はじめに碌山美術館の写真をご覧ください。この1番目の写真は蔦のからんだ赤レンガの美術館で、2017年5月に家内が撮ったものです。
教会風のロマンチックな建物です。
この碌山美術館は信州の安曇野にあります。背景には夏でも雪のある北アルプスの山稜が見えています。その近くには湧き水が豊かに流れるワサビの畑が広がっているのです。周囲の風景だけでも楽しい場所なのです。
次に萩原碌山の彫刻をお送り致します。写真は順に、「文覚 」「北條虎吉像 」、「女」、「坑夫」です。
この碌山美術館は若かった妻が私に彫刻の美しさを教えてくれた場所です。それまで彫刻をあまり見たことのなかった私は碌山の彫刻を見て、その魅力を知ったのです。それ以来、信州に旅をするたびに何度も訪れた小さな美術館です。
萩原碌山は明治12年、長野県安曇郡東穂高村に生まれ30歳結核で死にました。同じ安曇野出身の相馬愛蔵・黒光の新宿中村屋で亡くなったのです。たった30年の生涯でした。
碌山はパリでロダンの作品に感動し、日本へ西洋の彫刻を導入する決心をしたのです。現在の日本の彫刻界の隆盛はこの碌山から始まったのです。
萩原碌山はニューヨークに住みながらパリにも滞在しました。そこでロダンの彫刻を見て感動し、自分でもブロンズ像を作り始めます。
碌山は1879年(明治12年)に長野県南安曇に5人兄弟の末っ子として生まれます。
少年の頃にキリスト教に接し、安曇野で断酒会に入会します。洗礼も受けました。この経験が西洋へ目を向けるきっかけになったと考えられます。
明治34年より渡米、ニューヨークで西洋画を学びます。そして1904年 (明治37年)パリでオーギュスト・ロダンの「考える人」を見て感動し、彫刻家になる決心をします。
1906年 (明治39年)に再び渡仏し、アカデミー・ジュリアンの彫刻部に入学します。
1907年 (明治40年)にはロダンに面会をはたします。そして「女の胴」や「坑夫」などを制作します。
彼はパリで西洋文化の彫刻の魅力を身をもって理解したのです。
1908年(明治41年)に帰国し、新宿の中村屋にて彫刻家として活動を始めます。そして「文覚」が第二回文展で入選します。
1909年 (明治42年)には「デスペア」を制作し。第三回文展に「北条虎吉像」と「労働者」を出品します。
1910年 (明治43年)に「母と病める子」や「女」などを制作しますが、4月22日急逝します。その後第四回文展にて「女」を文部省が買上げました。
萩原碌山は30歳の若さでこの世を去りましたが、日本では生前から高く評価され、文部省主催の『文展』にも何度も彫刻を出展したのです。西洋の彫刻の魅力を紹介したのです。このお陰で日本でも数多くの西洋流の彫刻家が育って来たのです。
さてロダンと碌山の彫刻の違いは何でしょうか?
ロダンの彫刻は上野の西洋美術館や箱根の彫刻の森美術館にあります。
そのロダンと碌山の違いを私個人の感じで言えばロダンは力強く自分の哲学を主張しています。西洋人の特徴の自己主張が強いのです。
しかし碌山の彫刻は内省的、繊細で東洋的な美しさを感じさせます。対象の内面に寄り添う優しさがあるようです。
例えば代表作の『女』は両手を後ろに回し縛られているように見えます。顔は天を仰ぎ悲し気です。体のフォルムは東洋の女です。何故か女性の精神性を感じさせる作品です。
ロダンの力強い自己主張を真似た「文覚」や「労働者」という作品もありますがロダンほど力に溢れていません。
ですから萩原碌山は彼の独創性で西洋と東洋の文化の融合を示したのです。
そんなことを考えさせるのが信州、安曇野の碌山美術館なのです。
6番目の写真は碌山美術館の内部の様子です。家内が撮った写真です。
萩原碌山は30歳の若さで亡くなりましたが日本へ西洋彫刻の芸術性を伝えた大きな功績を残したのです。その事を凝縮したような小さな美術館です。大きなことを感じさせる小さな美術館です。
近くに十王ワサビ園があります。北アルプスの湧き水が悠然と流れ水車が回っています。
そして大町の丘の上にある山岳博物館からは緑の安曇野と背景のアルプスの山並みが一望出来るのです。少し足を伸ばせば仁科3湖の岸辺を通って白馬へも行けます。
碌山美術館の周囲も楽しいところなのです。
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)