阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

引越し記念日の前に 虎ノ門の「穴子や 神谷町」へ穴子丼を食べに行く。     その一

2022年02月22日 | 食べる飲む

『「やっぱり移ろうよ」と君が言ったから2月21日は引っ越し記念日』。     * 〈『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日     俵万智 1987年 〉

   2月21日は4年前に 通算45年住んだ神戸市東灘区から東京都最東部の区へ移転した日だ。

後期高齢者になってからの築50年の家仕舞は思った以上に大変だった。 電気ガス新聞インターネットを止める連絡からはじまり 引越し業者の三社見積もりをとって

各社の担当に家に来てもらい条件や価格交渉をし 一社に決めて発注金額の確定。業者にやってもらう業務の中には両親の時からの50年間 家にたまった思った以上の量の

思い出の品々の処分もあった。仏壇の終いは専門の業者へ頼み 事前に行った。    並行して 土地を売りに出すという大仕事を進めたがこれはすぐに決着がつくような

簡単な事ではではなかった。

 また 東灘区役所へ転出届に行くこと 引越し先での事前のインターネット契約や、引っ越し当日から使う電気ガスの事前の手続きなどもあった。

引っ越し専用のノートをつくり やるべきことをつぶしていったが ストレスのせいか不眠症にもなったが夫婦二人で何とかやり遂げることが出来た。

 インターネットがなく電話だけでこれらをやっていた時代は本当に大変だっただろうと思う。

2018年2月20日の夕方 断捨離で処分した荷を載せたトラック5台と東京に向かう引っ越し荷物を積載したトラック1台を見送ってから 

二人で新神戸駅の新幹線の席に座った時は心底ほっとした。

 そして2018年2月21日の朝から神戸からのわずかな引越し荷物を搬入してもらい、3月初めからもう一家族が加わって 集合住宅一室での同居生活がスタートした。

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 4年目の引越し記念日のささやかな祝いに「穴子好き」なあいかたが あちこち検索で探して見つけた よさげな「穴子の専門店」に某日でかけた。

旨いかまずいかは行ってみないと始まらないし、食べてみないとわからない。

 秋葉原で総武線から東京メトロ 日比谷線に乗り換えて

神谷町で降りた。東京メトロの乗車時間は20分だった。

都内では最東部の区の在所から出かけてきた自分は 思わず ああ首都東京に来たと思い このガイドボードにカメラを向けてしまった(笑)。

地下鉄を出たところの風景。  目の前のビルに邪魔されて🗼は見えないが このポイントから東京タワー🗼まで600mほどらしい。

店は歩いて5分ほどであいかたは事前の調べの通り間違いなく店に辿り着いた。

 

 

 

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定食屋のようなインド料理店「ナーン・イン」        13年前の今日 2009年2月21日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年02月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

神戸三宮の生田の森を出て、山手幹線のまだ山側に歩きました。そして少し前に千葉から来た友人とたまたま入ったら、おいしかったという相方の水先案内でカレーの店に行きました。

観光客は相手にせず、近所のインド人相手の定食屋のようななんの飾りもない内装で面食らいました。

そして海鮮カレーとチキンカレーも大きなさっぱりしたナンも、なんの衒いもない「インドの味噌汁付焼き魚定食」というような感じの旨さでした。

全く日本人向けにアレンジせず、本国そのままの料理で通しているのでしょう。

サブプライム騒ぎでこのあたりの外国人も外食を控えていて不景気なのか、前にはいたというインド人のウェイターはおらず、

バイトらしい大学生のような女の子が半分英語半分日本語で注文を聞きました。

香港出身かなと思いました。これからも通いたい店ですが、経営が持つのかなあ?とちょっと心配。ナーン・イン





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戦争に熱狂した新聞・ラジオ   田原総一朗       2011年3月10日「阿智胡地亭の非日乗」掲載

2022年02月22日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
 

田原総一朗のメールマガジン2011.3.4から全文引用・・

 日中戦争や、太平洋戦争で
新聞やラジオが戦争を煽るように書き立てた事が、
今問題になっている。

新聞が戦争を礼賛し始めた最初は
日露戦争である。
日露戦争の始まる前、
実はほとんどの新聞が戦争反対だった。
ところが戦争が近づくと
戦争反対の新聞はどんどん売れなくなった。
経営が危なくなった。
そこで、どの新聞も戦争礼賛に転向した。
特に萬朝報は最後まで戦争に反対したが、
倒産の危機を迎えて結局戦争賛成に変わった。

これをきっかけに戦争が近づくと、
日本の新聞は戦争を賛美するようになった。
満州事変、日中戦争の時も
メディアは戦争礼賛になってしまった。
戦争を礼賛すればするほど、よく売れるのである。
そこで大新聞がみんな戦争礼賛になると、
雑誌や小新聞に対して
政府は過酷な弾圧を加えるようになった。
それでも反対すると、監獄にぶちこむ。
こういう状態で太平洋戦争を迎えるのである。

もちろん新聞社の中にも、或いは雑誌社にも
戦争に反対する記者達はいた。
だが、彼らは書く機会が与えられないか、
警察に逮捕された。

実は、太平洋戦争で敗れて
連合国から日本が侵略国、侵略戦争を繰り返した、
と決め付けられるまで、
日本には戦争が悪い、と言う空気はほとんどなかった。
戦争には勝てばいいのだと言う思いが強かった。
これは日本だけの現象ではない。
イギリス、アメリカ、フランス、オランダなどを始め、
先進国とは侵略戦争を重ねて戦争に勝ち、
負けた国を植民地にする、
その歴史を繰り返してきたのである。

先進国とは、すなわち侵略国なのである。
明治維新で開国して以来、日本は侵略国になるか、
植民地にされるかの戦いを繰り返してきたのである。
侵略戦争がダメだと言う事になったのは、
第一次大戦が終って結ばれたパリ条約によってであった。
しかし、これまでに行った侵略、
そして植民地作りは認められたのである。

日本で言えば侵略戦争と言えるのは、
満州事変と日中戦争だが
実は満州事変はイギリスやフランスが
絶対に支持してくれる事を前提で行ったのであった。
日中戦争については、
政府の幹部、軍の幹部の中にも
早く止めるべきだ、と言う声が強かった。
ところが、連戦連勝で、
しかも景気がどんどん良くなって
止められなかったのだ。
これは失敗だったと思う。
そして、太平洋戦争は
日本が世界で孤立して
踏み切らざる得ない戦争だった。


太平洋戦争の最も反省すべき点は、
世界で孤立し、負けるに決まっている戦争に
踏み切った事だ。
実は、政府の首脳も軍の幹部も誰一人、
この戦争に勝てると思っていた人間はいなかった。
無責任に煽っていたのは、
マスメディアだった。

戦後、アメリカが
「日本は侵略国で連合軍は正しい」と主張し続け、
僕を含め多くの日本人が
その押し付けに洗脳されていた。
だから、僕は再びこんな馬鹿げた戦争を
繰り返さない為に、
戦争に至る歴史を正確に伝えたいのである。

馬鹿げた戦争が起きる可能性は
これからもある。
そうなるとマスメディアは
戦争礼賛になる。
だから戦争を知らない若い人達に、常に考え、
話し合って欲しいと願っている。

 ソース:田原総一朗 公式ブログ
(2011年3月2日投稿「戦争に熱狂した新聞・ラジオ」)

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2月21日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年02月22日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像クリックで記事全文に飛びます。

 

 

 

 

 

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