25年前の1995年、私は大学4年だった。バブル経済が崩壊し、「就職氷河期」という言葉が使われるほど超買い手市場で厳しい就職戦線を強いられていた6月26日の夜、祖父が亡くなったという電話があった。翌日、朝7時の特急あずさで帰省するつもりだったが、手元に現金がなかったため、夜遅くに近くに住む叔父さんにお借りした。
しかし、帰省するのも、そして叔父さんに会うのもためらう自分がいた。就職活動のプレッシャーから精神的に追い詰められ、顔中が真っ赤なニキビだらけだったからだ。それでも叔父さんは気にすることなく、「大変な時期だけど、伊那に帰ってきな」と背中を押してくれ、帰省しても、親類の誰一人として私の顔のことを口にするものはいなかった。
葬儀が終わり、久しぶりに親類と話をしたことで気分が変わったのか、そこから就活の流れができ、翌月、第一志望の地方銀行から内定を獲得することができた。
あれから25年。今年も祖父の命日が巡って来た。思い返せば、私の人生は高校時代に祖父からもらったこの言葉と共にある。合掌。
しかし、帰省するのも、そして叔父さんに会うのもためらう自分がいた。就職活動のプレッシャーから精神的に追い詰められ、顔中が真っ赤なニキビだらけだったからだ。それでも叔父さんは気にすることなく、「大変な時期だけど、伊那に帰ってきな」と背中を押してくれ、帰省しても、親類の誰一人として私の顔のことを口にするものはいなかった。
葬儀が終わり、久しぶりに親類と話をしたことで気分が変わったのか、そこから就活の流れができ、翌月、第一志望の地方銀行から内定を獲得することができた。
あれから25年。今年も祖父の命日が巡って来た。思い返せば、私の人生は高校時代に祖父からもらったこの言葉と共にある。合掌。