阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

引越し記念日の前に 虎ノ門の「穴子や 神谷町」へ穴子丼を食べに行く。     その二

2022年02月23日 | 食べる飲む

 承前   4年目の引越し記念日のささやかな祝いに「穴子好き」なあいかたが あちこち検索で探して見つけた 神谷町の「穴子や 神谷町」にでかけた。

関西風の焼穴子ではなく 関東風の煮穴子を炙る調理法の丼は 何とも言えずおいしくて 二人ともに言葉なく 黙々と食べてしまう逸品だった。

 丼に載せて出てきたサイドオーダーの『きも煮』も優れものだった。

 店内はちょっと時分時を外れていたが このあたりの会社勤めの人でほどよく席は埋まっていて どこかの商社マンらしき人の野太い関西アクセントの話声も聞こえ

一瞬 ここは大阪の心斎橋か本町にある店だったかな?というような気になった(笑)。

 ぬる燗の温度はどうですかと聞きに来た店長の池田さんの話では 元は築地で料亭をやっていたが 一年半ほど前に この場所で穴子専門店に業態替えをしたとのこと。

開業前には 懐石で修行した板前さんと一緒に東京と関西の穴子で有名な店(姫路のでんすけ穴子など)を訪ねて食べ歩いて研究したのだそうだ。

その研鑽の成果は十分に発揮されていると思った。

 神戸在住時には兵庫県高砂の「下村商店」の焼きアナゴや、広島在住時には宮島の「うえの」の焼きアナゴ(関西click 広島click)を楽しんで来た話をしたら 

穴子と共に歩んできましねと言われてしまった。 席を立つとオープンキッチンの板前さんからも「ありがとうございました」と声がかかり

このご時世の下 ひたすら顧客大事に やっておられる気持ちを感じた。

 満足して店を出た後少し辺りを歩いた。

都営バスのバスストップがあったので行先を見ると新橋駅前行でしかも数分後に来る時刻表だった。すぐにバスが来たので乗った。

虎ノ門から新橋への道すがらをバスの車窓から見るのも面白かった。 

新橋駅までは12分ほどだった。駅前第一ビルで焼きビーフンの店を確認してから山手線に乗った。

4年目の引越し記念日はおいしい穴子丼と都心の しばしの短いバスツアーで満足して過ぎた。

 

 

 

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剣菱と菊正宗の本社は歩いて30分少々         10年前の今日   2012年2月23日「阿智胡地亭のShot日乗」掲載

2022年02月23日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

家からぶらぶらと浜側にまっすぐ歩いて御影郷に行きました。国道2号線を直角に渡り、
阪神淡路大震災のとき多くの避難者がいて、天皇皇后両陛下がお見舞いに訪れた御影小学校の横を通ります。



阪神高速が上を走る国道43号線を横切ると目の前に大きな赤い橋が現れます。



東に少し歩くと昔の岸壁がわずかに残った場所があります。岸壁の右側は埋め立てられました。


このあたりは灘五郷のうちの御影郷です。剣菱の本社もここにあります。


トップの画像は製品倉庫。菊正宗の工場や本社もすぐ近くです。



ところどころに「灘の酒蔵」のウオーキングコースのガイド板があって楽しく歩けます。起点は阪神魚崎でも御影でもOKです。


この日の漫歩計は8815歩でした。

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偉人たちの残した「戦争にまつわる名言・格言」。

2022年02月23日 | SNS・既存メディアからの引用記事

戦争にまつわる名言・格言

「第三次世界大戦でどのような武器が使用されるかわからないが、第四次世界大戦では棒と石を使って戦われることになるだろう」
―アルベルト・アインシュタイン(物理学者)


「どんなに必要で、どんなに正当化されようと、戦争を犯罪ではないと考えては絶対にいけない」
―アーネスト・ヘミングウェイ(ノーベル文学賞作家)


「何の罪もない人々を殺した恥を、覆い隠せるだけの大きな旗はない」
―ハワード・ジン(アメリカの歴史家)


「もし戦争を終わらさなければ、戦争が私達を終わらせるだろう」
―J.R.R. トールキン(指輪物語の著者)

引用元

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2月22日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年02月23日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像クリックで記事全文に飛びます。

毒蝮 まあ、あらためて若い世代に、俺や田原さんが喋れることって言ったらやはり戦争なんだと思いますよ。人間が生きていくうえで最もあってはならない、最も悲惨なことは戦争以外の何物でもない。俺も田原さんも80代後半、日本が戦争をしていた時代をギリギリ知っている。それを喋れる人も年々少なくなっていくわけです。俺たち以後の世代は、もう実感としての戦争体験を持っていない。俺と田原さんは2歳違いです。それでも随分と体験が違うんですよね。軍国少年だった田原さんは戦争が終わって日本がガラッと変わってしまったことに、なんだ!ふざけるな!って思いがある。

田原 僕らは騙されたっていう意識。さらに2つ上の大島渚や3つ上の篠田正浩、あの人たちは学校で切腹の練習までさせられた。だから僕よりももっと国に対して不信感を持った。大島さんたちは加害者にさせられたっていう意識ですよ。だから国なんか潰しちゃえって。

毒蝮 田原さんの2つ下である俺は、戦争が終わってまず感じたのは、もちろん空襲は二度と嫌だってのもあるんだけど、9歳のガキだからね、チョコレートや砂糖があってヨカッター!っていう思いのほうが強かった。鬼畜米英よりも甘いもののほうが体に染みこむんだ(笑)

田原 小学校の高学年と低学年では、実感が違いますね。

毒蝮 世間から見れば俺と田原さん、2人とも80代のジジイで一緒に括られるかもしれないけど、学年の2年3年の差で戦争への実感は本当に違うんですよね。

田原 住んでいた場所でも大きく変わる。

毒蝮 しかも俺は、マッカーサーの戦後政策の一環で、浮浪児を無くそうってことで作ったラジオドラマ「鐘の鳴る丘」があって、その芝居に子役で受かって舞台に立ったから役者の道に進んだ。そこから今の今までがある。戦争があったからこうなったという自分が現にあるんです。戦争と言ってもその人の置かれた立場で十人十色。それも含めて若い世代には戦争を知ってもらいたい。

田原 戦争をしないために戦争を知る。

 

 

 

 

 

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