東京から千葉方面への幹線道路には京葉道路と蔵前橋通りがあり この大きな二つの道路は阿智胡地亭には近所の身近な存在だ。
しかし蔵前橋通りの「蔵前橋」という名の橋は見たことがなかったし、どこにあるかも知らない。
橋の大体の位置をGoogleMapで頭に入れて 某日、総武線の駅の中ではあまり縁がないというか ほとんど下車したことがない
秋葉原と両国の二つの駅の間にある浅草橋駅で降りてみた。
そして「蔵前橋」を渡った。渡る前に浅草橋駅のあたりをぶらぶらした。雛人形の「久月」や「吉徳大光」などの大店が並び
ビーズなどの材料店が軒を連ね 今苦境にある小さな飲食店が沢山 並んでいた。
浅草橋駅の西口で降りてあたりをぶらぶらしたら小さな橋があった。「左衛門橋」と言う名で川は間もなく墨田川にそそぐ神田川だった。
川は神田川
江戸時代っぽい名だけれど……
橋の名前=左衛門の語感が古めかしいが、江戸時代にはこの橋はまだなかった。
もっとも、もとをただせば確かに江戸につながりのある名前ではあるようだ。
実はこの橋の北詰すぐのところには、1598年から明治維新までずっと、出羽鶴岡藩(あるいは庄内藩)の大名・酒井左衛門尉(さえもんのじょう)の下屋敷があった。
このため近辺の河岸地に、殿様にちなんだ「左衛門河岸」の名が定着しており、明治に入って「橋をかける」ということになった際、直接にはこの河岸地の名前をとるかたちでこの名が残ったらしい。
ちなみに、屋敷跡周辺は明治5年に町屋化され、隣町「浅草平衛門町」にちなんで「新平衛門町」と呼ばれたそうだが、のち、明治23年からは「浅草左衛門町」と呼ばれるようになった。
これも、あくまでも「左衛門河岸」にちなむらしい。(現在は「浅草橋1丁目」に統合)。
なお、橋の正確な来歴の情報は(今のところ)見つけられないでいるため、明治時代の複数の地図から大体の初架橋時期を推定して「明治10年ごろ」とした(手持ちの資料中では、明治8年発行の地図には記載がなく、明治11年の地図にはすでにこの橋が記載されている)。