![setugenn setugenn](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/17/14/087db5b6f8e2ee588d3c252fff774326_s.jpg)
今日は朝から吹雪で荒れ模様、こんな日は家に籠もって冬眠しています。ソファーに横に なって読書していると、何時のまにやら意識を失って昼寝に成ってしまいます。こんな日は 通算12時間ぐらい寝ているかも知れない。エゾシマリスの冬眠と同じです。雪が降り出すと 半分は寝ていて、起きている時は夏にため込んだ食料で食事。そしてまた寝る。
昨日は天気が良かったので、運動不足解消のため山え出かけた。足跡一つ無い(野ウ サギの足跡は沢山有った)新雪の雪原を一人サクサクと歩くのは気持ちの良いものです。 雪が音を吸収するせいでしょうか、夏とは違う静寂が辺りを包んでいます。
もしもこれが、風がピタリと止んだ南極の大雪原のただ中に一人佇んでいたとしたら、そ の無機質な静寂さに神秘的なものを感じてしまうかも知れません。私は「超」と「ど」が付く ほどの唯物(ただものと読んで下さい)論者ですが、やはり何か論理的でないものを感じて しまうのでしょうか。立花隆の「宇宙からの帰還」の中に、月から帰ってきた後宣教師に成 ってしまった宇宙飛行士の話が有りました。もっとも彼らは、キリスト教と言う下地が有って のことだが、宗教的影響力が全く無い人間でも、人間活動の痕跡いや生命の存在を感ず る事が出来ない環境に遭遇した時、何かしら感ずる物が有るらしい。DNAに刻み込まれた 原始の記憶、などと言う人も居るがそんな物が有るはずがない。私は、生命の存在を許さ ない環境への「恐れ」=「死の予感」がそうさせると思う。
宗教学者の山折哲雄によれば、キリスト教とイスラム教は砂漠の中から生まれた。地上 に一木一草一滴の水も無い砂漠の中では、天上に絶対神を想像し、これに頼るしか生き るすべが無かったと、記している。衣食住何でも有りのモンスーン気候帯での神々とは、基 本的に出自が違うのだ。