人は誰も心のなかに闇を持っています。
それを聴覚という感覚の闇と捉えて詠んだ点が秀逸です。
様々な文脈のなかで様々な読み方を許容する句でもあります。
能登さんの句。
問われたる琉球処分蝉時雨
と対(つい)にして読むと今日的な意味も持ってきます。
耳の闇という言葉から思い出したのは、
「見れどもみえず聞けどもきこえず」というコトワザ。
父がよく言っていた言葉のひとつです。
調べてみたら、出典は四書五経のなかの『大学』でした。
「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」
(心、ここにあらざれば、視れども見えず、
聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず)
どんなに騒がしい蝉の鳴き声も、私の耳の闇には届きません、
という句は、『大学』よりも文学的で素敵です。
今は四書五経といっても理解されないかな? 遅足
それを聴覚という感覚の闇と捉えて詠んだ点が秀逸です。
様々な文脈のなかで様々な読み方を許容する句でもあります。
能登さんの句。
問われたる琉球処分蝉時雨
と対(つい)にして読むと今日的な意味も持ってきます。
耳の闇という言葉から思い出したのは、
「見れどもみえず聞けどもきこえず」というコトワザ。
父がよく言っていた言葉のひとつです。
調べてみたら、出典は四書五経のなかの『大学』でした。
「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」
(心、ここにあらざれば、視れども見えず、
聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず)
どんなに騒がしい蝉の鳴き声も、私の耳の闇には届きません、
という句は、『大学』よりも文学的で素敵です。
今は四書五経といっても理解されないかな? 遅足