明日できること今日はせず
人形作家・写真家 石塚公昭の身辺雑記
 



死の床で、あれやこれを作れば良かった、と身をよじり苦しむことを若い頃から恐れていたので、先の制作のことは、せいぜい3作程度にして、それ以上のことは考えず、途中挫折の可能性を低くする策を講じることにしたが、浮かんでしまうものは仕方がない。腹が減りゃ食いたいものが浮かぶのと同じで防ぎようがない。 私の描いた絵図。雲水姿の一休和尚を完成させ入院。入院中一休の『狂雲集』を読む。一皮むけた顔して退院。次の段階の制作へ。奮闘努力の末、ここに至ったのはあの時入院したおかげである。と遠くを見る目をし、己の不摂生をノーカウント化。



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小学校入学以来、始業のチャイムを無視して図書室を一時出禁になってまで人物伝の類に夢中になり、その挙句に人物を40数年作って来たけれど、常に対象は他人だったから気が付かなかったが、結局は“自分とは何か?”が知りたかったんだ、と思うに至った。それもこれも今のモチーフを手掛けるようになり、先日大燈国師の言葉を知っての話である。 死にそうになってガリガリになって退院して来た亡父が、スポーツ新聞を手に水戸黄門を観ていた時の違和感、ショックは、自分とは何か?などどうでも良さそうで、某漫画ではないけれど、それではまるで幽霊ではありませんか?という恐怖に近かった気がする。



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映画などは、いつどこで、また誰と観たかによって印象が変わる場合があるだろう。私が初めて女性と映画館で観た映画は当時ライオンの食事風景が話題となった『グレートハンティング』(75)であった。初めての入院で何を読むべきか。一休宗純の『狂雲集』は引越しの際、一休和尚を作ることになるとは夢にも思わず処分してしまった。はらわたの奥まで好色で詰まっている、と本人がいってる一休の一面に触れるべきかグズっていたので、この際にと、別訳版を注文した。〝お経を読んでいさえすれば、坊主なんてものは一生食いっぱぐれない。適当に恥をかき、無知を承知でいれば大金は入る。そこへもってきて男色に遊び、ついでに尼さんをものにしていれば、陽春(堺の陽春寺)の一室でほとばしる「白雪」だっていつもピュッピュと飛ばせて気持ちいいことかぎりない”『狂雲集』(松岡正剛の千夜千冊)



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一休和尚に草鞋を履かせる。小四で知った一休の〝門松は〜目出度くもあり目出度くもなし”が思いの外、死生観に影響を受けていたことに最近気付いた。自分のやることが〝自分とは何か“ということに繋がるのは結構なことである。 ところで、先日の造影剤のCT検査の結果、来週、生まれて初めて入院することになった。私が二十代でもっとも熱中したジャズマンはチャーリー・パーカーである。今だにこの世の音ではない、と考えているが、当初、セッションに参加しても、ドラマーにシンバルを投げられたりしていたパーカーだが、レスター・ヤングのレコードを携え山にこもり、降りて来たら演奏が一変していたという。十字路で悪魔と契約したブルースマンの話を彷彿とさせる。私はというと、一休宗純『狂雲集』を携え入院しようと考えている。


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それにしても、たとえば寺の開山様が頂相や頂相彫刻がいくつもあって、そのいずれもが別人の如く顔が違う、人の数だけ真実はある、とはいうものの、手を合わせる側は、何で平気でいられるのだろう.と私はどうしても思ってしまうのである。作る対象が作家だろうと僧侶だろうと人間である限り、アプローチの仕方は変わらない。 幼い頃から三遊亭圓朝を知る、鏑木清方が描く三遊亭圓朝が顔やプロポーションが写真と違うのは何故か、と迷えば気になって明治期の演芸誌をあさってみたり、写真がこうだからと、いって油断はしない。今後も日本人を騙し続けるだろうから、生きている間、ことあるごとにいってやろうと思うが、夏目漱石は痘痕だけでなく、鷲鼻を修正させていたし。という訳で、私如きがとは思いつつ、私なりの人物像を作って行きたい。



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一休禅師は、作家シリーズ以降で、様々な理由でポイントとなる人物になりそうである。小四からの行きがかりもあるし、その時目にした“門松は冥土の旅の一里塚”が私の死生観に多少影響を与えて来たらしいことも感じつつある。男専門で作って来たが、普通の顔ではないところもやり甲斐もあれば作り様もある。 実像にこだわるのも顔の話であって、出来てしまえば私の描くイメージに合わせてもらいたい。一休はスズメを飼っていたそうである。確か名前も着けていた。一休と雀など絵になるだろう。最近雀を見ないな、と思っていたら、今日買い物帰りに目の前に一匹。興味がないから見逃していただけなのだろうが、改めて見ると上から見下ろすせいか頭が案外大きい。スマホを取り出す間もなかったけれど。



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横目でこちらを観る墨渓作といわれる一休像は、小四で読んだ『一休禅師』にも載っていた。〝門松は冥土の旅の一里塚〜“の一文と共に、当時活躍した俳優左卜全そっくりの顔は印象に残っているが、通常の頂相同様、目が前を向いていたならこれほど小学生の私にインパクトを残さなかっただろう。 ところで最近、感銘を受けた禅僧が京都大徳寺の開山大燈国師である。一休が尊敬した人物だが、国師と入れ替わるように一休は生まれ、直接の交流はない。乞食と共に20年過ごしたという人物で、その国宝の肖像画が、これがまた横目なのである。一休が写真でいうと撮影者を凝視しているのに比べ、大燈国師の視線はさらに外を向いている、という違いがあるものの、しかめっ面と共に印象的である。あくまで素人考えだが、一休は尊敬する国師を真似て、そうしたということはないのか?



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40数年間、男性特に中年から老人専門で作って来た。自分が男だから女性には責任が持てない。同じ製法、材質、サイズで、同じ土俵に男女 を並べられる気がしないのである。初出版の『乱歩 夜の夢こそまこと』(廃版)の時、丁度制作中、撮影でお邪魔した乱歩邸で、乱歩の蔵書を調査中の新保博久さんとその件でお話ししたおり、「黒蜥蜴ができる女性なんかおりますかねえ?」だよなあ。仕方なく女賊黒蜥蜴を作ったが男性像の2倍近い1メートルになってしまった。 それはともかく。小四で目にした墨渓作といわれる一休和尚の顔は、何という顔であろうか。左卜全そっくりだと思った。実見して感銘深かった男の顔といえば、双眼鏡で眺めた来日公演のジョン・リー・フッカーである。床が揺れる観客の熱狂。それを椅子に座ったまま、まるで餌を求めて大騒ぎの池の鯉を眺めるかのような無表情なフッカーであった。



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電車に乗るのは数ヶ月ぶりである。先日CT検査をしたばかりで、腕には造影剤の点滴の跡が大きな鯉に付けられたキスマークみたいになっている。本日は結節があると肺。一年前だったろうか、膵炎の検査で来たところである。地下鉄出口1分というのに方向音痴を発揮、遅刻して2時間近く待つことになったので、念の為早く出発。なのに地図を忘れる。スマホを見たって判らない。迷った記憶だけが残る風景。しかしちょっとしたこと思い出し。40分前に到着。前回と今回の違うことが一つ。スマホの待ち受けに『半憎坊大権現』。海難、火事だけでなく様々な災難に霊力を発揮する。何より中国より帰国の禅師を荒れる東シナ海から無事九州まで導いだ半俗半僧の道開きの神である。知り合いのトラック運転手や韓国に旅行する友人、白内障手術する、なんて連中にも勧めた。本日ご利益を確認。



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一日  


頭で考えたことはことごとく外し、感じたままで行くと必ず結果がよい。単純に頭の出来の問題といえばそれまでだが、どこに向かっているのかは判らなかったが、誰が書くのか何かシナリオめいた、筋道のような物が感じられた。そうこうして人間も草木同様自然物、肝心なものはあらかじめ備わっていると思うようになった。 陶芸家を目指していた頃、狐の鳴き声が聴こえるような、岐阜の製陶工場に務めたり、茨城の4キロ四方人が住まない廃村に住んだことがあるが、慣れて仕舞えばどうということはなく、むしろのんびりしてしまい、創作意欲は薄れた。自分自身が自然物であるなら、何も周囲を自然に囲まれる必要はない。季節になり前の通りを祭りの神輿が通り「うるせえな。」なんて呟いているくらいが私にはちょうど良い。 筋道の行先は、というと“自分とは何か?”らしい。最近手掛けるモチーフは、他人を作っているのに、自分自身について知ることになるところが、今まで手がけてきたどのモチーフとも違う。



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子供の頃、年寄りは何で平気で笑っているんだろう。もうすぐ死んじゃうのに?と思っていた私は、缶蹴りなどして入り込んだ下町の路地から見える、裸電球の下でガッチャンガッチャン機械で何か作っている老夫婦の背中が暗い寂しいものに見えた。考えて見ると、LED電球の下で一人、縁もゆかりもない、七百年前のツルツル頭を作る私はどう見えるだろう?とちょっと笑った。 午後用事のついでに母の顔を見に行く。小3でお世話になった『世界偉人伝』を下さった田中先生が、学年主任に「子供の絵じゃない」といわれたのに戦ってくれたのは覚えていたが、◯子だったか◯代だったは覚えていなかった。大人向けの『一休禅師』を判る訳ないから、と止めたことは覚えており、やはり、買い物帰り、書店の店先で、店主と立ち話している断りにくい状態で私はねだっていた。



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昨日、冠動脈の造影CT撮影。点滴の造影剤が熱いので、血の巡りが思いの外早いことに驚いた。 いつ心筋梗塞になってもおかしくないといわれたし、一年前は膵炎を疑われたが、意外と平然としていた。寒山拾得以降、私はこれで良かったのだ、と確信を得ていたことが多分大きい。死の恐怖を遠ざける一番の方法が、日々変化し、上書きつづけることだと思って来たが、その理由が、小4で読んだ一休の〝門松は冥土の旅の一里塚~“が原因ではないかと最近気付いた。そして導かれるように、まさに今、その場面の一休和尚を完成させようとしている。自分の打ち込むことが、自分の正体を明らかにすることになる。人見知りの私は、発表などせず、遊びに来た友人に「どうだ、良いだろ?」なんて生きて行ければどれだけ良いか、と昔は思っていたから、トドのつまりは、その興味に尽きるのかもしれない。最近知った、某国師の「自分とは何かを明らかにする者こそが私の弟子である。」今年いちばんの一言となりそうである。



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10年前の今日、Twitterで「いつか寒山拾得を作るつもりでいる。仕上げはオイルプリントで」と呟いたことが判明。当時は最後、主な作品をオイルプリント化して終えるものと考えていた。その後、夜の夢こそまことな私を写真上、自由を阻害しているのは陰影だ、と陰影を戦犯扱いし始め、年のふげん社〝三島由紀夫へのオマージュ男の死”展での無観客の飯沢耕太郎さんとのトークショーで、次は何を?の質問につい寒山拾得と答えてしまった。ずっと先に、というつもりだったから、ちょっと気の利いたことを?と口走った臭い。ところがふげん社が拾得が普賢菩薩の化身であるところから名付けられたことを知った。こういうのを意味ある偶然として、必ず乗ることにしている。2年後の寒山拾得展が果たして、初個展から40周年であった。



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様々作っていたので、後回しになっていた一休和尚が最終仕上げに入る。これでようやく小学四年の時に、大人向けの『一休禅師』を読んでイメージした雲水姿の一休和尚が立ち現れることになる。足したのは肩に乗せた酒の入ったひょうたんだが、幼稚園児の頃か、TV時代劇で八名信夫が肩に乗せた瓢箪の酒を首を曲げグビッと飲んでいたのを採用。ウィキペディアによると『紅孔雀』か? 禅宗の高僧の肖像画(頂相)は曲彔という椅子に座り沓を脱いで斜め45度ということに決まっていて、そのエピソードなどを絵画として描き残すという習慣はないらしい。なので視覚化されていない手付かずモチーフに溢れている。 しかしだからといって頭に血を昇らせて、だったら私が、というのも。バレエを一度観ただけで、翌年ニジンスキーで個展をやってしまった頃とは残された時間が違う。まずは一休和尚を完成させ、一度深呼吸 すべきかもしれない。



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昨日は一日検査。動脈硬化が見つかり、心筋梗塞などいつ起きてもおかしくない、とのことで、近々再検査。一昨日ネットで過去のドラマ『不毛地帯』で副社長の岸辺一徳が心筋梗塞の発作で倒れたのを観たばかりである。『青春デンデケデケデケ』でも心臓発作で死んでたけど。 それにしても長い時間待たされていると、幼い頃から私を支配するヘソ下三寸に居るもう一人の私が勝手に事を進めているのが判る。まるで妊婦が胎児に早く取り出せ、と腹を蹴られるが如し。〇〇国師と〇〇天皇が対座する、これまた名場面も制作可能だろう。七百年可視化されていないとすれば、私がやらなければ今後もされないだろう。一休和尚の有名な横目でこちらを見る肖像画の横目の理由の仮説を思い付く。
 
 


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