後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「また面白くもない話を書いてしまいました」

2021年09月13日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄の記事を読んでくださる方々へ何時も感謝しています。ですから読んで面白いものを書こうと努力しています。しかしつい面白くもない話も書いてしまいます。勘弁して下さい。
今日の話は戦国武将、高山右近にまつわるおはなしです。高山右近は秀吉に可愛がれ、前田家の客将にもなった近畿地方の有力な戦国大名でした。
しかし彼は徳川家康によって1614年にフィリピンへ追放されます。キリシタン国外追放令を受け人々の引きとめる中、加賀を退去しフィリピンへ渡ります。
ユスト高山右近が洗礼名でした。
長崎から家族や内藤如安らと共にマニラに送られる船に乗り12月にマニラに到着しました。
イエズス会の神父たちには右近はキリシタン大名とすでに有名になっていました。ですから右近はマニラでスペインの総督フアン・デ・シルバやカトリックの信者達から大歓迎を受けたのです。
しかし、船旅の疲れや慣れない気候のため老齢の右近はすぐに病を得て、翌年の1615年2月3日に息を引き取りました。享年63歳でした。マニラ到着からわずか40日のことだったのです。
葬儀は総督の指示によってマニラ全市をあげてイントラムロスの中にあった聖アンナ教会で10日間という長期間にわたって盛大に行われます。
そして右近の亡骸はイエズス会コレジオのサンタ・アンナ聖堂の近くに埋葬されました。
1634年には右近の遺骨はサン・ホセにあったコレジオの聖堂に移され、石棺の上には右近の画像が掲げられたそうです。
右近の死後家族は日本への帰国を許され、現在、石川県羽咋郡志賀町代田、福井県福井市、大分県大分市に直系子孫の3つの「高山家」があるそうです。
1977年11月、フィリピン国鉄南方本線パコ駅の前にマニラ市、高槻市、財団法人東南アジア文化友好協会等の協力によりプラザデラオ日比友好公園が作られ、公園内に高山右近像が立てられました。右近のフィリピンに来た経緯が刻まれた碑も設置されたのです。
そうして1979年(昭和54年)1月25日、高槻市とマニラ市は姉妹都市となります。
公園はその後もアロヨ政権期に再び整備され、像や碑も綺麗に立っています。
フィリピンの国教はキリスト教です。80%ほどがカトリックで、10%がその他のキリスト教です。つまり合わせて90%以上もの人がキリスト教徒ということになります。
これらに関連した写真を示します。
1番目の写真はスペイン植民地時代に造営されたカトリック教会のサン・アグスティン・デ・マニラ教会です。写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/フィリピンの歴史 です。
2番目の写真はマニラのプラザ・ディラオ(日比友好公園)にある高山右近の像です。像後方は旧パコ駅舎です。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/高山右近#国外追放と死 です。
3番目の写真はマニラの日比友好公園にある高山右近の銅像です。この銅像は高槻市高槻城址公園にある銅像と同じものです。この近所にはかって日本人町があったそうです。
写真の出典は、vel.jp/travelogue/11103053 です。

さて高山右近没後400年にあたる平成27年(2015年)、日本のカトリック中央協議会は「高山右近は、地位を捨てて信仰を貫いた殉教者である」として、福者に認定するようローマ教皇庁に申請しました。
翌2016年(平成28年)に教皇フランシスコが認可しました。
そして2017年2月7日に大阪府大阪市の大阪城ホールで列福式が執り行われたのです。
4番目の写真は高槻城跡公園 に立つ高山右近の銅像です。マニラにあるものと同じです。
この同じ銅像が次のように各地に立っています。
・大阪府高槻市 高槻城跡公園
・富山県高岡市 高岡古城公園
・石川県羽咋郡志賀町 高山右近記念公園
・香川県小豆島 小豆島教会
・フィリピン マニラ プラザ・ディラオ(パコ駅前)

ところで日本人の列福式と言えば2008年11月24日 にも長崎で行われ188人の日本人が列福しました。
1603年から1639年にわたって信仰を捨てないで徳川幕府に処刑されたペトロ岐部と187人の殉教者を、ローマ法王が福者と宣言する式典は日本ではじめて行われたのです。
式典は188人の殉教者の子孫の代表が遺物を祭壇に供えることから始まりました。
続いて岡田大司教が188人の殉教の証拠やいきさつをローマから来たマルティンス枢機卿へ説明し、福者として正式に認めるように願います。
それを受けて、ローマ法王は認めますという宣言をジョゼ・サライバ・マルティンス枢機卿が代読しました。
5番目の写真は長崎での188人の列福式です。
福者はいずれ数年後にはカトリックの聖人として認定されます。高山右近と合計189人の聖者がやがて生まれるのです。日本の26聖人に加えて215人の聖者が生まれるのです。

今日は戦国武将、高山右近にまつわるおはなしを書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

そして追加としして「フィリピン最古の教会、サン・アグスチン教会」の中の写真をお送り致します。
サン・アグスチン教会はマニラ市のイントラムロス歴史地区にあるフィリピン最古のバロック様式の石造り教会です。現在の建物は1587年に着工され、1606年に完成しました。


高山右近は前田家の客将でした。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%8F%B3%E8%BF%91
秀吉からも信任のあつかった右近は、天正13年(1585年)に播磨国明石郡に新たに領地を6万石与えられ、船上城を居城とした。しかし、まもなくバテレン追放令が秀吉によって施行される。キリシタン大名には苦しい状況となるが、右近は信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選び、世間を驚かせた。その後しばらくは小西行長に庇護されて小豆島や肥後国などに住むが、天正16年(1588年)に前田利家に招かれて加賀国金沢に赴き、そこで1万5,000石の扶持を受けて暮らした。
天正18年(1590年)の小田原征伐にも建前上は追放処分の身のままでありながら前田軍に属して従軍し小田原征伐の中で最も悲惨だったと云われる八王子城の戦いにも参加している。慶長4年(1599年)12月から、徳川との戦いが想定される中、右近は金沢城下に内惣構と呼ばれる堀の掘削を指揮し、わずか27日で3キロを完成させたが、小田原征伐の際に学んだ小田原城の外堀に倣ったものと言われている。金沢城修築の際には、右近の先進的な畿内の築城法の知識が大きく役に立ったともいわれる。また利家の嫡男・前田利長にも引き続き庇護を受け、政治・軍事など諸事にわたって相談役になったと思われる。慶長14年(1609年)には、利長の隠居城・富山城の炎上により、越中国射水郡関野(現富山県高岡市)に築かれた新城(高岡城)の縄張を担当したといわれる。・・・以下省略。

「今日の 年間第24日のミサの動画の紹介」

2021年09月12日 | 日記・エッセイ・コラム
2021年9月12日の10時から始まる年間第24主日のミサの、カトリック関口教会と聖イグナチオ教会の動画配信は以下の通りです。

カトリック関口教会、
9月12日10:00 
 年間第24主日ミサ 、https://www.youtube.com/watch?v=IEWL5fjMR2s
9月12日10:00 司式 タルチシオ菊地功大司教,S.V.D

入 祭 典139 すべての人の救いを ④節から
あわれみ・栄光の賛歌 211・212 
答唱詩編 典 11番 ①②③
アレルヤ唱 典273番 24B
信仰宣言 使徒信条 (1)
奉納 典184 わたしは静かに神を待つ
感謝・平和の賛歌  213・214
拝領  カ典309番 キリストのいのち
閉祭 典礼391 ごらんよそらの鳥 


聖イグナチオ教会 、https://www.youtube.com/channel/UC-Zwcc_MbnyglsQdyOByc-Q  
ミサ中のお説教は教会ホームページに後日掲載します。 
【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読 イザヤの預言 (イザヤ50:5-9a)
 第2朗読 使徒ヤコブの手紙(ヤコブ 2:14-18 )
 福音朗読 マルコによる福音 (マルコ 8:27-35)


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

挿絵代わりの写真はヨーロッパの宗教画です。 


1番目の写真はフラ・アンジェリコの名作の「受胎告知」(1442年頃)です。「受胎告知」は、大天使ガブリエルが聖母マリアに、イエス・キリストの母になることを伝えている新約聖書の場面です。天使はダ・ヴィンチの代表作である受胎告知の宗教画にも登場します。天使(angel)は神々と人間の中間の霊的存在のため宗教画には欠かせない存在です。
16世紀までの宗教画に天使が多いのはキリスト教では天使の存在が信じていたからなのです。現在のカトリックでは受胎告知は信じていますが天使は重要ではありません。

2番目の写真はラファエロ(Raffaello Sanzio)の「牧場の聖母」です。ウィーン美術史美術館に所蔵さています。
赤いドレスと青いローブをまとい、優しく幼子らを見守る聖母マリアが描かれています。聖ヨハネが片膝をつき細長い十字架を支え、幼子キリストはその十字架を握り視線を送っています。ラファエロはそれまでの芸術手法を統合し洗練された優雅な様式を確立しました。
カトリックでは洗者ヨハネが水でイエスに洗礼を授けたと信じられています。この絵には洗者ヨハネとイエスの幼い姿が描かれているのです。

3番目の写真はダ・ヴィンチ(Leonardo da Vinci)の「最後の晩餐」です。イタリアのミラノにあるサンタ・マリア教会にある壁画です。この絵では、弟子の裏切りを予言するイエス・キリストと聞いて動揺する弟子たちの様子が写実的に描かれていています。
最後の晩餐でイエスはパンをさき弟子たちに、「これは私の体」と言って食べさすます。葡萄酒を「これは私の血」と言って飲ませます。現在のカトリックではミサの終り頃に神父が「イエスの体」と言って信者一人一人へパン片を食べさせます。ミサで一番重要な場面です。

4番目の写真はベラスケスの「聖母戴冠」でスペインのプラド美術館にあります。
ベラスケスの代表的な宗教画です。この絵は、復活した聖母が再び昇天し、神と神の子イエスから戴冠を受ける場面を描いたものです。現在のカトリックでは聖母戴冠の話は出てきません。当時のマリア信仰の強さが聖母戴冠感じられる絵です。

5番目の写真はフェルナンドの「聖カタリーナ」でプラド美術館にあります。
聖カタリーナはアレキサンドリアの知事の娘でした。3世紀頃の話です。当時の最高の教育を受けたカタリーナは母親の影響でキリスト教徒になります。ローマ皇帝マクセンティウスがキリスト教を迫害します。聖カタリーナがそれを非難したため逮捕されます。手足を車輪に括り付けて転がされるという拷問にかけられそうになります。しかしカタリーナが車輪に触ると車輪はひとりでに壊れたのです。
彼女は最後に斬首刑になりました。この絵の聖カタリーナの足元に壊れた車輪が描かれています。この絵の重要な部分です。
現在のカトリックではこの聖カタリーナは登場しません。しかしヨーロッパでは有名な話なのでしょう。

「北海道の紅葉の写真をお送り致します」

2021年09月11日 | 写真
写真の出典は、「北海道で絶景紅葉狩り!見どころ満載おすすめスポット10選【2021】 | トラベルjp 旅行ガイド (travel.co.jp)」です。
1番目の写真は中島公園(札幌市)です。
2番目の写真は定山渓温泉(札幌)です。

3番目の写真は青い池・白ひげの滝(上川郡美瑛町)です。

「人間の幸福は宗教を信ずることで得られるか?」

2021年09月11日 | 日記・エッセイ・コラム
人間の幸福は宗教を信ずることで得られるか? こんな問題へは解答はありません。人はそれぞれです。人間の幸福も人それぞれです。宗教を信ずるか否かも人それぞれです。
今日は宗教とそれを否定する考えにまつわる雑談を書いてみようと思います。そして人間の幸福の周辺にあるものを考えてみます。宗教にはイスラム教、仏教、ヒンズー教といろいろありますが今日は一例としてキリスト教を取り上げます。

ヨーロッパ世界にはキリスト教と宗教を否定する共産主義がありました。1917年の共産主義のロシア革命の成功は宗教を完全に否定したのです。
勢いに乗ったロシアは1923年に国際的に共産主義革命を援助する為に「コミンテルン」を組織し、ソ連の国家予算で各国の革命運動を支援し始めたのです。そして日本の共産主義者もコミンテルンに連携したのです。
共産主義によってキリスト教を完全に否定されてしなったのです。
「コミンテルン」は世界中にいるキリスト教信者に恐怖を与えました。文字通り世界を震撼させたのです。
レーニンは、1918年から1920年までに、28人の主教を殺害し、数千人の聖職者が殺されるか、あるいは投獄されたのです。
ほぼ1万2000人の信徒が宗教活動を行なったかどで処刑され、数千人が逮捕の後、労働キャンプに送られるか、流刑処分を受けたといわれています。
このニュースは1919年2月にロンドンで公刊されます。この公開文書は、ロシア正教会オムスク大主教から英国聖公会カンタベリー大僧正に宛てた書簡で、当時の教会迫害の様子を生々しく伝えていたのです。
ヨーロッパのキリスト教国は大きな精神的な打撃を受けたのです。全世界のキリスト教徒が衝撃を受けたのです。
しかしこのロシアの共産党政権は1991年に完全に崩壊したのです。ロシアの共産党政権は74年で終わり共産主義は誤りだったということになりました。
これでめでたしめでたしとなったわけではありません。共産主義に関係なく
この世には宗教を信じない人々が沢山いるからです。
さて目をヨーロッパ世界からアジアに転じてみましょう。
共産主義による宗教弾圧は現在でも中国やベトナムでも続いています。
中国ではカトリックのことを天主教と言いますが中国共産党が大司教や司教や神父を任命しているのです。
共産党の弾圧を恐れてベトナムからボート・ピープルとして海外へ亡命したキリスト教信者が沢山いたのです。

さて最後に表題の、「人間の幸福は宗教を信ずることで得られるか?」に関係する写真を3枚示します。
1番目の写真はフランシスコ法王によるマニラでの野外ミサの様子です。写真は、http://news.livedoor.com/article/image_detail/9688495/… から転載しました。(2015年1月18日撮影)。(c)AFP=時事/AFPBB News
2番目の写真は同じくフランシスコ法王によるマニラでの野外ミサの様子です。
3番目の写真はフィリピン・マニラの大学を訪れ、子どもたちと交流する複雑での様子です。(AP=共同)

これら3枚の写真に写っている数百万の人々は幸せです。フランシスコ法王も幸せです。ですから人間の幸福は宗教を信ずることによって得られるのです。
しかしこれらの写真に写っていない多くの人々も宗教とは関係なく幸せなのです。宗教は人間の幸福の条件ではないのです。人間は複雑です。

今日言いたいことは人間の幸福や不幸には明確な定義はないということです。心の持ち方で不幸が幸福に変わることだってあるのです。人間は複雑ですね。複雑なことは幸運です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


「インドネシア、バリ島の花々の写真」

2021年09月10日 | 写真
インドネシア、バリ島の花々の写真をお送りいたします。

写真の出典は、https://www.balinavi.com/special/5031438 です。

1番目の写真は「ヌサ・インダー」です。花の名前は美しい島という意味です。熱帯の太陽をサンサンと受けて育った花々は本当に美しいです。

2番目の写真は「ソカ」です。鮮やかな真っ赤な花がアジサイのように集まって咲いています。

3番目の写真はブーゲンビリアです。インドネシアでは「クンバン・クルタス(紙の花)」と呼ばれますが、薄い花びらが紙のようです。

4番目の写真は「ハイビスカス」です。これは八重の珍しいものです。
5番目の写真はジュプン(プルメリア)です。日本では赤まつりと呼ばれるものです。

「日本人が憧れていた南洋の島々、その現在」

2021年09月10日 | 日記・エッセイ・コラム
太平洋戦争の間に少年期を過ごした私は南洋の島々に憧れていました。南洋の島々が美しい楽園だという歌がはやっていたのです。
・・・わたしのラバさん 酋長の娘
色は黒いが 南洋じゃ美人・・・
戦争をするために行った日本人にとっては南洋は地獄でした。しかしこんな歌だけを知っている日本人にとっては南洋は楽園でした。
今日は南洋の島国のインドネシアの風景写真をお送り致します。南洋は実際行ったことのない日本人には夢だったのです。
インドネシアは多数の島々、多数の民族の熱帯の国です。まさしく南洋の島々なのです。
まず如何にも南洋の島の住人のようなバタック族の家の写真をお送り致します。
1番目の写真はスマトラ島高地のバタック族の家です。
バタック族は、主にインドネシアのスマトラ島北部の高地に居住している民族です。写真の出典は、「スマトラ島少数民族との出会い」、https://snowm-blog.hatenablog.com/entry/2019/02/20/214344 とその他、バタック族に関連した資料です。
2番目の写真はバタック族の娘達です。
現代のインドネシアの中で、バタック族は教育熱心で、多くは教師、技師、医師、法律家などになっています。
さてインドネシアの人々の日常生活の実態を知りたいと思い旅行記をいろいろ調べました。そうしたら次のスマトラ島の縦断記を見つけました。
『インドネシア横断旅:スマトラ島少数民族との出会い』(https://snowm-blog.hatenablog.com/entry/2019/02/20/214344 )というブログです。
3番目の写真はスマトラ島のプラスタキという町の果物市場の風景です。マンゴー・パパイヤ・オレンジ・マンゴスチン・アボカド等々豊富です。
インドネシアは美しい南洋の楽園です。そこで次にインドネシアの風景写真をお送り致します。写真の出典は、『写真素材 - インドネシアの美しい風景、湖の景色、山、丘、滝、村の家』です。
4番目の写真は地方の湖の岸辺にある原住の民族の村の風景です。
写真の出典は、『写真素材 - インドネシアの美しい風景、湖の景色』です。
5番目の写真は夢のように美しい湖の風景です。湖で漁をする時に使う小舟です。この写真には写っていませんが、漁の道具をしまっておく小屋が岸辺に美しく建っています。

さて次にインドネシアの都会の風景を見てみましょう。
6番目の写真は大都会の美しい夜の風景です。インドネシアの地方には魅了されるような風景がありますが大都会の風景も美しいのです。

最後にこのインドネシアの経済成長をご紹介したいと思います。ジャカルタに本部のあるアセアンに関連してご説明いたします。
インドネシアの経済成長はめざましく、2020年度のGDPは世界の192ヶ国)中の16位にななっています。
1位アメリカ、2位中国、3位日本、4位ドイツ、5位イギリスでアジア諸国は以下のようになっています。
6位 インド、10位韓国、16位インドネシア、21位 台湾、26位タイ、32位フィリイン、38位ベトナム、39位シンガポール、40位マレーシア、41位バングラデシュとなっています。
以上のようにイ ンドネシアは南アジアでは1番の経済規模であるばか りでなく 経済成長率も最も高い国の一つとなっています。
この経済成長はアセアンと深い関係があるので以下ではアセアンについて簡単に説明致します。
アセアンは正式には「東南アジア諸国連合」と言います。英語では、 Association of South‐East Asian Nationsと言います。略してASEAN 〈日本語読み:アセアン〉と言います。
このアセアンは、東南アジアの10カ国からなる地域の政府間組織です。政府間協力を促進し、加盟国とアジアの他の国々の間で経済の統合を促進しています。ヨーロッパのEU(ヨーロッパ連合)と同じようなものです。
加盟国は10ケ国で以下の通りです。
ブルネイ
カンボジア
インドネシア
ラオス
マレーシア
ミャンマー
フィリピン
シンガポール
タイ
ベトナム
7番目の写真はアセアン加盟国の地図です。地図は色分けされていますが、その意味は、青: ASEAN、紫: ASEAN+3、青緑: ASEAN +6です。
ここでASEAN+3には日本が含まれているので説明します。
ASEAN+3は、ASEAN10ケ国に中国、韓国、日本を加えた組織です。東アジア13ケ国の経済交流を調整役として機能しています。
ASEANは2015年末までに単一市場を確立するアセアン経済共同体(AEC)を創設することによる経済統合を模索して来ました。
次のステップは、単一の市場の実現と競争力のある経済地域をアジアに作ることです。
このアセアンの本部はジャカルタにあるのでインドネシアはアセアンの牽引役をしながらアセアンを賢く利用しながら自国の経済成長をしてきたのです。現在インドネシアのGDPはアセアン加盟10ケ国の中でトップになっています。
ちなみにアセアン10ケ国に中国、日本、韓国を加えた ASEAN+3のGDPの総計は世界一になります。正しく昔の大東亜共栄圏になるのです。大東亜共栄圏を持ち出すのは私の時代錯誤ですが、感無量です。

今日は南洋の島国のインドネシアの風景写真をお送り致しました。そしてインドネシアの経済急成長ぶりもご紹介いたしました。島国のインドネシアは日本人にとって南洋の楽園なのです。

 それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「天高く馬肥える秋」

2021年09月09日 | 写真
「天高く馬肥える秋」とは、「秋の素晴らしさ」を表現した言葉です。「天高く」とは、空が晴れて澄み渡っている様子を表し、「馬肥える」とは、馬の食欲が増してたくましく太ることを表現しています。
手紙の時候の挨拶として使われることが多く、「秋の素晴らしい季節になりましたね」という気持ちを表現した言葉です。
しかし「天高く馬肥える秋」は、元々は「秋の素晴らしい季節」を表現したものではなく、「警戒しろ」と注意を促す言葉でした。騎馬民族が毎年秋に、馬に乗って襲ってきたことから、使われた言葉です。
馬と紅葉の写真をお送り致します。出典は、「天高く馬肥える秋」の元々の意味は怖い?由来と使い方の例文 | TRANS.Biz (trans-suite.jp)  です。




「遥か兵庫県の田舎のお寺の思い出」

2021年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
私の祖父は兵庫県の曹洞宗の正林寺の住職でした。叔父も祖父の後を継ぎ住職を長く務めていました。
そのお寺は兵庫県にありました。祖父は和尚でしたが父は仙台の大学に勤めていました。
毎年夏のお盆になると一家揃って兵庫へ里帰りするのが習わしでした。
蒸気機関車で東北本線で上野まで行き電車の東海道線に乗り換えて大阪駅まで長い汽車の旅でした。
大阪・梅田から阪急電車です。能勢口で能勢電鉄へ乗り換え山下駅で降り、あとはタクシーという旅でした。
私は昭和11年生まれですが、記憶に残っているのは4,5歳の頃からと思います。
お寺は山合いの内馬場という集落の端にありました。高い石垣を積み、小さな本堂、鐘楼、庫裏、客間の離れ、白壁の蔵が、狭い敷地にまとまって建っています。
石垣の上の白壁の塀の上からは集落全体が箱庭のように見下ろせます。

お寺の生活は子供心に珍しく、いろいろ思い出があります。
夏のお盆には施餓鬼法要という儀式があります。
近隣のお寺の住職が10人くらい集まり、本堂で、お経を読み、鐘やシンバルを鳴らして輪になって廻るのです。
この儀式では集落の人々の先祖の供養と施餓鬼供養をします。
本堂の左右の客間には集落の人が合掌して座っています。そして人々は供える野菜や果物を祭壇に溢れるほど持ってくるのです。
その施餓鬼法要が終わると叔父の住職は私と弟に子供用の墨染めの衣を着せて集落へ降りて行きます。
一軒一軒全ての家を廻って、仏壇へ向かって、お経を唱えるのです。
お経が終わると、どの家でも冷やしソーメンと果物を出してくます。少し食べて帰ろうとすると、お布施の袋を3つ出してくれます。
小坊主には小さな袋でくれます。これが小坊主にとって一番嬉しいのです。夏の小遣いが溜まるだけでなく、小さなお布施袋を貰うのが嬉しいのです。一人前の坊主になった気分で嬉しいのです。

祖父が住職をしていたお寺は貧乏なお寺で現金収入が一切無かったそうです。
お寺には位牌だけがあり墓地の面倒を見ていません。寺の本堂の須弥壇のお釈迦様の像の後ろの段の上に集落全部の位牌をならんでいました。
そうして祖父や叔父の住職は毎朝、釈迦如来像と多くの位牌へお経を詠んで死者の冥福を祈りまました。
毎年、檀家の人々が米を一年分寄進して蔵の中に蓄えてくれるのです。
檀家の畑に野菜が出来れば、毎日のように少しずつ寺へ持ってきます。味噌、醤油も檀家の人が届けてくれます。
寺には昔から寺領の畑や田があり最小限の自給自足が出来るようになっているのです。住職の仕事は読経と、田畑の世話の両方をすることなのです。
田舎のお寺の裏側にはいつも生活の苦労がつきまとっていたのです。しかしそれも修行です。

戦前の農村におけるお寺と檀家の関係にはこの様に支え合う緊密な信頼関係があったのです。私は戦前のお寺と檀家の親密な関係を懐かしく思って居ます。貧乏な檀家と貧乏な寺でしたが、その関係は心温まるものだったのです。

挿絵代わりの写真は兵庫県の正林寺と山梨県の真言宗善勝寺 の写真2枚です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)




「秋晴れ、菊と秋の七草の花々の写真」

2021年09月09日 | 日記・エッセイ・コラム
今日はもう9月の9日、重陽の節句です。旧暦の「重陽」は菊の花を飾ったり、菊の花びらを浮かべた菊酒を飲んだりして、不老長寿を願う日です。
例年ですと空高く晴れ上がった秋の日になりますが今年は長雨と秋冷の日が続いています。

今日はせめて気分だけでも晴れ上がった秋の日を想うように秋晴れと菊と秋の七草の花々の写真をお送り致します。
秋が来るとと毎年、「小さい秋見つけた」という歌がラジオやテレビから流れて来ます。そして昔は路地に子供達の歌声がしました。そんな「小さい秋見つけた」を口ずさみながら以下の写真をご覧ください。気分爽快になります。(https://www.youtube.com/watch?v=FwCGwrqtBAU )
1番目の写真は相模湖の上の秋の空の写真です。以前自分で撮りました。
2番目の写真は奥多摩湖の上の秋の空の写真です。
3番目の写真は黄色の菊でし。神代植物公園で撮りました。
4番目の写真は清々しい白い菊です。
下にある秋の七草の花々の写真も神代植物公園で撮ったものです。
正門を入った所に、萩の花、尾花、葛花、なでしこの花、をみなへし 藤袴、朝顔の花(キキョウ)が一カ所に寄せ植えになったいました。
5番目の写真は秋の七草の花々 が寄せ植えになっている様子を示す写真です。
6番目の写真はオミナエシです。
7番目の写真はキキョウの花です。
8番目の写真はナデシコの花です。
9番目の写真は白い萩の花の写真です。
秋の七草は万葉集に歌われています。
日本に万葉集時代から咲いている花々は現在でも変わらず美しく咲いています。心がおだやかに静まります。
そして9月は秋のお彼岸の季節です。間もなく墓参りに行きます。この長雨がやんで青空になるように祈っています。

今日は秋晴れと菊と秋の七草の花々の写真をお送り致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
===参考までに========================
重陽の節句は、五節句の一つであり、七草粥の節句、雛祭りとの桃の節句、子どもの日の端午の節句、七夕の節句と並び江戸時代では重要な祝日で
した。
重陽の節句の主役といえば「菊」です。
菊の花には昔から寿命を延ばす力が宿っていると考えられており、観賞用だけではなく薬草や食用としても人々から愛されてきました。
重陽の節句では、この菊を使った行事がたくさん行われます。数例を示します。
菊湯。
端午の節句で菖蒲を浮かべたお湯に入るように重陽の節句でも菊の花を浮かべたお湯に入り体を清める風習があります。
菊合わせ。
菊合わせは現代でいう菊のコンクールのようなもので個人個人で菊を持ち寄ってその美しさを競う大会が開かれます。
また、菊まつりや菊人形展なども開催されます。
被せ綿(きせわた)。
重陽の節句で一番有名な行事が「被せ綿」です。9月9日の前日に菊の花の上にシルクの綿を被せておきます。
そうすると菊の朝露が豊潤な香りとともに綿に移るのです。その露を含んだ綿で9日9日の朝に体を拭いてお清めをするのです。
古来から菊は霊力を持った植物と考えられており、菊の露で体を清めることで菊の霊力に加護され若返ることができると言い伝えられています。

「感情的にならないでこの記事を読んで下さい」

2021年09月07日 | 日記・エッセイ・コラム
韓国のことを書くといきなり感情的になって韓国の悪口をコメントとして送ってくる人がいます。私は客観的に事実だけを書いているのですが私を国賊のように非難する人もいます。
どうぞ感情的にならないで冷静に以下の記事を読んで下さい。
さて2019年の9月11日に「日本への憎しみをいましめる本が韓国のベストセラー」と題する記事を書きました。

今日はその記事の抜粋とその後の話を書きたいと思います。
2019年9月の読売新聞に、韓国で李榮薫著「反日種族主義」という本が10万部を越えるベストセラーになったと報道されました。

本の内容を示します。
1)徴用工は強制連行ではなく、志願、あるいは動員された労働者であり、
  日本人労働者と同じ待遇を受けていた。
2)慰安婦は公娼制度の一形態であり、高賃金を受け取っていた。
3)日本が朝鮮半島から持って行った米は収奪ではなく、輸出であった。
4)朝鮮人青年たちは先を争って日本軍に志願した。
5)大日本帝国が朝鮮を滅亡させようと(風水でいわれる朝鮮半島の地脈や民族の精気を断つ目的で)朝鮮の領土に打ちこんだといわれている鉄杭は、実は単に測量用のものであった。

日本を憎むことは間違っているという本です。韓国人が日本を憎むことには根拠が無いと言っているのです。
著者の代表の歴史学者の李榮薫が言ってます。「韓国社会の集団的な偏見を打ち破ろうとした。非科学的な歴史認識のままでは韓国の将来に希望はない。」

その後この本は日本でも翻訳、出版されました。

1番目の写真は李 榮薫  (著, 原著) の「大韓民国の物語り」です。水島広紀が日本語に翻訳しました。Amazonから2076円で買える日本語の本です。
李 榮薫 は韓国の「司馬遼太郎」ともいうべき知性派教授で世論の集中砲火にもめげず書いた日本の植民地支配の肯定的側面を描く問題作です。
以下にRakutenのレビューを示します。
・・・日本人の必読書!
「親日派のための弁明」など反韓?嫌韓?のバイブル的な書物がいくつかありますが、内容的に信用できない、日本に対しては性善説、韓国・朝鮮民族に対しては性悪説で書かれているにすぎない代物が多いです。
一方でこの本は韓国での歴史の改ざんがどのように進行したか、なども丹念に解説されており、単なる反韓?嫌韓?+日本擁護に偏った歴史書ではありません。
韓国人がなぜ日本に対して過剰に反応するのか疑問に思っている人には是非読んでほしい一冊です。
更に、「親日派のための弁明」などを無批判に盲信する右翼や、教科書問題などで日本が右傾化していると感じている革新・左翼勢力の人にも是非読んでほしい。・・・
要するに、この本は韓国での歴史の改ざんがどのように進行したかなども丹念に解説されており偏った歴史書ではありません。
客観的な内容の本なのです。
このような歴史書が日本と韓国の両国で読まれているのです。
深い意味での日韓友好を静かにすすめる本です。

今日は2019年9月11日の「日本への憎しみをいましめる本が韓国のベストセラー」と題する記事の抜粋と李 榮薫  著, 水島広紀訳、 「大韓民国の物語り」をご紹介致しました。

今日の挿し絵代わりの写真は韓国のお盆、すなはち「秋夕」の風景です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

2番目の写真は韓国のお盆、すなはち「秋夕」のためのご馳走です。
韓国のお盆は旧暦の8月15日、新暦では9月の満月の日に先祖の霊を迎えます。

3番目の写真は「秋夕」のため集まった家族の写真です。ご馳走を作って家族が伝統衣装を着ます。

4番目の写真はお盆に家族が揃って墓参りをしている光景です。
5番目の写真はお盆の踊りです。日本の盆踊のような踊りも楽しみます。
韓国では秋夕がお正月と同様に一番重要なのです。国民の祝日として長い休暇があります。


「釈迦を生んだインドの凄すぎる日常風景の現実」

2021年09月06日 | 日記・エッセイ・コラム
仏教は日本文化に深い影響を与えました。その仏教を教えたのはインドの釈迦です。ですから私は長い間インドに強い関心を持っていました。アメリカやドイツで知り合ったインド人は限りなく優しい人でした。私はインド人が好きです。尊敬しています。
しかしインドには行ったことがありません。そこで今日はインドの日常風景の写真を見てみたいと思います。
写真の出典は、写真家の鈴木 圭さんの、「インド人の日常風景が凄すぎる」です。
鈴木 圭さんはイタリア・ミラノ在住のフリーライターです。彼はインドについて次のように言っています。
「ハマる人は何度でも行きたくなる、ダメな人は二度と行きたくないと言う」
鈴木 圭さんは以下に示す写真には一切の説明をしていません。写真に添えた説明は私自身の勝手な想像です。皆様もご想像しながらご覧ください。
1番目の写真はインドの列車に溢れるように乗った人の風景です。想像するとインドでは機関車や客車の外側に乗った人は運賃が無料なのでしょう。それにしても人が多過ぎます。列車の上に何人乗れるかというゲームを楽しんでいるのでしょうか?過酷な生活を忘れるためにゲーム感覚を大切にするのでしょうか?
2番目の写真は自転車でレンガを運んでいる光景です。一台の自転車に何個レンガが積めるかというゲームなのでしょうか?
3番目の写真は大型旅客機の下の日陰で悠々と豪華な昼食を食べている風景です。インドは全てが自由なのでしょう。
4番目の写真は裕福な家族が仲良くテレビを見ている光景です。洪水で床上まで水浸しています。雨季には毎年のことなので家族は慣れています。悠々とテレビを見ています。
5番目の写真は洪水で動けなくなった三輪タクシーの運転手が客席で寝ている光景です。雨季には毎年こうなるので昼寝には慣れています。
6番目の写真は車体の無い自動車です。インドには車検など無いのでしょう。車の修理屋が店の部品を集めて自作したのでしょう。ガソリンタンクが危なっかしいですね。
7番目の写真は子供が牛の乳房から直接牛乳を飲んでいる光景です。子供はいつもこうして飲んでいるので牛は自分の子供だと思っています。振り向いた牛の目が優しいのです。周囲の大人たちはただ微笑んで見ているのでしょう。

最後に鈴木 圭さんの文章を添えておきます。
・・・インド最大の魅力は、日本では到底できない体験ができることです。
インドはただ文化や気候が異なるというだけでなく、犯罪や感染症など注意すべきことが多いため、思った以上にハードな旅になるでしょう。時には嫌な思いをして「今すぐ日本に帰りたい!」と思うこともあるかもしれません。そういう意味では、誰にとっても「絶対オススメ!」とは言い切れない旅行先でもあります。
ただ、その「日本では到底できない体験」がインドの最大の魅力であり、繰り返しインドを訪れる人は、その体験に魅せられているように思います。
この記事を読んでいるあなたが「ハマる人」になるのか「二度と行きたくない人」になるのかはわかりません。ただ、少しでも素敵な体験にするためにも、旅行前にはしっかりと準備をしておくことをおすすめします。この記事が、その参考になれば嬉しいです!・・・

今日はインドの凄すぎる日常風景の現実の写真を7枚ご紹介いたしました。皆様はインドを訪問したいとお考えでしょうか?
私はインド人が好きです。尊敬しています。しかしインドを訪問することは慎重にしたいと思っています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しくそして何故か淋し気な秋の花々」

2021年09月06日 | 写真
今日は9月6日です。いよいよ秋が訪れました。
秋になるといろいろな花が咲きます。しかし春や夏の花々にくらべると淋し気です。やがて寒い冬がやって来るのです。秋の花はみなそれを知っているのでしょう。自分が撮った秋の花々の写真をお送りいたします。お楽し頂けたら嬉しく思います。
1番目の写真は秋になると真っ赤に実るホウズキです。花ではありませんが秋らしい実なので掲載いたしました。都立薬用植物園で撮りました。
2番目の写真は食用の菊の花です。都立薬用植物園で撮りました。
3番目の写真は秋の彼岸に咲くヒガンバナです。日野市の大昌寺で撮りました。
4番目の写真はススキです。山梨県北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。
5番目の写真は自宅の庭に今年も咲いたジンジャーの花です。
6番目の写真はシオンです。北杜市の尾白の湯のそばで撮りました。
7番目の写真は秋に咲くフヨウです。鎌倉の円覚寺で撮りました。