後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「インドネシアの独立戦争とスカルノ大統領」

2021年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
最近この欄ではアジア諸国の独立と日本人の関わりをテーマにして次のように幾つかの記事を書いてきました。
「フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールと日本人女性との恋物語」、2021年09月15日
「アメリカのアフガンでの敗北はベトナム戦争を思い出させる」、2021年09月14日 
「日本人が憧れていた南洋の島々、その現在」、2021年09月10日 
取り上げた国はフィリピン、ベトナム、インドネシアでした。この3国は順にアメリカ、フランンス、オランダの植民地でした。いずれも残留日本兵が独立戦争に志願兵として参戦したのです。書き残した国はビルマ(後のミャンマー)、マレーシア、シンガポールです。
今日はインドネシアについてオランダとの激しい独立戦争とスカルノ大統領について書きたいと思います。残留日本兵の参戦も書きます。
スカルノ大統領の第3夫人だったデヴィ夫人のことにも少しだけ書きたいことがあります。
日本がインドネシアを独立国として認めようとしたのは戦争中のことでもあったのです。
1945年にはまず独立準備調査会を発足させて憲法草案を起草させ次いで独立準備委員会を発足させたのです。そして同年8月24日にはインドネシアの独立が認める予定でした。しかし8月15日に終戦になります。
日本軍の敗北から1947年5月の全日本人引き揚げまでのあいだに、残留日本兵がオランダとインドネシアの戦争に参加し1078人の戦死者を出しました。この人数は日本軍が蘭印侵攻時の戦死255名と負傷702名を上回るものだったのです。
このインドネシア独立戦争は、日本の降伏後、独立を宣言したインドネシアと、これを認めず再植民地化に乗り出したオランダとの間で発生した戦争でした。1945年から1949年までの4年5か月にわたる戦争で、80万人が犠牲になった大規模な戦争だったのです。
さてインドネシアの独立達成後、1958年1月20日に日本とインドネシアの平和条約、賠償協定が締結され、1960年代に日本企業のインドネシア進出が本格化する頃両国間の橋渡しの役割を果たしたのは、これらの元日本兵たちでした。
独立戦争で命を落とした元日本兵は、ジャカルタのカリバタ英雄墓地をはじめ各地の英雄墓地に葬られ、参戦して生き残った元日本兵はインドネシア国籍を与えられました。
1958年に訪日したスカルノ大統領は、日本へ感謝の意を表し、独立戦争で特に貢献した市来龍夫と吉住留五郎に対し感謝の言葉を送ったのです。その石碑は東京青松寺に建てられています。
さてデヴィ夫人はアグレッセブな女性で淑やかではありませんが少しだけ書きたいことがあります。それはデヴィ夫人の慈善活動のことです。
日本国外においても自身が会長を務めるNPO法人アース エイド ソサエティ(EARTH AID SOCIETY)を2005年に設立し、毎年秋に「ザ グランド インペリアル チャリティ バンケット」を開催し収益金で寄付や寄贈を行っているのです。
NPO設立以前からパーティを催すことがライフワークで、「ビザンチン皇室慈善舞踏晩餐会」には当時の小池百合子環境大臣や在京の各国大使などが出席しています。
NPO公式サイトによると、自身の手で現地に運んで寄贈したものは以下の通りです。
1,北朝鮮の赤十字社を通じて朝鮮民主主義人民共和国に120トンの精米(後述)
2,パキスタンの赤新月社を通じて、2556枚の毛布と3500枚の防寒着を、カシミール地方の大地震の被災者に
現金の寄付は次の通りです。
1,日本赤十字社 2,075万円
2,NPO法人/NGO難民を助ける会 3,125万円
3,国連傘下・マルタ勲爵士団 11万ドル(1,196万円)
4,エジプト・スザン・ムバラック児童博物館 100万円
5,南アフリカ・ネルソン・マンデラ基金 1万ドル
6,一般社団法人 日本動物虐待防止協会 150万円
7,一般財団法人 動物環境・福祉協会 Eva 121万2121円
8,愛知県・心身障害者コロニー 車椅子 5台
9,熊本県慈恵病院赤ちゃんポスト『こうのとりのゆりかご』 30万円
10,NPO法人あいアイ 50万円
などなどがが列挙されています。

今日はインドネシアについてオランダとの激しい独立戦争とスカルノ大統領について書きました。残留日本兵の参戦も書きました。デヴィ夫人の慈善活動のことも少しだけ書きました。
関連の写真を添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真はスカルノ大統領大統領です。

 2番目の写真はデヴィ夫人です。

3番目の写真はデヴィ夫人主催の慈善事業パーティに集まった人々です。

4番目の写真はインドネシアの独立戦争に使われた旧日本軍の戦車です。





「フィリピンの美しい風景写真です」

2021年09月15日 | 写真
フィリピンの美しい風景写真です。

写真の出典は、https://www.google.co.jp/search?source=univ&tbm=isch&q=%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%83%94%E3%83%B3%E3%81%AE%E9%A2%A8%E6%99%AF%E5%86%99%E7%9C%9F&sa=X&ved=2ahUKEwi_8_uTgoDzAhWCHqYKHeTxDo0QjJkEegQICBAC&biw=1232&bih=609 です。






「フィリピン独立の英雄、ホセ・リサールと日本人女性との恋物語」

2021年09月15日 | 日記・エッセイ・コラム
フィリピンは1529年以来約300年間スペインの植民地でした。そして1901年にアメリカの植民地になったのです。1941年の日本軍の占領を経て完全な独立国になったのは第二次世界大戦後でした。
まずこのフィリピンの美しい風景写真を2枚ご覧下さい。
1番目の写真は美しいフィリピンの島の浜辺の風景です。

2番目の写真は首都マニラの高層ビル群です。
この美しい国がスペインやアメリカの植民地だった時代に数多くの独立運動が起きました。
その紆余曲折、複雑な独立運動の中で有名になったのがホセ・リサールでした。彼はフィリピン独立の国民的英雄です。現在ホセ・リサールの銅像はフィリピンの国中に建っています。
1861年生まれのホセ・リサールはフィリピンの革命家として独立運動をしました。しかし1896年スペイン官憲に逮捕されます。スペインからフィリピンの首都マニラに送致された後、軍法会議にかけられ、同年12月に銃殺刑になりました。リサールを一目見ようと集まったフィリピン民衆が見守る中、35歳にしてマニラで銃殺されたのです。
ホセ・リサールの死後フィリピンでは多くの独立運動や独立戦争が続きます。こうしてホセ・リサールはフィリピン独立の国民的英雄になったのです。
彼が1888年に日本を訪問します。その時偶然出会った臼井勢似子(1866-1947)と激しい恋をします。その経緯は以下の通りです。
(https://www.tecdia.com/jp/jobs/blog/?p=322 )
ホセ・リサールは1888年2月28日に横浜に到着しました。そして日比谷公園に当時あった東京ホテルに2か月間滞在します
この時出会ったのが元旗本で貿易商の娘、臼井勢似子だったのです。
勢似子とリサールは激しい恋に落ちます。二人で歌舞伎を見物に行ったり日光や箱根に逗留したのです。時にホセ27歳、勢似子22歳でした。
リサールは生前、勢似子のことを誰にも話さなかったためフィリプンでは誰も知らなかったのです。没後にリサールの遺族が遺品を整理した際、勢似子の写真が一枚発見されます。
日記には「あなたのように私を愛してくれた人はいなかった」と記されていたのです。 勢似子もまた、誰に話すこともなく、所有物はその後の太平洋戦争の空襲被災で多くを失ったために、残る物もほとんど無くなりました。
3番目の写真はホセ・リサールです。
4番目の写真は臼井勢似子です。
この恋の後、ホセ・リサールは1896年マニラで銃殺されます。
リサールの死は日本でも多く報道さました。その翌年の1897年、勢似子は30歳で英国人男性アルフレッド・チャールトン(学習院大学講師)と結婚します。彼女は1947年(昭和22年)に80歳で亡くなります。現在、雑司ヶ谷霊園に勢似子とアルフレッドの墓があり毎年リサールの誕生日にフィリピン大使館により花が供えられているそうです。
5番目の写真は現在日比谷公園にあるホセ・リサールの銅像です。

今日はフィリピン独立の国民的英雄ホセ・リサールと日本人女性、臼井勢似子との恋物語をご紹介いたしました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)