美味しく食べました。取り寄せ先。
ベテランの添乗員に薦められてピサの斜塔の裏に回りました。
当然、写真で見慣れたのと違う方角に傾いていましたが、「ヘーッそうなんだ」と面白く眺めました。
暑い日だったので、斜塔の日陰に沢山の人がいました。
こちらは見慣れた方向へ倒れた正面からの画像です。
それにしても浅草の仲見世か縁日みたいに沢山の店が出ていて、売り子はアフリカ人が多い。
偽ブランドの時計やカバンを手に一杯持って売り歩いているのもアフリカ人が多いけど、考えたら地中海の向うはアフリカ大陸だからなんの不思議もないのかも。
しかし売り子の中には中国人の女も沢山いてこれにはびっくり。ここのテキヤの親方にショバ代を払えば誰でも参入できるのかもしれません。
沢山の観光客がみなこのかっこうをして写真を撮っていました。
#96 <般若心経やお経に意味があったとは・・> 2005.11.16発信
自分のブログ上に、阿智胡地亭便り#80から引用して掲載した
「宇宙は粒子に満ちています」の記事に対して、私がよく訪問しているブログの主「さいら」さんから次のようなコメントを頂きました。
「般若心経やお経に意味があるとは全く知りませんでした。
仰っているように聖書は読んでいても
メッセージを感じますが
お経はその様に感じたことがありません。
何となく唱えるもののイメージでした。」
なんでですかね?
私もそうでした。でもお経は呪文ではないようです。日本に伝来した当時の中国語の文章だそうです。
そしてその中国語の文章は、その昔のインド人が普通に話していた言葉(パーリ語)を、玄奘法師が当時の中国語に訳したものが大半です。
お経には三蔵と言って3種類あるそうですが、その一つはまさにキリストの言行録である「聖書」と同じで、
かなりの数の「仏教経典」は釈迦・(シャカムニ)の言行録だそうです。
でもお経は、最近になるまで日本語に翻訳されることはなく、普通の日本人にとってはこれまで呪文のようなままできました。
それにはいろんな理由があるのでしょうが、
①当時の仏教の世界観、宗教観の概念を(漢語の抽象語を、取り入れつつあったが)まだこなしきれていなかったために、大和言葉(日本語)に
移し変えることが出来なかったのではないか。言葉はその元になる概念があってこそ存在します。
(下々の我々が間違いないはずのお上がなされる事を監視する)という畏れ多い所業を考えた事もない歴史の国に住む我々には、「オンブズマン」と言う概念はありませんでした。
概念がないのに言葉があるはずはありませんから、カタカナで「オンブズマン」と書くしかありません。そういう類のことが経典の翻訳にもあったのではないかと思います。
②もう一つは、あるときから仏教僧侶集団が既得権益集団となり、お経の内容を広く一般に知らせない方が、彼らにメリットがあったからだと思います。
*ドイツではマルチン・ルターが1522年にそれまでのラテン語の聖書をドイツ語へ訳し、聖職者集団から大弾圧を受けました。神を恐れぬ仕業だと。
しかしそのあと、キリスト教はドイツでは草の根まで拡大したそうです。
結局は、それまで、少数の者が特権的に「尊くアリガタイ物」として「聖書」を祭り上げ、規制に守られておいしいメシを頂いていたのでしょう。
*つまり日本では、最澄、空海が現れたあとに法然、親鸞、道元、日蓮などが日本仏教を確立しましたが、残念なことに、その優れた聖人たちの後継者たちは
それを一般大衆に布教する努力をするよりも、時の権力者の一員となり既得権益集団化して行ったのではないかと。
そして徳川幕府がキリスト教の禁教を徹底するために「檀家制度」を設けてからは、お寺や僧侶は、宗教本来の「個人の悩みを共に悩む」と言う機能を、
禅宗を除いては、殆ど完全に捨てました。なんの努力もせずに檀家の葬式と法事で生活が保障されたことが大きかったのだと思います。
そして、我々はただ「南無阿弥陀仏、ナンマイダ」と唱えさえすればいいんだ、お布施を差し上げて、有難いお経を坊様にお任せすればいいんだ、
というように思わされてきました。そしてそのまま今にいたっています。
しかし、少数ながら、若い僧侶の中にこれまでの日本仏教に悩み、現状を変えようとして、あがいている人たちも出てきています。
出来るだけお経を日本語でやろうというのもその一つの動きです。
話は変わりますが、日本の映画で僧侶がその本来の役割で日常の生活に登場するのは、映画の寅さんシリーズで笠智衆が演じた「御前様」以外殆ど見た事がありません。
一方、米映画のミリオンダラーベイビーの神父の扱い方などを見ると、彼らの毎日にいかに深く宗教が噛みこんでいるかわかります。
しかし向こうの映画でも、道化役で出ることが多いのは、今の世界での聖職者を見る目が共通しているのかも。
*身の回りで、無宗教方式の葬儀がこのところ一挙に増えているのを見ると、このままでは日本の仏教は葬式宗教としても残らないでしょう。
身内だけでする葬儀が多くなれば、ますますお寺を呼ばない葬式が増えると思います。
*おそらく、日本の坊さんが、一人一人生きている個人と真剣に向き合うことをしない限り、専業の聖職者としての僧侶は姿を消し、
原始仏教の世界に回帰し、お釈迦さまの教えは日本でも当時のインドと同じように、個人としてお釈迦様の教えに学ぼうとする形に戻るでしょう、
柳澤桂子さんのように
一部引用・・・官邸記者クラブは大いに反省するべきだ
6月24日の記事 『非常に危険な賭けに出た菅首相 ~その賭け金は「国民の生命・安全・財産」という真実』では、オリンピックを開催することによって
日本でデルタ株が爆発的に広がる余地が大きいと警鐘を鳴らしましたが、いよいよ感染爆発による医療崩壊が現実になってしまいました。
本来であれば入院が必要な感染者が自宅療養を強いられ、多くの人々が自宅で亡くなるケースが増えてくるでしょう。
菅首相のこれまでの行動をみていると、説明力、判断力、決断力といった能力が著しく欠如しているばかりか、
謙虚さ、責任感、政治家としての志といった性質も持ち合わせていないことが明々白々です。
だから、国民のアスリートへの応援と政府への評価は別物だという現実をまったく理解できていないのです。
なぜこのような人物がトップに上り詰めてしまったのでしょうか。それは、大手メディアが誤ったメッセージを発信することで、
明らかな才覚不足が与党の政治家だけでなく、国民の目からも隠されてきたからです。
菅首相が官房長官時代に危機管理が万全だったという評価は、官邸記者クラブがつくりあげた幻想だったのです。
官邸記者クラブはこれまで菅官房長官(当時)がまともに質問に答えない態度をずっと許してきました。
菅官房長官の定例記者会見において、「まったく問題ない」「批判は当たらない」「指摘は当たらない」といった決まり文句は、
ニュース番組を見る人であれば一度は聞いたことがあるのではないでしょうか。
これらの言葉だけで済ませるのは、国民に対する説明責任の放棄にほかならず、言い方を換えれば、政治家として説明能力がないということを如実に示しています。
その状況を「鉄壁のガースー」などと褒めたたえてきたのですから、官邸記者クラブの罪は非常に大きいといえます。
要するに、大手メディアが権力と癒着した結果として菅首相が誕生し、今では国民の生命・安全・安心が脅かされているというわけです。
今回のことを教訓として、大手メディアには二度と同じ過ちを繰り返さないようにお願いしたいと思っています。 画像クリックで全文に飛びます。
菅首相を生み出した大手メディアには、この失敗の教訓を生かしてほしい(中原圭介)#Yahooニュースhttps://t.co/3NW8qEFG7Q
— achikochitei (@achikochitei1) August 10, 2021