よく、喧嘩したとか、不仲になったとか、近所つきあいもそうですが社会の一人として生きていれば全てのイザコザを避けて通るという事が難しくなります。
嫌なことではあれど、それを旨く立ち回って避通るのはなかなか出来ないし、自分が意図しないのにそうなることもある。
「はて?」 「本当に回避方法は無いのだろうか?」 なんて考えてみるに、もめ事や喧嘩というのは必ず相手がいて、そこに原因たるものが存在しているから起きるわけですが、突き詰めれば力関係が拮抗しているからこそ起きる物で、どちらかが一方的に強者であれば余り起きない。
発生する下地として存在するのは、互いの力を良く分っているか、もしくは全く分からないかの二種類が大半だけど、
全く分からない場合の代表格はネット掲示板等で、そこで行われるもめ事の幼稚さは例えようがない。
他には道を歩いていて互いの肩がぶつかったどうとかで、これ等は幼稚さを通り越してすでに猿並の世界と言える。
明らかに分っている場合の代表的な物は友達同士や近所、会社等であるが、組織の中では社長と平みたいに明らかな力の差がある場合を除いて直属の上司や同僚、違う部署で起きたりもする。
しかし、「こうしたもめ事はどこからくるのだろうか?」とわずかでも考えてみると、殆どが理解不足を発端としており、どちらか片方が頑固なまでの思い込みを抱えていたり、互いに相手を理解しようとしない場合に発生する。
どんな人間でもそうだけれど、自分は完全だ等と言えるはずもなく、自分の得てきた知識と経験だけの範囲でしか思考することが出来ないし、その時点ではそれを超えることは出来ない。
喧嘩やもめごとの原因というのは、大抵そうした互いの持つ現状能力限度の先にある物をどうとらえるかという事から起きているけれど、そこに謙虚な物事の考え方と相互理解を心がける姿勢が有ればもめ事は起きない物だ。
起きるのは、”自分は正しくて、相手が間違っている”という考えだけに傾くほど発生頻度を高めていき、これを互いにやればほぼ100%衝突する。
常に回避する方法は相手の考え方を理解するということだが、それそのものが、それを行う者の人間性とダイレクトに結びつている限り、そう簡単にはいかないのも現実。
人というのは常にプライドやメンツというくだらない物の優先順位が高いほど思考が硬直化し、同時に人間性もそれに比例しながら落ちていくわけだけど、そうした相手を受け止め、恭順出来る出来ないはともかく、相手が感情的になればなるほど、うまくそれを受け流すことが重要になる。
自分が生きてきた経験からすると、その場で結論を出さず、受け流す方法で(といっても完全無視ではない)ほぼ99%収まっている、何しろ自分が相手の挑発に応じない限りはもめ事も喧嘩も成り立たないものだからだ。
怒りに充ち満ちているというのは、自分をとにかく正しいという方向であくまでも押し通そうと全力で力んでいる状態そのものですが、まあこれを制御できるかどうかがその人間の能力であり、先も書いたが人間であるかぎりは100%正しいなんてことはまず無い。
ちなみにこうしたことは勉強が出来ることとは全く無関係だ。
互いに、どこかしらに過ちが100%あるわけだが、こうした場合に力の差が余りにも有れば自分の考え方の説得性に自ら疑問を持ち、自然に自分を自分自身で言い聞かせるような行動を取るのが人間。
例えるなら、人が100人いて、その全員が自分と違う考えだと言えば、まずその100人相手に拳を振り回しながらおまえ達が間違いだといえる人はほぼ皆無。
なぜなら、人は自分の心の中にある主張そのものが間違っている可能性を常に心の底において疑っている生き物だからだ。
これが人間らしさでもあるのだけど、しかしながら、そのたった一人の人間が100人相手に自分の考えを訴え続けられることが出来る状態というのは確実に存在している。
それは、その人間が主張している事に真理と事実という、絶対に動かすことの出来ない物がある場合で、ガリレオもそうした人物の一人だ。
話が飛んだので戻しますが、もめ事や喧嘩は力が拮抗している、もしくは全く見えない場合に、自分の要求もしくはちんけなプライドを基に相手をねじ伏せようとしているだけのことであり、ある意味究極のわがままを相手に要求しているに等しい。
こうした場合、当然の事でもあるが、相手が応じないと、もめ事も喧嘩も”発生すら出来ない”。
”時”は常に正しい、というのは僕の考え方であるが、相手が理性を失っている場合、だまってその場を後にすることとしている、その場は双方とも嫌な気分で終わる物で有ってもだ、時間が経過するに従って不思議な心の変化が訪れてくる。
これは人のもつ社会形成本能によって引き起こされるものだが、人というのは怒りを原動力とした思考を継続する事は非常に難しく(なぜならそれそのものが不快だからだ)、必ず自らの力で平穏へと導かれていくわけですが、その過程で怒りにより見えなくなっていた多くの物が浮き上がって見えようになる。
同時に怒りの対象物を自ら理解しようとする心理が働く様に出来ている、もめ事そのものが怒り=不快であるから、それを取り除こうという心理が働くからだ。
喧嘩の中身というのは大抵くだらないことであるけれど、当然それも時間の経過とともによく見えてくるようになる。
双方が衝突すると、どうでも良い面が理解を妨げる要因として出てくるが、衝突が無ければそうした要因そのものが無いわけで、冷静になる心の変化と共に自分の問題点も分ってくる事が多い。
子供時代は、互いの心が素直であり、そのままドスンバタンとやってもわかり合えるのだが、大人になると素直を押し通すことがきわめて難しくなり、こうした肉体のぶつかり合いというコミュニケーションを通して通じあうことが出来なくなる。
相手にしないというと簡単に聞こえるが、片方が拳し振り回している時に、その場を離れる事そのものがは逃げたと見なされ、おもしろおかしく見ている外部者に弱者扱いされることも多々あるが、あえてそうした行動を取ることは非常に勇気が必要だし、相当に心の強さを求められる物でもある。
時として敗者として扱われることもあるが、そこに本当の正しさがある限り、それは相手を含め多くの人の心へと染みこみ、時間は誤を正にしてくれる。
なぜなら、冒頭に書いたように人はその時点で持っている経験と知識でしか物事を考えることが出来ず、新たに得た物を頭の中で整理、理解するには時間のかかるものだからだ。
時間という物はそうしたもので、時を味方につけるというというのは最後に論点がきちんと整理されることであって、そこまで忍耐強く待ち続けるということだ。
1年2年、時には10年なんていう時間を消費しても、待つだけの価値の見いだせる物ではないだろうか・・・・ なんて思うのだけれど、常に現実は難しい。(^^)
あと、こうした思考は子育てに一切通用しない、なぜなら親子関係とは対等でも平等でもないからだ。
嫌なことではあれど、それを旨く立ち回って避通るのはなかなか出来ないし、自分が意図しないのにそうなることもある。
「はて?」 「本当に回避方法は無いのだろうか?」 なんて考えてみるに、もめ事や喧嘩というのは必ず相手がいて、そこに原因たるものが存在しているから起きるわけですが、突き詰めれば力関係が拮抗しているからこそ起きる物で、どちらかが一方的に強者であれば余り起きない。
発生する下地として存在するのは、互いの力を良く分っているか、もしくは全く分からないかの二種類が大半だけど、
全く分からない場合の代表格はネット掲示板等で、そこで行われるもめ事の幼稚さは例えようがない。
他には道を歩いていて互いの肩がぶつかったどうとかで、これ等は幼稚さを通り越してすでに猿並の世界と言える。
明らかに分っている場合の代表的な物は友達同士や近所、会社等であるが、組織の中では社長と平みたいに明らかな力の差がある場合を除いて直属の上司や同僚、違う部署で起きたりもする。
しかし、「こうしたもめ事はどこからくるのだろうか?」とわずかでも考えてみると、殆どが理解不足を発端としており、どちらか片方が頑固なまでの思い込みを抱えていたり、互いに相手を理解しようとしない場合に発生する。
どんな人間でもそうだけれど、自分は完全だ等と言えるはずもなく、自分の得てきた知識と経験だけの範囲でしか思考することが出来ないし、その時点ではそれを超えることは出来ない。
喧嘩やもめごとの原因というのは、大抵そうした互いの持つ現状能力限度の先にある物をどうとらえるかという事から起きているけれど、そこに謙虚な物事の考え方と相互理解を心がける姿勢が有ればもめ事は起きない物だ。
起きるのは、”自分は正しくて、相手が間違っている”という考えだけに傾くほど発生頻度を高めていき、これを互いにやればほぼ100%衝突する。
常に回避する方法は相手の考え方を理解するということだが、それそのものが、それを行う者の人間性とダイレクトに結びつている限り、そう簡単にはいかないのも現実。
人というのは常にプライドやメンツというくだらない物の優先順位が高いほど思考が硬直化し、同時に人間性もそれに比例しながら落ちていくわけだけど、そうした相手を受け止め、恭順出来る出来ないはともかく、相手が感情的になればなるほど、うまくそれを受け流すことが重要になる。
自分が生きてきた経験からすると、その場で結論を出さず、受け流す方法で(といっても完全無視ではない)ほぼ99%収まっている、何しろ自分が相手の挑発に応じない限りはもめ事も喧嘩も成り立たないものだからだ。
怒りに充ち満ちているというのは、自分をとにかく正しいという方向であくまでも押し通そうと全力で力んでいる状態そのものですが、まあこれを制御できるかどうかがその人間の能力であり、先も書いたが人間であるかぎりは100%正しいなんてことはまず無い。
ちなみにこうしたことは勉強が出来ることとは全く無関係だ。
互いに、どこかしらに過ちが100%あるわけだが、こうした場合に力の差が余りにも有れば自分の考え方の説得性に自ら疑問を持ち、自然に自分を自分自身で言い聞かせるような行動を取るのが人間。
例えるなら、人が100人いて、その全員が自分と違う考えだと言えば、まずその100人相手に拳を振り回しながらおまえ達が間違いだといえる人はほぼ皆無。
なぜなら、人は自分の心の中にある主張そのものが間違っている可能性を常に心の底において疑っている生き物だからだ。
これが人間らしさでもあるのだけど、しかしながら、そのたった一人の人間が100人相手に自分の考えを訴え続けられることが出来る状態というのは確実に存在している。
それは、その人間が主張している事に真理と事実という、絶対に動かすことの出来ない物がある場合で、ガリレオもそうした人物の一人だ。
話が飛んだので戻しますが、もめ事や喧嘩は力が拮抗している、もしくは全く見えない場合に、自分の要求もしくはちんけなプライドを基に相手をねじ伏せようとしているだけのことであり、ある意味究極のわがままを相手に要求しているに等しい。
こうした場合、当然の事でもあるが、相手が応じないと、もめ事も喧嘩も”発生すら出来ない”。
”時”は常に正しい、というのは僕の考え方であるが、相手が理性を失っている場合、だまってその場を後にすることとしている、その場は双方とも嫌な気分で終わる物で有ってもだ、時間が経過するに従って不思議な心の変化が訪れてくる。
これは人のもつ社会形成本能によって引き起こされるものだが、人というのは怒りを原動力とした思考を継続する事は非常に難しく(なぜならそれそのものが不快だからだ)、必ず自らの力で平穏へと導かれていくわけですが、その過程で怒りにより見えなくなっていた多くの物が浮き上がって見えようになる。
同時に怒りの対象物を自ら理解しようとする心理が働く様に出来ている、もめ事そのものが怒り=不快であるから、それを取り除こうという心理が働くからだ。
喧嘩の中身というのは大抵くだらないことであるけれど、当然それも時間の経過とともによく見えてくるようになる。
双方が衝突すると、どうでも良い面が理解を妨げる要因として出てくるが、衝突が無ければそうした要因そのものが無いわけで、冷静になる心の変化と共に自分の問題点も分ってくる事が多い。
子供時代は、互いの心が素直であり、そのままドスンバタンとやってもわかり合えるのだが、大人になると素直を押し通すことがきわめて難しくなり、こうした肉体のぶつかり合いというコミュニケーションを通して通じあうことが出来なくなる。
相手にしないというと簡単に聞こえるが、片方が拳し振り回している時に、その場を離れる事そのものがは逃げたと見なされ、おもしろおかしく見ている外部者に弱者扱いされることも多々あるが、あえてそうした行動を取ることは非常に勇気が必要だし、相当に心の強さを求められる物でもある。
時として敗者として扱われることもあるが、そこに本当の正しさがある限り、それは相手を含め多くの人の心へと染みこみ、時間は誤を正にしてくれる。
なぜなら、冒頭に書いたように人はその時点で持っている経験と知識でしか物事を考えることが出来ず、新たに得た物を頭の中で整理、理解するには時間のかかるものだからだ。
時間という物はそうしたもので、時を味方につけるというというのは最後に論点がきちんと整理されることであって、そこまで忍耐強く待ち続けるということだ。
1年2年、時には10年なんていう時間を消費しても、待つだけの価値の見いだせる物ではないだろうか・・・・ なんて思うのだけれど、常に現実は難しい。(^^)
あと、こうした思考は子育てに一切通用しない、なぜなら親子関係とは対等でも平等でもないからだ。