今回のアフガニスタンにおけるアメリカの敗北と拙速な撤収で私はベトナム戦争のことをいろいろ思い出しました。1976年のアメリカのベトナムからの拙速な撤収の様子が今回の撤収と非常に似ていたからです。
今日はベトナム戦争についていろいろ思い出したことを書きたいと思います。
まずベトナムの歴史を簡単に振り返ってみます。
1940年に仏領インドシナと呼んでいたベトナムを日本軍が占領したのです。戦後、日本がベトナムから引き揚げると今度はフランス軍とベトナムが戦争をします。ベトナムの独立戦争です。
このベトナム独立戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したのです。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏しました。ベトナム人は日本の義勇兵へ感謝しました。
私は1990年代のはじめにこのような残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作った日本人将校の話しも直接聞きました。その方はもと横浜銀行に勤めていた方でした。
以下は2人の残留日本兵から聞いた話です。
◎ 温顔の将校ホーチーミン
フランス軍との戦いです。作戦の最中、川を渡ることがしばしばあったそうです。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着たままの将校を背負って渡ります。軍隊では当たり前の習慣です。
残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡りました。
ところが、ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのです。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていた。
ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しないし、そんなことを期待もしない。
しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がったのです。
ベトナム兵の士気が上がるのは当然です。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言ったのです。
@日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチーミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したそうです。
話を聞いたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞きました。
「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人の元横浜銀行の幹部社員だったH氏もホーチーミンを尊敬していました。
ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。
H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
@ホーチーミン記念館
1990年頃に訪問したハノイでホーチーミン記念館を訪問しました。
記念館には、ホーチーミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を敗ったグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあります。
記念館を出る時、たくさんの横長の旗が生暑い風にハタハタとなびいているのに気付きました。
そしてその旗に文章が書いてあるのです。「なんて書いてあるの?」と案内人に聞きました。案内人は目を潤ませて、「ホーチーミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と説明してくれます。この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音です。美しい文章です。
1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで拙速に撤収しました。10年間にわたるベトナム戦争のあといろいろな事がありました。
改革開放政策がありました、ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りました。ベトナムは復興したのです。
平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。
1番目の写真は晩年のホーチーミンです。
2番目の写真はハノイにあるホーチーミン廟です。
3番目の写真はグエンザップ将軍(左)とホーチーミン初代ベトナム民主共和国主席です。
最後にベトナム戦争のエピソードを一つだけ書かせて下さい。
ベトナムの難民を一般のアメリカ人が家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をしたという話です。
これはオハイオ州立大学のラップ教授の自宅でビールを飲みながら直接聞いた話です。
「ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った。アメリカの一般人はみなそうしたよ」「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」
アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。
戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して敵味方双方の人間の本音を聞くことは人々の心を豊かにする大切なことと信じています。
今日はアメリカのアフガンでの敗北で思い出したベトナム戦争にまつわる話を書きました。
それにしても平和なベトナムの写真を3枚追加致します。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
4番目の写真は越南阮朝の都と宮廷の門です。
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されています。
5番目の写真は世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。
6番目の写真はベトナム北部の徳天瀑布です。
これらの写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 です。