575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

「 津島祭礼図屏風 」⑨ 〜 様々な見物人 〜 竹中敬一

2019年06月08日 | Weblog



「 津島祭礼図屏風 」( 「 綴プロジェクト 」高精細複製品より

朝祭りに押しかける見物人 。社家 ( 神職 )関係の人 、武士、商家の旦那とその一族、

僧侶、農民 、旅人など様々 。貴賎、男女を問わず皆んな一緒に祭りを楽しんでいる

ようです 。


屏風絵の特に宵祭りの場面で食べ物の出店と同様 、人集りしているのが芝居小屋

や曲芸 、カラクリ 、手品などの見世物小屋 。

山車と観覧船の間を綱渡りする姿も見えます 。この光景を口をぽかーんと開けて

見入る人 、じっと見つめる人それぞれの表情が見事に表現されています 。





「 津島祭礼図屏風 」( 「 綴プロジェクト」高精細複製品より )


江戸時代、津島天王祭を見るため全国各地から訪れる人が多く、文人らが祭りの

賑わいぶりを書き残しています 。

「 張州雑志 」( 尾張藩の藩士 内藤東甫が江戸中期 記した地誌 )

「 市井の南数町を去て、俳場 ( 芸をする人のための小屋 ) を構え、傀儡 ( くぐつ - 操り

人形 )、ものまね、かるわざ、歌うたいの類ひあつまり居て俳優す 。

… 老少男女競ひてこれを遊観す 。」と記しています 。


江戸深川生まれの小説家 滝沢馬琴 の「 蓑笠雨談 」に

「 旅店も四、五人ツツ合宿ス おそく来るものハ 宿なく、佇 ( たたずみ )で あかす

人もありとぞ ……参詣の貴賎は左右の堤に桟敷をかけ、或は乗船してこれを見る 」


江戸後期、津島生まれの十日亭厚丸 ( 詳細不明 )の川柳には


いや蚊屋 ( かや )は 天王さまのおきらいです


昭和30年位までは夏場 、カに刺されないために蚊帳を吊るして寝ていたことを

思い出します。

天王祭の宵祭りの夜は宿泊客が多いため、安宿も泊り客でいっぱい 。いちいち、

蚊帳を釣っているわけにもいかず、宿の女性従業員が " 蚊帳は天王様はお嫌いです "

と神様のせいにしてお客に聞えよがしにつぶやいている句 。( 堀田喜慶氏の註釈

を参考 )

関東などから来た津島講に入っているお客は御師 ( おし ) の家に泊めてもらって 、

蚊帳を吊るした部屋でゆっくり眠れますが、安宿にも泊まることもできず、天王川堤

で夜を明かし、翌日の朝祭りを見物した人も大勢いたようです 。

屏風絵では、様々な見物人の表情までも丹念に細かく描かれていて 、その描写力は

高く評価できるのではないでしょうか 。

津島祭礼図屏風を細部までよく見ると色んなことがわかってきます 。

例えば、群衆の足もと 。特に、宵祭り、朝祭り 両シーンとも天王川を挟んで手前の

津島5ヶ村側を歩く人々の多くは素足です 。草履 ( ぞうり )や ワラジ 、下駄 ( げた )

を履いているは旅人、僧侶、ごく一部の女性 くらいです。

津島神社の鎮座する向島側でも木製の浅沓 ( あさぐつ )を履いているのは、地位の高い

神官だけで、同じ社家でも従者は素足です 。

先日、京都国立博物館で「 一遍聖絵 ( いっぺんひじりえ) 」展を見てきましたが、

一遍上人一行の旅姿は全国を遊行するとあって全員ワラジを履いていました 。

しかし、全国各地の庶民の姿は殆ど裸足 。もっとも、この 「 一遍聖絵 」は「津島祭礼

図屏風」が描かれた江戸時代前期より以前の鎌倉時代末期の作品ですが、私が子供の

頃の昭和初期でさえ、若狭の陸の孤島のようなところでは、皆んな裸足で外で遊んで

いました 。その足で家の中まで入って親に叱られたのを覚えています 。 つづく
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