明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



ある歴史書を読んでいて、A級戦犯で絞首刑になった広田弘毅が、福岡の出で、国家主義団体、玄洋社出身と知る。 以前、東大医学部の標本室で、マイケル・ジャクソンが欲しがりそうなコレクションの数々の中に、死体国有論を唱えた夢野久作の父親、杉山茂丸の骨格標本が、ガラスケースの中にぶら下がっているのを見た。隣には仲良く奥さんもぶら下がっていたが、私は、刺青をなめして額装したものや、人間の頭から生えた角、一つ目の胎児、浅沼稲次郎の脳味噌などが見たかったわけではなく、高橋お伝の陰部や、大隈重信の片脚はここにあるのでは、と期待したわけでもない。ひたすら巨人力士、出羽ヶ嶽文次郎の骨格標本が見たかったのである。青山脳病院の斉藤紀一が、日本一頭のいい男と、強い男を養子にしようとしたのが、斉藤茂吉と出羽ヶ嶽であった。出羽ヶ嶽は場所を取りすぎるせいか、そこにはなく、かわりにあったのが杉山茂丸であった。ケースには広田弘毅の名前の入ったプレートが付いていたのだが、総理大臣として、「死体をくれて、どうも有り難う」。という意味だとずっと思っていたのだが、茂丸とは玄洋社つながりだったのを知った、というわけである。ただそれだけの話だが、それにかこつけ、妙に筆が走った。


01/07~06/10の雑記
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