「人形の腕や足などの部品が無数に置かれているコッペリウスの家。帰宅したコッペリウスは、スワニルダたちを追い出すと、コッペリアとシャンパンで乾杯。愛しそうに彼女の手を取りワルツを踊る。だが何をしてもコッペリアは無表情。それもそのはず、彼女はコッペリウスが作った自動人形だった。ダンディな紳士コッペリウスの秘密はそれだけではない。彼は、若いスワニルダに想いを寄せ、彼女そっくりに作った人形で、孤独を慰めていたのだった。
そこにコッペリアに会おうとフランツが忍び込んできた。コッペリウスは、彼を眠らせ、その魂を抜き出しコッペリアに注入。彼女を人間にしようというのだ。」
「isolation は,いま大体は「隔離」と訳していますが,「分離」と書いてある本も多いと思います。・・・
・・・普通は,観念と感情というのは結びついているものですね。・・・ところが,それを分けてしまって,観念だけが意識に上ってくるようにして,それにくっついているはずの感情のほうは切り離して押し込めて,自覚しないようにしておくやり方です。・・・
・・・隔離の病理の例をあげると,フェティシズムといって,モノを集める。集めるのはたいてい性的な,異性に関するモノ,女性の下着を盗んだりして集めるわけですよね。」(p65~69)
人形と乾杯したり踊ったりするコッペリウスが薄気味悪いのは、人形という無生物を愛でるところにフェティシズム傾向が感じられるからである。
これが極限まで行くと、「死」(=身体と魂の「隔離」)の愛好、つまりネクロフィリアになるわけで,その典型が川端康成の「眠れる美女」である。
これだけなら、コッペリウスは「気味の悪い人」で終わるのだが、彼は、コッペリア(人形)にフランツの魂を注入しようとした。
つまり、コッペリウスは、フェティシズムやネクロフィリアの世界にとどまる人物ではなかった。
このくだりは、おそらくホムンクルス にヒントを得たものであり、コッペリウス博士は、「造物主」になることを夢見ていたのかもしれない。
すると、川端康成よりは健全ということになるのではないだろうか?