明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



9日~12日のシネマフェスティバルで展示するため、近所の古石場文化センターに永井荷風を搬入する。以前世田谷文学館に展示した、七輪に焼け焦げ畳の荷風である。小津は荷風ファンであり、荒川の描写などは荷風の影響もあったようである。 小津を展示できたら良かったのだが、決まったのが遅く、小津の展示は2月から3月ということになりそうである。荷風は畳の上に和綴じの本を乱雑に配したのだが、これは和綴じ本の修理など心得のあるTさんに、小さな本を作ってもらった。私は粘土ならともかく、こんな細かい作業はからっきしである。その後のTさんは製本はもとより、古い小型の活版印刷機まで入手してしまったそうである。今回も展示用の小津にもたせる台本をお願いしようと思っている。文化センターには、先日、小津ファンのスコットランド人が来たそうだが、小津映画の中でも好き嫌いの分かれる『東京暮色』が一番好きだといっていたらしい。展示物の中には、江東区に住んだという斎藤高順の、鉛筆による手書きの楽譜『東京物語』があった。

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小津の全身を作りはじめる頃合である。例によって、始めるまでの助走が長い。グズグズだらだらして、作りたいのをワザと焦らすという、自分でも不可解かつ、おなじみの行動である。さて始めようという時に飲みに出かけたり、自分でもいいかげんにしろといいたいが、これが長いと、集中力が増し、気がついたら完成しているのである。こんなときは、たとえ野暮用で中断することになっても、まったく問題なく、すぐ復帰でき迷うこともない。この期間が長いと、どうやら私はやる気だなと、人事のように思ったりするのである。 小津といえば白いピケ帽に白いシャツというイメージがある。晩年は、作品を年に一本のペースで撮っており、タイミングとして撮影が夏になることが多かったからであろう。もしくは、カーディガンにマフラーの、どちらかにしようと考えている。

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芝浜  


小津作品『東京の宿』(1935)を見る。土橋式という音響版(音楽はあるがセリフなし)喜八ものといわれる一連のシリーズである。仕事探しの親子。断わり続けられる殺伐とした砂町辺りの風景。野犬を捕まえると四十銭になる。やはり娘を連れ、仕事を探す岡田嘉子が美しい。子供の急病のため酌婦に身を落とすが、『風の中の牝鶏』の田中絹代も、息子の急病で身を売ることになった。岡田嘉子は2年後にソ連に亡命することになる。
小津はせっかく頭まで作ったので、ピケ帽は着脱可能にした。帽子も粘土なので、ギリギリまで薄く作らないと、ピケ帽が柔らかな素材なだけに、頭に乗せた感じになってしまう。帽子を被せると影ができるので、撮影場所を選ぶことになるだろう。 ティアラ江東にて、春風亭小朝、林家正蔵2人会。会場で咳が出てもと、咳止めスプレイと、トローチを買い、4時過ぎにT屋に行くと、Hさんすでに飲んでいて、まだ時間あるからと一杯いただき、自転車にて会場に向かう。 ロケット団の漫談のあと春風亭小朝。騒動の件には一切触れず。『試し酒』はジェロの演歌を聴くが如しで、残る物なく少し寝る。休憩後、林家某の後に林家正蔵。騒動の件にちょっと触れる。そして『芝浜』。先日TVで立川談志のを聞いたばかりである。ホール内が乾燥しているので喉スプレイをすると、何かを飲んでいるのと勘違いでもしたのか、女性職員が近づいて来て清美川のクロスチョップのようなポーズで注意を受け、むかつく。爆笑は弟に任せたのか?正蔵は真面目にやっていた。最近は人情話ばかりやっているようである。 木場に戻り、元旦から開いていた居酒屋で飲む。格闘技や落語について、いったい何様だ、というような勝手なことを楽しく話す。帰宅すると情熱大陸で立川談春。ここでまたチラリと『芝浜』。話には聞いていたがレベルが違った。

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お屠蘇気分半分に、のんびりと小津にピケ帽をかぶらせる。
正月など、世間が休みの間というのは、かえって作りやすい。人の形を作るなどという行為は元来、お天道様に申し訳ない類のものであろう。よって世間が休みの間は罪悪感にさいなまれることなく、心穏やかに制作できるのである。 もし近辺に恥ずかしそうに人の形を作っている人間がいたら、危険なので注意しなければならない。楽しそうに作っているようなら、単なる与太郎の可能性がたかく、安心してよいだろう。 雑記を読むかぎり、お前も楽しそうじゃないかといわれそうだが、本当のところを書いて、人を不快にしてもいけないという、私のサービス心が働いているか、危険だが与太郎でもある。のどちらかであろう。

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昨日は昼間から飲み始め、例年通りTVで格闘技戦を観て、YouTubeでスーザン・テデスキーを観ていた。オールマンブラザースのブッチ・トラックスの甥っ子がデレク・トラックスで、デュアン・オールマンはだしのスライドギターに感心しているうち、その姉さん女房、スーザン・テデスキーに横恋慕してしまったのが、昨年の暮れである。こんな歌を歌う姉さん女房が家にいるというのは、どんな気分なのであろうか。デレクのギターはチビの頃から凄いから仕方がない。男は技術である。
2時間ほど寝て目が覚める。演芸、映画、原節子ファンのブルースベーシスト谷口さんからメールが着ていた。正月は小津にちなんだ場所を自転車で探索しようと思っていたので、ヒマだったら御一緒にサイクリングでも、と誘っていたのである。 昼過ぎに、自転車2台連ねて木場を出発。混み合う富岡八幡、深川不動の永代通りをさけ、清澄通りから相生橋を過ぎ、勝鬨橋を渡り、築地市場へ。さすがに閑散としているが、波除稲荷神社には人が並び、場外では、チェーン店の寿司屋だけが、数店開けていた。そこから築地本願寺へ。子供の頃、ここの石段で遊んだという母に先日、本願寺が何度も映る小津の『長屋紳士録』(1947)を観せた。今は無き築地川で釣りをする子供たち。遊びというより食糧確保という感じである。周辺に何もなく、焼け野原だと思ったら、ここらには爆弾は一つしか落ちてないし、焼けてもいないと母はいう。つまり、今見ると、焼け野原のようにみえるが、もともとなかったわけである。次に聖路加病院。ここも小津映画ではおなじみである。聖路加病院のおかげで、このあたりは爆撃されずにすんだ。米軍は事前に爆撃しない旨ビラを撒いたそうである。 夕方冷え込んできたので木場に戻り、開いていた居酒屋で、趣味で十年以上手打ち蕎麦を学んでいる谷さんの話を聞きながら暖まった。喉が少々痛い。昨年末に、新橋演舞場で市川海老蔵に睨まれたので、1年は風邪をひかないはずなのだが。効力あるのは、口上の時の睨み、または親父の團十郎でないと効かないのであろうか。

01/07~06/10
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