阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

小説『火垂るの墓』  著者 野坂昭如さんの あとがき

2021年08月15日 | SNS・既存メディアからの引用記事
 
君たちの生まれる前、戦争があった。
 
たくさんの人が死んだ。
 
そして、日本は、もう二度と戦争をしないと決めた。
 
だが今、戦争を迎え入れつつある。いつ戦争に巻き込まれてもおかしくない状態なのだ。
 
君たちはこれをどう考える。
 
君たちの周りには食べ物が溢れている。
 
けれど、そのほとんどが、輸入の産物。
 
戦争が起きれば、食べ物は入ってこなくなる。
 
そうなれば、たちまち日本国中、餓死して当然。
 
ぼくが子供の頃、この国は農業が盛んだった。
 
身近に、作る人の努力を感じることができた。
.
物を食べる時、作った人や、その収穫物に感謝する気持ちがあったし、大地の恩、水、天の恵みを有難く思っていた。
 
「いただきます」という言葉には、そういった気持ち、すべてが込められていた。
 
食べ物を大事にしてください。
 
戦争中、そして戦後、餓えて死ぬ人を何人も見た。
 
戦争は嫌だ。戦争は決してしてはいけない。
 
君たちに同じ思いをさせたくいない。
 
君たちが大人になる頃、戦争を経験したぼくたちはもういないだろう。
 
この本を読んで、戦争を考えて下さい。
 
戦争について、語りあって下さい。語り合うことが大事です。
 
そして、ここに書かれなかった戦争の真実を、君たちの力で自分のものにしてください。
 
* 野坂昭如『火垂るの墓』 あとがきより
 
Before you were born, there was a war.
 
Many people died.
 
And Japan decided not to engage in war ever again, thereafter.
 
But now, we are once again on a path to war. We are extremely vulnerable to participating in war these days.
 
What do you think about this?
 
There is food all around you.
 
Such food is mostly imported.
 
When war is declared, food stops coming in.
 
Then, people will starve to death, all over Japan.
 
When I was a kid, this country farmed a lot.
 
We felt the efforts of those who worked hard to produce food.
 
When we ate back then, we thought of the farmers who cultivated the food and we were thankful to the crop itself
– we were grateful to the earth and water, which were gifts from above.
 
The word “itadakimasu” uttered in Japan before meals captures this precise sentiment of being grateful.
 
Please show respect for food.
 
During the war, I saw many people starve to death.
 
I don’t like war. War should not be an option to us.
 
I don’t want your generation to experience what we endured.
 
By the time you grow up to be adults, my generation who experienced that war shall be all gone.
 
Please read this book and think about war.
 
Talk about war. It is critical that you talk to each other.
 
And please reveal the truth about war – own that truth – that I have failed to put down here in this publication.
 
 
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「火垂るの墓を歩く会」に参加しました。(2011年8月9日掲載)

2021年08月15日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

前からこの会があることは知っていましたが、今年初めて二日目のコースに参加しました。
毎年、8月の第一週の土曜日と次週の火曜日に歩いていて、来年も催す予定だそうです。

野坂昭如作・オンライン小説『いつもいろんな犬といっしょ』から部分引用。

ぼくの育った神戸市東の外れ、この地域は、今、感傷的に、美しく思い返す、黄金時代のありきたりを超えて、住みやすい地域だった。15分歩けば、六甲山山麓に至り、10分で、文字通り白砂青松、泳ぐ者の影が海底にうつる清らかな海。山際の至るところに自噴の泉があり、当時の、市の東を限る石屋川の水は豊か。

この川上に水車小屋5軒、川床の石をはぐと、小さなカニがあわてて横走りに逃げ出す、山道を辿れば池、外国人の飼う毛の長い犬がよく泳いでいた。木々の葉末は、陽光、またその池の面照り返しを浴びいつもキラキラ光っていた。水から上った犬の、身震いして飛び散る水も光っていた。

山際に私鉄として、いちばんスピードの早い阪急電車、犬を連れて乗れた。時に犬だけ、御影から芦屋まで、無賃を申し訳なく思うのか、常にドアのそば。創設者小林一三は、しゃれた車両ながら、ブレーキの際、飛び散る鉄粉の汚れを考えて、車体はチョコレート色。ひきかえ、神戸市市電は、スマートな薄緑。

阪急の南に、省線、さらに阪神国道を走る単両の電車、海岸近くに阪神電鉄。南北2,3キロの間に4本が走る。六甲道駅から、灘を経て三宮駅、駅の西、南北に一直線の筋が、山際にある塔を持つホテルにちなみ、トアロードと呼ばれ、俳人西東三鬼が、奇妙な連中と過ごし、途中のレストラン「ハイウェイ」は谷崎の御贔屓西洋料理屋。

扇型の防波堤を持つ、神戸港は、ヨーロッパ航路の拠点港、三宮駅を南へ降りると百貨店そごう、その先きまっすぐな道の果てに、時計台を持つ税関が見える。神戸の子供は、埠頭、保税倉庫、上屋、税関の役割をよく心得、たいてい5色のテープの端を持ち、汽笛と共に、いつ動いたとも判らぬ巨大な船の、いつしか防波堤近くで、船体を横に向け、さらに、せまい堤と堤の間を抜けて、彼方へ消える、埠頭近くに、5色のテープが波につれ上下、しみじみ人の別れを経験した覚えがある。

もっとも、この一抹のわびしさは、そごうの手前、市電の曲がり角にある「ユーハイム」から、左へ入って百貨店大丸、境内に映画館や安直な食いもの屋が並ぶ生田神社へ、親の足が向けば、たちまち失せる。まっすぐ阪急の終点、駅ビルでもいい、ここの2階はゲームセンター、大阪の本店同様、名物カレーライス、映画館もあった。

元町通りの手前が大丸、西の終りに三越デパート、この間、6丁が神戸の繁華街元町、万国旗と、セーラー服の外人の似合う商店街、鈴蘭燈が名物。書店、古本屋の多い街並み、もちろん、ヨーロッパ直伝の洋品、当時でいう唐物屋、日本でいちばん早くアチラのファッション、と当時はいわない。

ただ洋服をテーラーと子供も呼んだ。猫の目の如く、女物がどうだったか知らない。生地すべて英国製。三越から省線を越えて、戦時下、もてはやされた湊川神社。この西に、少年と縁のない吉原、島原と並ぶ三大遊廓福原。さらに西が、大興行街「新開地」。

六甲道駅を東へ辿れば、御影、住吉、芦屋、この山際から国道まで、まず高級住宅地、特に阪急より上の住吉、阪急から国道までの芦屋は、到底、田園調布の比じゃない。1軒敷地300坪。

東西に走る4本の電車と、湊川、生田川、大石川、石屋川、住吉川、夙川と南北を流れるほゞ直線の川で、神戸市と、今でいう衛星都市は画然と分たれ、東の大川、武庫川で、神戸は限られる、向こう側は、大阪圏。

武庫川と、六甲山地、東の外れに宝塚、武庫川の海へ注ぐ少し西に、甲子園球場、オリンピック用プール、そして数十面のテニスコート、後、予科練の訓練場、滑走路になったらしい。阪神パーク。

小林一三の開いた宝塚は、本来は温泉。温泉の湯槽のフタの上で始まっったタカラヅカは、昭和に入って「少女歌劇」全国に知られ、大劇場完成、付帯して動物園、遊園地、川向こうに以前からの三業地。少し歩けば清荒神、年寄りはここへ詣で、女たち少女歌劇、子供は動物園遊園地、それぞれ楽しんで、夕刻、料理屋で御飯。ぼくの場合、宝塚、西宮北口、阪急六甲で帰宅するのだが、1時間かゝらなかった。

飼犬と電話と「女中」の数が世帯に比しいちばん多いのが芦屋市といわれていたが、新興住宅地、六甲道駅近辺にも、他にくらべ、この贅沢三点セットは珍しくなかった。

永手町から、昭和11年暮、省線南側中郷町へ引越し、設備の整った成徳小学校へぼくを通わせるため、北向きのやはり2軒長屋だったが、後の隣組20数軒でいうと、3軒に1軒電話と犬、女中は3軒に2軒。中郷町の犬たちは住いを有し、つながれていた。

ベルは以前のまま。雑種じゃなく、由緒正しい犬もいたはずだが、犬種を覚えていない。セーターに、ホームスパンのスカートの美少女が悠然と歩を進めるシェパードをつれて、よく夕刻近くを歩いていた。ベルを伴い、これにぶつかると立止って見送るしかないが、純血種を求める気持はまったくない。ベルは海を嫌った。

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「火垂るの墓を歩く会」に参加しました。その2(2011年8月9日掲載)

2021年08月15日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

9時15分ごろ集合場所の阪神御影駅に着くと、改札口付近にはかなりの数の60歳から70歳前後の男女がいました。
定刻の5分過ぎに歩き出すと、若い人たちも何人か参加しているのがわかりました。総勢は90人ほどでしょうか。
歩くエリアは大体は知った場所で、ブログにも何回も登場しています。
 しかし、案内者がいてその説明を聞いたり、案内ボードを教えてもらうと別の土地を歩いているような気になります。
〇トップの画像は御影公会堂を山側から撮影したもの。
〇阪神御影駅で集合。参加費は資料代に100円。









〇石屋川から六甲山を望む。ここが徳川道の拠点

〇石屋川公園のモニュメント

〇御影公会堂

〇神戸市と合併するまでは、このあたりは東灘区ではなく菟原郡(その後に武庫郡)御影町だった。











〇成徳小学校の玄関天井にあるシャンデリア。小学生の張満谷昭如少年も見上げたかもしれない。

◎このウォーキングに参加した目的は、野坂昭如が養家の両親や同じく養女の妹と暮らした“張満谷”家
が、中郷町のどこにあったのか特定して教えてもらいたかったのだが、残念ながら一帯は、米空軍による焼夷弾の
絨毯爆撃を受けて全くの焼野原となり、東西南北の街中の道路もわからなくなり、今は特定が難しいとのことだった。

 別の方のブログ「火垂るの墓を訪ねる」→こちら

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