後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「海外の美術館所蔵作品などの上野の森美術館」

2024年07月27日 | アート・文化

上野の森美術館は1972年(昭和47)4月に開館した私立美術館です。常設展示は行わず、企画展や公募展を随時開催し、海外の美術館所蔵作品や重要文化財などさまざまな美術作品を紹介しています。

1994年からは、40歳以下の若手作家による新作を紹介する「現代美術展(VOCA展)」を主催しました。ほかにも「上野の森美術館大賞展」や「日本の自然を描く展」など、さまざまなテーマに応じた公募展を積極的に行い、現代美術作家の発掘や育成に力を入れている美術館です。

上野の森美術館の写真や展示の写真をお送り致します。

場所はJR「上野」駅公園口から徒歩約3分です。東京メトロ・京成電鉄「上野」駅から徒歩約5分です。

私は展示している絵画の種類にあまり興味が無いので行ったことがありません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「平山郁夫の心静まる風景画」

2024年07月27日 | 日記・エッセイ・コラム

よくあることですが、テレビの美術番組で初めの解説が長すぎて肝心の作品の写真がなかなか出て来なくてイライラすることがあります。
そこで今日は平山郁夫の心静まる風景画の写真から始めます。

1番目の写真は玄奘三蔵法師をテーマにした『仏教伝来』です。東京藝術大学で助手を務めていた1959年ごろの制作です。平山郁夫はインドへ旅した三蔵法師を尊敬していました。この制作が切っ掛けになり中国とローマを結ぶシルクロードに強い興味を持ちその風景画を沢山描くようになります。

2番目の写真は先週訪ねた甲斐小泉の平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった「月光砂漠行」です。
平山郁夫は1968年以降シルクロードに関連する国々を数十回訪問し各地の風景画を描いています。訪れた国は中国、中央アジア、西アジア、東南アジア、地中海地域などシルクロードと関連のあった国々約37カ国です。
平山郁夫の一生はシルクロードに魅せられた生涯だったのです。

3番目の写真は同じくシルクロード美術館に展示してあった「アフガニスタンの砂漠行」です。
この美術館の1階にはシルクロードと関連のあった陶磁器、織物、イスラーム美術の彫刻、ガンダーラ美術の仏像、硬貨など約9000点の一部が展示されています。平山郁夫のシルクロードにかける情熱の強さに圧倒されます。

4番目の写真はインド洋を東西に繫ぐ「海のシルクロード」です。
「シルクロード」という名称はドイツの地理学者リヒトホーフェンが、その著書『China(支那)』で1877年に作った名前です。ドイツ語でSeidenstraßenと複数形になっていますが,全て内陸の交易路を意味し海のシルクロードは含まれていません。「海のシルクロード」は後世の人々が付けた名前です。

5番目の写真は『流水間断無』(奥入瀬渓流) です。この絵の大きな原画もシルクロード美術館 に展示してありました。

6番目の写真は平山郁夫シルクロード美術館に展示してあった北杜市から見上げた「甲斐駒岳」です。

7番目の写真は平山郁夫の郷里の尾道から四国を繫ぐ橋を描いた「白い橋 因島大橋」です。平山郁夫は1930年に 広島県尾道市瀬戸田町に生まれ尾道市で育ちました。そして2009年、79歳で亡くなりました。

表題に「平山郁夫の心静まる風景画」とありますが平山郁夫の頭には常に仏教的祈りがあったのです。
平山郁夫は先の戦争や原爆被爆の体験から、終生「平安と鎮魂」を求めていたのです。
奈良の薬師寺に奉納された壮大なスケールの『大唐西域壁画』と『ナーランダの月』は正しく心の平安と全ての死者の鎮魂を祈った壮大な絵画です。
平山郁夫の絵画の裏には静かな仏教的祈りがあるのです。誤解を恐れずに書けば、全て宗教画なのです。それが平山郁夫の絵画の強みでもありますが弱みになる場合もあるのです。
宗教的になって芸術性が弱くなるのです。とても美しい絵です。私は彼の絵が大好きですが、家人は何となくつまらない絵だと言います。困ったものです。
今日は日本画の平山郁夫の心静まる風景画をご紹介しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「日本画の魅力が分かる箱根の成川美術館」

2024年07月27日 | アート・文化

箱根・芦ノ湖畔にある成川美術館は1988年(昭和63年)4月に開館しました。日本画の魅力が分かる美術館です。

箱根に行くたびに気軽に何度も寄りました。

成川美術館は、文化勲章受章画家・山本丘人の代表作150点余りを核に、平山郁夫作の作品を40点余、他現代日本画を中心としたコレクションを4000点以上所蔵しています。

堀文子、岡信孝、牧進、関口雄揮、吉田善彦、毛利武彦、平岩洋彦、岡崎忠雄、小林済、前本利彦、牛尾武、柳沢正人らの作品数は、日本一を誇ります。
成川美術館は現代日本画に焦点を絞りその魅力を世に問う美術館です。特に戦後の日本画のすばらしさを広めることを設立の目的としているのです。

それでは成川美術館の寫眞と展示絵画をご紹介致します。

箱根の成川美術館で日本画をゆっくり見た後はいつもコーヒー飲みました。芦ノ湖畔や富士山の遠景を見ながらカフェでコーヒー飲みました。

何度も行った箱根の成川美術館が懐かしいです。

それはそれとして今日も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。後藤和弘


「日本で最初の西洋美術館の大原美術館」

2024年07月27日 | アート・文化
大原美術館は、倉敷で幅広く活躍した事業家大原孫三郎が画家児島虎次郎を記念して1930(昭和5)年に設立しました。日本で最初の西洋美術の私立美術館です。
孫三郎は、友人の児島虎次郎の才能を高く評価し、三度にわたる渡欧を支援しました。
そこで児島虎次郎はヨーロッパの美術作品を選び取るという作業をしました。
彼は、エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティス等、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に選び、倉敷にもたらします。
大原美術館は、その後も、倉敷の地にあって活発な活動を続け、西洋の近代から現代の美術作家たちの仕事等にコレクションを広げ民間総合美術館として大原美術館を作ったのです。
私どもも大原美術館を訪れ、その絵画の数の多さと美しさに感動しました。はるばる倉敷まで行ったかいがありました。
それでは写真で大原美術館をご紹介しましょう。
1番目の写真は大原美術館です。
2番目の写真は受胎告知/エル・グレコ(1590年~1603年ごろ作)です。
3番目の写真はルノアールの「泉による女」です。
4番目の写真はゴーギャンの「かぐわしき大地」です。
5番目の写真は関根正二の「信仰の悲しみ」です。
6番目の写真は小出楢重の「Nの家族」です。
7番目の写真はヘンリー・オッテマンの「少女」です。
 
小出楢重の説明を加えておきます。
小出楢重は大阪に生まれ、岸田劉生や中村彝と同時代の画家です。
黒田清輝以来の当時の洋画壇に飽きたらず、単なる洋画の輸入ではなく日本独自の油絵を確立しようと真摯に努めた画家の一人でした。
「Nの家族」は大正八年の第七回二科展に出品され、他の二点とともに有望な新人に与えられる樗牛賞を贈られ、それまで不遇であった画家が画壇に地歩を築くきっかけとなった作品です。
 「Nの家族」制作当時、すでに劉生や河野通勢等の画家が北欧ルネサンス風の写実的な表現を追求していましたが、小出自身の境地を開こうとします。
 「Nの家族」は小出楢重の前期の代表作であるばかりでなく、その緊密で力強い構成と表現により大正時代の洋画を代表する一作となりました。
 
今日は日本で最初の西洋美術館の大原美術館をご紹介しました。最後に小出楢重の「Nの家族」に関する説明をしました。
 
それはそれとして今日も皆様のご健康とご多幸をお祈り申し上げます。後藤和弘

「岡 鹿之助の『雪の発電所』と『パンジーの花』の絵」

2024年07月26日 | アート・文化
岡 鹿之助の『雪の発電所』は私の好きな絵なのでお送り致します。堅固な建造物が纏うはだら雪の柔らかさが静謐な雰囲気を醸し出しています。またパンジーの思索深い表情は画家の精神性の高さや穏やかな人柄を表しているように思えるのです。
岡 鹿之助は1898年(明治31年)に生まれ 1978年(昭和53年)に没しました。昭和時代に活躍した洋画家で文化勲章受章者です。
1956年には『雪の発電所』が現代美術日本展最優秀賞を受けます。また1957年には毎日美術賞も受けました。
なお小松 裕文さんの感想文を読むとこの絵が描かれた場所が分かります。https://www.danube4seasons.com/search/013/01.html
それにパンジーの絵を3枚つけます。

「中村彝のアトリエ」

2024年07月26日 | 写真

東京都新宿区下落合にあった中村彝のアトリエを1988年に茨城県近代美術館の敷地内に新築復元しました。
アトリエでは大正期に活躍した茨城県水戸市出身の洋画家、中村彝の遺品や資料を展示してあります。
中村彝は1887年にまれ192年に没しました。
3番目の写真は絵を描く中村彝です。


「30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画」

2024年07月26日 | アート・文化

佐伯祐三の原画の数十枚をまとめて見たことが一度だけあります。2008年、横浜そごうデパートでの特別展でした。
油彩画の原画には絵の具が盛り上がり、画家の熱い息づかいが感じられるのです。30歳で客死した佐伯祐三の情熱が直接伝わって来るのです。
彼はパリに魅せられ狂ったように絵を描き続けました。最後は文字通り狂って彼の地の精神病院で息を引き取りました。たった10年間ほどの画歴でした。
粛然とした想いで佐伯祐三の油彩画の写真をお送りいたします。

1番目の写真は「パリ街景」です。原画の大きさは38.1×45.4cm です。

2番目の写真も「パリ街景」です。1927年作で大きさは65×81cm です。

3番目の写真は「郵便配達夫」です。1928年の作品です。原寸は80.8×65.0cm です。

4番目の写真は「ラ・クロッシュ」です。1927(昭和2)の作品で原寸は、52.5×64.0cm です。

5番目の写真は「広告“ヴェルダン” 」です。1927年作で大きさは54.0x65.0cmです。

6番目の写真は「靴屋(コルドヌリ)」です。1925年作で原寸は,72.5x59.0cmです。

絵画の写真について解説は不要です。命を削るようにして描いた作品群の前では、どんな美辞賛辞も空々しくなります。
2008年、横浜そごうデパートでの特別展で一番感動した絵は3番目の写真の「郵便配達夫」でした。パリの自宅に来た郵便配達夫をモデルに80.8×65.0cm の大きな油彩画にしたのです。彼の描いた人物画の最後になりました。彼の死後奥さんの米子が手を加えて完成したと言います。何故感動したのか分かりませんがこの大きな絵にグイグイ引きつけられたことが忘れられません。

さて佐伯祐三は1898年4月28日 に生まれ 1928年8月16日にパリで没しました。
佐伯は大阪府西成郡中津村にある光徳寺の男4人女3人の兄弟の次男として生まれました。1917年(大正6年)東京の小石川にあった川端画学校に入り、藤島武二に師事します。
旧制北野中学を卒業した後、1918年(大正7年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学し1923年(大正12年)に卒業します。
東京美術学校の在学中に結婚した佐伯の妻・佐伯米子(旧姓・池田)も絵を描き二科展などにも入選していたのです。
佐伯はその後満30歳で死去するまでの6年足らずの画家生活の間、2回パリに滞在し代表作の多くはパリで描かれたの絵です。
第1回のパリ渡航は1924年(大正13年)1月から1926年1月までで、約2年の滞在であった。この第一次滞仏時の作品の多くはパリの街頭風景を描いたもので、ヴラマンクとともにユトリロの影響が明らかです。
佐伯はパリに長く滞在することを望んでいたが佐伯の健康を案じた家族らの説得に応じ1926年にいったん日本へ帰国します。
2度目の滞仏はそれから間もない1927年(昭和2年)8月からであり、佐伯はその後ふたたび日本の土を踏むことはなかったのです。
1928年3月頃より持病の結核が悪化したほか、精神面でも不安定となります。
「黄色いレストラン」が屋外で描いた最後の作品で「描ききった」と家族に説明していたといいます。屋内では偶然訪れた郵便配達夫をモデルに油絵2点、グワッシュ1点を描きました。
自殺未遂を経てセーヌ県立ヴィル・エヴラール精神病院に入院します。
一切の食事を拒み、同年8月16日衰弱死しました。墓所は生家である大阪市の光徳寺と東京都千代田区の心法寺にあります。
現在、佐伯の作品は大阪中之島美術館準備室50点、和歌山県立近代美術館14点など、日本各地の34か所に所蔵されているそうです。

今日は30歳でパリに客死した佐伯祐三の油彩画をご紹介いたしますした。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「レオナール藤田嗣の油彩画」

2024年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
レオナール藤田嗣治の油彩画をお送りいたします。
藤田嗣治は1886年に東京で生まれ 1968年に没しました。現在もフランスにおいて最も有名な日本人画家です。
彼の一生は3つの時期に分けて考えられます。第一期はパリの画壇で活躍した時期、第二期は日本に帰国して偏狭な愛国心で戦争に協力した時期、そして第三期は愛国心を捨てフランスに帰化して神の愛の中に生きた時期です。
この3つの時期に描れた油彩画をご紹介します。
1番目の写真は『眠れる女』と題される作品です。サロン・ドートンヌでセンセーションを巻き起こしたそうです。この絵で藤田は一躍パリの画壇の寵児になった有名な油彩画です。
2番目の写真は『カフェにて』という作品で顔、手、胸もとの肌が藤田の独特の透きとおるような筆致で描いてあります。これも藤田の第一期の作品です。
3番目の写真は『秋田の行事』の一枚です。これは藤田の第二期の作品です。まだこの頃は偏狭な愛国心にとらわれていませんでした。
1936(昭和11)年7月に平野政吉が建設構想を打ち出した美術館の壁を飾るため、翌年の1937(昭和12)年に制作された作品です。
4番目の写真は『秋田の行事』の一部分です。
『秋田の行事』は藤田の大作です。彼は「秋田の全貌」「歴史的秋田の意味」を描くことを意図し、約半年間頻繁に秋田を訪れ取材を重ねました。
平野邸のあった外町に視座を据え、外町から眺望した「秋田」を描き出したのです。秋田の祭りと祈り、暮らし、産業、歴史が、祝祭と日常の対比のなかに、色彩豊かに展開する壮大な画です。
現在は秋田県立美術館の新美術館に展示してあるそうです。
彼の行動が戦後非難の集中砲火を浴び、日本にいられなくなります。彼は亡命するようにフランスに移住したのです。
1955年にはフランス国籍を取り、日本人でなくなったのです。1957年にはカトリックの洗礼を受け、名前もレオナール・フジタと称したのです。
5番目の写真はフランスで彼が建てたカトリックの礼拝堂です。第三期の神の愛の中に生きていた時期の建築作品です。
6番目の写真は彼が建てた礼拝堂の内部の壁画です。礼拝堂を建設し静かな信仰生活を送り、1968年、82歳で天に帰ったのです。日本へはめったに帰って来ませんでした。
 
最後に第一期のパリの画壇で活躍した時期の油彩画の5点を追加をお送りいたします。私が好きな絵は第一期のパリの画壇で活躍した頃の作品です。
7番目の写真は「ホテル・エドガー・キネ」です。制作年は1950年頃で、カルナヴァレ美術館に所蔵されています。
8番目の写真は「下町、魅せられたる河より」です。
高級住宅街からパリの下町までを貫く道フォーブール・サントノレを川に見立て、フジタはパリのさまざまな街並みの風景画と人物像を華やかに描きました。
10番目の写真は「コレネイユ市場、魅せられたる河より」です。
 
今日は人生の終わり頃に偏狭な愛国心を捨て神の愛に生きたレオナール藤田嗣治の油彩画をご紹介致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「一碧湖の畔にある池田20世紀美術館」

2024年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
この美術館は伊豆半島の山の中、美しい一碧湖の畔にあります。車で行くと道中が風光明媚で楽しいのです。
さて池田20世紀美術館をご紹介したいと存じます。この美術館は本格的現代美術館です。1975年5月伊豆の一碧湖の岸辺にできました。この美術館の土地、建物と約1400点の所蔵作品の大半は、ニチレキ(株)の創立者池田英一氏が寄付したものです。
建物は彫刻家井上武吉氏の設計で、展示館外壁は日本ではじめてのステンレススチール張りです。入口から出口まで連なる展示作品が大へん観賞しやすい美術館です。
所蔵作品は20世紀に制作された絵画・彫刻で《人間》をテーマとするものを中心に約1400点収蔵しています。
館内には、ルノワールをはじめ、ボナール、ピカソ、マティス、レジェ、シャガール、アンディ・ウォーホール、ミロ、ダリ、デ・クーニング等の作品が常設展示してあります。
所蔵作品の一覧は、https://ikeda20.or.jp/archive/collection/ にあります。
それでは展示絵画の写真をお送り致します。写真は池田20世紀美術館のホームページから転載しました。
これらの写真が示すように広い会場に絵画がゆったりと展示してあるのでゆっくり鑑賞することが出来ました。それにしてもヨーロッパ・アメリカ文化が伊豆の山の中にあることに驚きました。
展示には有名な画家の作品はみな揃っています。しかし家内の意見では必ずしも傑作な作品ばかりでないそうです。でも油絵の好きな人にとっては画家たちの息づかいが感じられ魅力的な美術館と思います。
伊豆半島への旅の折には必ず訪問することをお薦めいたします。近くには景色の良い大室山や小室山もあります。
 
今日は一碧湖の畔にある池田20世紀美術館をご紹介致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「信州、安曇野にある碌山美術館」

2024年07月25日 | 日記・エッセイ・コラム
はじめに碌山美術館の写真をご覧ください。この1番目の写真は蔦のからんだ赤レンガの美術館で、2017年5月に家内が撮ったものです。
教会風のロマンチックな建物です。
この碌山美術館は信州の安曇野にあります。背景には夏でも雪のある北アルプスの山稜が見えています。その近くには湧き水が豊かに流れるワサビの畑が広がっているのです。周囲の風景だけでも楽しい場所なのです。
次に萩原碌山の彫刻をお送り致します。写真は順に、「文覚 」「北條虎吉像 」、「女」、「坑夫」です。
この碌山美術館は若かった妻が私に彫刻の美しさを教えてくれた場所です。それまで彫刻をあまり見たことのなかった私は碌山の彫刻を見て、その魅力を知ったのです。それ以来、信州に旅をするたびに何度も訪れた小さな美術館です。
萩原碌山は明治12年、長野県安曇郡東穂高村に生まれ30歳結核で死にました。同じ安曇野出身の相馬愛蔵・黒光の新宿中村屋で亡くなったのです。たった30年の生涯でした。
碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入する決心をしたのです。現在の日本の彫刻界の隆盛はこの碌山から始まったのです。
萩原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
碌山は1879年(明治12年)に長野県南安曇に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けました。この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。
1908年(明治41年)に帰国し、新宿の中村屋にて彫刻家として活動を始めます。そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。その後第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。
萩原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。
さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。対象の内面に寄り添う優しさがあるようです。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女性の精神性を感じさせる作品です。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから萩原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせるのが信州、安曇野の碌山美術館なのです。
6番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。家内が撮った写真です。
 
萩原碌山は30歳の若さで亡くなりましたが日本へ西洋彫刻の芸術性を伝えた大きな功績を残したのです。その事を凝縮したような小さな美術館です。大きなことを感じさせる小さな美術館です。
近くに十王ワサビ園があります。北アルプスの湧き水が悠然と流れ水車が回っています。
そして大町の丘の上にある山岳博物館からは緑の安曇野と背景のアルプスの山並みが一望出来るのです。少し足を伸ばせば仁科3湖の岸辺を通って白馬へも行けます。
碌山美術館の周囲も楽しいところなのです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「箱根のラリック美術館にある初期のフォード車の実物」

2024年07月24日 | 写真

箱根、仙石原にあるルネ・ラリック・ミュージアムにフォード社の初期の車の実物が2台あります。公道は走れませんがエンジンは動き、構内は走れるそうです。。

今日はその2台の車の写真をお送り致します。自分が以前に撮った写真です。

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「諏訪湖の湖畔の北澤美術館とエミール・ガレの作品」

2024年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

エミール・ガレ(1846-1904)やドーム兄弟の独創的なガラス器の作品を700点も収蔵、展示してあるのが諏訪湖のほとりにある北澤美術館です。
その展示品はフランスのアール・ヌーヴォー期のガラス工芸品です。芸術的な工芸品です。
バルブ製造会社で財をなした北澤利男氏が設立し、1983年に開館したのです。
隣にはやはり北澤利男氏が設立したサンリツ服部美術館があります。
エミール・ガレやドーム兄弟はガラス工芸の新しい技法を次々と創作していったことが素晴らしいと思うのです。深い芸術性を感じるのです。
今日は北澤美術館に展示してあるエミール・ガレやドーム兄弟の作品をご紹介いたします。

1番目の写真は一夜茸というキノコを模した作品です。高さ83cmの大きなものです。北澤美術館で非常に大切にしていて、貸し出し厳禁の展示品です。北澤利男氏が一夜茸のガレの作品が飾ってあうるパリのエッフェル塔にあるレストランに5年間通い、店主を口説き、やっと入手したガレの晩年の傑作です。一夜茸とは一晩だけ10cmくらいに成長して翌朝には朽ちて土に帰るキノコです。

2番目は何やらバラの蕾のようなものが貼り付けてあります。さかさまになっているのが異様に感じました。

3番目は花瓶に貼り付けてあるカトレアの立体的な飾りが何故か私にはその美しさが不気味に感じるられるのです。

4番目は電気スタンドの傘の上に蝶々のような模様が貼り付けてあります。
色彩も構図も普通でありません。しかし優れた芸術性が感じられます。

5番目の写真はドーム兄弟の1900年頃の作品です。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%A0%E5%85%84%E5%BC%9F )


これらの作品はアール・ヌーヴォー期のものと言われています。そこでアール・ヌーヴォーについて少しだけ説明します。
幕末の開国と共に海を渡った浮世絵や焼きものなど精緻をつくした日本の工芸は、ヨーロッパに強い衝撃を与えました。各地で日本ブームがおこりました。
あでやかな色使いや大胆な構図は、印象派や世紀末の工芸改革運動「アール・ヌーヴォー」に深い影響を与えました。
「アール・ヌーヴォー」とはこの新しい芸術改革運動のことなのです。ニューアートのことです。
そして「ジャポニスム」という言葉も生まれました。
こうした現象は、「アール・ヌーヴォー」の旗手、フランス北東部の都市ナンシーに生まれたガラス工芸家エミール・ガレ(1846-1904)の作品にも表れています。
色とりどりの草花が咲き乱れ、バッタやトンボの飛び交う独特の作品世界、そして自然を手本に、四季折々の風景を刻み込んだガラス作品は「ガレ様式」と呼ばれています。日本の美に注がれたガレの熱いまなざしが感じられるのです。

さて美しいガラス作品の展示場としては箱根にルネ・ラリック展示館とガラスの森の2つがあります。
ルネ・ラリックは実用性を重視し販売目的でオリエント急行の車内の装飾や美しいガラスの器やガラス壁から香水瓶、婦人用装飾品を多種多様作りました。すべて実用品ですが芸術性が感じられるのです。
ガラスの森の方はベネチア・ガラスを主にシャンデリアや花瓶や大きなガラスの器が展示してあります。古い時代のヨーロッパの絢爛豪華な品が展示してあります。


これらの展示場を見て回ると芸術には創造力と卓越した職人技が欠かせないことがしみじみと理解出来るのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「感動的な箱根の彫刻の森」

2024年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム

箱根に行くと必ず「彫刻の森」という近代彫刻の野外展示場を訪問します。起伏のある緑の芝生の上に大きな彫刻が展示してあります。作品群が周囲の山々の風景と響き合って作品の美いさを引き立てています。
それでは私どもが撮った写真でこの「彫刻の森」をご紹介致します。

1番目の写真は「彫刻の森」に入場してすぐにある芝生の広場です。西洋の有名な近代彫刻家の作品が点々と展示されています。このような展示場が山の斜面を上手に利用して、他にも数ケ所あります。そしてピカソの作品だけを展示した「ピカソ館」やステンドグラスの塔や特別展示をしている本館ギャラリーもあります。その全体をご紹介するわけにいきませんので、下に私が気に入った6点の近代彫刻の写真を示します。

2番目の写真はイギリス人のヘンリ-・ムーア(1898年ー1986年)の1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ彫刻です。

3番目の写真はフランス人のエミール・アントワーヌ・ブルーデル(1861年ー1929年)の1918年から1922年作の巨大なブロンズ彫刻です。右から「雄弁ー大」、「自由ー大」、「勝利ー大」、「力ー大」という題の彫刻です。

4番目の写真は同じくフランス人のエミール・アントワーヌ・ブールデル(1861年ー1929年)の1909年作の「弓をひくヘラクレス」と題するブロンズ彫刻です。

5番目の写真はスウェーデン人のカール・ミレス(1875年ー1955年)の1949年作の「人とペガサス」という題のブロンズ彫刻です。

6番目の写真はイタリア人のジュリアーニ・ヴァンジ(1931年生まれ)の2004年作の「偉大な物語」という彫刻です。

7番目の写真はフランス人のオーギュスト・ロダン(1840年ー1917年)の1898年作の文豪バルザックのブロンズ彫刻です。

彫刻の森に展示されている作品は膨大です。その作品一点、一点の詳しい紹介は、https://www.hakone-oam.or.jp/permanent/?id=2 に掲載されています。
例えばヘンリ-・ムーアについて以下のように書いてあります。
「ムーアは彫刻を野外に展示することを好みました。そして、「彫刻の置かれる背景として空以上にふさわしいものはない」と語っています。彫刻の森美術館の緑陰広場の庭園には、ムーアの彫刻作品11体のコレクションがゆっくりと時間を刻んでいます。
四季を通じて、彫刻の堅固な形態とその空間が作り出すコントラストはとても魅力的です。」

そして1970年作の「横たえる像:アーチ状の足」については以下のような解説があります。
「・・・人体の基本となるポーズが3つある。まず立っているもの、次に坐っているもの、そして横たわっているものである。3つのポーズのうちで、横たわる人体像は、最も自由がきき、構成しやすく、また空間性を持っている。坐っている人体像には腰掛けるためのものが何か必要になる。彫刻を台座から解放してやることができない。横たわる人体像はどんな床面にも横たえることが可能だ。自由がきくと同時に安定性もある。・・・」

一般に大型の彫刻作品は、風景の良い屋外に展示したほうが良く見えると思います。そして「横たえる像:アーチ状の足」というブロンズ像の前にしばらく立っていると何とも自然なやすらぎを感じます。

そしてバルザックの像については次のような説明があります。
「ロダンは文芸家協会から、小説家オノレ・ド・バルザック(1799-1850)の記念像の制作を依頼され、肖像写真をもとにして制作した。1898年のサロンにガウンをまとった石膏像を発表したが、これが雪だるま、溶岩、異教神などと言われ、「フランスが誇る偉大な作家を侮辱した」と、協会から作品の引き取りを拒否された。
ロダンは石膏像を引き取り、終生外に出さなかった。彼の死後、1939年になってパリ市内に設置、除幕された。
ガウンによって写実的なディテールが覆われ、大胆に要約された形態は、ロダンの作品の中でも最も現代に通じるものである。」

この解説を読んで初めてこの彫刻の意味が分かるのです。しかしこの像の前に立つと人間の苦悩の深さと、それを克服しようとする人間の勇気を感じます。
さて、彫刻の森美術館と言えば思い出すことがあります。
西洋の彫刻を見ながら、家内は日本の彫刻家の高村光太郎や舟越保武の作品をも説明してくれます。萩原碌山の魅力も私に説明してくれます。

それはさておき箱根の「彫刻の森」は間違いなく素晴らしい美術館です。その姉妹館が「美ケ原高原美術館」です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


「霧が流れる美ヶ原高原美術館の涼しさ、爽快さ」

2024年07月24日 | 日記・エッセイ・コラム
このところ暑いですね。本格的な夏が来たようです。そのせいか美ヶ原高原美術館の涼しさ、爽快さを思い出します。涼しい霧が流れる高原にある美術館なのです。
今日は美ヶ原高原美術館をご紹介したいと思います。
この美術館は遥かに遠い天空の上の美術館なのです。標高は2004mです。
4万坪の屋外展示場に350点あまりの現代造形作品を常設展示しています。1981年6月に、「箱根・彫刻の森美術館」の姉妹館として開館しました。長野県の上田市にあります。
この彫刻群を楽しむため一番重要なことは天気予報を注意深くしらべ、寒い雪の日、強風の日、猛暑の日は行かないようにします。
私達が訪れたのは2008年の8月5日でした。霧が流れ、幻想的な日でした。高原の丘一面に遊歩道がひろがり世界中の作品が展示されています。すべて野外で鑑賞するために創られた大きな作品です。
美ヶ原高原美術館と箱根の彫刻の森美術館と比較すると感動のスケールの大きさは美ケ原の方が勝っています。
それでは早速、霧が流れる美ヶ原高原美術館を家内が撮った写真でご紹介します。
美ヶ原高原美術館の詳細は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/gaiyou に出ています。
そして全ての展示作品のリストは、展示作品一覧、https://www.utsukushi-oam.jp/search/ にあります。展示作品の説明は、https://www.utsukushi-oam.jp/mp/sakuhin にあります。
例えば3番目の写真の作品の説明を示します。
題は「風のスイング」で河崎良行の作です。磨かれたステンレスを使い、風のイメージの形体化を試みています。回転や上昇運動を複合させた優美なフォルムは、内在する力が大空に向かって一気に放たれるような爽快感と強い風のエネルギーが感じられます。・・・
You Tubeは、https://www.youtube.com/watch?v=X4Vn_rpwnPY&feature=emb_rel_end です。
 
さて箱根の彫刻の森美術館と美ヶ原高原美術館は「彫刻の森芸術文化財団」によって建設され運営されています。
財団は、「ひろく一般に彫刻芸術に接する機会を提供するとともに、彫刻芸術の振興普及をはかり、わが国芸術文化の向上発展に寄与すること」を目的に掲げ、昭和43(1968)年9月6日、財団法人彫刻の森美術館として発足いたしました。
そして、彫刻の森美術館の開設における建設資金協賛社は国内企業173 社が出資して翌昭和44(1969)年8月1日、日本で初めての彫刻専門の野外美術館として開館しました。
財団の設立はフジテレビジョン、産経新聞社、ニッポン放送を中核とするフジサンケイグループによるもので、初代館長は故鹿内信隆(1911-1990)でした。
 
その後、昭和56(1981)年に長野県上田市に姉妹館・美ヶ原高原美術館を開設します。作品収蔵では内外の近代彫刻の名品群に加え、造形芸術の公募展や企画展を通じて作品収集を図って来ました。
 
美ヶ原高原美術館は遥かに遠い場所にありますが車で行くと途中の風景を楽しめます。中央高速で諏訪湖まで行きます。そこから白樺湖に上ります。白樺湖からは車山、霧ヶ峰、美ヶ原へと高原ずたいに風景絶佳のドライブが楽しめるのです。
皆様もこの天空の野外展示の美術館を一度訪れてはいかがでしょうか。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「美しい蓮の花と行田への旅」

2024年07月23日 | 日記・エッセイ・コラム
何故か分りませんが私は蓮の花が大好きです。色合いが心を誘い大輪の花が初夏の風に揺れている光景は幻想的です。一面に広がる蓮田の中に花が咲いています。大きな葉が揺らぎ涼しい香が漂って来ます。
そんな風景は埼玉県の行田の「古代蓮の里公園」でも見ることが出来ます。
今日は「古代蓮の里公園」の美しい蓮の花の写真をお送りいたします。写真は小生と家内が2008年の6月に写したものです。
「古代蓮の里公園」では10万株も植えてありその上、世界中の蓮の花を集めています。以前に3,4度訪れたことがあります。
1番目の写真は行田にある「古代蓮の里公園」です。
2番目の写真は「古代蓮の里公園」に咲いていた蓮の花です。
さて蓮の花には数種の色合いがあります。それらの花の写真を示します。
写真の出典は、https://iwalkedblog.com/?p=31292 です。
3番目の写真は薄いピンク色の花です。
4番目の写真は白い蓮の花です。
5番目の写真は薄いピンク色の花を横から撮った写真です。
 
古代蓮の里のハスの見頃は、例年6月下旬から8月上旬頃です。
この「古代蓮の里公園」では蓮の花だけでなく、広大な芝生と高い展望台も楽しめます。
都内の公園とは異なり、展望台は建物に取り囲まれていません。ですから周りの水田が見渡せ、その先には日光連山まで見えます。
行田市は東京から日帰りで観光旅行に丁度良い所と思います。東京の人は行田にあまり観光に行きませんが隠れた観光名所名所です。大きな無料駐車場もあります。
 
今日は埼玉県の「古代蓮の里公園」の美しい蓮の花をご紹介致しました。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)