以前、どこぞのホームページだったか忘れましたが、ネットで有る女性が書き込んだのを見たことがあります。
その内容というのは、「何でご飯を私がつくらなきゃいけないの?」というもので、
その女性の主張とやらをまとめるならこうなります。
・自分は料理が苦手だ
・お総菜なんかいくらでもスーパー等で売っている
・旦那は文句言わない
・女性がご飯をつくらねばならないという意味が理解できない
・料理なんて楽しくないし、そんな時間があるなら他のことしたい
現在生じている具体的問題点として
・子供が泣きながらお母さんの手作りご飯が普通に食べたいと泣く
まあ、全体を通して悩むと言うより、そうした自分の姿にシンクロする者達が肯定してくるのを待って、自己肯定したいというのが至極簡単に見えてしまうわけです。
文の作成能力からそれなりの学歴はもっているようですが、
僕から見るなら幼稚園児並の心と思考能力しか持っていない可愛そうな女性、いや人間という事。
こうした主張が単なる我が儘であるかどうかというのは、現在のように便利な世の中になってくると、ある意味合理性と言う面からだけ見るなら妥当という側面もあって、
一概に自分勝手とも言うことは出来ない・・・・
しかし、この女性にとって不幸でならないのは、ご飯という物が持っている人の成長に欠かすことのできない無形の栄養であるという点を理解しようとせず、いや理解する事すら出来ない。
という、人間としての極基本的なものが欠けている事がたまらなく不幸でならない。
栄養がきちんと取れ、食事を毎日正常に取っていれば子供は普通に成長する、当たり前の事だけど、身体成長に必要な物質がきちんと体に取り込まれれば物理的に体は成長するわけだ。
しかし、これはあくまでも子供に物質を与えているだけに過ぎず、これはご飯ではない。
一番問題なのは、”物質が子供の心を育ててくれるわけでは無い”ということ。
体は物理的に成長しても、子供の心という物は、物質で育つのではなく、あくまでもご飯で育つものだからだ。
物質だけ与えてまともな人間性が育つというなら、母親はいらず機械にやってもらえれば素晴らしい人間がいくらでも育つことになる。
料理が苦手だ、だからやりたくない????
何でもそうだけれど、全ての人が全て上手に料理できるわけではない、学校のテストじゃ有るまいし、出来不出来が味の全てではなく、苦かろうが、味がおかしかろうが、それを食卓で食べた子が「うわー変な味」なんていいつつ、「やっぱり~?」「仕方ないから目玉焼きつくるからそれで食べてね・・・」なんて親子が交わす心のあり方が人間性を育てる。
人のつくるご飯は物質ではないからだ。
昔と異なり、食事の総菜はいくらでも、かつ簡単に手に入る世の中だけど、どうしても忙しいとき、手をかける時間の無いときにそれらの力を借りることに何ら問題ない。
「またかよ~」 「ごめんねこのところ忙しいから・・・我慢してね」 そこにご飯という物が出現する。
旦那は文句を言わないから、これで良いのだ、なぜなら自分は料理苦手だし、総菜買ってくりゃ問題ない????。
はて? 本当に旦那はこうした家庭のあり方に問題意識を持っていないのだろうか?
自分の伴侶がどう考えているか? また人の心をどう理解して読み込む力を持っているかという事がここにも現れていて、残念ながらこの女性は人生最大の人間関係である伴侶の心すら理解できないということらしい。
人は普段の生活において常に他人の心を推し量りつつ、適度な間隔を置きつつバランスをとって生活している、
それは夫婦とて全く同じ事であり、何も言わないから良いのだ、ではなく、本当は何を思っているのだろうか?、そして自分はどうあるべきか?という事を常に心の中心へ置くからこそ夫婦という物は一生添い遂げられるわけだ。
自分の伴侶が母親の手作り料理で育ってきたのなら、妻であるこの女性のあり方に常々疑問を持つのは当然のことで、しかしながらそこには”いつか解ってくれるだろう”という心がある。
何も言わないから良いわけではないのだ。
ご飯の意味は食事とは大きく異なる、食事は礼儀作法を含んだ形式的な物を多数含む、しかしご飯はそこに愛情の要素を多分に含み言葉そのものに暖かさをもつ。
子供はオギャーと生まれた後は、親の作るご飯で成長する、そこには単なる物質摂取ではなく、愛情接収という心の成長のために欠かせない栄養価があるのだ。
よく、「何で女が食事をつくらねばならないの?」という疑問を抱く女性が多いが、人間の歴史と本能というものを少しでも勉強すれば、それが大きな過ちであることに気づく。
これを無理にねじ曲げる事は、本能に違う不自然な精神状態を子供の心に作り上げることそのものでしかなく、間違った自由と平等で育った粗末な人間性に、”人の心を読み取れない自分勝手”が入るとこうした思考になる。
料理は歴史過程で男性が都合良く押しつけてきた業であり、女性はそれから解放されねばならない、というのがその根底に有るのだと思うが、そうした洗脳すら存在しない未開の地含め太古の生活を紐解けば、現実は常に女性がご飯をつくっている。
なぜなら、子供の肌色の変化一つ、鳴き声一つで健康状態が読み取れる能力は男性にはなく、それは右脳左脳を強力に接続している女性の脳機能そのものが子供を育てる女性の本能と共にご飯をつくる事へ結びつているからだ。
男性がご飯をつくっては駄目なのか? もちろんそんなことは無いし、時間があるならどんどんやれば良いと僕は思っているが、それを子供の肌色一つとリンクさせる能力がないうえに、忍耐を要求される毎日のご飯づくりには根本的に向かない。
生活のためという負荷がかかるとエンジン始動する様に男はできている訳だが、例を上げるなら素晴らしい料理を提供しているシェフはほぼ全員が男であるが、それは仕事における究極を求めるやはり男の本能の結果であり、ところがグルメ料理はご飯ではない。
本来向かない事への負荷を不要に強制すれば、そうした負荷をかけてこない女性へ自然に心が目が映っていくのも男の本能であり、伴侶の姿に自分の母親の姿を重ねてしまうのもこれまた男の素直な思考だ。
どうしてもそれをねじ曲げたい女性は、そうした男を見つければ良いだけのことで、しかしながら本来有るはずの自然な人の姿を自分の都合で押し通すような事をすれば、かならずどこかにその歪みは現れる。
一番顕著なのは子供の心に現れてくるが、子供という生き物はその幼少期に自分と自分の周りを取り囲む人間関係の基準が、同じ社会を構成している他人の家族と同じであることを極めて望むように出来ている。
当たり前のことだが、これは本能そのもので、それは自分の成長に必要な保護と環境(もちろん愛情含む)がまんべんなく整っているかを知らないうちに推し量り、あるときは求めながら生きているわけだ。
これに変化が訪れるのは思春期以降、言うなれば反抗期の到来で、このあたりから人と同じなのではなく、異なる自分を自分自身と社会に求めるようになる。
これが反抗期であり、また人類が世界中に広がってきた力の源になっている。
泣いてまでご飯をつくってと懇願する子の目には、他の家庭で普通に食べているお母さんの手づくりご飯がそこにあるわけで、そこに願うは、現在自分に注がれていない形の愛情を欲する心がダイレクトに現れており。
子供といのはそうした毎日の愛情を、毎日食べながら大人まで成長するもので、それは時に親の押し付けで有ったりすることもあるし、自分から要求したりもあったり。
そうしたごくわずかなやり取りの中に存在する親の心のあり方というものを多数経験するからそこ、人間として他人の心を正確に読み取れる力がつくわけだ。
もし、母親が人の心を読み取ることなく、そのまま努力もせず、子の心を自分の理屈で通そうとするなら、その相乗状態によって欠落してきた愛情を求める子供の心は、必ず思春期以降に別の形となって跳ね返して来るようになる。
父親の身勝手はさほど子供の精神に影響を及ぼさないが、ダイレクトに愛情という面で子どもの精神てき成長と結びつている母親の身勝手は、そこに愛情という価値を見出さない形で施してきた一切の所業は、本来ある筈のそれが欠落した子へと成長するのは当然で、その反動が将来あらゆる形となって、この母親のところへ”注がれ返してくる”ということだ。
この家庭の未来の姿が僕には見えすぎるほど見えてしまうわけだが、それを否定できる程の人間性というものを見出すことが母親の書き込みには無い。
この泣いている子が反抗期になって、初めてその欠落している部分どういったものなのか?を我が子の行動で思い知らされることになろうなどと、今は考えてはいないだろう。
その内容というのは、「何でご飯を私がつくらなきゃいけないの?」というもので、
その女性の主張とやらをまとめるならこうなります。
・自分は料理が苦手だ
・お総菜なんかいくらでもスーパー等で売っている
・旦那は文句言わない
・女性がご飯をつくらねばならないという意味が理解できない
・料理なんて楽しくないし、そんな時間があるなら他のことしたい
現在生じている具体的問題点として
・子供が泣きながらお母さんの手作りご飯が普通に食べたいと泣く
まあ、全体を通して悩むと言うより、そうした自分の姿にシンクロする者達が肯定してくるのを待って、自己肯定したいというのが至極簡単に見えてしまうわけです。
文の作成能力からそれなりの学歴はもっているようですが、
僕から見るなら幼稚園児並の心と思考能力しか持っていない可愛そうな女性、いや人間という事。
こうした主張が単なる我が儘であるかどうかというのは、現在のように便利な世の中になってくると、ある意味合理性と言う面からだけ見るなら妥当という側面もあって、
一概に自分勝手とも言うことは出来ない・・・・
しかし、この女性にとって不幸でならないのは、ご飯という物が持っている人の成長に欠かすことのできない無形の栄養であるという点を理解しようとせず、いや理解する事すら出来ない。
という、人間としての極基本的なものが欠けている事がたまらなく不幸でならない。
栄養がきちんと取れ、食事を毎日正常に取っていれば子供は普通に成長する、当たり前の事だけど、身体成長に必要な物質がきちんと体に取り込まれれば物理的に体は成長するわけだ。
しかし、これはあくまでも子供に物質を与えているだけに過ぎず、これはご飯ではない。
一番問題なのは、”物質が子供の心を育ててくれるわけでは無い”ということ。
体は物理的に成長しても、子供の心という物は、物質で育つのではなく、あくまでもご飯で育つものだからだ。
物質だけ与えてまともな人間性が育つというなら、母親はいらず機械にやってもらえれば素晴らしい人間がいくらでも育つことになる。
料理が苦手だ、だからやりたくない????
何でもそうだけれど、全ての人が全て上手に料理できるわけではない、学校のテストじゃ有るまいし、出来不出来が味の全てではなく、苦かろうが、味がおかしかろうが、それを食卓で食べた子が「うわー変な味」なんていいつつ、「やっぱり~?」「仕方ないから目玉焼きつくるからそれで食べてね・・・」なんて親子が交わす心のあり方が人間性を育てる。
人のつくるご飯は物質ではないからだ。
昔と異なり、食事の総菜はいくらでも、かつ簡単に手に入る世の中だけど、どうしても忙しいとき、手をかける時間の無いときにそれらの力を借りることに何ら問題ない。
「またかよ~」 「ごめんねこのところ忙しいから・・・我慢してね」 そこにご飯という物が出現する。
旦那は文句を言わないから、これで良いのだ、なぜなら自分は料理苦手だし、総菜買ってくりゃ問題ない????。
はて? 本当に旦那はこうした家庭のあり方に問題意識を持っていないのだろうか?
自分の伴侶がどう考えているか? また人の心をどう理解して読み込む力を持っているかという事がここにも現れていて、残念ながらこの女性は人生最大の人間関係である伴侶の心すら理解できないということらしい。
人は普段の生活において常に他人の心を推し量りつつ、適度な間隔を置きつつバランスをとって生活している、
それは夫婦とて全く同じ事であり、何も言わないから良いのだ、ではなく、本当は何を思っているのだろうか?、そして自分はどうあるべきか?という事を常に心の中心へ置くからこそ夫婦という物は一生添い遂げられるわけだ。
自分の伴侶が母親の手作り料理で育ってきたのなら、妻であるこの女性のあり方に常々疑問を持つのは当然のことで、しかしながらそこには”いつか解ってくれるだろう”という心がある。
何も言わないから良いわけではないのだ。
ご飯の意味は食事とは大きく異なる、食事は礼儀作法を含んだ形式的な物を多数含む、しかしご飯はそこに愛情の要素を多分に含み言葉そのものに暖かさをもつ。
子供はオギャーと生まれた後は、親の作るご飯で成長する、そこには単なる物質摂取ではなく、愛情接収という心の成長のために欠かせない栄養価があるのだ。
よく、「何で女が食事をつくらねばならないの?」という疑問を抱く女性が多いが、人間の歴史と本能というものを少しでも勉強すれば、それが大きな過ちであることに気づく。
これを無理にねじ曲げる事は、本能に違う不自然な精神状態を子供の心に作り上げることそのものでしかなく、間違った自由と平等で育った粗末な人間性に、”人の心を読み取れない自分勝手”が入るとこうした思考になる。
料理は歴史過程で男性が都合良く押しつけてきた業であり、女性はそれから解放されねばならない、というのがその根底に有るのだと思うが、そうした洗脳すら存在しない未開の地含め太古の生活を紐解けば、現実は常に女性がご飯をつくっている。
なぜなら、子供の肌色の変化一つ、鳴き声一つで健康状態が読み取れる能力は男性にはなく、それは右脳左脳を強力に接続している女性の脳機能そのものが子供を育てる女性の本能と共にご飯をつくる事へ結びつているからだ。
男性がご飯をつくっては駄目なのか? もちろんそんなことは無いし、時間があるならどんどんやれば良いと僕は思っているが、それを子供の肌色一つとリンクさせる能力がないうえに、忍耐を要求される毎日のご飯づくりには根本的に向かない。
生活のためという負荷がかかるとエンジン始動する様に男はできている訳だが、例を上げるなら素晴らしい料理を提供しているシェフはほぼ全員が男であるが、それは仕事における究極を求めるやはり男の本能の結果であり、ところがグルメ料理はご飯ではない。
本来向かない事への負荷を不要に強制すれば、そうした負荷をかけてこない女性へ自然に心が目が映っていくのも男の本能であり、伴侶の姿に自分の母親の姿を重ねてしまうのもこれまた男の素直な思考だ。
どうしてもそれをねじ曲げたい女性は、そうした男を見つければ良いだけのことで、しかしながら本来有るはずの自然な人の姿を自分の都合で押し通すような事をすれば、かならずどこかにその歪みは現れる。
一番顕著なのは子供の心に現れてくるが、子供という生き物はその幼少期に自分と自分の周りを取り囲む人間関係の基準が、同じ社会を構成している他人の家族と同じであることを極めて望むように出来ている。
当たり前のことだが、これは本能そのもので、それは自分の成長に必要な保護と環境(もちろん愛情含む)がまんべんなく整っているかを知らないうちに推し量り、あるときは求めながら生きているわけだ。
これに変化が訪れるのは思春期以降、言うなれば反抗期の到来で、このあたりから人と同じなのではなく、異なる自分を自分自身と社会に求めるようになる。
これが反抗期であり、また人類が世界中に広がってきた力の源になっている。
泣いてまでご飯をつくってと懇願する子の目には、他の家庭で普通に食べているお母さんの手づくりご飯がそこにあるわけで、そこに願うは、現在自分に注がれていない形の愛情を欲する心がダイレクトに現れており。
子供といのはそうした毎日の愛情を、毎日食べながら大人まで成長するもので、それは時に親の押し付けで有ったりすることもあるし、自分から要求したりもあったり。
そうしたごくわずかなやり取りの中に存在する親の心のあり方というものを多数経験するからそこ、人間として他人の心を正確に読み取れる力がつくわけだ。
もし、母親が人の心を読み取ることなく、そのまま努力もせず、子の心を自分の理屈で通そうとするなら、その相乗状態によって欠落してきた愛情を求める子供の心は、必ず思春期以降に別の形となって跳ね返して来るようになる。
父親の身勝手はさほど子供の精神に影響を及ぼさないが、ダイレクトに愛情という面で子どもの精神てき成長と結びつている母親の身勝手は、そこに愛情という価値を見出さない形で施してきた一切の所業は、本来ある筈のそれが欠落した子へと成長するのは当然で、その反動が将来あらゆる形となって、この母親のところへ”注がれ返してくる”ということだ。
この家庭の未来の姿が僕には見えすぎるほど見えてしまうわけだが、それを否定できる程の人間性というものを見出すことが母親の書き込みには無い。
この泣いている子が反抗期になって、初めてその欠落している部分どういったものなのか?を我が子の行動で思い知らされることになろうなどと、今は考えてはいないだろう。