京都御所の西にある旧有栖川宮家の屋敷が特別公開されていました。
有栖川宮家は、天皇の血筋を絶やさぬようと設けられた「四親王家」の一つ。
なかでも第九代の熾仁親王は、婚約していた皇女・和宮が、将軍・家茂と政略結婚。
その和宮の住む江戸城を攻略するために官軍の総督となったという数奇な運命の人です。
有栖川宮家が東京へ引っ越した後、建物は、京都地方裁判所の所長宿舎に。
現在は、平安女学院大学の所有となり特別公開されたものです。
書院造りの主屋と青天門、長屋門は国の登録有形文化財です。
面白いのは、家の中に板敷の部屋があり、地下には甕が埋められて能舞台にもなるとか。
また、京都の宮家は夏の暑さ対策として床が高くなっています。
そこで日本庭園をつくるために盛り土をしたそうです。
この宮家は十代の威仁親王と続きましたが、大正2年、威仁親王が亡くなり
さらに10年後、妃の慰子さんも死去、有栖川宮は断絶してしまいます。
現在、この建物を所有しているのは平安女学院。明治に京都にやってきたキリスト教の学校。
この学校は、明治36年に全国に先駆けて生徒の服装を統一。
大正9年には、日本で初めて制服を洋装化し、セーラー服を採用したとのことです。
上五の「秋風や」は動きますね。もう少し具体的なイメージを喚起する季語を。
有栖川宮家は、天皇の血筋を絶やさぬようと設けられた「四親王家」の一つ。
なかでも第九代の熾仁親王は、婚約していた皇女・和宮が、将軍・家茂と政略結婚。
その和宮の住む江戸城を攻略するために官軍の総督となったという数奇な運命の人です。
有栖川宮家が東京へ引っ越した後、建物は、京都地方裁判所の所長宿舎に。
現在は、平安女学院大学の所有となり特別公開されたものです。
書院造りの主屋と青天門、長屋門は国の登録有形文化財です。
面白いのは、家の中に板敷の部屋があり、地下には甕が埋められて能舞台にもなるとか。
また、京都の宮家は夏の暑さ対策として床が高くなっています。
そこで日本庭園をつくるために盛り土をしたそうです。
この宮家は十代の威仁親王と続きましたが、大正2年、威仁親王が亡くなり
さらに10年後、妃の慰子さんも死去、有栖川宮は断絶してしまいます。
現在、この建物を所有しているのは平安女学院。明治に京都にやってきたキリスト教の学校。
この学校は、明治36年に全国に先駆けて生徒の服装を統一。
大正9年には、日本で初めて制服を洋装化し、セーラー服を採用したとのことです。
上五の「秋風や」は動きますね。もう少し具体的なイメージを喚起する季語を。