阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

糸魚川-静岡構造線 とは       

2021年08月23日 | 諏訪便り

ネットサーフィンをしていたら、糸魚川-静岡構造線を示す航空写真に出会った。この糸・静線が「フォッサ・マグナ」かと思ったら、

そうではなくて「フォッサ・マグナ」とは下の図の彩色された“面”なのだそうだ。つまり糸・静線は「フォッサ・マグナ」の西縁の線のことだった。

Wikipediaから:

フォッサマグナFossa magna、意味:大きな溝)は、日本の主要な地溝帯の一つで、地質学においては東北日本西南日本の境目となる地帯。中央地溝帯(ちゅうおうちこうたい)、大地溝帯(だいちこうたい)とも呼ばれる。端的に言えば、古い地層でできた本州の中央をU字型の溝が南北に走り、その溝に新しい地層が溜まっている地域である。

本州中央部、中部地方から関東地方にかけての地域を縦断位置する。西縁は糸魚川静岡構造線(糸静線)、東縁は新発田小出構造線及び柏崎千葉構造線となるが、東縁には異説もある。


赤線が中央構造線、青線に囲まれたオレンジ色の部分はフォッサマグナ

諏訪湖が糸魚川-静岡構造線の線上にあることを初めて知った。
航空写真の角度から見ると諏訪と甲府の間は随分近い。


韮崎は阪急・東宝の創立者である小林一三の出身地であり、
同じく白洲次郎の白洲家は韮崎と諏訪の間にある北杜市白洲町がルーツだ。


 この写真を見ると、信州や甲州のこんな山中で生まれた次男、三男たちは、
昔から江戸や京・大阪へ出て生業(ナリワイ)を立てて行くしかなかっただろうと実感する。
 なお、白洲家は江戸時代以前に父祖の地を離れているらしい。こちら

中央構造線 - フォッサマグナ 4K動画 2160p30fps

 画面右下の拡大アイコンをクリックすると大画面で迫力のある動画を見ることが出来ます。

(初出 2010-07-06)

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空から見た日本   諏訪湖、天竜川。       中央構造線と糸魚川―静岡構造線という 二大構造線が交わる諏訪盆地

2021年08月23日 | 諏訪便り

   古い時代から日本全国に勧請され、今もその土地土地の分社が尊崇されている【諏訪神社】の総本社『諏訪大社』がある「諏訪盆地」を空から見る動画です。

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 江戸に幕府が開かれる前、諏訪湖はまだ広大な面積を持ち、湖の中に高島と言う島がありました。その島には50戸ほどの半農半漁で生業をたてる島民たちがいました。

豊臣秀吉の命で配下の武将、日根野高吉が「高島」と言う島の上に高島城を築城するとき 島民たちは日根野氏とハードネゴを行い、湖畔の小和田地区に小和田たんぼと住居地を獲得しました。

島民たちは併せて諏訪湖の漁業権も獲得しました。  「高島」の中にあった島の氏神「八剱神社」もそのとき小和田に移設され、

今にいたるまで毎年の冬の「御神渡」の報告を諏訪大社に行う役を続けています。


     阿智胡地亭の本籍地は父親の代に神戸に移しましたが、それ以前の本籍地は小和田(click)地区にありました。  (初出 2020-08-14)

Wikipediaから 

日根野 高吉(ひねの たかよし)は、戦国時代武将信濃諏訪藩(高島藩)の初代藩主。

はじめ美濃斎藤氏に仕えた。斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え信忠の馬廻衆を務め、信長没後は織田信孝を経て、羽柴秀吉に仕えた。

天正18年(1590年)の小田原征伐山中城を攻略した功績を賞されて、信濃高島に3万8000寛政重修諸家譜では2万7000石)を与えられ、

「諏訪の浮城」と呼ばれた高島城を7年かけて築城している。文禄の役では肥前名護屋に駐屯した。伏見城築城でも功を挙げている。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与していたが、本戦直前の6月26日に急死した。享年62。跡を嫡男の吉明が継いだ。

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メジャーリーグのトップ選手達がリスペクトし ファンになる 大谷翔平への感想インタビュー 動画

2021年08月23日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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