津島祭礼図屏風の宵祭り ( 八曲一双 )の画面 。
向かって左側に架かる天王橋を挟んで津島神社の鳥居が見える川向うが天王島
( 向島 )と呼ばれ、役人の館や社家 ( しゃけ )の屋敷が見られます 。
尾張藩の藩士、内藤東甫が安永年間 ( 1772 〜 1780 )に記した地誌 「 張州雑志 」
に東甫が描いた当時の津島神社周辺の地図を見てみると、天王川沿いに幾つかの
屋敷が書き込まれています 。
「 津島市史 」などを参考にして、屋敷を推定できるのもあります 。
「 番頭太夫 」( ばんとうだゅう)と書かれているのは、堀田家 。今は位置が違うよう
ですが、この堀田家住宅は昭和53年、国の重要文化財に指定され 、公開されています 。
元禄頃から商売を始め、金融、地主経営、新田開発で財をなしたとあります。
津島神社神官 堀田氏 ( 堀田右馬太夫 )から分かれた家柄 。
「 三太夫 」( さんだゅう )は 津島神社の御師 ( おしー 各地の檀家を廻って祈祷や
お札を配布する )を務めた堀田家 。
「 九郎太夫 」は、津島神社の社家、河村九郎太夫家 。
「張州雑志 」( 尾張藩 藩士 内藤東甫が記した地誌 ) 愛知県郷土資料刊行会より 。
東甫 ( とうほ ) が描いた江戸中期の津島の地図に筆者が加筆 。
天王川は木曽川水系 佐屋川の支流 。天王川に架かる大橋がいつ頃、完成したかは
はっきりしていませんが、織田信長は弘治4年 ( 1558 )この大橋の上から天王祭を
見物したという記録が残っています 。( 「大祭筏場車記録 」)
津島は湊町、津島神社の門前町として、戦国時代には急速に発展 。
織田信長の父 信秀は津島の財力を背景に尾張で勢力を伸ばしていったといわれて
います。
その後を継いだ信長が更に力をつけていった基盤は津島の経済力にあったと言えます。
「 津島祭礼図屏風 」( 「綴プロジェクト 」高精細複製品より
「 天王橋 」
この天王橋は江戸中期、宝暦10年 ( 1760 )に取り払われています 。
更に、佐屋川が度重なる洪水による決壊で明治32年に廃川となります。
その上、かっては湊町として栄えた津島の天王川も江戸後期には土砂の堆積で
せきとめられ、入り江となった 。その大きな池が今の天王川公園 。
天王川を挟んで、手前が津島五ヶ村 。即ち、米之座 ( こめのざ )、堤下( とうげ )、筏場
( いかだば )、今市場 ( いまいちば )、下構 ( しもがまえ ) 。
この五ヶ村の有力な町方衆の富力によって、天王祭が支えられていました 。
町方衆については次回 お伝えします 。 つづく
2枚目の写真の絵の中に子供が描かれています。
ひとりはまだ乳児で母親が胸をひろげて抱っこしています。
現代と同じ抱き方です。(遅足)