3月16日に堀江貴文被告に対する裁判の判決が出ました。
報道によると{判決後、小坂裁判長は、ハンディキャップを背負った子供の母親から裁判所に届いた手紙を取り上げた。
堀江前社長にあこがれ、働いてためた金でライブドア株を買い、今も大切に持っているという。
「裁判所は有罪判決を下したが、被告人の生き方すべてを否定したわけではない。
この子供のように被告人に勇気づけられた多くの人たちに思いをいたして罪をつぐない、その能力を生かして再出発することを望みます」。
裁判長はこう語りかけた。前社長は両手を前でくんだまま神妙な表情で聴き入り、最後に深々と一礼した。}
自分の現役営業時代の「現場」「現実」「現物」の三現主義に反し、裁判の傍聴にまだ一度も行かず、メデイアの報道からのみの印象からですが、
裁判長が高い位置にある裁判長席から被告にこういうふうに話しかけることが時たまあるようです。
私にはこのような判決後の裁判長の言葉が昔から不思議で仕方がない。
判事から「人の生き方を教え諭されたくない」と被告は思っているだろうなといつも思ってきました。
法曹界というのもやはり歴史的・社会的な存在。
日本の司法はやはり江戸幕府のお奉行様の時代の「お裁き」の思想を色濃く引いているのだろう?と思います。
罪に応じた判決をその理由とともに述べて裁判官の判断を示すことで、裁判長の職務は完了している。
にもかかわらず彼らは必ず、その後でありがたい道徳的なお言葉や今後の人生の指針を指し示して下さる。
そんなある意味傲慢なことを、裁判長というのはよくやるなあとこれまでも思ってきたが、今回の報道でまたまた強くそう思いました。
おそらく制度上こういう発言をするようになっているのではなく、明治政府が作った裁判制度の時から存在する慣習的なものなのでは?。
ルーツはお白州裁判制の江戸幕府に遡るような気がする。
それとも司法研修所で全員が「東映時代劇映画」を教科書にして勉強するのだろうか?
なんの権限があって公開の場で、一国家公務員がその彼の「私の価値観」で、国民に教え諭すことが出来るのだろう。
裁判官さん、あなた方はどなたも大岡越前守忠相でも遠山の金さんでもないんです。
余分なことを言わずに言うべきことだけを言い、やるべきことを公明正大にやってくれたらそれでいいんです。
|