑞々しさ、夏は深緑の木陰の安らぎ、秋は黄、くれない、褐色、とりどりに染められた紅葉の美しさを見せてくれます。そして全ての葉を落とした裸の梢の冬も凛々しさを感じます。詩的なムードが流れています。
私が武蔵野の雑木林に憧れるようになったのは国木田独歩の「武蔵野」を読んでからです。その本によると雑木林が文学作品の対象になったのは明治維新以後のようです。
明治4年生まれ、41年、36歳で亡くなった国木田独歩は「武蔵野」を書いて雑木林の美しさを描きました。
江戸時代以前は松の木や美しい竹林などは文学作品に登場しますが、いろいろな雑木の混じった広葉樹の混生林は美の対象になりませんでした。少なくとも文学作品には取り上げられていません。
この落葉する広葉樹の林の美しさを国木田独歩へ教えたのはロシア人のツルゲーネフです。そのことは末尾に紹介したURLを開けてみると、国木田独歩自身が書いているので明白です。
ロシアの大地にある白樺やダケカンバなどの樺の木の林の美しさをツルゲーネフは活き活きと描いています。国木田独歩は深く感銘を受けます。
彼は明治時代の東京市の西の郊外に広がる田園地帯を広く歩きまわります。そして、そこにあるコナラ、クヌギ、カシ、エゴノキなどなどの雑木林の詩的なたたずまいを文章で表現したのです。四季折々の美しさ、朝や夕方の林の輝きを描いたのです。
それ以来、多くの日本人は雑木林は美しいと認識するようになったのです。勿論、昔の日本人も美しいと思ったに違いありません。しかし文学作品にはほとんど現れませんでした。

下に国木田独歩の「武蔵野」のほんの一部を示します。
・・・自分は明治二十九年の秋の初めから春の初めまで、渋谷村の小さな茅屋に住んでいた。自分がかの望みを起こしたのもその時のこと、また秋から冬の事のみを今書くというのもそのわけである。
九月七日――「昨日も今日も南風強く吹き雲を送りつ雲を払いつ、雨降りみ降らずみ、日光雲間をもるるとき林影一時に煌く、――」
 これが今の武蔵野の秋の初めである。林はまだ夏の緑のそのままでありながら空模様が夏とまったく変わってきて雨雲の南風につれて武蔵野の空低くしきりに雨を送るその晴間には日の光水気を帯びてかなたの林に落ちこなたの杜にかがやく。自分はしばしば思った、こんな日に武蔵野を大観することができたらいかに美しいことだろうかと。二日置いて九日の日記にも「風強く秋声野にみつ、浮雲変幻たり」とある。ちょうどこのころはこんな天気が続いて大空と野との景色が間断なく変化して日の光は夏らしく雲の色風の音は秋らしくきわめて趣味深く自分は感じた。
まずこれを今の武蔵野の秋の発端として、自分は冬の終わるころまでの日記を左に並べて、変化の大略と光景の要素とを示しておかんと思う。・・・・

この作品に描かれている林は雑木林は里山とも言います。農民が植えて育てた林です。
冬の雑木林は陽が差し込んで明るく暖かいものです。道もなくとも下草の上を散歩するのは実に楽しいものです。
そんな雑木林の周囲を散歩しながら36歳で夭折した国木田独歩の生涯を想います。
小説を沢山書きました。しかし現在世に知られているのは「武蔵野」だけです。

今日は東京の郊外の雑木林の写真だけを掲載しましたが美しい雑木林は全国にあります。
北海道に旅をすると美しい白樺林が畑の周囲を囲んでいます。ああ、これこそツルゲーネフの世界だとロシアの大地を想います。
それにしても林や森は人々の心にいろいろと語りかけてくれます。皆様の近所にも美しい雑木林が御座いますでしょうか。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
====参考資料===========================
(1)「武蔵野」の詳細な内容は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000038/files/329_15886.html にございます。
(2)国木田度独歩の経歴を下に掲載して置きます。
国木田 独歩(くにきだ どっぽ、1871年8月30日(明治4年7月15日) - 1908年(明治41年)6月23日)は、日本の小説家、詩人、ジャーナリスト、編集者。千葉県銚子生まれ、広島県広島市、山口県育ち。幼名を亀吉、のちに哲夫と改名した。筆名は独歩の他、孤島生、鏡面生、鉄斧生、九天生、田舎漢、独歩吟客、独歩生などがある。
田山花袋、柳田国男らと知り合い「独歩吟」を発表。詩、小説を書いたが、次第に小説に専心。「武蔵野」「牛肉と馬鈴薯」などの浪漫的な作品の後、「春の鳥」「竹の木戸」などで自然主義文学の先駆とされる。
また現在も続いている雑誌『婦人画報』の創刊者であり、編集者としての手腕も評価されている。夏目漱石は、その短編『巡査』を絶賛した他、芥川龍之介も国木田独歩の作品を高く評価していた。ロシア語などへの翻訳があるが、海外では、夏目漱石や三島由紀夫のような知名度は得ていない。

「芸術の秋(2)西洋のバロック絵画を楽しもう」

2020年09月02日 | 日記・エッセイ・コラム
涼しい秋の風が吹き出しました。皆さまお元気で秋をお迎えでしょうか。
今日は西洋のバロック絵画を楽しもうと思います。
バロック絵画とは絵の構図や色彩を丁寧に、しかも劇的な印象を与える一群の絵画のことです。中世の暗い宗教画、ルネサンス期の明るい均整のとれた絵画の後に流行った絵画のスタイルでです。複雑な構図と誇張された動き、凝った装飾、強烈な光の対比のある一群の絵画です。このように書くと分りにくいので、早速バロック絵画を見て楽しみましょう。

1番目の写真は『夜警』です。レンブラント・ファン・レイン の1642年の作でアムステルダム国立美術館にあります。王侯貴族ではなく一般市民の集団を描いた作品として画期的な作品です。カンバスに油彩で大きさは、363 cm × 437 cm です。

2番目の写真は『大工聖ヨセフ』です。右側のろうそくを持つ子はイエス様です。ジョルジュ・ド・ラ・トゥールの1642年の作でルーブル美術館にあります。

3番目の写真は『真珠の耳飾の少女』です。ヨハネス・フェルメール1665年頃の作です。こちらを見つめる大きな瞳が印象的です。マウリッツハイス美術館(ハーグ)にあります。

4番目の写真は『ベントハイム城 』です。ヤーコプ・ファン・ロイスダールの1653年の作です。暗い雲の下の城の手前に谷や小径、丸木橋、羊飼い等が丁寧に描かれています。アイルランド国立美術館にあります。

5番目の写真は『シバの女王の船出』です。クロード・ロランの1648年の作です。ナショナル・ギャラリー(ロンドン)にあります。旧約聖書の話に基づいた149cmx197cmの作品です。

5枚の写真に示したようなバロック絵画は17世紀に多く描かれ、その主な作家には次のような画家がいます。

ネーデルランド
 ルーベンス
 レンブラント
 フェルメール
スペイン
 ベラスケス
フランス
 ニコラ・プッサン(ローマで活躍)
 ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
イタリア
 カラヴァッジオ
私は印象派の絵画も好きですがバロック絵画も好きです。いかにもヨーロッパらしい文化が詰まっているようなのです。ヨーロッパ人の心の中には天使と悪魔が一緒に住み込んでいます。その悪魔的な心情も描き込んでいるのです。深い精神性を感じさせます。その上色調が暗いのです。寒い冬を暗示させます。ヨーロッパの冬は寒くとても暗いのです。毎日低い雲が空を覆ってるのです。
バロック絵画は本当のヨーロッパの自然とヨーロッパ人の心情を描いた絵画と思います。
蛇足ですがバロックの意味を説明いたします。
バロックとは歪んだ、しかし貴重な真珠のことです。イタリア・フィレンツェから始まったルネサンスは、均衡の取れた優美さが特徴でした。その後流行った絵画は均衡や優美さや明快さはありません。暗く深い人間の心情が裏にあるのです。ですから分かり難いのです。しかしヨーロッパの文化そのものです。ですからこそヨーロッパ人はそれを大切に思い多くの美術館に数多く展示してあります。そしてバロック芸術にはバロック音楽やバロック建築もあるのです。何時かバロック音楽やバロック建築に関しても書いてみたいと思います。尚、バロック芸術はヨーロッパ文化なのでアメリカにはありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたしす。後藤和弘(藤山杜人)