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阿智胡地亭のShot日乗

日乗は日記。日々の生活と世間の事象記録や写真や書き物などなんでも。
  1942年生まれが東京都江戸川区から。

11月26日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年11月27日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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秋の六義園を多くの人が楽しんでいた。

2022年11月26日 | 東京あちこち

駒込駅から歩いて10分もしないわかりやすい場所に六義園はある。

私は以前稲邑さんと六義園内を巡ってから東洋文庫に足を伸ばしたことがあるが相方は初めての訪問だった。

六義園の前にフレーベル館の本社がある。

東京には江戸幕府体制により形成された大名所有の広大な面積の土地がいま公園となってあちこちかなりの数がある。

 そこに現在は 元は職人階層という下ジモの出である我が身も園の中に入ることが出来る。

ところが大名所有の270年ほどの長きにわたって この美しさを愛でることが出来たのは一年に数百人ほどではなかったか?

阿智胡地亭は こういう公園に入場するたびに 幕藩体制とそれに付随した士農工商という身分制を倒してくれた先人に いつも感謝の思いを持つ。

  つい154年前まで これだけの広さの空間をごく一部の人間が独り占めして 誰も文句も言えない日本だった。

 

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「イグアスの滝」 里山住人の南米旅行  その一         14年前の今日2008年11月26日の本ブログに掲載

2022年11月26日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

「房総の里山便り」の送信がしばらく途絶えていると思っていたら、印旛沼のほとりの住人Kさんは、南米旅行を楽しんでいたそうです。

その模様を「南米旅行シリーズ」で4回掲載します。

☞「11月8日より17日までブラジル、アルゼンチンに行ってきました。

2人出発保証のツアーで毎日出発です。出発日は、ブエノスアイレスのジャカランダ(世界3大花木の一つ)の開花を予想して決定したのですが、

ズバリ的中して満開のジャカランダに会えました。

1回目の写真はイグアスの滝です。イグアス空港に着くと今まで感じた事の無い暑さと湿気でした。

アレゼンチン側の公園に入り、トロッコ列車に乗り、それから遊歩道を歩いて「悪魔の喉笛」に向かいます。

 遊歩道を歩き始めたら雨が降り出して、遠くで雷も鳴ってきました。

滝のしぶきで濡れるのは覚悟していたので、全然気になりません。

悪魔の喉笛では強烈な水しぶきを浴びました。

そのうちに雷雨も止んで、別の滝に移動した時には虹が現われました。」








Kさん、迫力ありますね。ナイアガラ瀑布よりもはるかにスケールが大きい。

最後の写真はレンズに水滴が付いて臨場感があります。

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桐野夏生の小説「ナニカアル」を読みました

2022年11月26日 | 音楽・絵画・映画・文芸
2010年05月04日(火)「阿智胡地亭の非日乗」掲載
 

2日かけてまず200ページ読んで、昨夜はとうとう最後まで読み通さずにおれなくなって、残りの200ページあまりを読み終え、

ふっとため息をついて本を閉じたら夜中の3時20分でした。
 
なんと面白い、というか、次が気になって途中で止めるわけには行かない本でした。

☆女の作家が実在した林芙美子という女の作家を主人公にした。

夫がいる林芙美子の、年下の男とのアジアの占領地での激しい恋。

40歳で産んだ実子を孤児として引き取る。

  彼女が生きた戦争体制下の「日本国」の実情。「防諜」の一言でどこの誰でも令状無しに捕まえて好きなように拘留できた。

憲兵と特高が目を光らせていた。ずっと見張られる彼女の日々の恐怖。

今の北朝鮮が戦時中の日本のやり方をコピペしていることがよくわかる小説でもある。

この小説に書かれたのは公表されないまま焼却されてしまった林芙美子の作品なのか、真実の記録なのか。

無論、作者の桐野夏生が書いた小説だが、そんなように思わせる構成そのものも面白い。

 気になってはいたけど読んだことがなかった桐野夏生という人は、全く一級品の物書きだと思う。

林芙美子という人間が作った短いが濃い生き様と、その人間が生きた時代は遠い昔のことではなく、いまも同じように続いていると思わせる現代小説でもありました。

[ナニカアル]とは・・

一抹の雲もない秋の昼の山々
七彩の青春に火照る木の間よ
神々も欠伸し給ふ

大地を埋め尽くす静寂の落葉
眼閉じ何もおもはず
吾額に哀しみを掬ふなり
悠々と来たり無限の彼方へ
彼方へ去り行く秋の悲愁よ。

刈草の黄なるもまた
紅の畠野の花々
疲労と成熟と
なにかある・・・・
私はいま生きてゐる。 

☆ここで「なにかある」は反語。何もない。
この小説は一筋縄ではいかない。

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11月25日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年11月26日 | SNS・既存メディアからの引用記事

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昭和50年代の海外あちこち記 その2   バングラディシュの肥料工場建設サイト出張記・1979年12月

2022年11月25日 | 昭和50年代の海外あちこち記
 
 
 
1979年12月、 バングラデイッシュのダッカから汽車に乗って奥地にある肥料工場の建設サイトへ出張しました。
 
1、 バングラデイッシュの奥地に世銀の資金で国営肥料工場の建設が計画され、国際入札に参加した結果、工場内の製品搬送設備一式を落札しました。
 
 工事が始まりサイトへ3人の据付指導員が派遣されました。サイトの下請業者には国際電話が設置されておらず、
テレックス以外は週に一回ほど一日1本だけ走る汽車に乗り、首都ダッカにある商社のオフィスまで行って 何時間も電話がつながるまで待って日本と連絡していました。
テレックスも原稿をサイトからの列車託送便でダッカに送り、商社のダッカオフィス経由打電ですからやりとりが2日かかります。
 
派遣した社員との連絡の行き違いも重なり、元請けのイギリスのエンジニアリング会社の現地からも要請があったので、
上司から諸件連絡と現地慰問を兼ね技術部門の松木技師と二人で現地へ行けとの指示を受けました。
 
 成田からは、バンコック経由でダッカに入ります。バンコック空港の隅の方にいつクリーニングしたかわからない薄汚れた飛行機が駐機しています。
我々は国営のバングラデイッシュ航空のチケットを持っており、この飛行機に間違い有りません。
 
飛行機の中もスパイスの匂いが染み付き、汚れが壁やシートに目立ちます。きっと清掃代の予算がないのでしょう。
二人ともに無言で出来るだけ機内のどこにも触れる部分が少ないように身体をすくめて座りました。疲れた・・。
シンガポール航空でのバンコックまでの飛行とは天と地の差です。世界最貧の国に行くんだと実感しました。
 
余談ながら、どこの国の空港も飛行機から外に出るとその空港の匂いがします。
 
シンガポール空港のシャンツアイ(香菜)の匂いのように。(行った人はご存じのように、彼らはどんな料理にも最後に三つ葉かパセリのようにこのハッパをのせます。
シャンツアイは最初あぶらむしの臭いだと思いましたが、すぐに好きになり今も種を買って、夏は家のプランターで栽培しています
ボク以外家族の誰も食べませんが・・)
 
また、台湾の高雄空港の単車の排気ガスの匂いのように。(20数年前、まだ庶民のマイカーは単車で街中を単車が走りまわっていたころの話です。
休日には奥さんと子供3人くらいを満載して一家全員が一台の単車に乗っている家族をよく見かけました)
 
 ダッカ空港はドアが開いて機外の空気が流れ込んだ瞬間、ああここは下水道設備がないんだと思うあの匂いでした。
 
子供のときは日本でも映画館やあちこちいつも匂っていた臭いですが、このところ無くなっていたので
町中の空気に24時間漂うこの臭いは懐かしさを通り過ぎて子供のころ食物がまだ食べられるかどうかの判定係を家でやらされていた
鋭敏な嗅覚の持ち主の私には刺激が強すぎて頭が痛くなるほどでした。
 
 2、本案件の扱い商社のダッカ支店に寄り、その日はダッカに1泊して翌朝商社の車で駅まで送ってもらいました。
首都とは言え高層の建物はほとんど無く街の中は貧しい服装の人達と人力車で一杯です。車はミゼットみたいな小さな車が少し走っています。
 
 商社の人の話し:この国は金がなく民間の仕事は皆無で、時々政府の官庁へ行くのだけが私の仕事です。
各社の駐在員も3年間の任期をクーラーの効いたオフィスとホテルの行き来だけでただ病気にかからぬようじっと帰国の日が来るのを待っています。
危険地手当てが悪くないので日本に帰ったら家の頭金になります。そうでもなければこんなところに来たいやつはいません。
町をあるくなんてことは危険で汚くて考えたこともありません。
 
 華の商社マンも色々いるのだなー。しかし前線の人の本音だろうなーと、どこの国へいっても誰とも必ずする雑談を交わしながら思いました。
 
 
3、翌朝、ダッカ駅まで商社の車で送ってもらい、二人は構内に入りました。ホームには製造後5、60年くらい経ったような客車と貨車をつないだ列車がいました。
中は満員で、硝子も無く屋根の上にも荷物を持った人が溢れています。勿論貨車にも人が一杯です。
 
事前にエンジニアリング会社のフォスターフィーラーUKの現地事務所に届けを出していたので、我々は最後部に1輌つながれたF社の専用貸切車両に乗りました。
乗客は我々を含めて4、5人です。バー付きのボーイ付きの贅沢な車両です。
独立前に支配していたイギリス人が使っていたのでしょう。
 
 列車は長い鉄橋を何回も渡り、首都から離れていきます。鉄橋は線路があるだけで柵も無く屋根の上の人のことが、気になります。
汽車が古くて時速30kmくらいでしか走らないのが救いです。サイトがある駅までに何度も停車しましたが、止まる度に子供の売り子が列車全体を取り囲みます。
バナナ、水、お菓子類、食べ物、なんでもありです。男の子も女の子もいます。大きな声を張り上げ精一杯の笑顔でニコニコ笑いかけます。
ほとんどのものが1単位日本円換算で4円とか5円で買える値段でした。
 
4、サイトに近い駅に指導員が迎えて来てくれていました。
 
サイトに到着し、FW社の現地本部オフィスで先方の責任者に挨拶をした後、ゲストハウスにチエックインし滞在中のゲストルームをもらいました。
それから当社の納入設備の据付け現場に案内してもらいました。稼動後の運転要員のトレーニングも契約範囲でしたから、バングラデシュ人が10数名、
事前に日本に来て訓練を終えサイトに詰めていました。日本でアテンドした顔なじみの何人かが懐かしそうに挨拶をしてくれます。
 
リーダーだったハッサンさんが隅っこの小さい部屋で本来は自分の国の所有の施設なのに大きなイギリス人の現場監督や業者の連中の中で、
なんとなく遠慮がちに、はにかんだ笑顔を向けてくれました。
 
広大な建設現場は高さ2.5mほどの城壁のような壁がぐるりと取り囲んでいて中には門衛が許可しないと入れません。
マンション、教会、プール、ダンスホール、図書館、映画館が最初に作られていて一つの町のようです。
 
ここに家族で派遣されているイギリス人中心のヨーロッパ人からなるエンジ会社、コンサル、建設業者が多数、工事の進捗にあわせて、
入れ替わり住んでいます。行く前に想像していた工事現場の概念から全く違い、面食らいました。
 
周囲の僻村と隔絶していてバングラデシュにいる気がしません。イギリス人は植民するときいつもまず、
生活インフラ、コミュニテイ造りから始めると本で読んではいましたが、世銀の金で請け負っている工事の現場でも全く同じなんだ、
連中には日本のような仮の現場ハウス生活の概念はないんだ、とちょっとした衝撃でした。
 
 日本人が払っている税金も世銀に供出され、バングラデシュ人は何十年もかけてこの建設資金の借金を返していくのです。
 
5、FW社のスーパーバイザー・現場監督
 
1)彼らはエンジ会社に職種別に個人登録をしていて、電話で今回こういう国でこういう仕事があるが契約するか、
という電話問い合せがあると都度応じるかどうか内容を吟味して回答する。
 
 3回か4回問い合せを受けて応じないとリストから削除される。だから条件がそれなりの間に応じないととんでもないサイトの長期の仕事しか声がかからない。
聞いた人は前はコンゴの発電所建設のサイトへ行っていた。アマゾン上流の病院建設に行っていた人もいました。
 
2)暑いせいもあるがほとんどが上半身裸で現場におり、倶梨伽羅紋紋のおっさんも沢山いて、ある人の極彩色の蛇の刺青があまり見事だったので、
おもわず「Pretty Tatoo!」と声をかけてしまい、駐在社員から「因縁つけられたらどうするんや」と後で怒られました。
 
しかし自分としては彼は誉められたという感じで笑っていたと思ったのも事実です。
 
3)奥さん連中は日がな何もすることがなく、一日中プールサイドでカードをするか酒を飲むかでほとんどがアル中や・・とのことでした。
あれ以来鯨のような中年白人女性の水着姿に目を向けたくなくなりました。
 
4)毎晩ダンスパーテイがあり、トラボルテのサターデイナイトフィーバーばりのダンスをやる 新居浜工場から派遣された当社の技術員の岡君は
奥さん達の人気者になっており、旦那方にも名前が売れている有名人で 芸は身を助けるとはほんまやと思ったことです。
 
6、エンジ会社のFW社の現地最高責任者は背の高いアメリカ人でした。奥さんは小柄な日系アメリカ人で、
サイトで苦労している当社の3人と一緒に自宅の夕食に招待してくれました。
 
 心尽くしのテンプラみたような一品もテーブルにありました。はっきりは言わなかったけれど、
会話の中でヨーロッパ人のアメリカ人に対する見下しとアジア人への蔑視という2重のご苦労をされているように感じました。
 
 それでも現場の最高責任者の夫人ということで、小さな体の背骨をピンと伸ばし、狭いサイト社会で頑張っておられた様子は忘れられません。
 
  まず初日に、持っていった日本食を3人に渡し次の日から情報連絡の行き違いの整理や、届いていない部品の確認、工程確認などの打ち合わせをし、
悩み事を聞き引き渡しまでの健闘をお願いし最終日となりました。
 
 7、何日かいて帰国の日が来ました。
 
 ダッカ行きの列車は夜の7時くらいのダイヤでした。関係先に挨拶をすませ、3人に車で送ってもらい最寄りの駅に着きました。
駅に着いたと言われても、その夜は星もなく真っ暗やみで本当に何も見えません。
 
ここで汽車が来るのを待とうと言われた場所だけに5蜀?くらいの豆電球がぶら下がっていて、それが駅の唯一の明かりです。
人の顔は勿論見えず、煙草をつけるライターの火がある時だけそこに人がいることがわかります。
ひとしきり皆と話し、そのうち沈黙の時が流れました。
 するとどこかからずるっずるっという音が聞こえ、だんだん近づいてきます。
 
ふと何かが靴を叩きました。足元を見ると暗闇に少し慣れた目に、人が這っているようなカタチの白い固まりが見えました。
 
それが包帯を全身にまいた人間だと理解できた時・・・・。あちらからもこちらからも十数人の固まりが、こちらに 這って来るのがぼんやり見えた時・・・・。
 
 思わずワーつという叫びが口から出て、身体は棒立ちになり息ができませんでした。
 
「病気の乞食や、悪さはせえへん。じっとしとき」と経験者の岡君の声がしました。
 
恐らく顔面蒼白、脂汗が浮かんでいたはずですが、それも人には見えない暗さです。何とかその場を離れ、列車が到着するまでに聞くと、業病にかかった人は村に住めなく、
人里離れたこの駅舎に集まって乗客のお布施を頼りに生きている。立って歩ける人はそれでもあちこち貰い歩くが、末期で這うしかない人達がここにいるのです。
 日本ではこの病気は完絶し先年法律も改正され、隔離されるという悲劇はなくなりました。
 
包帯の中の5蜀の電灯の明かりを受けて見上げたあの眼はいまでも忘れられません。
 
 何年も経ってから家でテレビを見ていたら、マイケル・ジャクソンの「スリラー」のビデオクリップが流れました。
不謹慎かも知れませんが無意識にテレビを消していました。
 
8、やはり数人しか乗っていない専用車輌で、二人はほとんど無言でした。
 
窓から見るともなく外を見ると、小さな焚き火のようなものが延々と線路の横に続いています。
 
よく見ると焚き火の向こうに掘立小屋にしか見えない家が続いています。夕食の時刻なので、煮炊きをしているのかと想像しました
 
ほとんどの土地が海抜0メートルの国土で、来る時も大きな木は全く見えませんでした。
 
 女性の一日の仕事の大半は燃料と飲料水の確保だと読んだのを思い出しました。
燃やすものが乏しい中、大事に燃やして夕飯の支度を家の前でしているんだと思いました。
 
 ダッカを出て、またバンコックで一泊し乗り継いで成田に帰ったはずですが、
覚えているのはバンコックで辛い海鮮鍋をビールで流し込んだことくらいです。
 
(本稿は2000年前後に作成してメールで友人知人に送付した。)
    
  注 画像はネットから借用 出張当時の画像ではありません。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
2022年05月05日追記
 
バングラデシュの今を描く最近の映画 「メイド・イン・バングラデシュ」☞ こちら
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神戸労災病院の大楠                      11年前の今日 2011年11月25日の本ブログに掲載

2022年11月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

2か月に一度の冠動脈ステント施療後の検診。今日は心電図と診察。異常なし。

しかし6種類の薬の量は変えないとのこと。病院の大楠はいつ見ても頼もしい。


病院に車を走らせる途中にこの看板がある。もう30年以上ここに設置されている。この看板から下に行くと菱の紋の面々の総本山がある。

 

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映画“「密約」外務省機密漏洩事件”を観ました。

2022年11月25日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年05月01日(土)「阿智胡地亭の非日乗」掲載

若き日の吉行和子さんの、何となく艶めかしい横顔が写っているスチール写真をたまたま見たばっかりに、映画「密約」を見にいきたくなったある日、

朝のメールを開くと、『「十三の第7芸術劇場」へ行きたいんやが、場所知ってる?「密約」やってんねんけど一緒に観に行かへん?』というメールが入ってました。

発信人は寝屋川の我がリスペクトする御仁で、つい最近心臓のバイパス手術を受けて、三途の川の寸前で渡るのをやめて、この世に舞いもどってきたお人です。

 映画は千野皓司監督がテレビ朝日開局20周年記念番組として1978年に製作したテレビドラマですが、じっくり丁寧に作りこまれた出色のドラマでした。

俳優陣にはNHKの連続テレビドラマ「事件記者」の主な出演者がかなり登場しており、懐かしくてたまらない面々でした。

そして若き日の吉行和子さんの妖しい魅力は期待通りでもありました。ほぼ30年前の日本のテレビドラマの水準は現在のものとは、全く別物だったのだと感じました。

映画の内容と事件の本線は、原作者の“澤地久枝”さんが映画の公式HPに書いている「レビュー 怒りと悲しみ」に尽きますので、以下に全文を引用させてもらいます。

この文章は1988年にこの映画が、一度劇場公開された折に書かれたもののようです。

引用開始・・「『密約』はものかきとしてのわたしの2冊目の本です。

国家公務員法違反の裁判が刑事か民事かわからないという無知の状態で裁判を傍聴にゆき、惑いながらとうとう1冊の本を書くところまで自分を追いつめていった日々を、

いまなつかしく思い出します。千野監督、福富プロデューサー、そして長谷川公之氏の脚本。

モーニングショーの「女の学校」のゲスト出演などで縁の深かったテレビ朝日でドラマ化され、1冊の本はわたしの手をはなれ、独自の作品になりました。

それから10年の時間が過ぎています。

製作の当初から、いずれ劇場公開したいということで、フィルムのサイズも選ばれながら、実現までに10年もかかったということになります。

製作にかかわったSHPは、亡くなった向田邦子さんが属していたプロダクションです。

有名な遅筆の向田脚本をシンボウづよく待った中村さんが、この企画の中心にいて、テレビの放映後、向田さんがはずんだ声で電話をくれた頃のことも忘れられません。


『密約―外務省機密漏洩事件』という1冊の本に、わたしは日本の民主主義の悲しい貧困、不毛の精神土壌への怒りをこめました。

責任を問われ、裁かれるべきであったのは、沖縄返還交渉において米国政府と密約を結び、国会においても欺瞞に終始した佐藤栄作内閣と外務省首脳であったはずです。

しかし、検察側の起訴状に「ひそかに情を通じ」「しつように申し迫ったうえ」云々と書かれた新聞記者と女性事務官の個人的問題にすりかえられ、

「密約」はついに不問に付されたまま現在にいたっています。

すりかえを許したわたしたちの側の弱さに、わたしは歯がみする思いでした。恋愛も不倫も、個人的な問題に過ぎません。

国民を欺いた政治家の責任の大きさと重さとは比較のしようもない「情通問題」の目つぶしが効果的であった日本の社会。

わたしは半ベソをかいているような怒りにかられて、素朴な筆致でむきになって原稿を書いています。

しかし、この1冊によって新聞記者を志したという記者の取材を何度も受けることになって、ものかき冥利の経験もかさねました。

ある種の正義感が四十代早々のわたしをかりたて、むきにさせたところがあります。現在のわたしはもうすこし老練でしたたかかも知れないし、あまり変っていないともいえそうです。

テレビドラマの「密約」は、ドキュメンタリータッチの爽やかな志高い作品でした。

明るい美しい画面が印象的でした。心のこりは、系列局の関係で沖縄では放映されなかったことです。

このテーマがすこしも古くはならず、今日的な意味をもちつづけていることに、わたしの痛恨があります。

映画上映の道が10年目に開かれたことで、沖縄の人々にも見てもらえる可能性が生れました。それを喜びたいと思います。

10年の間には多くのことがあり、「密約」という言葉は日本の政治の体質が論じられるとき、日常的になってしまった感じさえあります。

とうとう、国家機密公開の法制化はなされぬまま現在にいたりました。たとえばアメリカの場合、国家機密は一定年限ののちに公開の原則が確立されています。

同時に、表裏の関係のものとしてプライバシー・アクトがあって個人の秘密を保護しています。

「密約」事件以来、官庁はやたらに「秘」の判を書類に押すようになったといいます。

最高裁は西山記者を有罪とした控訴審(第一審では無罪)を支援し、上告棄却としましたが、それでも取材の自由は原則的に認める判断を示しています。

しかし、ますます強固になる国家機密の壁によって、ジャーナリストの仕事は、10年前に比べてさらに困難なものになったという実感があります。

この上さらに国家機密法を制定しようという動きが執拗にくりかえされ、有権者はその良識と知性、権利意識を試されている現状ではないでしょうか。

わたしはこの16年間に28冊の本を書き、かつての陸軍および海軍が極秘資料として封印し、闇に消し去った歴史事実をさぐる仕事に出会いました。

その結果わたしに投げつけられた非難は、「アカ」よばわりであり、左翼作家とも書かれました。


旧憲法時代の、無条件降伏によって完全に解体した国家軍隊の極秘資料でさえ、それに係わることは、いまもなおタブーであるかのようです。

時々刻々、わたしたちの知らない歴史のページがつみかさねられてゆきつつあることを思わずにはいられません。西山・蓮見両氏が身柄を拘束されたあと、

昭和46年4月14日の「毎日新聞」夕刊に、大島渚氏が書いています。

「言論の自由というような抽象的な問題に立戻ってはいけない。佐藤首相の人間的反応にふりまわされてはいけない。

問題は、あくまで佐藤内閣が私たちに何をしたかだ。知る権利などというのは自明のことだ。

極秘資料のスッパ抜きに次ぐスッパ抜きを!今こそ日本中を、スッパ抜きした極秘資料でもってあふれかえさせること。……」

 このとき、わたしはまだ大島さんと面識はありませんでしたが、心から共感しました。大島さんはまだ30代。事態の本質を適確に見抜いています。

朝日新聞支局襲撃、記者の殺傷という事件に象徴されるように、政治が右旋回するときに標的となるのは「言論」です。

半歩でも後退すれば、テロリストたちの意図は達成されます。

問題の本質はなんであるのか、確認し直視しつづける姿勢をいまほど求められていることがあったろうかと思います。

そのよきテキストとしての映画「密約」を一人でも多くの人々に見ていただきたいと思います。

西山記者の弁護団中最年少であり、ドラマ化にあたって献身的な補佐をしてくださった西垣道夫弁護士が若くしてガンで斃れた悲しみをかさねて、

生きている人間のなすべきことを熱い思いで考えています。」引用終わり。

◎ なかったはずの「密約」はもし政権交代がなかったら、外務省は今もなかったこととして押し通していたのは間違いありません。

仲間内のなあなあで事をすすめ、チエック機能が働かない運営体というのは、それが優秀なお歴々がおられる国であろうと役所であろうと会社や学校であろうと、

「都合の悪いことはなかったことにし」「臭いものには蓋をして」世渡りしてる、あのエエ加減な落語家“阿智胡地亭 辛好”とよう似てるなあと思いますわ。

 しかし、つい先日80歳で亡くなった元外務次官の村田良平という人のように、実名で「密約はあった」と公にし、

「国民に嘘をついたままにしておくのはいけない」と言った、古武士のような志を持つ漢(おとこ)が日本の「くにたみ」の中にいるのを知ると、

この列島国は捨てたものではないと思います。

◎ところで、寝屋川の御仁とは、大阪のNPOに所属していた7,8年ほど前に知り合って以来親しくしてもらっています。

  そしてこの中村さんとは、昨年の秋、大阪の九条の映画館「シネ・ヌーヴォ」で「ボヴァリー夫人」、梅田の「テアトル梅田」で「副王家の一族」を一緒に観にいきました。

見終わってから、人と今見た映画のことを肴に軽く一杯やれるのは、映画観劇が二倍楽しくなり、ありがたいことです。

やはり時々映画への声かけがある千明さん、そして今回の中村さん、いつもお誘いありがとうございます。

また映画フアンの方どなたでも、いつでも声かけをよろしく。

『密約-外務省機密漏洩事件』2010年4月10日公開 映画予告編

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浅草橋の蕎麦の店「さかき」をランチで再訪した。やはり旨い。

2022年11月24日 | 食べる飲む

座っていると、店に流れる空気に この店を切り盛りする 若夫婦のひたすらさが  静かに伝わってくる。

今回は二人ともごぼう天のぶっかけを頼んだ。丼が置かれたとたん 新ごぼうの香りが  立ち上った。

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須磨離宮公園の庭と植物園   その1           12年前の今日 2010年11月24日の本ブログに掲載

2022年11月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ

何年かぶりに須磨離宮公園に行きました。元々は皇室の離宮でしたが、現在は神戸市営の公園です。

最寄駅から下車駅の山陽電車「須磨寺駅」まで約50分ほどでした。

入場料は400円ですが、私の年齢の神戸市民は無料です。神戸市に申請したパスを初めて利用しました。








4時45分から紅葉のライトアップもありました。



 

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映画「マイレージ、マイライフ」を観ました               10年前の今日 2012年11月24日の本ブログに掲載

2022年11月24日 | 「過去の非日乗&Shot日乗」リターンズ
2010年04月29日(木)「阿智胡地亭の非日乗」掲載


アメリカには会社が直接社員に退職通告をせずに、その通告業務を外注することがあるらしい。

請負会社のウリの一つは退職通告者に不当解雇という告訴をさせないで、うまく首切りをするという専門性にあるらしい。

 つまりはリストラ執行ビジネスである。

この映画の主人公はそのアウトソーシング会社の社員で、アメリカ全土を一年322日飛行機で飛び回って首切り通告をしてまわっている。

そして彼の個人的な目標はマイレージを貯めることである。

 映画は、最初から画面展開が心地よいテンポですすんで、退職通告を受ける男女会社員の悲痛な反応が次々大写しされていきます。

主演がジョージ・クルーニーということで観に行きました。

まさに役柄にぴったりのはまり役で、なかなかの俳優さんだとあらためて思いました。
 
 会社は優秀な女性新入社員の提案で、退職を通告する相手に直接会わずに、テレビ電話でその業務をやるようになるのですが・・。
 
旅がらすの中年独身男の話でもあり、家族の絆の再確認の話でもあり、熟年男女の割り切った交情の話でもあるという、結構盛り沢山のテーマが詰め込まれていましたが、

脚本がよく出来ているので、最後まで興味をつないでくれる面白い映画でした。
 
 不景気が続く現代アメリカの企業社会の一面をシビヤーかつコミカルに画く、典型的なあるいは懐かしのアメリカ映画という映画でした。

カネを取れる作劇としては一級品だと思いましたが、内容はアホらし!とハラがたつ人も多いと思いますので、映画館に行くかどうかは、公式HPで予告篇を見てから決めてください

 原題は「Up in the air」(宙に浮いてor宙ぶらりん)。

まさに主人公の人生を表現している題名だと思いました。

「マイレージ、マイライフ」予告編

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11月23日に目に留まったSNS・メディアの記事

2022年11月24日 | SNS・既存メディアからの引用記事

いずれも画像をクリックすると本文のサイトに飛びます。

 

 

 

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昭和50年代の海外あちこち記 その1     忘れられない二人、香港空港とグラスゴーのホテルで。

2022年11月23日 | 昭和50年代の海外あちこち記

1)香港空港のトランジットルームで   (日本語ってこんなにきれいな・・


昭和50年代のある年、香港空港で乗り継ぎのため待合室にいました。

その時、70歳少し前くらいに見える女性から「日本の方ですか?」と日本語で声をかけられました。

「そうです」と答えると、懐かしそうに、

「東京もすっかり変わったのでしょうね。 わたくしは戦争前に東京の女学校に行っておりました。

現在は台湾の南部の町で暮らしていますが、久しぶりに日本の方とお話をいたしました。

今回の旅行は、シンガポールの親戚を訪ねました。今はその帰りです。」と言われました。

時間が来て長くお話できませんでしたが、節度のある 美しく格調の高い話し方でした。

小津監督の「東京物語」などで原節子が喋る日本語の世界以上にも思えました。

わずかな時間の出会いでしたが、この台湾の一女性の生きてこられた道筋や現在の生活までおもわず想像し、いまだに忘れられない一人です。


2)グラスゴーのステーションホテルで。

昭和50年代のある年、出張でスコットランドのグラスゴーへ行きました。夕方、仕事がすんで部屋に戻るとメイドさんが魔法瓶の水の補給に来てくれました。

ほっぺたの赤いまだ少女のような人でした。

 用事が終わったあと、何か話しかけたいそぶりでドアのそばにたたずんでいるので、「なにか?」と声をかけると、

はにかんだ笑顔で「どこから来たのですか」と言いました。東洋人は珍しいのでしょう。

 日本からと答えると、

「遠い遠いところから来たのですね、私は田舎から出てきて家族と離れて、スコットランドで一番大きな都会に勤めることが出来たけど、

 きっと一生ロンドンまでも旅行することはないと思います。このようにあちこち旅行するのですか?」と言いました。

 仕事で時々外国へ行っていると話すと、

「私には想像も出来ません、もしそんな事がいつか出来たらどんなにいいでしょう」と窓の外の夕暮れの空にふっと視線を向けました。

        この僅かな何分かの彼女との会話のおかげで、通り過ぎの身にグラスゴーにも日本と変わらぬ人達が暮らしているんだなあと、

今でも地名を見たり聞いたりすると、街並みとあの少女のことを思い出します。


* 画像はインターネットから借用。阿智胡地亭が現地に行った当時に撮影したものではありません。

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 印旛沼の里山住人の「壱岐、対馬の旅」。シリーズ(2) 対馬、日露戦争 その1

2022年11月23日 | 下総の国の住人Kさんの寄稿アルバム集

☝ 好天に恵まれて Kさん夫妻は 対馬の展望台から約50㎞の距離の韓国釜山の街を眺めることが出来ました。

シリーズ(2)開始 ☞ 対馬北東部の上対馬西泊地区に日本海海戦記念碑があります。

1kmほど離れたホテルに宿泊したが時間がなくて行けてはいません。

  日本海海戦記念碑(Webより)

1905年5月27日対馬と壱岐島の海峡を進んだロシアバルチック艦隊と、

韓国鎮海の軍港を出港した連合艦隊は対馬沖で激突し連合艦隊が大勝した。

この日本海海戦記念碑は撃沈された バルチック艦隊のウラジミル・モノノフ号の水兵143名が

ボート4隻でたどり着いたところを地元民が水、食料、宿を提供し保護したことの記念碑という。

以下に今まで旅してきた中で日ロ戦争に関わる旅先を纏めてみたい。

a. ウラジオストク

バルチック艦隊の目的地であったが連合艦隊に撃破され3隻だけがウラジオストクにたどり着いた。

1893年には鉄道が開通しており、1912年には現在の駅舎が完成している。

  ウラジオストク港

  ウラジオストク駅

bポートバイカル

日ロ戦争が開戦した1904年2月の時点でシベリア鉄道はモスクワーポートバイカル、スリジャンカー満州間が開通していた。

バイカル湖南岸のポートバイカルースリジャンカ間90Kmは断崖、絶壁の難工事で未だ工事中であった。

この区間はバイカル湖上を夏は船で、冬は砕氷船で輸送を確保していた。

ポートバイカル駅舎は2005年に100周年を記念して建て替えられ現在は駅舎、ホテルとして機能している。

 ポートバイカル駅

 ポートバイカル駅構内にて

日本軍は軍資金不足や準備不足もあったがシベリア鉄道が全線開通すると輸送力が格段と上がり

不利となることから開戦に踏み切ったということらしい。

ロシアは開戦の翌日氷上鉄道の起工式を行っている、氷上鉄道は開通したが何度か氷が割れて

機関車、貨物、人も沈んでいる。

シベリア鉄道が全線開通したのは1904年9月、日ロ戦争の終戦は1905年9月である。

ポートバイカルからモスクワ方向に60kmほどのところにイルクーツク駅がある。

 イルクーツク駅

この駅は1998年にモスクワからの開通鉄道が開通、駅舎は1906年に建て替えられその後増築され現在に至っている。

c.旅順

2006年6月大連へアカシアを見に行った、旅順への1日ツアーがあったので参加した。

当時旅順は重要な軍港であり外国人の立ち入りは規制されていたが、日露戦争の関連施設の一部は

立ち入りが認められていた。ただし見学場所、ルートは当局より指示されていた。

現在は規制が解除され旅順駅、旅順監獄なども自由に行けるらしい。

 まずは水師営会見所、1905年1月ロシア軍が降伏して停戦条約が締結された後、乃木将軍と

ステッセル将軍が会見した場所です。

 水師営会見所

次は203高地、旅順要塞総攻撃の激戦地です。

頂上には慰霊碑、大砲などが有りかすかながら旅順港を見渡すことができた。

  203高地より旅順港を望む

 203高地にて

最後は東鶏冠山北堡塁、203高地を占領しても旅順港を守るロシアの堡塁は3か所健在であった。

そのうちの一つが東鶏冠山北堡塁であった。

強固な堡塁に対して地下に坑道を掘り爆破する作戦をとり、1905年1月1日爆破。

これによりロシアの旅順要塞は爆破され日本が占領した。

  東鶏冠山北堡塁

d.対馬旅行で新たな日ロ戦争に関わる場所を通過した。

日清戦争で勝利した日本は三国干渉を受け日本軍はいずれロシアとの戦争は避けられないと判断、

対馬の西入江の浅茅湾の水雷艇の基地から東へ抜けるためダイナマイトで山を爆破し瀬戸を作り1901年に完成した。

日本海海戦では水雷艇がこの瀬戸を通り東側へ移動している。

ここには橋を作り万関橋とよばれ、近くには瀬戸を守る陸軍の砲台も設置された。

伊藤博文はこの水雷艇の基地を視察していることから外国から日本を守る重要な場所と認識していたのだろう。

 万関瀬戸

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