琵琶湖の東岸にある高月町には観音菩薩を祀ったお寺がいくつもある。無住のお寺でも ベルを鳴らすと、畑から人が来て門を開けてくれる。
どうぞごゆっくり拝観していってください、その人はそういってまた畑仕事に戻る。誰もいない本堂でゆっくり十一面観音と対面する。いいお顔をされているなあとじっと見上げる。
薄暗いなか、観音菩薩の像のまわりをゆっくり二度ほど背面まで歩く。すると十面のお顔がぐるっと正面の尊顔を取り囲んでいるのが見えた。
そうか仏にも怒りや笑いや蔑みのこんなに沢山の顔があるのだと知った。もしかすると人間の本性を仏像の顔に仮託して表現したのかなとそのとき思った。
『 1, 頂上部 佛面(如来相) 2,正面三面 菩薩面(寂静相) 3,右面三面 瞋怒面(しんぬめん)(威怒相) 4,左面三面 狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)(利牙出現相) 5,後部一面 暴悪笑面(笑怒相)が通常である。』 webから引用。

そして、昨日人間の本性に関する面白い記事を読んだ。 この三つは自分にも誰にもある。 それがどうも間違いなく人間と言うものらしい。
人間には三つの本性があると森岡正博は言う。
第一は『連なりの本性』
「生命が30億年以上かけて太古の生命の母体から分化してきたことに由来します。
人間以外の生物や、森や海と一体となることを望み、それに心をいやされることです。」
第二は『自己利益の本性』
「人間は他の動物を殺して食べたり、森を切り開いて住まいや畑を造ったりして、他の生物を利用することによって生き延びてきた。
自分の利益のためなら、他を犠牲にして利用し、搾取しても差し支えないと考える本性です。」
第三は『支えの本性』
「人間が生き延びるためには、社会の人間関係の網の目の中で互いに支え合ってゆかなければならなかった。
困っている人間や動物などを、助けて力になってあげたいと思う本性です」
人間はどの本性からも逃れられないことを自覚しなければならない。
「釈迦や孔子、ギリシャのストア派の哲学者といった先人たちは『足るを知る』ことの大切さを説いています。
生命の誕生から死まで、科学技術がとことん介入しコントロールしようとする中で、『何でもできるけど、しない』ことをどこまで自分のこととして受け止められるか。
『足るを知る』哲学が一人ひとりに、一層強く求められる時代に既に入っています。
以上 2010-04-11付日経夕刊「シニア記者がつくるこころのページ」
“生命観の行方” 森岡正博(大阪府立大学)へのインタビュー記事から引用。
森岡正博のHPはこちら
|