阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

昭和50年代の海外あちこち記 その2   バングラディシュの肥料工場建設サイト出張記・1979年12月

2022年11月25日 | 昭和50年代の海外あちこち記
 
 
 
1979年12月、 バングラデイッシュのダッカから汽車に乗って奥地にある肥料工場の建設サイトへ出張しました。
 
1、 バングラデイッシュの奥地に世銀の資金で国営肥料工場の建設が計画され、国際入札に参加した結果、工場内の製品搬送設備一式を落札しました。
 
 工事が始まりサイトへ3人の据付指導員が派遣されました。サイトの下請業者には国際電話が設置されておらず、
テレックス以外は週に一回ほど一日1本だけ走る汽車に乗り、首都ダッカにある商社のオフィスまで行って 何時間も電話がつながるまで待って日本と連絡していました。
テレックスも原稿をサイトからの列車託送便でダッカに送り、商社のダッカオフィス経由打電ですからやりとりが2日かかります。
 
派遣した社員との連絡の行き違いも重なり、元請けのイギリスのエンジニアリング会社の現地からも要請があったので、
上司から諸件連絡と現地慰問を兼ね技術部門の松木技師と二人で現地へ行けとの指示を受けました。
 
 成田からは、バンコック経由でダッカに入ります。バンコック空港の隅の方にいつクリーニングしたかわからない薄汚れた飛行機が駐機しています。
我々は国営のバングラデイッシュ航空のチケットを持っており、この飛行機に間違い有りません。
 
飛行機の中もスパイスの匂いが染み付き、汚れが壁やシートに目立ちます。きっと清掃代の予算がないのでしょう。
二人ともに無言で出来るだけ機内のどこにも触れる部分が少ないように身体をすくめて座りました。疲れた・・。
シンガポール航空でのバンコックまでの飛行とは天と地の差です。世界最貧の国に行くんだと実感しました。
 
余談ながら、どこの国の空港も飛行機から外に出るとその空港の匂いがします。
 
シンガポール空港のシャンツアイ(香菜)の匂いのように。(行った人はご存じのように、彼らはどんな料理にも最後に三つ葉かパセリのようにこのハッパをのせます。
シャンツアイは最初あぶらむしの臭いだと思いましたが、すぐに好きになり今も種を買って、夏は家のプランターで栽培しています
ボク以外家族の誰も食べませんが・・)
 
また、台湾の高雄空港の単車の排気ガスの匂いのように。(20数年前、まだ庶民のマイカーは単車で街中を単車が走りまわっていたころの話です。
休日には奥さんと子供3人くらいを満載して一家全員が一台の単車に乗っている家族をよく見かけました)
 
 ダッカ空港はドアが開いて機外の空気が流れ込んだ瞬間、ああここは下水道設備がないんだと思うあの匂いでした。
 
子供のときは日本でも映画館やあちこちいつも匂っていた臭いですが、このところ無くなっていたので
町中の空気に24時間漂うこの臭いは懐かしさを通り過ぎて子供のころ食物がまだ食べられるかどうかの判定係を家でやらされていた
鋭敏な嗅覚の持ち主の私には刺激が強すぎて頭が痛くなるほどでした。
 
 2、本案件の扱い商社のダッカ支店に寄り、その日はダッカに1泊して翌朝商社の車で駅まで送ってもらいました。
首都とは言え高層の建物はほとんど無く街の中は貧しい服装の人達と人力車で一杯です。車はミゼットみたいな小さな車が少し走っています。
 
 商社の人の話し:この国は金がなく民間の仕事は皆無で、時々政府の官庁へ行くのだけが私の仕事です。
各社の駐在員も3年間の任期をクーラーの効いたオフィスとホテルの行き来だけでただ病気にかからぬようじっと帰国の日が来るのを待っています。
危険地手当てが悪くないので日本に帰ったら家の頭金になります。そうでもなければこんなところに来たいやつはいません。
町をあるくなんてことは危険で汚くて考えたこともありません。
 
 華の商社マンも色々いるのだなー。しかし前線の人の本音だろうなーと、どこの国へいっても誰とも必ずする雑談を交わしながら思いました。
 
 
3、翌朝、ダッカ駅まで商社の車で送ってもらい、二人は構内に入りました。ホームには製造後5、60年くらい経ったような客車と貨車をつないだ列車がいました。
中は満員で、硝子も無く屋根の上にも荷物を持った人が溢れています。勿論貨車にも人が一杯です。
 
事前にエンジニアリング会社のフォスターフィーラーUKの現地事務所に届けを出していたので、我々は最後部に1輌つながれたF社の専用貸切車両に乗りました。
乗客は我々を含めて4、5人です。バー付きのボーイ付きの贅沢な車両です。
独立前に支配していたイギリス人が使っていたのでしょう。
 
 列車は長い鉄橋を何回も渡り、首都から離れていきます。鉄橋は線路があるだけで柵も無く屋根の上の人のことが、気になります。
汽車が古くて時速30kmくらいでしか走らないのが救いです。サイトがある駅までに何度も停車しましたが、止まる度に子供の売り子が列車全体を取り囲みます。
バナナ、水、お菓子類、食べ物、なんでもありです。男の子も女の子もいます。大きな声を張り上げ精一杯の笑顔でニコニコ笑いかけます。
ほとんどのものが1単位日本円換算で4円とか5円で買える値段でした。
 
4、サイトに近い駅に指導員が迎えて来てくれていました。
 
サイトに到着し、FW社の現地本部オフィスで先方の責任者に挨拶をした後、ゲストハウスにチエックインし滞在中のゲストルームをもらいました。
それから当社の納入設備の据付け現場に案内してもらいました。稼動後の運転要員のトレーニングも契約範囲でしたから、バングラデシュ人が10数名、
事前に日本に来て訓練を終えサイトに詰めていました。日本でアテンドした顔なじみの何人かが懐かしそうに挨拶をしてくれます。
 
リーダーだったハッサンさんが隅っこの小さい部屋で本来は自分の国の所有の施設なのに大きなイギリス人の現場監督や業者の連中の中で、
なんとなく遠慮がちに、はにかんだ笑顔を向けてくれました。
 
広大な建設現場は高さ2.5mほどの城壁のような壁がぐるりと取り囲んでいて中には門衛が許可しないと入れません。
マンション、教会、プール、ダンスホール、図書館、映画館が最初に作られていて一つの町のようです。
 
ここに家族で派遣されているイギリス人中心のヨーロッパ人からなるエンジ会社、コンサル、建設業者が多数、工事の進捗にあわせて、
入れ替わり住んでいます。行く前に想像していた工事現場の概念から全く違い、面食らいました。
 
周囲の僻村と隔絶していてバングラデシュにいる気がしません。イギリス人は植民するときいつもまず、
生活インフラ、コミュニテイ造りから始めると本で読んではいましたが、世銀の金で請け負っている工事の現場でも全く同じなんだ、
連中には日本のような仮の現場ハウス生活の概念はないんだ、とちょっとした衝撃でした。
 
 日本人が払っている税金も世銀に供出され、バングラデシュ人は何十年もかけてこの建設資金の借金を返していくのです。
 
5、FW社のスーパーバイザー・現場監督
 
1)彼らはエンジ会社に職種別に個人登録をしていて、電話で今回こういう国でこういう仕事があるが契約するか、
という電話問い合せがあると都度応じるかどうか内容を吟味して回答する。
 
 3回か4回問い合せを受けて応じないとリストから削除される。だから条件がそれなりの間に応じないととんでもないサイトの長期の仕事しか声がかからない。
聞いた人は前はコンゴの発電所建設のサイトへ行っていた。アマゾン上流の病院建設に行っていた人もいました。
 
2)暑いせいもあるがほとんどが上半身裸で現場におり、倶梨伽羅紋紋のおっさんも沢山いて、ある人の極彩色の蛇の刺青があまり見事だったので、
おもわず「Pretty Tatoo!」と声をかけてしまい、駐在社員から「因縁つけられたらどうするんや」と後で怒られました。
 
しかし自分としては彼は誉められたという感じで笑っていたと思ったのも事実です。
 
3)奥さん連中は日がな何もすることがなく、一日中プールサイドでカードをするか酒を飲むかでほとんどがアル中や・・とのことでした。
あれ以来鯨のような中年白人女性の水着姿に目を向けたくなくなりました。
 
4)毎晩ダンスパーテイがあり、トラボルテのサターデイナイトフィーバーばりのダンスをやる 新居浜工場から派遣された当社の技術員の岡君は
奥さん達の人気者になっており、旦那方にも名前が売れている有名人で 芸は身を助けるとはほんまやと思ったことです。
 
6、エンジ会社のFW社の現地最高責任者は背の高いアメリカ人でした。奥さんは小柄な日系アメリカ人で、
サイトで苦労している当社の3人と一緒に自宅の夕食に招待してくれました。
 
 心尽くしのテンプラみたような一品もテーブルにありました。はっきりは言わなかったけれど、
会話の中でヨーロッパ人のアメリカ人に対する見下しとアジア人への蔑視という2重のご苦労をされているように感じました。
 
 それでも現場の最高責任者の夫人ということで、小さな体の背骨をピンと伸ばし、狭いサイト社会で頑張っておられた様子は忘れられません。
 
  まず初日に、持っていった日本食を3人に渡し次の日から情報連絡の行き違いの整理や、届いていない部品の確認、工程確認などの打ち合わせをし、
悩み事を聞き引き渡しまでの健闘をお願いし最終日となりました。
 
 7、何日かいて帰国の日が来ました。
 
 ダッカ行きの列車は夜の7時くらいのダイヤでした。関係先に挨拶をすませ、3人に車で送ってもらい最寄りの駅に着きました。
駅に着いたと言われても、その夜は星もなく真っ暗やみで本当に何も見えません。
 
ここで汽車が来るのを待とうと言われた場所だけに5蜀?くらいの豆電球がぶら下がっていて、それが駅の唯一の明かりです。
人の顔は勿論見えず、煙草をつけるライターの火がある時だけそこに人がいることがわかります。
ひとしきり皆と話し、そのうち沈黙の時が流れました。
 するとどこかからずるっずるっという音が聞こえ、だんだん近づいてきます。
 
ふと何かが靴を叩きました。足元を見ると暗闇に少し慣れた目に、人が這っているようなカタチの白い固まりが見えました。
 
それが包帯を全身にまいた人間だと理解できた時・・・・。あちらからもこちらからも十数人の固まりが、こちらに 這って来るのがぼんやり見えた時・・・・。
 
 思わずワーつという叫びが口から出て、身体は棒立ちになり息ができませんでした。
 
「病気の乞食や、悪さはせえへん。じっとしとき」と経験者の岡君の声がしました。
 
恐らく顔面蒼白、脂汗が浮かんでいたはずですが、それも人には見えない暗さです。何とかその場を離れ、列車が到着するまでに聞くと、業病にかかった人は村に住めなく、
人里離れたこの駅舎に集まって乗客のお布施を頼りに生きている。立って歩ける人はそれでもあちこち貰い歩くが、末期で這うしかない人達がここにいるのです。
 日本ではこの病気は完絶し先年法律も改正され、隔離されるという悲劇はなくなりました。
 
包帯の中の5蜀の電灯の明かりを受けて見上げたあの眼はいまでも忘れられません。
 
 何年も経ってから家でテレビを見ていたら、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のビデオクリップが流れました。
不謹慎かも知れませんが無意識にテレビを消していました。
 
8、やはり数人しか乗っていない専用車輌で、二人はほとんど無言でした。
 
窓から見るともなく外を見ると、小さな焚き火のようなものが延々と線路の横に続いています。
 
よく見ると焚き火の向こうに掘立小屋にしか見えない家が続いています。夕食の時刻なので、煮炊きをしているのかと想像しました
 
ほとんどの土地が海抜0メートルの国土で、来る時も大きな木は全く見えませんでした。
 
 女性の一日の仕事の大半は燃料と飲料水の確保だと読んだのを思い出しました。
燃やすものが乏しい中、大事に燃やして夕飯の支度を家の前でしているんだと思いました。
 
 ダッカを出て、またバンコックで一泊し乗り継いで成田に帰ったはずですが、
覚えているのはバンコックで辛い海鮮鍋をビールで流し込んだことくらいです。
 
(本稿は2000年前後に作成してメールで友人知人に送付した。)
    
  注 画像はネットから借用 出張当時の画像ではありません。
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2022年05月05日追記
 
バングラデシュの今を描く最近の映画 「メイド・イン・バングラデシュ」☞ こちら
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神戸労災病院の大楠                      11年前の今日 2011年11月25日の本ブログに掲載

2022年11月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2か月に一度の冠動脈ステント施療後の検診。今日は心電図と診察。異常なし。

しかし6種類の薬の量は変えないとのこと。病院の大楠はいつ見ても頼もしい。


病院に車を走らせる途中にこの看板がある。もう30年以上ここに設置されている。この看板から下に行くと菱の紋の面々の総本山がある。

 

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映画“「密約」外務省機密漏洩事件”を観ました。

2022年11月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年05月01日(土)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

若き日の吉行和子さんの、何となく艶めかしい横顔が写っているスチール写真をたまたま見たばっかりに、映画「密約」を見にいきたくなったある日、

朝のメールを開くと、『「十三の第7芸術劇場」へ行きたいんやが、場所知ってる?「密約」やってんねんけど一緒に観に行かへん?』というメールが入ってました。

発信人は寝屋川の我がリスペクトする御仁で、つい最近心臓のバイパス手術を受けて、三途の川の寸前で渡るのをやめて、この世に舞いもどってきたお人です。

 映画は千野皓司監督がテレビ朝日開局20周年記念番組として1978年に製作したテレビドラマですが、じっくり丁寧に作りこまれた出色のドラマでした。

俳優陣にはNHKの連続テレビドラマ「事件記者」の主な出演者がかなり登場しており、懐かしくてたまらない面々でした。

そして若き日の吉行和子さんの妖しい魅力は期待通りでもありました。ほぼ30年前の日本のテレビドラマの水準は現在のものとは、全く別物だったのだと感じました。

映画の内容と事件の本線は、原作者の“澤地久枝”さんが映画の公式HPに書いている「レビュー 怒りと悲しみ」に尽きますので、以下に全文を引用させてもらいます。

この文章は1988年にこの映画が、一度劇場公開された折に書かれたもののようです。

引用開始・・「『密約』はものかきとしてのわたしの2冊目の本です。

国家公務員法違反の裁判が刑事か民事かわからないという無知の状態で裁判を傍聴にゆき、惑いながらとうとう1冊の本を書くところまで自分を追いつめていった日々を、

いまなつかしく思い出します。千野監督、福富プロデューサー、そして長谷川公之氏の脚本。

モーニングショーの「女の学校」のゲスト出演などで縁の深かったテレビ朝日でドラマ化され、1冊の本はわたしの手をはなれ、独自の作品になりました。

それから10年の時間が過ぎています。

製作の当初から、いずれ劇場公開したいということで、フィルムのサイズも選ばれながら、実現までに10年もかかったということになります。

製作にかかわったSHPは、亡くなった向田邦子さんが属していたプロダクションです。

有名な遅筆の向田脚本をシンボウづよく待った中村さんが、この企画の中心にいて、テレビの放映後、向田さんがはずんだ声で電話をくれた頃のことも忘れられません。


『密約―外務省機密漏洩事件』という1冊の本に、わたしは日本の民主主義の悲しい貧困、不毛の精神土壌への怒りをこめました。

責任を問われ、裁かれるべきであったのは、沖縄返還交渉において米国政府と密約を結び、国会においても欺瞞に終始した佐藤栄作内閣と外務省首脳であったはずです。

しかし、検察側の起訴状に「ひそかに情を通じ」「しつように申し迫ったうえ」云々と書かれた新聞記者と女性事務官の個人的問題にすりかえられ、

「密約」はついに不問に付されたまま現在にいたっています。

すりかえを許したわたしたちの側の弱さに、わたしは歯がみする思いでした。恋愛も不倫も、個人的な問題に過ぎません。

国民を欺いた政治家の責任の大きさと重さとは比較のしようもない「情通問題」の目つぶしが効果的であった日本の社会。

わたしは半ベソをかいているような怒りにかられて、素朴な筆致でむきになって原稿を書いています。

しかし、この1冊によって新聞記者を志したという記者の取材を何度も受けることになって、ものかき冥利の経験もかさねました。

ある種の正義感が四十代早々のわたしをかりたて、むきにさせたところがあります。現在のわたしはもうすこし老練でしたたかかも知れないし、あまり変っていないともいえそうです。

テレビドラマの「密約」は、ドキュメンタリータッチの爽やかな志高い作品でした。

明るい美しい画面が印象的でした。心のこりは、系列局の関係で沖縄では放映されなかったことです。

このテーマがすこしも古くはならず、今日的な意味をもちつづけていることに、わたしの痛恨があります。

映画上映の道が10年目に開かれたことで、沖縄の人々にも見てもらえる可能性が生れました。それを喜びたいと思います。

10年の間には多くのことがあり、「密約」という言葉は日本の政治の体質が論じられるとき、日常的になってしまった感じさえあります。

とうとう、国家機密公開の法制化はなされぬまま現在にいたりました。たとえばアメリカの場合、国家機密は一定年限ののちに公開の原則が確立されています。

同時に、表裏の関係のものとしてプライバシー・アクトがあって個人の秘密を保護しています。

「密約」事件以来、官庁はやたらに「秘」の判を書類に押すようになったといいます。

最高裁は西山記者を有罪とした控訴審(第一審では無罪)を支援し、上告棄却としましたが、それでも取材の自由は原則的に認める判断を示しています。

しかし、ますます強固になる国家機密の壁によって、ジャーナリストの仕事は、10年前に比べてさらに困難なものになったという実感があります。

この上さらに国家機密法を制定しようという動きが執拗にくりかえされ、有権者はその良識と知性、権利意識を試されている現状ではないでしょうか。

わたしはこの16年間に28冊の本を書き、かつての陸軍および海軍が極秘資料として封印し、闇に消し去った歴史事実をさぐる仕事に出会いました。

その結果わたしに投げつけられた非難は、「アカ」よばわりであり、左翼作家とも書かれました。


旧憲法時代の、無条件降伏によって完全に解体した国家軍隊の極秘資料でさえ、それに係わることは、いまもなおタブーであるかのようです。

時々刻々、わたしたちの知らない歴史のページがつみかさねられてゆきつつあることを思わずにはいられません。西山・蓮見両氏が身柄を拘束されたあと、

昭和46年4月14日の「毎日新聞」夕刊に、大島渚氏が書いています。

「言論の自由というような抽象的な問題に立戻ってはいけない。佐藤首相の人間的反応にふりまわされてはいけない。

問題は、あくまで佐藤内閣が私たちに何をしたかだ。知る権利などというのは自明のことだ。

極秘資料のスッパ抜きに次ぐスッパ抜きを!今こそ日本中を、スッパ抜きした極秘資料でもってあふれかえさせること。……」

 このとき、わたしはまだ大島さんと面識はありませんでしたが、心から共感しました。大島さんはまだ30代。事態の本質を適確に見抜いています。

朝日新聞支局襲撃、記者の殺傷という事件に象徴されるように、政治が右旋回するときに標的となるのは「言論」です。

半歩でも後退すれば、テロリストたちの意図は達成されます。

問題の本質はなんであるのか、確認し直視しつづける姿勢をいまほど求められていることがあったろうかと思います。

そのよきテキストとしての映画「密約」を一人でも多くの人々に見ていただきたいと思います。

西山記者の弁護団中最年少であり、ドラマ化にあたって献身的な補佐をしてくださった西垣道夫弁護士が若くしてガンで斃れた悲しみをかさねて、

生きている人間のなすべきことを熱い思いで考えています。」引用終わり。

◎ なかったはずの「密約」はもし政権交代がなかったら、外務省は今もなかったこととして押し通していたのは間違いありません。

仲間内のなあなあで事をすすめ、チエック機能が働かない運営体というのは、それが優秀なお歴々がおられる国であろうと役所であろうと会社や学校であろうと、

「都合の悪いことはなかったことにし」「臭いものには蓋をして」世渡りしてる、あのエエ加減な落語家“阿智胡地亭 辛好”とよう似てるなあと思いますわ。

 しかし、つい先日80歳で亡くなった元外務次官の村田良平という人のように、実名で「密約はあった」と公にし、

「国民に嘘をついたままにしておくのはいけない」と言った、古武士のような志を持つ漢(おとこ)が日本の「くにたみ」の中にいるのを知ると、

この列島国は捨てたものではないと思います。

◎ところで、寝屋川の御仁とは、大阪のNPOに所属していた7,8年ほど前に知り合って以来親しくしてもらっています。

  そしてこの中村さんとは、昨年の秋、大阪の九条の映画館「シネ・ヌーヴォ」で「ボヴァリー夫人」、梅田の「テアトル梅田」で「副王家の一族」を一緒に観にいきました。

見終わってから、人と今見た映画のことを肴に軽く一杯やれるのは、映画観劇が二倍楽しくなり、ありがたいことです。

やはり時々映画への声かけがある千明さん、そして今回の中村さん、いつもお誘いありがとうございます。

また映画フアンの方どなたでも、いつでも声かけをよろしく。

『密約-外務省機密漏洩事件』2010年4月10日公開 映画予告編

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11月24日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年11月25日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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