575の会

名古屋にある575の会という俳句のグループ。
身辺のささやかな呟きなども。

芋名月   麗

2016年09月15日 | Weblog
今夜は中秋の名月。陰暦の8月15日の名月を芋名月というそうです。

先週、テレビでもクイズ形式で「来週は中秋の名月です。この名月は別名なんと言うでしょうか?」とやっていました。

答えは「芋です。里芋をお供えする芋なづきです!」とのこと。

「いもなづき???」
あまりに堂々とおっしゃるので「そういう言い方もあるのかな?」と思いました。
これってやはり「芋めいげつ」ですよね。

その昔は、名月の夜は子供達が竿の先に釘などをつけて他人のお供え物をとったり、畑の芋を盗んでも大目にみるといった風習もあったとか。言い間違いくらい大目に見なければいけませんね!

ちなみに満月はあさって17日。栗名月は10月13日。十三夜。「後(のち)の月」とも言うそうです。
十五夜のお月見をしたら十三夜のお月見もする方がいいとのこと。一方が欠けるのを「片月見」
と言って嫌ったそうです。

今夜は雲の合間からお月さまが見えるといいですね♪
心地よい秋風に吹かれてのお月見は夏の疲れも吹き飛ぶことでしょう。里芋、すすきや団子を飾られますか?うちは、里芋のお味噌汁でも作ることにしましょう。

       里芋を買い物かごに入れる午後   麗
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9月句会が近づいてきました。  遅足

2016年09月14日 | Weblog
今回の題詠は「風」です。
「風」を詠み込んだ秋の句をお願いします。
秋風でも結構です。
こんな句もいいですね。

  花芒風のもつれは風が解く   福田蓼汀

風という言葉のついた植物に風知草(フウチソウ)があります。
花ではなく、葉っぱが風になびく様子を楽しむもので、
盆栽や山野草として古くから愛されてきました。
葉の裏側の方がきれいで、裏葉草とも。
風は未来を知らせるとのことで、花言葉は未来。

  風知草故人はゆめに前のまま  藤田湘子

風知草は季語ですが、季節は晩夏です。

さて、句会では、どんな風がふくのでしょう?
会場は、愛知芸文センター12階・催事室Ⅾです。
よろしくお願いします。


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家空き地路地家空き地空き地家   猫田千恵子

2016年09月13日 | Weblog
ねじまき句会のブログに載っていた句です。
家という題詠の一句。我が町内には路地はありません。

  家空き地家家空き地空き地家

でしょうか。
お隣の町内では、一人暮らしのお年寄りの孤独死も。
町内会では、年に一回の空家調査を行っています。
人口が減っていく世の中って、想定外でした。

斎藤茂吉の歌を思い出しました。こんな歌です。

  電信隊浄水池女子大学刑務所射撃場塹壕赤羽の鉄橋隅田川品川湾

1929年(昭和4年)作。これが短歌か?というような歌。
実は、新聞社の企画で、飛行機に歌人を乗せて東京を詠ってもらおうというもの。
おそらく日本初の機上詠なのでしょう。
この漢字の連続。見たままだとする研究もあるとか。

新しいコトを詠う時、感慨を抑えて、名詞ばかりの写生に徹する。
こうした句はひらがなでは陳腐な感想に陥る可能性が・・・

                        遅足



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京都から帰ってきました。   遅足

2016年09月12日 | Weblog
今日は栂尾山・石山寺の石水院を訪ねました。
明恵上人が住んでいたお寺で、数十年ぶりです。
紅葉にはまだ早く、月曜日ということもあって閑散としていました。
本来は、もっと山の上にあったのを移築したそうです。
明恵上人は法然上人と同じ時代を生きた方で、
念仏すれば成仏できると説いた法然さんを厳しく批判した方です。

静かな佇まいのなか、暫し浮世のことを忘れることが出来ました。
しかし句は生まれませんでした。すこし時間がかかりそうです。
(写真は石水院の蔀戸です)


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俳句は一枚の絵を描くこと?   遅足

2016年09月10日 | Weblog
上橋菜穂子さんの『物語ること、生きること』を読みました。
文化人類学者であり、「精霊の守り人」の作者、ファンタジー作家。
その生い立ちから作家になるまでのお話。
そのなかで心に残った一節がありました。

  物語は一枚の絵から始まる。
  細部にわたってはっきりと描かれた絵から。

どんなに長い物語でも、一枚の絵を描けた時から始まるそうです。
あとは物語が自ら動き出すとか・・・

ある意味では、俳句でも同じことが言えるのかも知れません。
俳句はコトを描くのではなくモノを描くと言われています。

絵具と筆ではなく言葉で絵を描く。
私はモノよりコトを詠むほうが好きなのですが、
読者の想像力を刺激する17文字の絵を描きたいものです。
一句詠んでみました。

  ここからは風の王国能登の海

主人公の若者が北の海を見ています。
荒れた海。その沖を一艘の船が北を目指して・・・
北前船の舞台にした物語が始まりそうでしょうか?

  書いた原稿は、繰返し繰り返し読みなおす。

これも本のなかの言葉。まだまだ、推敲が必要ですね。

             

今日から京都へ。小さな旅の物語の始まりです。
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ゴッホの星空を眺めながら  竹中敬一

2016年09月09日 | Weblog
この写真は平成7年、テレビの仕事で南フランスのアヴィニョンへ行った時のものです。
アルルに今もあるゴッホの「夜のカフェテラス」の題材となったお店です。
同じアングルで撮っています。

「夜のカフェテラス」は、平成17年、愛知県美術館で開かれた
ゴッホ展にも出品されて、私も初めて本物を見ました。
その時のカタログと比較して写真を入れてみました。

平成7年9月5日の取材メモ帳です。(アルル)

「撮影クルー5人で夕方、歩いてホテルから旧市街へ。
路が狭く、中世の世界に入り込んだ感じ。
オレンジ色にライトアップされた古い建物の間から、
星がまたたいている。空が深い青色だ。ゴッホの絵そっくりだ。」

確かに、星々は目が痛いほどチカチカと輝いていたように記憶しています。
ゴッホが「夜のカフェテラス」と同じ年の1888年9月に描いた作品に
「ローヌ川の星月夜」があります。
二つの作品に描かれた紺青の空と星の輝きは、あながち誇張ではないように思います。
私も現地で夕方、星空を見て感じたと同じ光景だったのです。

奇しくも、私が星空を見たのは、ゴッホと同じ9月。
土地の人の話では、この時期が最も星が輝いて美しいく見えるのだそうです。
1888年2月、パリからアルルに移り住んだゴッホはすっかり星月夜に魅了されたようです。

ゴッホの伝記によれば、この二作品を描いた後の10月、ゴーギヤンとの共同生活を始めますが、
間もなく「耳切り事件」を起してしまい、自ら進んでサンレミにある療養院へ。
ここに入院中、戸外での制作を許されて描いた作品に「星月夜」があります。
この作品は、先の二作品に比べて、筆遣いが烈しくなっています。
星々は一段と丸みを帯びて、大きく描かれています。
ここまで来ると、現実の星空というよりは、ゴッホの頭の中で昇華された星空のように思えます。

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将棋入門   麗

2016年09月08日 | Weblog
仕事を辞めてからどうにも時間を持てあまし、何か新しいことを始めたいと思いながら出会った一冊の本。
それがこの「小学生のための将棋入門」。
うちにあったボードゲームの将棋盤に小さな駒を置いて今、夫と二人で勉強中。小学生向けでも結構難しい!!

やっとルールや駒の動かし方など基本を覚えたところですが、将棋はとても奥が深く、三手先を読むなんてことは到底無理です。
まあ、脳トレと老後の二人の趣味の発掘です。
プロの実戦譜も載っているのでその通りに駒を置いていったりして、「なんちゃって棋士」の誕生です。

先日、愛知県瀬戸市の中学二年生の藤井聡太君が、史上最年少の14歳と2ヶ月でプロ入りを果たしました。羽生三冠も「歴史に名を残す棋士になって欲しい」と激励しています。

藤井プロの活躍に注目しながら、私たちもこの本を片手に秋の夜長を楽しみたいものです。

           飛車角を使いこなせぬ秋団扇 麗
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底紅の濁りてへくそかづらかな   静荷

2016年09月07日 | Weblog
ヘクソカヅラの句があることを思い出して散歩に。
すぐに見つかりました。写真を一枚。
ご覧のように白い花の底は濃い紅色です。
作者は濁った紅と形容しています。

誰が命名したのか?葉や茎に悪臭があることからこの名に。
学名の「Paederia scandens」にも、paidor(悪臭)が。

花には悪臭はありません。花の姿を、お灸にみたてた、ヤイトバナとも。
サオトメバナ(早乙女花)とも呼ばれます。
また、子供が鼻の頭に花を乗せる遊びから、天狗花という別名もあります。

こんな良い名があるのにヘクソカヅラとは可哀相。
古くはクソカズラ(糞葛・屎葛)と呼ばれて、万葉集にこんな歌が。

  かわらふじに 延ひおほとれる屎葛 絶ゆることなく宮仕えせむ

かわらふじ(さいかち)の木に這いまつわるクソカズラ。
その蔓のように、不肖、私めは何時までも宮仕えしたい、と詠ったもの。
作者は、高宮王(たかみやのおほきみ)。

最古のゴマすりの歌でしょうか。      遅足


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渾身の変身のあと蝉の殻   狗子

2016年09月06日 | Weblog
作者は残された殻を見て、羽化を想像。
これこそ蝉の渾身の変身のあと、と感嘆しています。

羽化は、子孫を残すことが可能な姿となる最後の変身です。
しかしヒヨドリなど様々なの天敵に狙われやすく危険でもあります。
目立たない場所と探し、夜明け前という時間を選んで行われます。

中学生のころ、観察をするために早起きをしました。
眠い目で観察していると・・・
背中が割れて、透き通った緑の身体や翅が現れました。
羽化が終わるまで、かなり長い時間がかかった記憶です。

最後の段階で、折りたたんであった翅(はね)を伸ばしますが、
水分を翅に通すことによって広がる仕組みだそうです。水圧式ポンプですね。
また、畳み方は折り紙の「ミウラ折り」と同じ、とても効率のよい折り方で、
人工衛星に乗せるソーラーパネルなどにも利用されています。

生命の神秘は奥深く、かつシンプルですね。

                     遅足

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蝉叫ぶ断末魔なり大目に見   智恵

2016年09月05日 | Weblog
作者はうるさいほどに鳴く蝉に共感しています。
それは断末魔の叫びであるからと。

たしかに地上に出て一週間ほどであの世へ逝く蝉。
最後の7日間は、毎日が断末魔なのかも。

俳句として惜しいのは下五です。
蝉に対する共感を説明してしまっています。
写生に徹した、こんな句が参考になるかも知れません。

  冬蜂の死にどころなく歩きけり    村上鬼城

明確な絵を描き、あとは読み手の想像力に任せる。
17文字しかない俳句のテクニックです。

私は写生は苦手なので、蝉の声を消してみました。
  
  しんしんとして断末魔なり蝉の声  

消すことで、読者がそれぞれに想像してくれるかも。
駄目かな?

            

蝉の声が法師蝉にかわったかと思っていたら、今朝はまったく聞こえません。
季節の移り変わりの速さに驚いています。
ひさしぶりの雨で庭の木々が元気を取り戻しています。
ちょうど良い加減に降ってくれるとありがたいのですが・・・

                  遅足

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推敲のチエックポイント・2 ~句意を正確に表現しているか~(等)

2016年09月04日 | Weblog
先日、遅足さんは”推敲は俳句の楽しみ”と書いておられました。最初の案から段々に手直しをして行って、最終的に句としてまとめ上げる、その過程が楽しいと言われているのでしょう。

さて、先回は”推敲のチエックポイント”として、推敲をする際にはどういった点に注意をすべきか、8項目について書きましたが、今日はその項目一つ一つについて、私の作句ノートに従って詳しく説明したいと思います。

①句意を正確に表現しているか
俳句を作る時は、まず何かを見てそこにある何かに感動し、それを5・7・5のリズムに乗せて表現します。しかし表現力の拙さで、作っているうち何に感動したのか分からなくなってしまうことがあります。

しばらく前のNHKの講座で「サングラス」という兼題が出た際、私は”沈む夕陽の美しさ”を表現しようと思い、まず第1稿「大落日サングラスして見たりけり」としましたが、これでは事実の報告のみで、夕陽の美しさは全く表されていません。
そこで夕陽の中に飛び込んでみてはと、
「サングラスして中に入る大落暉」
「サングラスすれば火の見ゆ大落暉」
などとしましたが、面白さにもロマンにも欠けます。そこで思い切って夕陽をヤメて発想を飛ばして、夕空の美しさを表現することにし、夕焼け空を”火の鳥”に見立てて
「サングラスすれば火の鳥夕空を」
として句会に出しましたが、結果は先生を含めて2票でした。しかし私の意図を十分に汲み取ってくれて方もいて、私は点数は低かったものの満足しています。

かの飯田蛇笏は”状況説明ではなく、言いたいことが言えたかどうかが大切”と言っています。

ただ一つ”言いたいことが言えたか”には問題があります。それは作者の”思い込み”です。自分では”感じたことを表現出来た”といっても、多くの読者に同感してもらえないことがあり、句会に出してもダメなことがママあります。こんな時は最後の推敲でどうすれば良いのか。私は”採ってくれない人がダメな人”と言って、平気で句会に出すことにしています。

次回はこの続き、「適切な言葉を使っているか」についてです。 (等)
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わが耳の闇に届かぬ蝉時雨   等

2016年09月03日 | Weblog
人は誰も心のなかに闇を持っています。
それを聴覚という感覚の闇と捉えて詠んだ点が秀逸です。
様々な文脈のなかで様々な読み方を許容する句でもあります。

能登さんの句。

  問われたる琉球処分蝉時雨

と対(つい)にして読むと今日的な意味も持ってきます。

耳の闇という言葉から思い出したのは、
「見れどもみえず聞けどもきこえず」というコトワザ。
父がよく言っていた言葉のひとつです。
調べてみたら、出典は四書五経のなかの『大学』でした。

「心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味」

(心、ここにあらざれば、視れども見えず、
     聴けども聞こえず、食らえども其の味を知らず)

どんなに騒がしい蝉の鳴き声も、私の耳の闇には届きません、
という句は、『大学』よりも文学的で素敵です。

今は四書五経といっても理解されないかな?  遅足

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「広告なし」と言うこと  ~報道マンの意地~   竹中敬一

2016年09月02日 | Weblog
NHKの朝ドラ「とと姉ちゃん」、広告なしで雑誌を続けていくことが、
いかに大変なことかを伝えています。
テレビの世界でも、その草創期、「サス番組」と言う、スポンサーなしの番組がありました。
私が昭和30年代、テレビ局に入社した当初、手がけたのがこの「サス番組」でした。
当時、唯一の報道番組(15分)で、確か早朝の、視聴率が絶えず米印(こめじるし)、
つまり誰も見ていないような時間帯での放送でした。

民放は、スポンサーあってのものでから、お硬い報道番組は敬遠されがち。
営業部門では、" いつも、報道のヤツらは番組作りに工夫が足りない、
視聴率が取れるような番組を作ってみろ" と思っていたにちがいありません。
私たちも、何とかお硬い内容でも、興味を持って見てもらえるように
と、考えていたのですが、番組作りが未熟だつたことも確かです。

他の民放局のことは知りませんが、私のいたテレビ局では
報道・制作、営業、編成など各部門がよく対立し、いい意味で緊張関係にありました。
こうした雰囲気の中にいたからこそ、面白い番組が生まれたと云えるかもしれません。

" お前ら誰に食べさせてもらっていると思っているのか"と
殺し文句を言えば、営業が強いにきまっています。
それを分かった上で、各セクション意地を張っ合っていたのです。
いまの社員は利口ですから、こんな無駄な抵抗は初めからしないと思います。

              

私の無駄な抵抗の一例を紹介します。全国ネットのドキュメンタリー番組での事です。
スポンサーと制作者との企画会議がよく開かれるのですが、
大スポンサーだけに放送された内容について、的確な意見で参考になったものです。

スポンサー側はあくまで、番組の構成上の問題を指摘する場合が多く、
所謂、政治的発言に類するものはありませんでした。
その代わり、当たり前の事ですが、自社の製品についての取り扱いについては、
うるさく注文をつけてきました。

ある時、番組の中で、研究者が、カナダの先住民(エスキモー)の生活を
スポンサーのライバル社のカメラで撮ってるシーンが流れ、問題になりました。
同じ仲間の局が撮ったものですが、この話を聞いて、私はなぜか、腹立たしく思いました。
(番組の内容の事で批判されるのならば仕方ありませんが…)

私は、その後、同じ番組の中で、観光客が動物に向けてカメラを撮る一コマを入れました。
そのカメラがどこの会社の製品が確認もせずに。
普通、こういう疑わしいシーンは使わなければよいのに、若気の至りです。
案の定、スポンサーから電話で"一瞬でよくわからなかったが、
あれはどこの製品だったか"とクレームがきました。
私は、どこの製品かちょっと見ただけでは誰もわからないと思い、
”インサートにどうしても欲しいので使いました"と言ってその場を逃げ切りました。

当時はフィルムで、今のように簡単に番組を録画、再生することは出来ず、
一回きりの放送が全てだったのです。

(なお、米印は視聴率調査で、計測不能として記されている印のことです)

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秋暑し父一人立つ台所      麗

2016年09月01日 | Weblog
今日から9月。学校へ向かう子供たちの姿を見て新学期の始まりを目にしました。
台風が去って北海道、東北地方には大きな爪痕を残しましたが、この地方にはさわやかな風を運んでくれました。庭の朝顔も気持ち良さそうに咲いています。
それでもまだまだ残暑は厳しそう。まさに「秋暑し」です。

秋暑し父一人立つ台所


最初は、

父一人台所立つ晩夏かな

としていました。遅足さんから中七が苦しいとアドバイスをいただき、思い切って季語を「晩夏」から「秋暑し」に変えました。晩夏では淋しいかと。

実家の台所はとても暑くてご飯の支度は大変です。
圧迫骨折以来、なぜか炊事を全くしなくなった母に変わって今は父が台所に立っています。
先日も実家に行ったら父が台所から出て来ました。胸が締めつけられる一瞬です。
老々介護の現実と、やはり自宅で過ごしたいという本人たちの希望もあり。。。遠くに住む娘は口は出しても手は出せないから、汚れたスポンジや古くなった食材をこっそり捨てて帰っています。

暑さももう一息。父に夏の疲れが出ないように祈る日々です。
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