体罰も暴食も有形力の行使という点では、外見上変ることはありません。
受ける側にしてみれば、受けるその瞬間に暴力と捉えることも有れば、体罰ととらえることもあり、
暴力に思えても、時間の経過と人間性の熟成にともない体罰だったと理解することもあります。
心は鍛錬することが出来るもので、経験は蓄積であり、それは本能と直結した感情そのものでもあって、学ぶ事多いほど豊かな人間性となる。
行使する側にしてみれば、単なる破壊なら暴力、相手を思う心があれば体罰。
他人の子と我が子では体罰の方向性が同じでありながら、前者は“社会”を頭に置き、後者は“人となり”を心に置く。
本能は人を進歩させてきた羅針盤であり、それに従えば体罰、“理性”をもとに行使すれば暴力。
似て非なる物、それが体罰と暴力の違いです。
高度な理解力と豊富な経験そして豊かな心を持つ物は体罰と暴力の違いを理解しますが、
そうでない者は両者を同一の物としてしか考えることが出来ません。
これは鍛錬の差であって、その差は人間性の差として考えれば、人の語る正誤そのものも何か?という事は解るものです。