この欄の記事を読んでくださる方々へ何時も感謝しています。ですから読んで面白いものを書こうと努力しています。しかしつい面白くもない話も書いてしまいます。勘弁して下さい。
今日の話は戦国武将、高山右近にまつわるおはなしです。高山右近は秀吉に可愛がれ、前田家の客将にもなった近畿地方の有力な戦国大名でした。
しかし彼は徳川家康によって1614年にフィリピンへ追放されます。キリシタン国外追放令を受け人々の引きとめる中、加賀を退去しフィリピンへ渡ります。
ユスト高山右近が洗礼名でした。
長崎から家族や内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り12月にマニラに到着しました。
イエズス会の神父たちには右近はキリシタン大名とすでに有名になっていました。ですから右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバやカトリックの信者達から大歓迎を受けたのです。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1615年2月3日に息を引き取りました。享年63歳でした。マニラ到着からわずか40日のことだったのです。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で10日間という長期間にわたって盛大に行われます。
そして右近の亡骸はイエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられたそうです。
右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
1977年11月、フィリピン国鉄南方本線パコ駅の前にマニラ市、高槻市、財団法人東南アジア文化友好協会等の協力によりプラザデラオ日比友好公園が作られ、公園内に高山右近像が立てられました。右近のフィリピンに来た経緯が刻まれた碑も設置されたのです。
そうして1979年(昭和54年)1月25日、高槻市とマニラ市は姉妹都市となります。
公園はその後もアロヨ政権期に再び整備され、像や碑も綺麗に立っています。
フィリピンの国教はキリスト教です。80%ほどがカトリックで、10%がその他のキリスト教です。つまり合わせて90%以上もの人がキリスト教徒ということになります。
これらに関連した写真を示します。
1番目の写真はスペイン植民地時代に造営されたカトリック教会のサン・アグスティン・デ・マニラ教会です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピンの歴史 です。
2番目の写真はマニラのプラザ・ディラオ(日比友好公園)にある高山右近の像です。像後方は旧パコ駅舎です。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/高山右近#国外追放と死 です。
3番目の写真はマニラの日比友好公園にある高山右近の銅像です。この銅像は高槻市高槻城址公園にある銅像と同じものです。この近所にはかって日本人町があったそうです。
写真の出典は、vel.jp/travelogue/11103053 です。
さて高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。
翌2016年(平成28年)に教皇フランシスコが認可しました。
そして2017年2月7日に大阪府大阪市の大阪城ホールで列福式が執り行われたのです。
4番目の写真は高槻城跡公園 に立つ高山右近の銅像です。マニラにあるものと同じです。
この同じ銅像が次のように各地に立っています。
・大阪府高槻市 高槻城跡公園
・富山県高岡市 高岡古城公園
・石川県羽咋郡志賀町 高山右近記念公園
・香川県小豆島 小豆島教会
・フィリピン マニラ プラザ・ディラオ(パコ駅前)
ところで日本人の列福式と言えば2008年11月24日 にも長崎で行われ188人の日本人が列福しました。
1603年から1639年にわたって信仰を捨てないで徳川幕府に処刑されたペトロ岐部と187人の殉教者を、ローマ法王が福者と宣言する式典は日本ではじめて行われたのです。
式典は188人の殉教者の子孫の代表が遺物を祭壇に供えることから始まりました。
続いて岡田大司教が188人の殉教の証拠やいきさつをローマから来たマルティンス枢機卿へ説明し、福者として正式に認めるように願います。
それを受けて、ローマ法王は認めますという宣言をジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が代読しました。
5番目の写真は長崎での188人の列福式です。
福者はいずれ数年後にはカトリックの聖人として認定されます。高山右近と合計189人の聖者がやがて生まれるのです。日本の26聖人に加えて215人の聖者が生まれるのです。
今日は戦国武将、高山右近にまつわるおはなしを書きました。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
そして追加としして「フィリピン最古の教会、サン・アグスチン教会」の中の写真をお送り致します。
サン・アグスチン教会はマニラ市のイントラムロス歴史地区にあるフィリピン最古のバロック様式の石造り教会です。現在の建物は1587年に着工され、1606年に完成しました。
高山右近は前田家の客将でした。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍し小田原征伐の中で最も悲惨だったと云われる八王子城の戦いにも参加している。慶長4年(1599年)12月から、徳川との戦いが想定される中、右近は金沢城下に内惣構と呼ばれる堀の掘削を指揮し、わずか27日で3キロを完成させたが、小田原征伐の際に学んだ小田原城の外堀に倣ったものと言われている。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。・・・以下省略。