後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「小金井公園へ花の写真を撮りに行きました」

2021年09月20日 | 写真
空高く晴れ上がった敬老の日です。電動車椅子で行きました。
公園には家族づれの人々が楽し気に遊んでいます。平和な長閑な風景です。気分が良いので広い公園の隅ずみまで電動車椅子で散歩して来ました。往復10Kmくらい走り回りました。
花の写真をお楽しみ下さい。






「嗚呼、暇だ、暇だ、退屈だ!とつぶやく老境の日々」

2021年09月20日 | 日記・エッセイ・コラム
老境の日々には自由に使える時間が充分あります。私は時々「嗚呼、暇だ、暇だ、退屈だ!」とつぶやきます。するとそれで贅沢な気分になり幸せになります。現役で働いていた頃は時々、「貧乏暇なしとはこういうことか」と呟いていました。どちらかが幸せな境遇でしょうか?こんな愚にもつかない問題を真剣に考えるのは暇な証拠です。そんな暇があるので昨日は武蔵野の一画の多摩の横山までドライブをして来ました。ここに示した写真は昨日撮った多摩の横山とその下の稲田の風景写真です。





さて現在、我々が日常的に使っている武蔵野という地名が初めて記載されたのは万葉集です。第14巻「東歌」に出て来ます。

恋ひしけば 袖も振らぬを 
武蔵野の うけらが花の 色に出なゆめ

(恋に苦しくなったなら袖をふろうものを武蔵野のうけらの花のように人目に立つそぶりをなさるな)  巻14-3376
 
そして武蔵野から相模に行く道として「多摩の横山の道」が書かれています。現在の多摩市の南部の尾根筋を東西に走る古い道です。
その多摩の横山という名前が出て来る万葉集の歌です。

「赤駒を山野(やまの)のはかしとりかにて 多摩の横山徒歩(かち)ゆか遣らむ」
万葉集 巻20 4417――― 宇遅部黒女

山野に放牧していた馬をどうしても捕まえることが出来なかったので、出征する夫を徒歩で出発させてしまった。
武蔵の防人は、まず現在の府中市にあった国府に集合し、多摩川を南岸へ渡り、平塚へ向かったのです。現在、多摩の横山に連なる尾根の上には見晴らしの良い自動車道が出来ています。幅の広い立派な舗装道路で、「多摩尾根幹線自動車道路」と呼ばれています。
昨日はこの見晴らしの良い自動車道を走って来ました。西には丹沢の山並、その後ろに高く聳える富士山がよく見えました。その右方向には武蔵の国が広がり、遠方に奥多摩の山々が見渡せます。
昨日はこの自動車道路を町田迄行って上に示した多摩の横山とその下の稲田の写真を撮って来ました。
写真に写っている樹々は武蔵野の雑木林と同じです。「クヌギ」「ナラ」「ソロ」「シデ」「アカマツ」「ケヤキ」「エゴノキ」「サクラ」などの雑木林です。
多摩の尾根の道路は雑木林の風景が良いのでよくドライブに行くところです。行けば「赤駒を山野にはかし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ」の歌を思い出します。そして兵士として出征する悲しみです。
それはさておき昨日は「嗚呼、暇だ、暇だ、退屈だ!」とつぶやきながら多摩尾根の道路をドライブして来ました。暇でしょうがないと考えるよりそれは贅沢な境遇だと考えるようにしています。その方が幸せ気分になりになります。

多摩の横山のルートマップは、https://www.ur-net.go.jp/syutoken/nt/yokoyama.html に御座います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「今日の 年間第25日のミサの動画の紹介」

2021年09月18日 | インポート
2021年9月19日の10時から始まる年間第25主日のミサの、カトリック関口教会と聖イグナチオ教会の動画配信は以下の通りです。


カトリック関口教会、
9月19日10:00 
 年間第25主日ミサ 、https://www.youtube.com/watch?v=o7wH38RnpUo
司式 タルチシオ菊地功大司教,S.V.D


聖イグナチオ教会 、https://www.youtube.com/channel/UC-Zwcc_MbnyglsQdyOByc-Q  


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

挿絵代わりの油彩画はルノアールの作品です。

順に、「ポン=ヌフ」(1872)、「ラ・グルヌイエール」(1869)、「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(1876)です。

「ポン=ヌフ」(1872)
「ラ・グルヌイエール」(1869)
「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」(1876)
追記;「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」について、
・・・パリのモンマルトルに実在する「ギャレットの風車」の名を持つダンスホールでの舞踏会の様子が描かれた作品です。

画中の人物たちは、ルノワールの友人たちがモデルになっています。ルノワールはこのダンスホールの近所に住んでいましたが、大きなキャンバスを持ち運ぶ事が困難な為、現場で描いた小さな絵をアトリエに持ち帰りこの作品を描き上げました。

1877年の第3回印象派展に出品された本作品はルノワールの代表作でもあり、印象派作品の中でも最も有名な名画に数えられます。

「平和な悠久のイラクの風景写真」

2021年09月18日 | 写真
平和な悠久のイラクの風景写真の出典は、http://joy555.blogspot.com/2013/09/blog-post.html です。

1番目の写真はバグダードのZawra 公園です。

2番目の写真は歴史的な都市遺跡のパルティア帝国のハトラ寺院です。

3番目の写真はバビロンのはイシュタル門です。

メバビロンはメソポタミア地方の古代都市で、市域はバグダードの南方約90kmの地点にユーフラテス川をまたいで広がっています。

4番目の写真はイシュタル門の装飾のライオンです。

5番目の写真はバビロンの遺跡です。

バビロンの記録は前3千年紀末に登場し、ここにアムル人がバビロン第1王朝を建設、前18世紀に第6代の王ハンムラビがメソポタミアを統一しました。


「湾岸戦争とアメリカによるフセイン大統領の逮捕と処刑」

2021年09月18日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカは1991年の湾岸戦争で初めて中東に大規模な軍事介入をしました。それ以来30年間軍事行動を続けていましたが最近の8月31日にアメリカ軍は中東から完全撤退し中東における軍事介入を終了しました。
この30年の間、中東地域ではいろいろな悲劇が起きました。
今日はアメリカの大規模な軍事介入のキッカケになった湾岸戦争と、フセイン大統領の逮捕と処刑について簡単に振り返ってみたいと思います。
いずれも次の昨日の記事に関連したことです。
「戦費6兆円、アメリカ兵死傷者10万人、20年のアフガニスタン戦争の総括」、2021年09月17日
「20年前の9月11日、何が起きたのか ── 写真で振り返る」、2021年09月17日 
さて湾岸戦争は1990年8月2日のイラクによるクウェート侵攻を懲罰するためにアメリカ軍を主とする多国籍軍がイラクと戦ったペルシャ湾地域での戦争でした。1991年1月17日のアメリカ空軍のイラク空爆から始まった戦争です。
1990年8月2日イラク軍は隣国クウェートへの侵攻を開始し、8月8日にはクウェート併合を発表したのです。
これに対しアメリカ軍などは事態解決するため翌1991年1月17日にアメリカが参戦します。国際連合安全保障理事会はイラクへの即時撤退を求めます。
こうして湾岸戦争が 始まりました。

1番目の写真は塹壕でイギリス陸軍第1機甲師の兵士たちです。(1991年1月6日)。 

2番目の写真は砂漠の嵐作戦に参加し地雷を除去するサウジアラビア陸軍です。1991年3月1日、クウェートにて撮影。 

アメリカ軍を主とする多国籍軍が2月27日にはクウェート市を解放しました。2月28日の朝に戦闘が終結したのです。
このアメリカのクウェートの解放へ反発したイスラム過激派がアメリカでの同時多発テロ事件を起こしたのです。それは2001年の9月11日のことでした。
一方湾岸戦争直後にイラクのフセイン大統領は、「イラク国民よ。イラクこそ勝者である。イラクは悪とテロと侵略主義の帝国であるアメリカのオーラを破壊するのに成功したのだ」と演説します。

3番目の写真は若い頃のフセイン大統領です。

4番目の写真は大統領に就任した頃のフセイン大統領です。(1979年) 

1992年の3月3日にイラク代表が暫定休戦協定を受け入れたがましたがイラク軍の主力は多くが温存されフセイン大統領は強気でアメリカを罵倒し続けたのです。1992年から2003年までの11年間、アメリカを罵倒し続けたのです。
怒ったブッシュ大統領は2003年3月20日イラクが大量破壊兵器を保有しているという大義名分をかかげて、イラク戦争を開始したのです。攻撃はアメリカ軍が主力でありイギリス軍もこれに加わりました。 
そして4月9日バグダードは陥落しますがフセイン大統領は逃亡します。
しかし 2003年12月13日アメリカ陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり逮捕されたのです。

 5番目の写真は米兵に取り押さえられた直後のフセイン大統領です。
2004年7月1日 にアメリカで始まった裁判で死刑が判決されます。
2006年12月30日フセイン大統領はアメリカ軍拘置施設から移され、バグダードにある刑務所で絞首刑になったのです。
それは 1991年の湾岸戦争から15年後でした。これで一応アメリカのイラクへ対する報復が終わったのです。その後のイラクには親米政権が現在まで続きます。
以上がアメリカで同時多発テロが何故起き、それに対応してアメリカがどのような報復をしたかの物語です。この全ての悲劇は1991年の湾岸戦争から始まったのです。アメリカが引き起こした30年間の大きな悲劇でした。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「戦費6兆円、アメリカ兵死傷者10万人、20年のアフガニスタン戦争の総括」

2021年09月17日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカの20年間にわたるアフガニスタンのタリバンとの戦争が終わりました。戦費6兆円でアメリカ兵の死傷者10万人でした。これは21世紀の世界の歴史の大きな変換です。
そこで今日は何故この20年もの長期戦争が起きたかを振り返って見ようと思います。
このアメリカとアフガニスタンのタリバンとの戦争の原因は2001年9月11日のイスラム過激派が起こした同時多発テロでした。
アメリカ人は9・11同時多発テロを絶対に忘れません。毎年9月11日に大統領が出席して追悼式が挙行されているのです。
ここで2001年の9月11日に起きた同時多発テロ事件を振り返ってみましょう。

1番目の写真は貿易センタービルへ2機目の大型旅客機が今まさに突っ込もうとしている場面です。
ワールドトレードセンター(WTC)へのテロ攻撃による死者は合計で2763人でした。その内訳は、事件当時WTCに居た民間人が2192人、消防士が343人、警察官が71人、ハイジャックされた旅客機の乗員・乗客が147人、ハイジャック犯のテロリストが10人です。ハイジャックされた旅客機はアメリカン航空11便とユナイテッド航空175便でした。
この他に、ワシントンの傍にある国防総省本庁舎(ペンタゴン)に突入した現場ではアメリカン航空77便の乗客・乗員全員が死亡したほか、ペンタゴンに居た125人の国防総省職員(民間人70人、軍関係者55人)が死亡し、106人が重傷を負ったのです。
そしてユナイテッド航空93便はペンシルベニア州ピッツバーグ郊外シャンクスヴィルに墜落し、乗客37名(日本人1名を含む)(乗客37名中4人はテロリスト)・乗員7名の全員が死亡しました。

2番目の写真はこの事件が起きて10年目の2011年に犯人、オサマ・ビンラディンが暗殺されたニュースを見つめておるオバマ大統領と政府の高官たちです。オサマ・ビンラディンはパキスタンの邸宅で寝ているところをアメリカ軍の特殊部隊によって射殺されたのです。
またピッツバーグ郊外シャンクスヴィルの墜落現場には慰霊碑が建てられ慰霊祭が行われました。

3番目の写真は今回のシャンクスヴィルの墜落現場での慰霊祭で涙をぬぐう軍人の姿です。

4番目の写真はシャンクスヴィルの墜落現場で膝まづいて死者の冥福を祈るアメリカ兵の写真です。

この9・11同時多発テロの起きた原因は何でしょうか?
原因を分析した資料は沢山ありますが、これと言って明確な一つの原因があるわけではありません。
戦後、アメリカが常にイスラエル側に立ち4回もの中東戦争でイスラエルを支援したことや湾岸戦争なども原因だと指摘されています。要するにアメリカは常にイスラム教の国々の敵だったのです。
この9・11同時多発テロの後、アメリカはアフガニスタンを占領しイラク戦争があったのです。アフガニスタンではこの後20年間のタリバンとの戦争が続いたのです。
9・11同時多発テロは正しく世界の歴史の屈曲点だったのです。

5番目の写真は軍用機でタリバンの拠点があるアフガニスタン北部の都市マザーリシャリーフを目指す米軍兵です。Photo: Damon Winter / The New York Times 

6番目の写真は戦場で戦っているアメリカ軍です。

7番目の写真は今年の8月アメリカ軍が敗北にカブール空港から撤収する様子です。米軍輸送機に乗り込もうと多くのアフガン人も押し寄せました。(16日、カブール)=AP

こうしてアメリカが戦費6兆円を使いアメリカ兵死傷者10万人をだした20年のアフガニスタン戦争が完全に終わったのです。これは1976年のベトナム戦争でのアメリカの敗北につぐ敗北でした。
これで世界は急成長している大国の中国とアメリカ超大国の対立時代へと歴史が変換したのです。日本は中国とアメリカの両国と深い関係があります。難しい時代になったのです。

今日はアメリカの20年間にわたるアフガニスタンのタリバンとの戦争を総括してみました。この戦争は戦費6兆円で、アメリカ兵の死傷者は10万人でした。これは21世紀の世界の歴史の大きな変換です。日本にとっては難しい時代になったのです。

それはそれとして、
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北海道の風景です」

2021年09月16日 | 写真
北海道の風景です。

写真の出典は、https://zekkei-project.com/areas/countries/153/prefectures/5 です。 

1番目の写真はマイルドセブンの丘です。 北海道の美瑛町にある観光スポットで、。1978年にこの場所でマイルドセブンのCMが撮影されたことが名前の由来となっています。丘の上に防風林のカラマツが並んでい広大な農地です。

 2番目の写真は北海道の美瑛町にある白金青い池です。 
3番目の写真は阿寒湖の朝焼けです。

「インドネシアの独立戦争とスカルノ大統領」

2021年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
最近この欄ではアジア諸国の独立と日本人の関わりをテーマにして次のように幾つかの記事を書いてきました。
「フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールと日本人女性との恋物語」、2021年09月15日
「アメリカのアフガンでの敗北はベトナム戦争を思い出させる」、2021年09月14日 
「日本人が憧れていた南洋の島々、その現在」、2021年09月10日 
取り上げた国はフィリピン、ベトナム、インドネシアでした。この3国は順にアメリカ、フランンス、オランダの植民地でした。いずれも残留日本兵が独立戦争に志願兵として参戦したのです。書き残した国はビルマ(後のミャンマー)、マレーシア、シンガポールです。
今日はインドネシアについてオランダとの激しい独立戦争とスカルノ大統領について書きたいと思います。残留日本兵の参戦も書きます。
スカルノ大統領の第3夫人だったデヴィ夫人のことにも少しだけ書きたいことがあります。
日本がインドネシアを独立国として認めようとしたのは戦争中のことでもあったのです。
1945年にはまず独立準備調査会を発足させて憲法草案を起草させ次いで独立準備委員会を発足させたのです。そして同年8月24日にはインドネシアの独立が認める予定でした。しかし8月15日に終戦になります。
日本軍の敗北から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、残留日本兵がオランダとインドネシアの戦争に参加し1078人の戦死者を出しました。この人数は日本軍が蘭印侵攻時の戦死255名と負傷702名を上回るものだったのです。
このインドネシア独立戦争は、日本の降伏後、独立を宣言したインドネシアと、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争でした。1945年から1949年までの4年5か月にわたる戦争で、80万人が犠牲になった大規模な戦争だったのです。
さてインドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちでした。
独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ各地の英雄墓地に葬られ、参戦して生き残った元日本兵はインドネシア国籍を与えられました。
1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送ったのです。その石碑は東京青松寺に建てられています。
さてデヴィ夫人はアグレッセブな女性で淑やかではありませんが少しだけ書きたいことがあります。それはデヴィ夫人の慈善活動のことです。
日本国外においても自身が会長を務めるNPO法人アース エイド ソサエティ(EARTH AID SOCIETY)を2005年に設立し、毎年秋に「ザ グランド インペリアル チャリティ バンケット」を開催し収益金で寄付や寄贈を行っているのです。
NPO設立以前からパーティを催すことがライフワークで、「ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会」には当時の小池百合子環境大臣や在京の各国大使などが出席しています。
NPO公式サイトによると、自身の手で現地に運んで寄贈したものは以下の通りです。
1,北朝鮮の赤十字社を通じて朝鮮民主主義人民共和国に120トンの精米(後述)
2,パキスタンの赤新月社を通じて、2556枚の毛布と3500枚の防寒着を、カシミール地方の大地震の被災者に
現金の寄付は次の通りです。
1,日本赤十字社 2,075万円
2,NPO法人/NGO難民を助ける会 3,125万円
3,国連傘下・マルタ勲爵士団 11万ドル(1,196万円)
4,エジプト・スザン・ムバラック児童博物館 100万円
5,南アフリカ・ネルソン・マンデラ基金 1万ドル
6,一般社団法人 日本動物虐待防止協会 150万円
7,一般財団法人 動物環境・福祉協会 Eva 121万2121円
8,愛知県・心身障害者コロニー 車椅子 5台
9,熊本県慈恵病院赤ちゃんポスト『こうのとりのゆりかご』 30万円
10,NPO法人あいアイ 50万円
などなどがが列挙されています。

今日はインドネシアについてオランダとの激しい独立戦争とスカルノ大統領について書きました。残留日本兵の参戦も書きました。デヴィ夫人の慈善活動のことも少しだけ書きました。
関連の写真を添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はスカルノ大統領大統領です。

 2番目の写真はデヴィ夫人です。

3番目の写真はデヴィ夫人主催の慈善事業パーティに集まった人々です。

4番目の写真はインドネシアの独立戦争に使われた旧日本軍の戦車です。





「フィリピンの美しい風景写真です」

2021年09月15日 | 写真
フィリピンの美しい風景写真です。

写真の出典は、https://www.google.co.jp/search?source=univ&tbm=isch&q=%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF%E5%86%99%E7%9C%9F&sa=X&ved=2ahUKEwi_8_uTgoDzAhWCHqYKHeTxDo0QjJkEegQICBAC&biw=1232&bih=609 です。






「フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールと日本人女性との恋物語」

2021年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
フィリピンは1529年以来約300年間スペインの植民地でした。そして1901年にアメリカの植民地になったのです。1941年の日本軍の占領を経て完全な独立国になったのは第二次世界大戦後でした。
まずこのフィリピンの美しい風景写真を2枚ご覧下さい。
1番目の写真は美しいフィリピンの島の浜辺の風景です。

2番目の写真は首都マニラの高層ビル群です。
この美しい国がスペインやアメリカの植民地だった時代に数多くの独立運動が起きました。
その紆余曲折、複雑な独立運動の中で有名になったのがホセ・リサールでした。彼はフィリピン独立の国民的英雄です。現在ホセ・リサールの銅像はフィリピンの国中に建っています。
1861年生まれのホセ・リサールはフィリピンの革命家として独立運動をしました。しかし1896年スペイン官憲に逮捕されます。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月に銃殺刑になりました。リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺されたのです。
ホセ・リサールの死後フィリピンでは多くの独立運動や独立戦争が続きます。こうしてホセ・リサールはフィリピン独立の国民的英雄になったのです。
彼が1888年に日本を訪問します。その時偶然出会った臼井勢似子(1866-1947)と激しい恋をします。その経緯は以下の通りです。
(https://www.tecdia.com/jp/jobs/blog/?p=322 )
ホセ・リサールは1888年2月28日に横浜に到着しました。そして日比谷公園に当時あった東京ホテルに2か月間滞在します
この時出会ったのが元旗本で貿易商の娘、臼井勢似子だったのです。
勢似子とリサールは激しい恋に落ちます。二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留したのです。時にホセ27歳、勢似子22歳でした。
リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったためフィリプンでは誰も知らなかったのです。没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見されます。
日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていたのです。 勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る物もほとんど無くなりました。
3番目の写真はホセ・リサールです。
4番目の写真は臼井勢似子です。
この恋の後、ホセ・リサールは1896年マニラで銃殺されます。
リサールの死は日本でも多く報道さました。その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性アルフレッド・チャールトン(学習院大学講師)と結婚します。彼女は1947年(昭和22年)に80歳で亡くなります。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子とアルフレッドの墓があり毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられているそうです。
5番目の写真は現在日比谷公園にあるホセ・リサールの銅像です。

今日はフィリピン独立の国民的英雄ホセ・リサールと日本人女性、臼井勢似子との恋物語をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「アメリカのアフガンでの敗北はベトナム戦争を思い出させる」

2021年09月14日 | 日記・エッセイ・コラム
今回のアフガニスタンにおけるアメリカの敗北と拙速な撤収で私はベトナム戦争のことをいろいろ思い出しました。1976年のアメリカのベトナムからの拙速な撤収の様子が今回の撤収と非常に似ていたからです。
今日はベトナム戦争についていろいろ思い出したことを書きたいと思います。
まずベトナムの歴史を簡単に振り返ってみます。
1940年に仏領インドシナと呼んでいたベトナムを日本軍が占領したのです。戦後、日本がベトナムから引き揚げると今度はフランス軍とベトナムが戦争をします。ベトナムの独立戦争です。
このベトナム独立戦争のときに多くの残留日本兵がベトナム軍に義勇兵とした参加したのです。そしてグエンザップ将軍が率いるベトナム軍がディエンビンフーでの戦いで勝利し、フランス軍が降伏しました。ベトナム人は日本の義勇兵へ感謝しました。
私は1990年代のはじめにこのような残留日本兵の2人に直接会い、話を聞いたことがあります。そしてベトナムに残留して銀行制度を作った日本人将校の話しも直接聞きました。その方はもと横浜銀行に勤めていた方でした。
以下は2人の残留日本兵から聞いた話です。
◎ 温顔の将校ホーチーミン
フランス軍との戦いです。作戦の最中、川を渡ることがしばしばあったそうです。川岸に来ると兵隊は下半身裸になり、服を着たままの将校を背負って渡ります。軍隊では当たり前の習慣です。
残留日本人は皆将校になったので、服を着たまま兵の肩に載って渡りました。
ところが、ふと前を見ると、将校服の老人がズボンをたくし上げて歩いて渡って行くのです。向こう岸にたどり着き、渡河した老将校の顔を見ると、それは温顔のホーチーミンだったのです。兵隊へ「ご苦労さん」と言っているようにニコニコ顔で振り返っていた。
ホーチーミンも将校に歩いて渡れと命令しないし、そんなことを期待もしない。
しかし、このエピソードは数日でベトナム全軍に広がったのです。
ベトナム兵の士気が上がるのは当然です。元日本兵はホーチーミンの部下として戦った6年間を人生の中で一番輝かしい期間だったと言ったのです。
@日本兵帰還の特別列車
1951年になり、朝鮮戦争が始まります。ホーチーミンは郷愁の念にかられる残留日本兵に深い感謝を伝え、北京までの特別列車を仕立て送り返したそうです。
話を聞いたF氏とY氏になぜ残留したのですかと聞きました。
「ホーチーミン軍に加われば、食料に困らないと聞いたからですよ。共産主義が正しいとか大東亜共栄圏がよいとか考えませんでした。食べ物の誘惑でしょうね」
もう一人の元横浜銀行の幹部社員だったH氏もホーチーミンを尊敬していました。
ホーチーミン軍の財務担当幹部としてベトナムの銀行制度の骨子を作ったそうです。
H氏は「ホーチーミンは官僚主義を憎んでいた。ベトナム共産党もすぐに官僚的文化に染まり、その結果、一般人民が被害を受けることを憎んでいた。彼は一般民衆の幸福を第一に考え、アメリカ、ソ連、中国からの完全な独立を確信していた」と語ったのです。
@ホーチーミン記念館
1990年頃に訪問したハノイでホーチーミン記念館を訪問しました
記念館には、ホーチーミンの写真やディエンビンフーでフランス軍を敗ったグエンザップ将軍の写真などが、生前に使っていた家具や文房具類とともに展示してあります。
記念館を出る時、たくさんの横長の旗が生暑い風にハタハタとなびいているのに気付きました。
そしてその旗に文章が書いてあるのです。「なんて書いてあるの?」と案内人に聞きました。案内人は目を潤ませて、「ホーチーミンはベトナム人の胸に生きている。いつまでも生きている」と説明してくれます。この叙情的な文章は本当にベトナム人の本音です。美しい文章です。

1976年、米軍がサイゴンを放棄し、ヘリコプターで拙速に撤収しました。10年間にわたるベトナム戦争のあといろいろな事がありました。
改革開放政策がありました、ドイモイ政策に協力して数多くの日本の企業がベトナムに投資し、また多くの工場も作りました。ベトナムは復興したのです。
平和って素晴らしい。フランス、アメリカとの三十年に及ぶ戦争に勝ったベトナム。しかし血の代償は大きかったのです。
1番目の写真は晩年のホーチーミンです。
2番目の写真はハノイにあるホーチーミン廟です。
3番目の写真はグエンザップ将軍(左)とホーチーミン初代ベトナム民主共和国主席です。

最後にベトナム戦争のエピソードを一つだけ書かせて下さい。
ベトナムの難民を一般のアメリカ人が家庭に引き取り、就職先が決まるまで世話をしたという話です。
これはオハイオ州立大学のラップ教授の自宅でビールを飲みながら直接聞いた話です。
「ベトナム戦争が正しい戦争だったか否かを君とは議論しない。ただ自分がしたことだけ言うよ」「ベトナム戦争へ何か関係したのですか?」「戦争終了後しばらくして多数のボートピープルが出た。アメリカはそのすべてを移民として受け入れた。自分は7人をこの家に泊めてあげた。彼等は臨時の仕事場を見つけ、数ヵ月後には皆出て行った。アメリカの一般人はみなそうしたよ」「そんな話は日本の新聞には出ていなかったですよ」「日本は何もしないで経済的恩恵のみを取った」「そんな一方的な判断は困りますね。出撃する米軍は皆日本の基地からでした」「ボートピープルが多数出たとき、アメリカやドイツの民間団体が客船をチャーターしてベトナム沖に待機させ、波間に漂う小船の難民を拾い上げた。日本だけ客船を出さなかった」
アメリカやドイツは人道的だが日本人は人道的でないと非難したいらしい。

戦争の善悪を議論するのは空しいことです。しかし戦争に関連して敵味方双方の人間の本音を聞くことは人々の心を豊かにする大切なことと信じています。

今日はアメリカのアフガンでの敗北で思い出したベトナム戦争にまつわる話を書きました。
それにしても平和なベトナムの写真を3枚追加致します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
4番目の写真は越南阮朝の都と宮廷の門です。
ベトナム中部の都市フエには、19世紀に越南阮朝の都と宮廷が置かていました。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に「フエの建造物群」として登録されています。
5番目の写真は世界遺産に登録されたハロン湾の風景です。
6番目の写真はベトナム北部の徳天瀑布です。
これらの写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%99%E3%83%88%E3%83%8A%E3%83%A0 です。