「2015年3月31日 08時58分 共同通信
1972年の沖縄返還をめぐる日米間の密約を政府関係者として初めて証言した元外務省アメリカ局長の吉野文六(よしの・ぶんろく)氏が
29日午前9時10分、肺炎のため横浜市の自宅で死去した。96歳。
長野県出身。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長男豊(ゆたか)氏。
東京帝国大法学部在学中、外務省に入省。駐米公使などを経て、71年1月~72年6月に外務省アメリカ局長を務め、米国との沖縄返還交渉を担当した。
その後、外務審議官や駐西独大使を歴任。退官後は国際経済研究所の理事長を務めた。
吉野 文六(1918年8月8日)は、日本の外交官。Wikipediaから部分引用。
長野県松本市生まれ。旧制松本中学(長野県松本深志高等学校)、旧制松本高等学校を経て、東京帝国大学卒業。1940年高等文官試験司法科合格、1941年外務省入省。1953年在アメリカ合衆国日本国大使館一等書記官、1967年外務大臣官房審議官、1968年駐米公使、1971年アメリカ局長、1972年OECD日本政府代表特命全権大使、1975年外務審議官(経済担当)、1978年駐西ドイツ大使などを歴任し、1982年退官。1984年国際経済研究所理事長に就任。
アメリカ局長時代は、アメリカとの間で、沖縄返還の際に土地の原状回復費用を日本が負担する密約の存在を一貫して否認したが、
ホワイトハウスの文書公開を受けて初めて認めるに至った。
2009年には密約を巡る情報公開訴訟に、原告の求めに応じて初めて証人として出廷した。 引用ここまで。
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◆佐藤優 著『私が最も尊敬する外交官――ナチス・ドイツの崩壊を目撃した吉野文六』講談社、2014年8月
私のライフワークの一つである吉野文六・元外務省アメリカ局長に関するノンフィクションをようやく上梓することができた。
原稿は5年前に完成していたが、「西山記者事件」との文脈で読まれると、吉野文六氏がどのような思想をもち、
行動したかが理解されなくなる危険があると思い、出版のタイミングを遅らせた。
本書の意義については、あとがきで記したので引用しておく。
<あとがき
「はじめに」でも記したが、吉野文六氏は、「西山記者事件」で、公判で「密約は存在しない」 という証言をし、当時の政府の立場を正当化する上で重要な役割を果たした人物だ。
しかし、2006年2月に北海道新聞の取材に対して、吉野氏は密約の存在を認めた。
<沖縄の祖国復帰の見返りに、本来米国が支払うべき土地の復元費用を、日本が肩代わりしたのではないかとされる一九七一年署名の沖縄返還協定について、
当時、外務省アメリカ局長として対米交渉にあたった吉野文六氏(87)=横浜市在住=は、七日までの北海道新聞の取材に「復元費用四百万ドル(当時の換算で約十億円)は、
日本が肩代わりしたものだ」と政府関係者として初めて日本の負担を認めた。
(中略)吉野氏は「当時のことはあまりよく覚えていない」と断った上で「国際法上、米国が払うのが当然なのに、払わないと言われ驚いた。
当時、米国はドル危機で、議会に沖縄返還では金を一切使わないことを約束していた背景があった。交渉は難航し、行き詰まる恐れもあったため、
沖縄が返るなら四百万ドルも日本側が払いましょう、となった。当時の佐藤栄作首相の判断」と述べた。
また、日本政府が、円と交換して得た返還前の通貨、米ドルを無利子で米国に預託し、自由に使わせたことも明らかにした。金額には言及しなかったが、米側文書によると、
連邦準備銀行に二十五年間無利子で預け、利息を含め計算上約一億千二百万ドルの便宜を与えたとみられる。
これらの肩代わりや負担は、これまでマスコミや沖縄の我部政明琉球大教授(国際政治)が、米国の情報公開法で米側外交文書を入手し、指摘してきた。
しかし、日本政府は否定し続け、情報公開もしていない。外務省は「現在、西山氏から当時の報道は正しかったと謝罪を求める裁判を起こされており、
コメントできない」としている。>(『北海道新聞』2006年2月8日朝刊)
この記事を読んだ瞬間から、私は吉野文六氏という人間に強い関心を持つようになった。
他の外務省OBのように、真実について口を閉ざしていれば、マスメディアの取材の渦に巻きこまれることもない。また、このような証言をすれば、外務省との関係も断絶してしまう。
しかも、「西山記者事件」の公判で、吉野氏が真実と異なる証言を行ったことに対する責任も追及される。聡明な吉野氏には、これらの事情はすべてわかっていたはずだ。
「はじめに」でも記したが、私は、2006年7月26日、横浜市の吉野邸を訪れて、真実を証言した動機について質すと、それについては述べずに「結局、私の署名なり、
イニシャルのついた文書が、アメリカで発見されまして、これはおまえのサインじゃないか、イニシャルじゃないかと言われたら、肯定せざるを得ないという話です」と答えた。
北海道新聞の記者から、吉野氏のイニシアルが記されている密約文書の写しを示されたら、その瞬間に、何か考えを巡らせる前に吉野氏の口から真実が語られたということである。
ここに私は、言葉ではなかなか上手に表現できない、外部からの超越的な力を感じた。「この力を言語化するのがおまえの仕事だ」という天の声が私の原動力になった。
本書のもととなった連載(「国家の嘘 『沖縄密約を証言した男』吉野文六の半生」、初回『現代』2007年10月号)は、『現代』2008年9月号で完結した。
その翌2009年12月1日、西山太吉氏らが国を訴えた国家賠償裁判に吉野氏は原告側証人として東京地方裁判所に出廷し、「西山記者事件」公判での発言を撤回し、
「過去の歴史を歪曲するのは、国民のためにならない」と証言し、密約が存在する事実、密約文書にBY(Bunroku Yoshino)、
交渉相手だったアメリカのリチャード・スナイダー(Richard Snyder)公使がRSと署名した事実を認めた。
この裁判からしばらく経った後、私は吉野氏から「あなたの取材を受け、連載を読んでいるうちに、私の中でもやもやしていて、はっきり形にならないものが見えてきました。
それで法廷で証言する気にもなりました」と言われた。
その言葉を聞いたときに、私は、作家になってよかったと思った。連載完結後も、年に数回は、横浜の私邸におじゃまして、吉野氏から聴き取りを続けている。
終戦直後の外務省や佐世保の終戦連絡事務所での仕事など、吉野氏の経験は実に興味深い。いずれ作品にまとめたいと思っている。・・・・・・(以下略)