阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

納豆ご飯やムラサキ山芋のとろろご飯

2022年02月01日 | ある日の肴/夕食

納豆は大粒納豆がこのところ気に入りだ。

好きなとろろご飯の山芋は大分県国東半島の平川農園さんから頂いたムラサキ山芋。この粘り強さには毎回滋養の強さも感じる。

とろろご飯は小学生の時から大好物で とろろの時は自分には母が特別にとろろ汁だけ一椀をくれたのが嬉しかった。

 ただとろろをすり鉢で家族5人分 すりこ木で必死にするのは小学4年生頃から自分の役だった。

 

小皿のつくだ煮は印旛郡栄町の葛生さんから頂いた霞ヶ浦の小エビとワカサギ&イナゴのつくだ煮。

 

平川農園の平川さんから宅急便で届いたムラサキ山芋の段ボールに同梱されていたおいしいネギで煮物の惣菜も

 

ある日の酒肴には同じく葛生さんから頂いた「鯉のうま煮」が極上の一品だ。

 

 

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駒込の「東洋文庫ミュージアム」は一日楽しむ事が出来そうです。 H25.1東京ぶらぶら その2       2013年1月28日掲載

2022年02月01日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

東京駅につくと山の手線で駒込駅へ向かいました。駅で森さん、稲邑さんと落ちあいドトールで珈琲を飲んだ後、「東洋文庫ミュージアム」まで10分ほど歩きました。

 伊勢白子から江戸へ向かった大黒屋光大夫を船頭にする船が、暴風でアリューシャン列島まで流され、苦難の果てにたった二人だけロシアから江戸まで生きて帰りました。

光大夫と共に生き延びた白子の水夫『磯吉」の聞き書きが展示されているのをネットで知り、それを見たさにミュージアムを初めて訪ねました。








収蔵品の一部

(この日 森哲雄さんは新居浜から夜行バスで早朝帰京したばかりだったが、新居浜で療養中の美起姐の訃報連絡を車中で受け、急きょとって返し新居浜に再び向われた。‥本日追記)

◎41枚のアルバム。∇をクリックするとスタートします。

 なお、吉村昭が書いた「大黒屋光大夫」という本は、漂流した日本人が、この男を必ず生きて母親のいる故郷に返してやりたいと出会うロシア人、

全てのロシア人に思わせて味方につけ、彼らの強固なサポートを受けてついに帰国するまでを描いています。

光大夫は当時の露国の首都サンクトペテルブルグまで冬のシベリアを橇コンボイで渡り、ついに女帝エカテリーナに拝謁することができました。

そして幽閉中に身につけたロシア語で彼は帰国を直訴し受け入れられました。『俺は必ず生きて日本に帰る』という意思が強かった2人だけが、

生きて日本に帰国することが出来ました。

(17名のうち一人は光大夫たちと共に北海道まで帰り着いたが、着いてすぐに病没した)。

多くのロシア人を魅了し、サポーターにし、ロシアで生き抜いた一人の日本人の姿を活写した本です。

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「大黒屋光太夫 上下」
 吉村昭著
 新潮文庫
 平成17年6月1日初版発行
 定価各514円(税別)

 ☆難波発の名古屋行き近鉄特急が三重県内に入り、白子駅に近づくと、「大黒屋光太夫の生地、白子」と言う大きな看板が目に付きました。
この路線にはもう何年も何回も乗っているのに、いままで気がつきませんでした。
 大黒屋光太夫は井上靖が書いた「おろしゃ国酔夢譚-昭和41年刊」を読んでいたので、彼が伊勢の生まれであることは知っていましたが、白子に関係していたことは忘れていました。
今回新潮文庫から出た吉村昭が書いた「大黒屋光太夫」上下を、あらためて読む気になったのは、あの看板をこの夏に四日市に行ったとき見た
からかもしれません。そしてこの吉村本が平成15年に毎日新聞社からハードカバーで出たのが、鈴鹿市があの看板を出す事になったきっかけかな
と想像しました。
 江戸時代に、白子から江戸へ向かう千石積みの廻船が難破して、ロシアへ流された17人の日本人(うち10年後に二人だけが江戸の土地を
踏むことが出来た)がいました。かれらの、この遭難記録小説を読んで思ったことが2点あります。
その一つは「この男を生まれた国へ返してやりたい」と、当時のロシア人貴族や高官に自然に思わせ、そのための協力を彼らに最大限させた
「大黒屋光太夫」と言う男の人間の魅力と、それを周囲に認めさせ得た彼の人間関係能力・コミュニケーション能力の高さです。
もう一つは「地方に今でも発掘される日本の歴史資料の奥の深さと、歴史記述はその時々に得られる資料を超えられない」と言う面白さです。

    「光太夫の人間性とその驚異的な望郷の思いが周囲を変えていく」

 彼の一行の前にも何人もの遭難者がロシアにたどり着いていますが、帰国できた人間はいませんでした。
なぜ彼ら一行が、カムチャッカ半島から、モスクワよりまだまだ西側の当時の都、ペテルスブルグまでエカテリーナ女王に帰国を直訴する
旅に出ることが出来たのか、そしてなぜ謁見を実現出来たのか?そしてなぜ帰国出来たのか?
吉村昭は直接的にこの点に焦点をおいているようには思えませんが、この本を書く大きな動機の一つに,このことがあったに違いありません。
当時の白子浦は全国の湊の中でも特別な地位を占めていました。その理由をこの本から要約すると;

 「家康は本能寺の変のあと三河へわずか30数名の手勢と共に落ち延びたが、伊賀者の巧妙な手引きで、途中の郷民の落ち武者狩りに会わずに、
信楽から加太越えで白子浦にたどりついた。そしてこの地の廻船業者に渡船を依頼した。業者は快諾して船を出し一行は無事に三河の国大浜に
上陸して岡崎に帰城した。

 その後、これを多として幕府は白子浦は特別な港として目をかけ、紀州藩の藩領にし、江戸に大店を持つ伊勢商人たちの商品積出港ともなって大いに発展した。
光太夫はそんな環境の中に育ち「神昌丸」の沖船頭としてこの航海の指揮を執りましたが、彼は一言で言えば、船乗りを生業(なりわい)にした
人間ではなく商人(あきんど)として育った人間でした。

 この本を読んで当時の日本の第一級の商人は、この時代の世界水準で言っても、世界のどこに出ていっても全く一流の人間であったと思いました。
彼は、宮廷の高官、高級軍人、貴族、そして宿屋の主人や庶民やその他の誰の前でも臆することなく、誰の前でも態度を変えずに、
自分の思いや考えを述べています。江戸時代に生まれ、育った人間の、この一人を知ったそのことだけでも、この上下2冊1080円は貴重な投資でした。

     2005年08月27日(土)ブログ「阿智胡地亭の非日乗」に掲載

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