南北朝時代、後醍醐天皇の皇子、宗良親王を主君として、北朝方と戦った一党、
( 四家七名字 )が津島に住み着き、戦国時代になると、この人達が商人、金融業、
大地主になっていきますが、その四家に大橋家が名を列ねています 。
近世になると、惣年寄役 ( 町役人 )などを務め、苗字、帯刀を許されています。
また、津島天王祭では、津島5ヶ村の一つ筏場 ( いかだば )を取り仕切る車屋
( くるまや )を世襲しています 。
伴家も大地主、金融業、紺屋を経営するなどして、尾張藩に多額の調達金、御用金を
納めています 。
今も「 津島祭礼図屏風 」が大橋家蔵とあるのは、多分、大橋家が屏風絵の注文主
だったのでしょう 。
「 綴プロジェクト 」高精細複製品より
天王川に船を浮かべ、川祭りを見物しているのは、裕福な町方衆 。
日の丸印の中が白く塗られているのは、財政難で御用金が出せなくなったため
というのですが …… 。
屏風絵の朝祭り ( 八曲一双 )を見てみると、天王川に浮かぶ観覧船はざっと30艘 。
富裕な町方衆を乗せた船が目立ちます 。
よく見ると 、商店の屋号を旗印に掲げています 。ところが、その旗印を丸く塗り
つぶした船も見えます 。
一説では、町方衆の中で財力が衰え、御用金が一定の額に達しなかった為という
のですが … 。
私は先日、京都国立博物館で仏教大学蔵と舟木本の「洛中洛外図 」を見てきましたが、
いずれにも、町屋が並ぶその入口には屋号の印を染め抜いた暖簾が描かれていました 。
屋号の印は様々ですが、津島祭礼図屏風に出てくる旗印に似た暖簾もありました 。
これを見て津島祭礼図の旗印を丸く塗りつぶしたというのは違うのではないか、
とも思うようになりました 。
船に掲げられた屋号の旗印は日の丸の中が確かに白く塗りつぶされているように見え
ます 。丁度、日輪の輪のように リング状になっています 。
ところが、これと同じ図柄が 両方の「洛中洛外図 」にありました 。ということは、
津島祭礼図の場合もリングの中を塗りつぶしたのではなく、これが商店の屋号だった
とも考えられるのです。 つづく