22・従干住花街眺望の不二(View from Senju)
「武州干住」の田園風景とちがい、同じ干住でも干住の花街の裏手を遠く見た街道の賑わいを描いている。
今しも大名行列が通り、肩にかついだ鉄砲で、これは鉄砲組の人々であろう。
花街を越して遠くに見える富士の姿が端麗で花街とはいい対照を見る人の心にあたえる。中景の畑には農夫が憩い、大名の行列を眺めているのも、なにか春先きらしい、のんびりした雰囲気である。
※富岳三十六景
「冨嶽」は富士山を指し、各地から望む富士山の景観を描いている。
初版は1823年(文政6年)頃より作成が始まり、1831年(天保2年)頃から1835年(同4年)頃にかけて刊行されたと考えられている。[1]版元は永寿堂西村屋与八。
発表当時の北斎は72歳と、晩年期に入ったときの作品である。また西洋画法を取りいれ、遠近法が活用されている事、当時流行していた“ベロ藍”ことプルシャンブルーを用いて摺ったことも特色である。
浮世絵の風景画は当時「名所絵」と呼ばれており、このシリーズの商業的成功により、名所絵が役者絵や美人画と並ぶジャンルとして確立したと言える。
「凱風快晴」や「山下白雨」のように、富士山を画面いっぱいに描いた作品から、「神奈川沖浪裏」や「甲州伊沢暁」のように遠景に配したものまであり、四季や地域ごとに多彩な富士山のみならず、各地での人々の営みも生き生きと描写している。
日本のみならず、ゴッホやドビュッシーなど、世界の芸術家にも大きな影響を与えた。
当初は名前の通り、主版の36枚で終結する予定であったが、作品が人気を集めたため追加で10枚が発表され、計46枚になった。追加の10枚の作品を「裏富士」と呼ぶ。
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
21・五百らかん寺さざいどう(View from Gohyaku Rakan Temple)
五百羅漢寺は本所竪川五つ目にあり、江戸の名所の一つであった。
「さざい堂」はその寺内にあった三層の堂宇で、そこから江戸の方の眺望があり、人々はここへ集まった。
その三層楼から眺めた富士で、町家の男、子供連れの女房、丁稚、そして札所廻りなどが、竪川越しに、そして江戸の彼方に見える晴天にくっきりと浮ぶ富士山を楽しんでいる。
これは一種の風俗画でもある。なお五百羅漢寺は現在目黒に移っている。