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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

1475年に京都木津川で建築され、三渓園に移築された 燈明寺の三重塔にも登った     三渓園シリーズ その3/全5編

2022年11月13日 | 関東あちこち

三重塔のある場所から見た三渓園

 

 

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「世界平和アピール七人委員会」の講演は面白かった 篠山シリーズ その2          11年前の今日 2011年11月13日の本ブログに掲載

2022年11月13日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

テレビとは違った面白さが講演会にはある。講演者の表情、物言い、目力などに、その人の地がモロに出るのも興味深い。

今回は七人のうち五人が話をされた。どの人も上から目線ではない、自分も3.11以降の日本で暮らす生活者である立場で話をされた。

講演会の初めに、七人委員会の創立者である「下中弥三郎」さんの紹介がお孫さん(平凡社の役員)からあった。

下中弥三郎さんは、篠山市今田(こんだ)の窯元の子として生まれた。(今田には今も立杭焼の窯元が多くあり、

私も「のもとファーム」オーナー夫妻に誘われて、今田を訪ねたことがある。登り窯の写真には見覚えがあった。)

2歳の時に父を亡くし、7歳で祖父がなくなる。7歳で戸主となり、ほかの窯元の陶土の運搬人として一家を支えて、小学校も3年生で退学した。

 人並み外れて向学心が強いことを、隣家の中井医院の先生が知り、本の提供などサポートを受けた。

当時はまだ先生不足で教員試験の受験資格は特になく、試験に通れば良かった。彼は19歳の時、最初の一回で教員試験に合格。

神戸に出て雲中小学校の代用教員に採用される・・。ここから先は、まさに自ら我が運命を切り開いた明治の男の物語がはじまる。

彼には自分探しをやるような暇はなく、日々自分と家族の口に何か食べるものを入れる金を稼ぐしかなかった。

世の中の森羅万象の現象すべてに猛烈な好奇心をもって、自分で極めたかった人。そして行き着いたところは、丸腰の思想だった。

丸腰であれば、人は暴力を振るおうとは思わない。軍備を整えると戦争がしたくなる・・

 盛りだくさんのエピソードを聞いて、こんな人がこの日本にいたのかと嬉しかった。

同じ出版人の岩波茂雄とは出版物のフィールドが違うが、それは彼らの歩いた道筋の違いだけで、強い「知への探求心」は共通している。


 

世界平和アピール七人委員会のHP

2011-11-12平和委員会講演会@篠山 連続写真アルバム

右下の「拡大アイコン」をクリックして大型画像で見てください。

2011 11 12七人委員会@篠山   YouTube

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井上ひさしさんの死

2022年11月13日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年04月13日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

井上ひさしの本は「吉里吉里人」を読み、彼の戯曲を映画化した映画「父と暮らせば」を観た。

それ以外には新聞や雑誌のエッセイが目に付くと必ず読んできた。

どんな育ちをしたのかと思ったら、5歳で父を亡くし施設で育っていて、一家は戦前の日本社会では「主義者のイエ」の人間で、彼は差別を受けた。

長じて東京に出て大学に入ると、貧しさと東北弁の言葉で差別を受けた。そして占領された国での占領国からの差別も感じた。

それらが彼の基層にあったと思うが、彼はそれをナマで出すような人ではなかった。一筋縄ではいかない人だった。

 言葉に対する鋭敏な感覚があって、私は彼が醸し出す笑いの世界が好きだった。一回りほど上だが同時代の一つの旗印のように思ってずっと来た。

肺がんによる75歳の死は早すぎて惜しい。合掌。

次の追悼文が心に沁みました。

引用開始

「彼は戦争責任は人々が各々で引受けなければならないことを見事な作劇術で表現したのであった。

それは少年時代の体験や浅草「フランス座」の脚本家の経験が影響しているのであろう。

井上戯曲はミュージカル風で諧謔的な手法のなかに、人々が国民国家へ統合されるさまや戦争へ巻き込まれるさまを描いている。

井上の戯曲が我々に強くアピールする理由は、歴史に翻弄されつつもけなげに行動する人々への冷徹な批判・嘲笑と、限りない愛情・共感とが、

混然一体となって表現されているからである。他方、井上が目指したものは、人々を苦しめる権力への批判と闘いであった。」引用終わり
 全文はこちら

作家・劇作家の井上ひさしさん死去 「吉里吉里人」など
(2010年4月12日13時45分)朝日新聞webから引用

井上ひさしさん 
ユーモアをたたえた豊かな日本語で「吉里吉里人(きりきりじん)」「國語元年」など多くの小説や戯曲、エッセーを書き、

平和運動にも熱心に取り組んだ作家・劇作家で文化功労者の井上ひさし(本名井上廈〈いのうえ・ひさし〉)さんが、9日午後10時22分、

肺がんのため神奈川県鎌倉市の自宅で死去した。75歳だった。葬儀は12日昼、近親者のみで行った。喪主は妻ユリさん。連絡先はこまつ座(03・3862・5941)。
(ユリさんは故米原万理さんの実妹)

 山形県小松町(現川西町)生まれ。上智大を卒業後、放送作家として、1964年にNHKの人形劇「ひょっこりひょうたん島」の台本を共作した。

69年に「日本人のへそ」で本格的に劇作家デビュー。72年、江戸の戯作者(げさくしゃ)を描いた小説「手鎖心中」で直木賞、戯曲「道元の冒険」で岸田国士戯曲賞を受賞した。

 東北の一寒村が独立してユートピアをめざす小説「吉里吉里人」(81年)をはじめ、「不忠臣蔵」(85年)、「東京セブンローズ」(99年)など、大衆的な笑いと深い人間洞察を両立させた秀作を多数執筆。エッセーや日本語論でも活躍した。

 83年に自作戯曲を上演する「こまつ座」を旗揚げ。「頭痛肩こり樋口一葉」(84年)などの優れた評伝劇や喜劇を次々上演。

筆が遅く、公演の延期や中止もあり、自ら「遅筆堂」と名乗っていた。

 97年、新国立劇場の開場公演「紙屋町さくらホテル」を手がけた。同劇場には庶民の戦争責任を問う東京裁判3部作「夢の裂け目」(2001年)、

「夢の泪(なみだ)」(03年)、「夢の痂(かさぶた)」(06年)も書き下ろし、今年4月から3部作連続上演が始まった。

04年には「九条の会」の呼びかけ人の一人となるなど護憲・平和運動にも積極的だった。

 日本ペンクラブ会長、日本劇作家協会長などを歴任。99年の菊池寛賞、00年度の朝日賞など受賞多数。04年に文化功労者、09年には芸術院会員に選ばれた。

 昨年秋ごろから、体調不良のため静養していた。「ムサシ」(蜷川幸雄演出)が今年、ロンドンとニューヨークで上演される。

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